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過去の礼拝説教

「分かち合う幸い」

2018年07月01日 聖書:使徒言行録 4:23~37

今朝は、「分かち合う幸い」、という題で説教させて頂きます。先ほど平野兄に読んで頂いた御言葉は、初代教会において起こった、二つの素晴らしい出来事を伝えています。

そのいずれにおいても、教会に集まった信徒たちは、分かち合う幸いを、味わっています。

前半の23節から31節では、祈りを分かち合う幸いが、語られています。

そして後半の32節から37節では、持ち物を分かち合う幸いが、語られています。

初代教会の特徴が、このような「分かち合い」にあった、ということは、私たちに、多くのことを、教えてくれます。

今朝は、分かち合う恵みについて、ご一緒に、御言葉に聴いてまいりたいと思います。

先週の御言葉は、ペトロとヨハネが、エルサレム神殿の境内で、主イエスの復活を宣べ伝えたため、神殿の責任者たちに逮捕され、最高法院の議員たちから、尋問を受けたという出来事を、伝えていました。

最高法院の議員たちは、「今後は、決して、イエスの名によって、話したり、教えたりしてはならない」と、ペトロとヨハネに命じました。

しかし、権力を振りかざしての、この脅しに対して、ペトロとヨハネは、堂々と反論しました。

「神に従わないで、あなた方に従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。

私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」

このように、全くひるむことなく、大胆に証しをする二人に、ユダヤの最高権力者たちは、何もすることができずに、二人を釈放しました。

教会の伝道は、その当初から、このような妨害に遭っていたのです。

では、教会は、そのような妨害に対して、どのように対応していったのでしょうか。

23節に、「さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した」、と書かれています。

ペトロとヨハネの二人は、釈放されるや否や、真っ直ぐに仲間の所に、行ったのです。

仲間たちは、いつもの場所に集まり、恐らく、二人の身を案じて、祈っていたと思います。

妨害に対する、教会の対応は、先ず祈ることでした。教会全体が、使徒たちの伝道の働きを覚えて、祈り、支える。そうすることによって、その伝道の業を、分かち合っていく。

伝道とは、そのようにして、教会全体でなされ、進展していくものなのです。

伝道は教会の業ですから、教会の人々が、皆で担い、分かち合うべきものなのです。

実際に、御言葉を語ることは、使徒たちがしているとしても、教会に連なる、全ての人々が、そのことを覚え、祈り、支えることを通して、伝道の業に参加しているのです。

ですから、伝道とは、元気に体を動かせる人だけが、することではありません。

たとえ、病の床にある人であっても、祈ることによって、教会の伝道の働きを、分かち合うことができるのです。祈りによって、伝道を支えることも、大切な業なのです。

その祈りの場に、姿を見せたペトロとヨハネは、「祭司長たちや長老たちの言ったことを、残らず話し」ました。

恐らく、それは、「イヤー、ひどい目に遭ったよ」、というような、苦労話ではなくて、信仰による勝利の報告だったと思います。

ですから、それを聞いた仲間たちも、「それは、大変だったでしょうね」という、慰めの言葉を掛けたり、「なんてひどいことをするのか」と、権力者たちのことを、非難したりしてはいません。

彼らは心を一つにして、神様に向かって、声を上げたのです。「神様に向かって、声を上げた」。それは祈った、ということです。教会の人々は、共に祈ったのです。

恐らく、ペトロたちは、最高法院から、「今後は、イエスの名による伝道は、一切まかりならぬ」という、伝道禁止命令が出されたことも、伝えたと思います。

普通の場合は、そういうことを聞かされると、「困ったことになったな」、「これからどうしよう」、「ペトロとヨハネが、権力者たちを、刺激するから、こんなことになったのだ」、というような、呟きが発せられます。

しかし、教会の仲間たちの反応は、全く違っていました。

彼らは、殆ど反射的に、一斉に祈り始めたのです。誰かが、口火を切った、というのでもなく、一斉に、皆の口をついて、祈りが出て来たのです。これは、すばらしいことです。

彼らは、伝道禁止命令を聞いても、それによって、心を乱されることなく、これまで以上に、心を一つにして、神様を賛美し、神様に信頼し、神様に願いを献げたのです。

24節に、「これを聞いた人たちは、心を一つにし、神に向かって、声を上げて言った」、と書かれています。ここに、「心を一つにし」、という言葉が、出てきています。

「心を一つに」、という言葉は、使徒言行録に特徴的な言葉です。特に、最初の教会が誕生した場面で、頻繁に使われています。

心を一つにして、祈り始めることから、教会の歩みが始まったのです。

この時も、教会の仲間たちは、ペトロたちの報告を聞いて、心を一つにして、祈りました。

では、「心を一つにした祈り」とは、どのような祈りなのでしょうか。

それは、一人一人の、見つめている先が、ピタッと合っている祈りです。皆の焦点が、合っている祈りです。でも、どこを見つめているかが、問題です。的外れな所に、焦点が合っていては、何にもなりません。

