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過去の礼拝説教

「聖められ前進する教会」

2018年07月08日 聖書:使徒言行録 5:1~16

今朝の御言葉は、「ところが」、という書き出しで、始まっています。

この御言葉の直前の、4章の終りには、初代教会の、美しい愛の共同体の姿が、描かれていました。

中でもハルナバのように、自分の財産を、すべて売り払って、神様に献げる人が現れるという、この世の常識では、考えられないようなことが、起こっていたのです。

誕生して間もない、エルサレムの教会は、このように聖霊に満たされ、祝福に溢れて、前進していたのです。

「ところが」、「ところが」なのです。そのような美しい愛の共同体の中にも、全然問題がなかった訳ではありませんでした。

初代教会の中にも、問題があって、教会は、それを乗り越えて、成長していったのです。

教会が、神様の御心に沿って、更に前進するためには、時には、悲しい出来事も経験し、大きな痛みも、乗り越えていかなければ、ならなかったのです。

今朝の箇所に登場するのは、アナニアとサフィラという夫婦です。

この夫婦は、バルナバの行為に、刺激されたのでしょうか、彼らも、自分たちの土地を売って、その代金を、使徒たちの足もとに置いて、献げました。

「使徒たちの足もとに置く」、という表現は、4章にも出て来ましたが、初代教会において、献金をする時の、方法を表しています。

「使徒の足もとに置く」。これは、献金を献げる人が、自分の行いを誇るのではなく、「神様の御用のために」と言って、謙遜に差し出した姿勢を、示しています。

バルナバは、土地を売った代金を、自らの献身のしるしとして、教会に献げました。

自分の人生そのものを、キリストと教会に献げたのです。

この全き献身の故に、バルナバは、初代教会の皆から、敬われ、重んじられました。

アナニアとサフィラは、そのようなバルナバの姿を見て、自分たちも、バルナバのように、敬われ、重んじられたい、と思ったのだと思います。

ですから、外見上は、バルナバと全く同じように見える、行動を取ったのです。

バルナバのように土地を売り、その代金を使徒たちの足もとに置いたのです。しかし、それは、代金の一部でした。でも、彼らはそれを、代金の全部だと偽って、献げたのです。

外側から見ると、それは、バルナバと同じような、献身の行為に見えました。

しかし、実際にはそれは、献身のしるしではなく、自分の善い行いを、人々に見せたいという思いから出た行為でした。人の目に、自分をよく見せようという、偽善であったのです。

この偽善は、主イエスが、最も強く警戒さえれ、非難されたことでした。

アナニアとサフィラは、主イエスが、最も嫌われた、偽善という、間違った動機に基づいて、献金を献げたのです。

彼らは、献げる相手である、神様を見ていたのではなく、人を見ていたのです。

他の人と見比べての、献金だったのです。あの人はいくらしたから、自分もこれくらい…、という思いが、そこには働いていました。自分が認められることが、目的だったのです。

そこには、主イエスの十字架と復活の恵みが、生かされていません。復活された主イエスから与えられる新しい命が、そこにはなかったのです。

これは、献金に留まらず、教会に於ける、奉仕の全てについて言えることです。

献金も奉仕も、神様から頂いた、恵みへの応答として、為されるべきものです。

よく、献金と賽銭は、順序が逆だと言われます。

賽銭には、「これだけ捧げたのだから、報いてください」、という意味が込められています。

つまり、ご利益に対する、先払いの意味があるのです。

これに対して、献金は、既に与えられている、恵みに対する応答なのです。こんなにも、大きな恵みを頂いている。そのことへの、感謝と献身の応答として、献げるものなのです。

献金や奉仕とは、そういうものであるべきなのです。

しかし、教会を主の御体と捉えず、単なる人間的な集団と考えるならば、そこにおいて、自分が高められたい、敬われたいという願いから奉仕をする、ということも起こってきます。

人間的な物差しで、教会の業を計ってしまう。そういうことが行なわれると、教会の中に、悲しむべきことが、起こってしまいます。

アナニアとサフィラによる悲劇は、その根底に、教会に対する、信仰的な理解の欠如があって、そこから生じたものであったのです。

先週も申し上げたように、自分の財産を処分して、献金することは、義務ではありません。

また、財産を処分しても、その全部を献げなければいけない、という規則があった訳でもありません。一部だけを献げても、それは、立派な献金なのです。

ですから問題は、売却代金の一部だけを、持って来たことに、あるのではありません。

ペトロがサフィラに、「あなたたちは、あの土地を、これこれの値段で売ったのか」、と尋ねた時、彼女は、「はい。その値段です」と、いかにも全部であるかのように答えました。

