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過去の礼拝説教

「私に『ないもの』と『あるもの』」

2018年06月10日 聖書:使徒言行録 3:1~10

ペンテコステから暫く経ったある日、ペトロとヨハネは、午後3時の祈りのために、神殿に上りました。二人が、「美しい門」と呼ばれている、門を通った時のことです。

生まれながらに、足の不自由な人が、人々に運ばれてきて、「美しい門」の傍らに、置かれました。この人は、40歳くらいの男の人でした。

「生まれながらに」、と書かれていますが、原文では、「母の胎から」となっています。生まれる前から、既に、足が不自由であったのです。

この人は、毎日、まるで荷物のように、運ばれてきて、門の傍らに、置かれていました。

人に運ばれて、そこに置かれて、一日が終わったら、また運ばれて、家に帰る。

ずっと、そのように生きてきました。いえ、そうするしかなかったのです。

神殿に、祈りに行く人々を見上げながら、その祈りに加わることもできず、ただ、その日を生きるために、施しを乞う毎日でした。その人が、ペトロとヨハネを見て、施しを乞いました。

今朝の御言葉には、鍵となる言葉があります。それは、「見る」という言葉です。

3節には、「彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた」、とあります。

4節には、「ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、『わたしたちを見なさい』と言った」。

5節には、「その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると」、とあります。

短い三つの節の中に、「見る」という言葉が、4回も出てきています。しかも、これら四つの「見る」は、ギリシア語の原文においては、いずれも違う言葉なのです。

違う意味の、四つの「見る」という言葉が、状況に応じて、用いられているのです。

特に注目したいのは、4節の、「ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て」、という言葉です。

この「じっと見る」と訳された言葉は、「凝視する」という意味の言葉です。

ただ漫然と見るのではなくて、相手に焦点を合わせて、熱心に見つめる、という言葉です。

ペトロたちが、この人を、じっと見つめたところから、この癒しの奇跡は始まりました。

復活の主イエスにお会いし、聖霊を受ける以前の使徒たちは、自分のことばかり、考えていました。自分が偉くなることや、自分の立場を守ることに必死でした。

しかし、復活の主イエスに出会い、聖霊を受けた後は、自分のことではなく、主イエスの御心を第一に考え、主イエスがなされたように、病気の人、弱い人、社会から疎外されている人、孤独な人たちに、目を注ぐように、なっていったのです。

そして、そこから、豊かな伝道が、始まっていきました。伝道は、相手のことを、じっと見ることから、始まるのです。相手に焦点を合わせて、熱心に見る。

どのような人で、どのような状態にあるのか、何を求め、何を必要としているのか。そういうことを、しっかりと見つめるのです。つまり、相手の人に、深い関心を持つのです。

相手の人に、寄り添う気持ちを持つこと。それが伝道の第一歩なのです。

もしかしたら、ペトロたちは、これまでにも何度も、この人のことを、見ていたかもしれません。この人の前を、何度も通り過ぎていたかもしれません。しかし今、彼らは、この人を、じっと見るようになったのです。自分の目の焦点を、この人に合わせるようになったのです。

私たちも同じです。以前は、私たちも、自分のことだけに、焦点を合わせて生きていました。

その自分から目を離して、主イエスを、じっと見つめる者となること。それが信仰です。

そして、主イエスに、焦点を合わせていく時に、私たちは、主イエスが命がけで愛された、他の人々にも、焦点を合わせ、じっと見つめる者へと、変えられていくのです。

ペトロたちは、十字架と復活の主イエスと、真実に出会ったことによって、この足の不自由な人を、じっと見つめる者とされたのです。

そのように、まず、彼らが変えられたことによって、癒しの奇跡が起り、力強い伝道が始まりました。私たちが、そのように変えられていくこと。それが伝道の第一歩なのです。

この男の人を、じっと見たペトロたちは、今度は、「わたしたちを見なさい」、と言いました。

この人は、既にペトロたちを見ています。ペトロたちを見たから、施しを乞うたのです。

しかし、ペトロたちは、違った意味で、自分たちのことを、「見なさい」、と言ったのです。

ここに、伝道における、もう一つの重要なポイントがあります。

伝道は、相手をじっと見ることから、始まります。しかし、じっと見ているだけでは、伝道にはなりません。「わたしたちを見なさい」、と語りかけていくことが、必要なのです。

ペトロたちが、この人に、自分たちを見つめさせたのは、自分たちの、偉さや立派さを、示すためではありません。

自分たちが、何によって生きているかを、この人に、見て貰いたかったのです。

「私たちを生かしているものを見なさい」、と言ったのです。

ペトロは、自分たちを今、生かしているもの。そしてそれは、この人をも、生かさずにはおかないもの。自分が与えることができる、最も素晴らしいもの。それを、この人に与えたい、と願ったのです。彼に最も必要なものを、与えたいと思ったのです。

