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過去の礼拝説教

「皆一つになって」

2018年06月03日 聖書:使徒言行録 2:43~47

人間は、昔から、理想郷、ユートピアを、夢見てきました。夢見るだけでなく、実際に、理想的な共同体を、たて上げる試みも、繰り返されてきました。

作家の武者小路実篤が始めた、「新しき村」運動も、その一つです。

今から、ちょうど百年前の1918年に、武者小路実篤は、雑誌「白樺」に、理想的な社会の創設についての、自分の考えを発表しました。

そして、宮崎県木城町で「新しき村」の実践を試みました。しかし、その村の農地が、ダムのために水没することになったため、埼玉県毛呂山町に第二の「新しき村」が開かれました。

毛呂山町の村は、現在も存続していて、少数の人たちが、農業を営みながら、共同生活をしています。この「新しき村」の精神が、六箇条に纏められていますが、それを簡単にまとめると、こういうことだと思います。

「すべての人が、自我を正しく、完全に成長させ、更に、他人の自我を尊重し、損なうことなく生きていけば、理想的な共同体を造り上げることができる。」

新しき村は、このような精神を、具現化しようとした、試みである、と言っているのです。

これは、確かに、心惹かれる呼び掛けです。こういう共同体が実現したら、素晴らしいと思います。しかし、これは、人間の本性について、あまりにも、楽観的な見通しに立っていて、非現実的であると、言わざるを得ません。

キリスト教もまた、理想的な共同体を、たて上げることを、目指した運動である、と誤解されることがあります。

確かに、今朝の御言葉が伝える、初代教会の姿は、理想的な共同体と、見られても不思議ではありません。ここを読んだ人は、誰もが、このような共同体に、憧れを抱くと思います。

しかし、二千年前に、初代教会のキリスト者たちが目指していたのは、理想社会の実現ではありませんでした。

彼らは、神様の恵みに、どのように応えたらよいのか。ただそれだけを願って、集まった群れであったのです。

彼らは、キリストの恵みに満たされて、その恵みに迫られて、古い生き方を捨てたのです。

皆が、一つになって、キリストの御心を、実現しようとしたのであって、理想的な共同体を作ることを目的として、集まった訳ではありません。

人間の限界に挑戦してやろう。そんな、大それた実験を、行おうとしたのではないのです。

ただキリストに従って歩みたい、という共通の願いを持って、集まってきたのです。

今朝の御言葉には、初代教会のキリスト者たちが、何を目指し、何を大切にし、どのように生活をしていたかが、語られています。

今朝の御言葉には、「一つになる」、という言葉が、繰り返して出てきます。

44節に、「信者たちは皆一つになって」、とあります。続いて、46節にも、「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り」、とあります。そして、最後の47節にも、「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」、と書かれています。

ペンテコステの日に、聖霊が注がれて、誕生した教会。そこに集められた三千人の人々は、何よりもまず、「一つになって」歩んでいたのです。

三千人の人々が、一つになったのです。心を一つにしたのです。そして、聖霊が導くままに、生き生きとして、伝道していったのです。

そういう共同体であったからこそ、そこに、日々新たに、人々が加えられていったのです。

初代教会において、力強く伝道がなされていった。その秘密は、この「一つになって」、ということにあったのです。

今日、日本の教会において、そして、茅ヶ崎恵泉教会において、この初代教会のような、力強い伝道は、なされていません。

日々新たな人々を、迎え入れていくような、生き生きとした歩みになっていません。

それは、私たちが、「一つになって」いないところに、原因があるのかもしれません。

同じ主を信じ、同じ救いの恵みに、生かされている筈なのに、なかなか一つになれない。

些細なことで、争い合う。自分の考えを押し通そうとして、他人を攻撃する。

互いに愛し合い、赦し合いなさい、と教えられているのに、逆のことをしてしまう。

そういうことでは、救われる人々が、日々仲間に加えられていくことは、とても望めません。

誰も、争いや、揉め事が絶えない群れに、加わりたいとは、思わないものです。

私たちは、初代教会の人々の姿から、何よりも、「一つになる」、ということを、学びたいと思います。新しい人が、喜んで加わりたい、と思うような群れを、目指したいと思います。

そのためには、初代教会の人々が、何によって、一つになっていたのか、何が彼らを、一つに結び合わせていたのか。そのことを、知る必要があります。

「一つになる」とは、ただ表面的に、仲良くなることではありません。争いごとになりそうな種に蓋をして、見ない振りをする。そんなことで、実現するものではありません。

一つになるためには、皆が、同じものに生かされ、同じところに立ち、同じものを大切にしていくことが、必要なのです。

何を第一のこととして、共に守っていくか。それが、問題なのです。

私たちは、何によって、一つに結び付けられるべきなのか。それを、しっかりと捉えていなければ、ならないのです。

私たちは皆、ただ一人のお方、主イエスに、救われた者として、その恵みの絆、愛の絆によって、お互いに結ばれている筈です。キリストに救われた者同士として、一つにされている筈です。