このことが問題なのです。バルナバが、売った代金のすべてを、使徒たちの足もとに置いたからといって、アナニア夫婦が、そうしなければならない、という訳ではなかったのです。

献金は、神様への自発的な愛によって、献げるものであって、それは、誰にも強制されるようなものではありません。

4節でペトロはこう言っています。「売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか」。

ペトロが言っているように、売らずに、自分たちのものにしておくこともできたし、売った代金の一部を、「これは一部ですが…」と言って、献金することもできたのです。

しかし彼らは、一部を全部と偽って献げました。それは、人間を欺くことではなく、神様を欺くことであったのです。

彼らの偽りは、直ぐに、ペトロに、見抜かれる所となりました。ペトロは、アナニアの罪を告発しました。しかし、ペトロは、「だからあなたは呪われる」とか、「だからあなたは死ななければならない」というような、裁きの言葉を語ってはいません。

ペトロ言葉は、裁くための言葉ではなく、罪を分からせ、悔い改めに導くための、言葉であったのです。ペトロは、アナニアに、悔い改めて欲しかったのです。

しかし、自らの罪を明らかにされたアナニアは、ショックで倒れて、死んでしまいました。

罪を犯した時、一番苦しむのは、罪を犯した本人なのです。

3時間後に、アナニアの妻のサフィラが、何も知らずに、ペトロのところに来ました。

ペトロが、サフィラに、売却した土地の値段を尋ねたのも、彼女を尋問しているのではなくて、悔い改めの機会を、与えているのです。

ペトロは、サフィラが正直に、「献金したのは、土地の代金の一部です」、と告白してくれることを、願っていたのです。しかし、ペトロの願いにも拘らず、サフィラは、夫アナニアと同じように、偽善を押し通そうとしました。

そのため、彼女もまた、偽善が暴かれたことの、ショックのために、ペトロの足もとに倒れ、息が絶えてしまいました。

私たちは、この出来事から、神の宮である教会において、神様を欺こうとする、罪の重さを知らされ、厳粛な思いに導かれます。

アナニアとサフィラは、美しい愛の共同体である教会を、破壊しょうとするサタンに心を奪われ、その計画に加担させられてしまったのです。

ですから神様は、愛する教会を守るために、断固たる処置を、取られたのです。

そうは言っても、この刑罰は、余りにも厳しすぎると思う人が、多いと思います。

キリスト教的な、愛の精神にそぐわないのではないか、という反論も聞かれそうです。

しかし、献金を献げるという、聖なる行為を、自分の見栄のために偽る、という罪が、神の官である教会においてなされる。そのようなことは、あってはならないことなのです。

神様は、そのことを、見過しにはされません。

仮に、この場では隠せたとしても、天国での精算は、どうなるのだろうかと思います。

終りの日に、主の前に立たされた時に、どのように弁明できるでしょうか。

教会は、主の御体です。教会の頭は、主ご自身です。ですから、教会は、聖なる場所なのです。その聖なる場所で、神様を欺くような行いが、許されることはないのです。

それは、パウロが、コリントの信徒への手紙一の3章16節、17節で言っている通りです。

「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。」

ここでパウロが言っている神殿とは、教会のことを指しています。ですから、もし、人が、神の宮である教会を汚すなら、それは、聖霊を汚すことになるのです。

皆さん、私たちは、どれだけ教会を、「聖なるもの」と、自覚しているでしょうか。

今朝の御言葉に、自分自身を照らして、今一度、顧みてみたいと思います。

11節の御言葉は、こう言っています。「教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた。」

ここに、使徒言行録の中で、初めて「教会」という言葉が、出てきます。

これまでは、「信じた人々の群れ」、とか「信者たち」という言葉が、使われていました。

しかし、この箇所で、初めて「教会」という言葉が、用いられています。

教会にとって、最も悲しむべき出来事が、語られている、この場面で、初めて「教会」という言葉が用いられたことには、大切な意味が込められていると思います。

初代教会は、私たちから見れば、理想的な姿に近いと、思われる面が多くあります。

しかし、そのような群れにおいても、聖霊を汚す罪が明るみに出され、そして、それを「教会全体」が、非常に悲しんだ。いえ、悲しむだけでなく、非常に恐れた、というのです。