「心を一つにし、神に向かって」、と書かれているように、神様に焦点が、合っていたのです。

神様に向かって、心を一つにして、祈ったのです。

これは、当然と言えば、当然です。しかし、とても大切なことです。どんなに熱心に祈っても、その祈りが、神様に向かっていなければ、まことの祈りとはなりません。

何よりも、神様に焦点を合わせ、「主よ、私の思いではなく、あなたの御業がなされますように」と祈る。これは、教会でなければ、祈れない祈りです。

神社に初詣に行った人が、こういう祈りを、祈るでしょうか。そんなことはないと思います。

また、神様に焦点を合わせていても、ただ、漫然と祈っていては、その祈りは、届きません。

神様に、迫るような思いをもって、祈ることが、大切です。神様が、自分にとって、決定的なお方。私のすべてを、支配されているお方として、語り掛けていくのです。

神様を、自分の直ぐ近くにいてくださる、親しいお方と捉えて、語り掛けていくのです。

どこか遠くにいるお方ではなく、顔と顔とを合わせるように、親しく語り掛けていくのです。

24節から30節までの祈りの中には、「あなた」という呼び掛けが、何度も何度も、くどいほど出て来ます。

新共同訳聖書では訳し出されていませんが、27節以下を正確に訳しますと、こうなります。

「事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれたあなたの聖なる僕イエスに逆らいました。そして、実現するようにとあなたの御手とあなたの御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです。主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆にあなたの御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、あなたがあなたの御手を伸ばしあなたの聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」

初代教会の人たちは、まるで、神様が、目に前におられるかのように、親しく「あなた」、と呼び掛けています。それ程の、親しみをもって、神様に迫っています。

翻って、私たちの祈りは、どうでしょうか。神様と、顔と顔とを合わせているような、近しい思いをもって、祈っているでしょうか。

神様に、「あなた」と、呼びかけることができる程、神様と親しく交わっているでしょうか。

美しい言葉をもって祈ろう。立派な祈りをしよう。

そのようなことを、心掛けるあまり、私たちの祈りは、うわべだけの祈りに、なってはいないでしょうか。神様に肉薄するような、真剣さを欠いた祈りに、なってはいないでしょうか。

もし、そうであれば、もう一度、祈りの力を、取り戻したいと思います。

初代教会の信徒たちは、祈りを通して、聖霊の励ましを与えられました。彼らは、迫害が止んで、安全に伝道できますように、と祈ったのではないのです。

むしろ、これからも、迫害が続くことを前提にして、その迫害の中でも、尚、イエス・キリストの名を告白し、宣べ伝えることができますように、と祈ったのです。

29節の御言葉は、まことに力強い、祈りの言葉です。「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。」

伝道に対する、妨害や弾圧は、いつの時代にもあるのです。今も、形こそ違っても、伝道を妨げるものは、無数にあります。しかし、私たちは、この初代教会の人たちの祈りに、教えられ、励まされ、力を与えられて、「どんな時も、思い切って、大胆に、御言葉を語ることが、できるようにしてください」、と祈る者でありたいと、願わされます。

最高権力者たちから、伝道禁止の命令を受けても、教会の仲間たちの祈りは、挫折するどころか、ますます強められていきました。

そして、この祈りが終わると、その場所が揺れ動き、皆が、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語り出したのです。

先ず、真剣な祈りが、ささげられました。その時、聖霊が人々を満たし、その場が揺れ動き、大胆に、御言葉が語られたのです。

この順序が、大切です。先ず、祈りがあるのです。祈りを通して、聖霊を受け、御言葉を語るのです。この順序を、無視して、闇雲に御言葉を語ろうとしても、伝道は進みません。

伝道は、祈りからスタートしなければいけないのです。祈りから、すべてが始まるのです。

続いて御言葉は、初代教会における、信徒たちの生活の様子について、語っています。

32節に、「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」、と書かれています。

これは、教会における交わりの、具体的な姿を語っています。何度も申し上げていますが、交わりという言葉の、ギリシア語は、コイノーニアという言葉です。

コイノーニアとは、もともとは、共有する、という意味の言葉です、分かち合うことです。

では、彼らは、何を共有し、何を分かち合っていたのでしょうか。

「信じた人々の群れは心も思いも一つにし」とあります。何よりもまず、心と思いが、共有されていたのです。

そして、彼らが、その心と思いにおいて、共有していたのは、主イエスの十字架と復活の恵みです。

神様の独り子である主イエスが、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかってくださった。そのことによって、私たちの、全ての罪を赦してくださった。この十字架の恵みです。