キリストにあって、私たちは、神様を父と呼び、神の子となることを、赦された者たちです。

ですから、私たちは、同じ父を持ち、同じ救いに生かされている、家族なのです。

教会では、お互いを、「兄弟姉妹」と呼びます。キリストに結ばれた者が、主にある家族となって、共に生きていく。教会は。そのような者たちの、群れである筈なのです。

しかし、皆さん、私たちは、今、本当に、主にある家族として、一つとなっているでしょうか。

もし、本当に家族となっていないのに、ただ形式的に、「兄弟姉妹」と呼び合っているなら、こんなに悲しいことはありません。悲しいというよりも、滑稽でさえあります。

一体、私たちは、何を求めて、何を大切にして、ここに集っているのでしょうか。

「教会」という日本語の言葉が、誤解を招いているのかもしれません。

「教会」を、文字通りに見るなら、「教える会」です。ですから、私たちは、何かを学ぶために、ここに集まってきている、と考えてしまいます。

しかし、教会とは、何かを学ぶための場所、ではありません。

ドイツ語のキルヒェも、英語のチャーチも、元々は、ギリシア語の「主の家」、という言葉から来ています。教会は、「主の家」なのです。「教える会」ではないのです。

教会は、何よりも、主がおられる所、主の家なのです。そこに、招かれた者が、加わるのです。そして、加わった者が、一つになる。一つの家族になるのです。それが教会です。

では、主の家で、主の家族とされた者は、何をするのでしょうか。

先週の御言葉の最後の2章42節には、一つとされた初代教会の人々が、何を大切にし、何を熱心に求めていたかが、語られていました。

そこには、四つのことが挙げられていました。彼らを、一つに結び付けていた、四つの絆。それは、一体、何であったのでしょか。

それらは、「使徒の教え」、「相互の交わり」、「パンを裂くこと」、そして「祈ること」でした。

ここで、第一に挙げられているのは、「使徒の教え」です。

使徒たちが語る福音を聞くこと。それが教会の人々が、熱心にしていた、第一のことです。

御言葉を聞くこと。私たちが一つになって、力強く伝道し、新たな人々を迎えていくために、第一に必要なのは、このことなのです。

初代教会の人々は、使徒たちが語る御言葉を、熱心に聞いたのです。そのことにおいて、まず一つになったのです。

私たちは、毎週日曜日、教会に、何をしにくるのでしょうか。聖書を通して、そして説教を通して語られる、神の言葉を、聞きにくるのではないでしょうか。

教会は、神の言葉が語られ、神の言葉が聴かれるところなのです。

第二は、「相互の交わり」です。教会に連なっている、信仰者同士の交わりのことです。

御言葉を聴いた私たちは、その御言葉によって、兄弟姉妹との交わりへと、押し出されていくのです。

教会に加えられるということは、その交わりの内を歩んでいく、ということなのです。

そして、そこにおいてこそ、「一つになって」、ということが、大切な意味を持ってくるのです。

相互の交わりにおいて、いかにして「一つになって」歩むことができるか。それが、私たちの大きな課題なのです。

この「交わり」という言葉、原語では、「コイノーニア」という言葉ですが、これは、元々は「共有する」、という意味の言葉です。つまり、「分かち合う」ことなのです。

「交わり」とは、「分かち合い」なのです。そうすると、そこから問われてくることは、私たちは、一体、何を分かち合っているのか、ということです。

どんな交わりにおいても、そこで何かが、分かち合われています。

お互いの好きなこと、趣味を分かち合っている場合もあります。研究課題を分かち合っていることもあります。社会活動を分かち合い、そのために力を合わせている、という交わりもあります。或いは、ただ世間話や、噂話を、分ち合っている、ということもあるでしょう。

何を分かち合っているかによって、その交わりの性質が違ってきます。

ですから、教会における交わりにおいても、何を分かち合っているかが、問われることになります。

単なる親しさによる交わりは、親しくない人との間に壁を作り、場合によっては、対立を生むようなことさえもあります。そういう交わりは、教会において、本当に分かち合うべきものを、分かち合っているとは言えません。

教会における「相互の交わり」は、単なる人間的な親しさによるものではありません。

では、教会の交わりにおいて、私たちが、本当に分かち合うべきものとは、何でしょうか。

それは、「パンを裂くこと」と、「祈ること」である、と御言葉は言っています。

「パンを裂く」とは、私たちが、この後、あずかろうとしている、聖餐式のことを言っています。

聖餐のパンと杯、それこそが、私たちが、教会において、分かち合うべきものなのです。

聖餐式において、私たちは、コリントの信徒への手紙一の、10章16節、17節を読みます。

この御言葉です。「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」

聖餐に、共にあずかっている。それは、キリストの御体である、一つのパンを、皆で分かち合っている、ということです。そこに、私たちの交わりの中心があるのです。

御体なるパンと、御血潮なる杯を分かち合う。それは、主イエスを分かち合うということです。主イエスの恵みに、共にあずかり、主イエスと共に生きる、ということです。

そこに、私たちを、本当に一つとする、交わりの絆があるのです。ですから、教会では、仲間のことを、「陪餐会員」と呼ぶのです。聖餐に共にあずかっている会員、という意味です。