ですから先ず、「私たちが何によって生きているか、それを見なさい」、と言ったのです。

伝道に大切なことは、自分のこと、教会のことを、しっかり見てもらう、ということです。

でも、私たちは、自分のこと、教会のことを、そんなにしっかりと、見つめられたら困る。

自分にも、教会にも、いろいろと欠けがあり、問題だらけだ。そういうところを、あまり見られたら、伝道ができない、と思ってしまうことが、多いのではないでしょうか。

けれども、伝道するということは、私たちの生き様を、見てもらうと言うことなのです。

自分の姿を、見られることを、ためらっていたら、伝道はできません。

誤解をしないで頂きたいと思いますが、ペトロとヨハネは、立派で、模範的な生き方をしていたから、「わたしたちを見なさい」、と言ったのではありません。

ペトロは、この少し前に、大きな失敗をしてしまいました。主イエスの十字架を前にして、逃げてしまったのです。

主イエスのことを、「あんな人、知らない」、と三度も言ってしまいました。

ペトロとは、そんな人物でした。とても胸を張って、「わたしを見なさい」、などとは言えない人でした。ですから、ペトロが、ここで言っているのは、立派な自分を見なさい、ということではありません。

「私たちを見なさい」という、その「私たち」とは、立派に生きている、私たちではないのです。

むしろ、それができずに、罪と汚れにまみれた、どうしようもない、罪人である私たちです。

そんな私たちが、主イエスの十字架によって、罪を赦され、復活による、新しい命の希望を与えられ、主イエスと共に、歩むことを許されている。

こんな私でも、主イエスの命懸けの愛によって、赦され、生かされている。その私たちを、しっかりと見てもらうこと。それが、伝道なのです。

「わたしたちを見なさい」、と言われたこの人は、何か施しをもらえると思って、ペトロたちを見つめました。

この人が求めているのは、教会が与えようとしているものとは、違います。

教会に来る人たちが、教会に求めるものは、教会が与えようとしているものとは、違うことの方が多いのです。

しかし、御言葉は、それでもよいのだ、と言っています。人々が、教会に求めるものは、様々です。主イエスの十字架の救いを、最初から求めてくる人などいません。

それぞれが、欲しいと思っているもの、教会に期待しているものを、求めて来るのです。

ある人は、教会に行けば、温かい交わりが得られると思って、教会の門をたたきます。

宗教的満足感や、聖なる雰囲気に浸りたい、と思って来る人もいるでしょう。

讃美歌を歌いたいから、或いはパイプオルガンを聞くために来る、という人もいるでしょう。

教会での結婚式に、憧れを持って、来る人もいるかもしれません。

そのような様々な期待をもって、教会に来る人々に対して、私たちは、「そのような動機は不純だ」、などと言って、退けてはならないのです。

この時、ペトロたちが、もし、この男の人のことを、そう言って退けてしまったら、この癒しの奇跡は起こりませんでした。伝道の実りもありませんでした。

教会を訪れる人たちは、自分が欲している何かが、与えられると、期待して来るのです。

そういう人たちを、私たちは、決して、退けてはならないのです。

大切なことは、様々な求めを持って来る人たちに、きちんと向き合うことなのです。

この時、ペトロは、その人に、お金を上げることをしないで、こう言いました。

「私たちには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって、立ち上がり、歩きなさい」。

ペトロが与えたのは、施しではなく、「イエス・キリストの名」でした。

ペトロは、こう語ったのです。「あなたは、生きるために必要なものとして、金や銀を求めています。しかし、あなたが生きるために、本当に必要なものは、金や銀ではありません。

イエス・キリストの名によって、立ち上がって歩く事なのです。

私たちには、金や銀はありません。しかし、私たちは、イエス・キリストの名によって、歩んでいます。私たちのように、イエス・キリストの名によって歩きなさい」。真に力強い宣言です。

私は、この箇所を読む時、「ペトロとヨハネは、本当に、一銭も持っていなかったのかな」、とふと思うことがあります。

二人合わせれば、レプトン銅貨2枚位は、持っていたかも知れません。

或いは、お金は持っていなくても、何かお金に換えられるようなものを、持っていたかも知れません。しかし、ペトロは、使えば無くなってしまうような、一時しのぎの手段ではなく、本当の解決を、与えたかったのです。

「たとえ私が、他に何か与えるものを、持っていたとしても、私はこの言葉、『イエス・キリストの名によって歩きなさい』、というこの言葉しか、あなたに与えることが出来ない。そしてこの言葉こそが、実はあなたにとって、最も大切なもの、最も必要なものなのだ」。

ペトロは、「このナザレの人イエス・キリストに、あなたも出会いなさい。私たちのように、あなたも、この方によって生かされなさい」、と言ったのです。

ペトロは、この人の願っているものではなく、本当に必要としているものを、与えたのです。

教会は、金や銀を求める期待には、応えることはできません。教会は、デパートではありません。人々の様々な要求に、すべて応えることはできません。

しかし、そのように、様々な期待を持って、訪ねて来る人々を、教会は退けてはいけないのです。きちんと、向き合わなければ、ならないのです。

しかし、それは、それらの要求に、すべて応えていくこと、ではありません。

教会はそこで、「持っているもの」を示して、それを与えなければ、ならないのです。

教会でしか、与えることができないものを、しっかりと、示さなければ、いけないのです。

それは「ナザレの人イエス・キリストの名」です。教会が、持っているのは、これです。

教会が、与えるべきものは、これだけなのです。

さて翻って、今日の日本の教会は、どうでしょうか。日本の教会は、どこも財政的に、あまり豊かではありません。

ですから、「私たちには金や銀はない」、という言葉は、素直に言えると思います。

しかし、その次の言葉、「持っているものをあげよう。イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と、自信をもって、この世の人々に、宣言しているでしょうか。