そして、その主イエスが、死に打ち勝って、復活してくださった。この復活の希望です。

使徒たちは、自らを「主イエスの復活の証人」、と呼びました。復活された主イエスとの、霊的な交わりこそが、彼らの信仰の中心でした。

主イエスの、十字架と復活の恵み。初代教会の信徒たちは、この恵みに、共にあずかることにおいて、「心も思いも一つに」なっていたのです。

皆さん、私たちも、この十字架と復活の恵みを、分かち合うことにおいて、一つとならなければなりません。十字架と復活の恵みこそが、私たちを一つにする、絆なのです。

教会が一つになるためには、全員が、この恵みに、しっかりと立たなければなりません。

もし、他のことを通して、一つになろうとするなら、それは、もはや、教会ではありません。

主イエスを通して与えられた、圧倒的な恵みが、初代教会に、霊的な一致を生み出したのです。そして、この霊的な一致は、心の中のことに留まらず、生活全体にまで及びました。

その結果が、「一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」という、持ち物の分かち合いを、生んだのです。

目に見えない主イエスの恵みを、分かち合う生き方。それが、目に見える持ち物をも、分かち合う生き方へと、発展していったのです。

これは、一見すると、私有財産を否定した、いわゆる共産主義であるかのように、見えます。しかし、そうではありません。

初代教会には、私有財産を放棄しなければならない、という決まりや制度が、あった訳ではありません。初代教会の人々は、そのような規則に、縛られていた訳ではありません。

土地や家を売って、その代金を献金した、というのも、それが規則として義務づけられていた訳ではなくて、教会員一人一人の、自発的な意志によることであったのです。

彼らは、イエス・キリストという、限りなく高価な共有財産を、信仰によって与えられたので、地上の私有財産を差し出すことを、惜しいとは思わなくなったのです。

このことは、有名な詩編23編とつながってきます。詩編23編は、「主は羊飼い。わたしには何も欠けることがない」と歌っています。

この詩人は、神様が羊飼いとして養い、守って下さるから、私には何も欠けることがない、乏しいことがない、という恵みの内に、生かされています。

神様さえいてくだされば、もう何も要らない、という全き恵みに、覆い包まれています。

この恵みに、真実に生かされる時、自分の持ち物を、他者と分かち合っていく、という生き方が、可能となるのです。

それは義務ではなく、恵みへの応答として、自ら進んでそうしたのです。

ですから、そうしないからといって、責められることも、なかったのです。

或いは、献金をした人が、「私はこんな献金をしたのに、あの人はしていない。不公平だ」、などと言うこともなかったのです。

初代教会の人々は、自分のものを、自分のものだと、主張する思いから、解放されて、全く自発的に、喜んで献げる生き方に、導かれたのです。

霊的にも、物質的にも、分かち合って生きる、生き方。それこそが、復活された主イエスと結ばれた、新しい生き方であったのです。

財産のある者が、その財産を処分したということは、自分の生活そのものを、神様に献げた、ということを、意味しています。

自分の財産を処分して、献金すれば、生活は苦しくなります。

この世の富を第一として、生きている人には、とてもできないことだと思います。

このような生き方は、先ほどの詩編23編の詩人のように、神様が、必要なものを、必ず与えてくださると信じて、神様にすべてを委ねていく時に、初めて可能となるのです。

ですから、財産を売って、献金した人たちは、単にお金を献げたのではありません。自分自身の人生を献げたのです。これを、献身と言います。

私たちは、献金を献げる時、「献身のしるしとして」、この献金を、お献げます、と祈ります。

それは、単にお金を献げるのではなく、私たちの生活の、全てを献げます。私たち自身を献げます。そのしるしとしての献金です、という意味なのです。

そのことを、改めて覚えたいと思います。

そのような献身の姿の、最も典型的な例として、バルナバという人が、紹介されています。

バルナバは、持っていた畑を売って、その代金を献金しました。

それは、彼が、収入を得る手段を捨てて、全く新しい生き方を始めた、ということです。

つまり、キリストの福音を伝えるために、献身したということなのです。

畑の所有者であったバルナバは、献身して、使徒の仲間となり、初代教会の指導者の一人となりました。バルナバの献身は、文字通り、伝道者となるための、献身でした。

その結果、バルナバは、持っていた畑を、失いました。しかし、彼は、畑とは比べ物にならないほどの、幸いを得たのです。畑から取れる収穫物に、遥かに優る、宝を得たのです。

それは、教会に仕えることを通して与えられる、主イエスからの恵みです。

昔も今も、伝道者を、そして、教会の奉仕者を、立たせているのは、この恵みなのです。

与えれば与えるほど、与えた者が、豊かにされる恵みです。

この使徒言行録20章35節で、主イエスは、こう言われています。「受けるよりは与える方が幸いである。」

霊的なものであれ、物質的なものであれ、私たちは、受けるよりも、与えることによって、成長していくのです。

なぜなら、私たちに与えられた賜物は、献げることによって、また、分かち合うことによって、ますます増し加えられていくからです。

茅ヶ崎恵泉教会が、そのような意味で、より豊かな教会と、なることができますように、共に、祈り合ってまいりたいと思います。

全教会員が、本当に真剣に、祈り求めるなら、茅ヶ崎恵泉教会は、必ず、そのような恵みに満たされます。