このように、主イエスとの交わりが、兄弟姉妹との交わりの、中心に据えられるのです。

先ず、主イエスとの、縦の交わりを通して、恵みが注がれ、その恵みが溢れ出て、横の交わりである、兄弟姉妹との交わりへと、発展していく。それが、教会の交わりなのです。

その交わりに、不可欠なものがあります。それは、祈りです。

教会は、祈りを分かち合う場でもあります。初代教会のキリスト者たちは、共に祈ることを、大切にしていました。

ペンテコステの日に、聖霊を受けるために、彼らは心を一つにして、熱心に祈っていました。

そして、教会が誕生した後も、彼らは、聖霊の助けを求めて、祈り続けたのです。

外から眺めていた人たちは、彼らのことを、どのような群れと、捉えたでしょうか。

「あの人たちはいつも祈っている。本当によく祈る人たちだ」という印象を持ったと思います。

46節には、「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り」、と書かれています。

彼らは、毎日、神殿に行っていたのです。そこで何をしていたのでしょうか。勿論、そこで、使徒たちの教えを聞き、またそれを、人々に伝える、伝道の業に励んだと思います。

しかし、何よりも、共に祈ったのではないかと思います。毎日、神殿に行って、心を一つにして、ひたすらに祈ったのです。

翻って、私たちは、どうでしょうか。時代が違うとはいえ、週に一度の祈祷会さえも、満足に守れていない現実があるのではないでしょうか。今の私たちには、想像もつかないほど、彼らは、祈りに熱心であったのです。

44節以下には、このような交わりの、具体的な姿が、語られています。

「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」、と書かれています。

「すべての物を共有にし」の「共有」という言葉は、「相互の交わり」と訳された言葉と、同じ言葉から派生しています。

「相互の交わり」は、「すべての物を共有する」、という形で、具体的に現れていったのです。

豊かな者が、その財産を捧げ、それによって、貧しい者が支えられ、両者が一つになって、生きていく。そういう交わりが生まれたのです。

しかも、このことは、全く自発的になされました。自分の財産を売り払って、教会に寄付しなければならない、という決まりや、掟があった訳ではないのです。

彼らは、義務感や功名心から、そうしたのではないのです。キリストの恵みに迫られて、全く自発的に、そうしたのです。

冒頭で、武者小路実篤による、「新しき村」運動を、紹介いたしました。初代教会の人たちは、そのような、理想的な共同体を作ろうと、計画した訳ではありません。

彼らは、ただキリストの愛に倣って、歩もうとしただけなのです。

その時、同じ共同体の中に、貧しい人たちがいて、困窮しているのを見たのです。そして、彼らを、そのままにしておくことが、出来なかったのです。

自分が、今、持っている物は、すべて神様から、恵みとして与えられたものだ、だから、神様の御心に沿って用いることが、正しい用い方なのだ、と示されたのです。

多くの人に愛されている、「キリストには代えられません」、という讃美歌があります。

「キリストには代えられません/世の宝もまた富も/このお方が私に代わって死んだ故です/世の楽しみよ、去れ/世の誉れよ、行け/キリストには代えられません 世の何物も」

この讃美歌に込められた思いこそが、初代教会から現代に至るまで、代々の教会が、受け継いできた、私たちの信仰なのです。

この讃美歌に歌われているように、キリスト者の生活とは、重苦しい禁欲生活ではありません。キリストという、最高の宝を握り締めた、喜びに満ちた生き方なのです。

もう、これさえあれば、何も要らない、という全き充足に生きる、生き方なのです。

「キリストには代えられません」、と高らかに賛美する、生き方なのです。

ですから、初代教会の交わりは、喜びと真心に、満ちていたのです。

そして、そういう人たちだったから、彼らは、「民衆全体から好意を寄せられていた」のです。

43節には、このような教会の姿を見て、「すべての人に恐れが生じた」、と書かれています。

周囲の人々は、教会人たちを見て、恐れを抱いたのです。それは恐怖ではありません。

ここには、自分たちにはない何かがある、という聖なる畏敬の念を、覚えたのです。

キリスト者が喜びに満ちて、活き活きと礼拝し、互いに愛し合って生活している。

その姿は、主イエスの恵みが、どれほど素晴らしいかを、力強く証したのです。

皆が暗い顔をして、ばらばらだったら、誰も教会に、見向きもしないでしょう。

しかし、教会が一つになって、喜びと真心と賛美で、満ち溢れる時、主は、この群れに、救われる人々を、日々加えてくださる、と御言葉は約束しています。

私たちは、この約束を信じ、そのような信仰共同体を、造り上げていきたいと願わされます。

愛する兄弟姉妹、皆で、心を一つにして、そのような群れを目指して、共に歩んでまいりましょう。