そして更に、イエス・キリストの名によって歩いている、「私たちを見なさい」と、この世に、自らの姿を示しているでしょうか。

教会とキリスト者に、与えられた使命は、イエス・キリストを、証しすることです。そして、自らの存在によって、キリストを指し示すことです。このことを、今一度、覚えたいと思います。

「イエス・キリストの名によって歩きなさい」、というペトロの言葉を信じて、この人は立ち上がり、歩き出します。

ペトロを通して、主イエスの御手が、力強く、この人の右の手を捕らえ、立たせたのです。

生まれてから40年間、一度も、自分の足で、歩いたことがなかった、この人が、主イエスの名を信じる信仰によって、歩き出したのです。

「すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩き出した」、と書かれています。「躍り上がって立つ」とは、40年に亘って、抑えられてきた思いが、一気に解き放たれた、爆発するような喜びを、表しています。

「イエス・キリストの名」とは、イエス・キリストの本質と権威を意味しています。

主イエスの本質、それは、十字架の贖いによって示された、愛です。

主イエスの権威、それは、神の独り子としての、権威です。そしてそれは、復活において示された勝利の力です。

ペトロを通して示された、この主イエスの十字架の愛と、復活の力に触れて、この人は立ち上がり、自分の足で歩き始めます。

この人は、将来に希望を見いだせないような、日々を送っていました。諦めの中に、どっぷりと浸かって、ただ道行く人々に、施しを求めていました。

しかし、ペトロは、この人に、主イエスによる救いを、与えたのです。希望を与えたのです。

なぜなら、それこそが、この人に、必要なものであったからです。これが教会です。

あなたが期待しているものは、私たちにはありません。けれども、それ以上のもの、本当にあなたに必要なもの、本当にあなたを生かすもの、あなたに本当の希望を与えるもの。

それが、ここに、この教会にはあります。どうか、それを、受け取ってください。

そう語っていくことが、伝道なのです。

イエス・キリストの名によって、この人は立ち上がって、歩き出しました。

この奇跡を通して、聖書が伝えているのは、単に、この人の肉体が癒された、ということだけではありません。肉体の癒し以上のことです。

もし、彼が、足を癒されたことだけを、喜んでいたなら、それは「施しを受ける」、ということと、同じ次元のことに、過ぎません。他人に依存して生きる、ということにおいては同じです。

しかし、彼の人生は、これを機会に、全く変えられました。

この人は、歩けるようになって、まず何をし、どこに向かったのでしょうか。

彼は、神様を賛美しながら、ペトロとヨハネと一緒に、神殿の境内に、入って行ったのです。

自分は、神様の恵みとは、無縁だと、諦めていた人が、神様の恵みを賛美しながら、二人と共に神殿へと向かったのです。ここで起こっているのは、人生の根本的な転換です。

注意して、読んでください。この人は、神様を賛美した、と御言葉は伝えています。

ペトロとヨハネを、賛美したのではありません。

ペトロとヨハネは、この素晴らしい奇跡を、自分を讃える手段とはせず、徹底して、神様を賛美する機会としました。

「イエスを主とする」、ということは、このような生き方をすることです。

足が癒された人は、神様を賛美し、礼拝するようになりました。それが、真実に救われたことのしるしです。真実の救いは、人を、礼拝する者へと、造り替えるのです。

そして、彼は、ペトロたちの後について、神殿に行きました。それは、使徒たちの教えに、聞き従う者となった、ということです。彼は、教会に連なる、信仰者の一人になったのです。

足が癒された。それは必ずしも、生活が楽になったことを意味しません。

これから彼は、自分の足で、職を探さなくてはなりません。既に、四十を過ぎている人です。

しかも、今までずっと、物乞いしかしてこなかった人です。これから、多くの困難に直面することは、目に見えています。

しかし、彼はもう、「運ばれて」、「置かれて」いる人ではないのです。

彼は歩き出したのです。自分の足で、歩き出したのです。しかも、神様を見上げ、神様を賛美しながら、歩きだしたのです。

そして、まず向かったのは、神殿だったのです。彼は、神様を讃美して、神様を礼拝して生きる人となったのです。これこそが、この人に起こった奇跡の、本当の恵みであったのです。

愛する皆さん、私たちも、この恵みに、生かされて、共に、歩んでまいりましょう。

金銀は私たちにはないけれども、私たちに与えられている、主イエスの恵みに、生かされて、励まし合い、助け合いながら、共に歩んでまいりましょう。