教会は、絶えず、人々に、罪の告白と、悔い改めを求めます。

そして、こんなに罪深い私に代わって、主イエスが、十字架で死んでくださったことによって、私の罪が、無条件で、無制限に赦された恵みへと、私たちを導きます。

更に、主イエスが、復活してくださったことによって、新しい命の希望に、生かしてくれます。

教会とは、そのような、聖なる場所です。神様の宮です。

その聖なる場所で、自己中心的な偽善に捕らわれて、罪を告白せず、悔い改めようとしないならば、教会の頭である主イエスは、どんなに悲しまれるでしょうか。

アナニアとサフィラの出来事を、教会全体は、非常に悲しみ、恐れました。

しかし、この出来事を通して、教会は、一段と聖められて、ますます熱心に、伝道するようになりました。悲しみ、恐れを乗り越えて、教会の業は、尚も前進していったのです。

12節~14節は、こう記しています。「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていたが、ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。しかし、民衆は彼らを称賛していた。そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった」。

ここにも、「心を一つにして」、という言葉が、語られています。「心を一つにして」、という言葉は、これまでにも度々出てきました。この言葉は、初代教会に特徴的な言葉です。

初代教会が、驚くような伝道を展開した。その原動力は、教会の人々が、「心を一つにしていた」、ということにあったのです。

主イエスを信じる人々が、心を一つにして共に集まり、祈り、礼拝をしている。教会とはそういう群れだったのです。いえ、今も、そういう群れなのです。

「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた」とあります。

つまり、奇跡が行われたのです。

既に、2章43節に、「使徒たちによって、多くの不思議な業としるしが行われていた」、と記されていました。3章には、ペトロとヨハネが、「美しい門」のところで、足の不自由な人を癒したという奇跡も、記されていました。

また、教会の人々が、持ち物を共有し、豊かな者は財産を売って、貧しい仲間と分かち合っていた。この姿も、他の人たちの目には、奇跡と見えたと思います。

最初の教会において、そういう驚くべき奇跡が、次々に行われたのです。そして、それらの原動力となったのが、人々が心を一つにしていた、ということであったのです。

心が一つになっていた群れだからこそ、財産を分かち合うこともできたし、多くのしるしと不思議な業をすることができたのです。

心を一つにして、祈り合っていた群れに、神様の力、聖霊の力が働いたのです。

心を一つにする、ということは、人間の力を一つに結集する、ということではありません。

そうではなくて、神様の力、聖霊の働きを、皆で祈り求めることなのです。

心を一つにして、主イエスを見上げ、その恵みに生かされることなのです。そのことによって、教会は、他の人々と、はっきりと一線を画す群れとして、成長していったのです。

13節に、「ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった」、とあります。

初代教会は、気軽に仲間に入って、簡単に恵みを受けることができる。そのような群れでは、ありませんでした。人々が畏敬の念を持って、眺めていた群れであったのです。

あの人たちは、自分たちとは、明らかに、違う人たちの群れのようだ。だから、容易にそこに入っていくことはできない。あそこは聖なる場所だ、と思われていたのです。

しかし、それは、入りにくいから、嫌われていた、ということではありませんでした。

「民衆は彼らを称賛していた」のです。

畏れを覚え、気軽には加われない。そういう群れであると感じつつ、一方で、人々は教会を称賛し、尊敬の目で見ていたのです。自分は、クリスチャンの仲間にはなれないけれど、クリスチャンの人たちは、称賛すべき人たちだ、と見られていたのです。

すべてを分かち合う、初代教会の人たちの信仰生活が、周囲の人たちから、畏敬と称賛の目で、見られていたのです。

14節には、「そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった」とあります。聖なる畏れを乗り越えて、教会の仲間に加わる人々が、ますます増えていったのです。

これは13節の「ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった」ということと、矛盾しているようにも思えます。しかし現実には、この両方のことが、同時に起るのです。

初代教会は、一般の人々から、近づきがたい、聖なる群れとして、畏敬の念を持って、見られていました。それにも拘らず、それに加わる人が増えていったのです。

これは、とても不思議な事のように見えます。しかし、教会の健全な成長のあり方を、示しています。

教会が、本来のあるべき姿を、しっかりと保って、教会らしく歩む時に、却って人々から称賛され、憧れをもって見つめられ、そこに加わろうとする人々が、起されていくのです。

逆に、教会が、この世におもねり、人々に受け入れられようとして、その信仰を曖昧にしていくならば、そして、本来あるべき姿を見失って、この世に同化しようとするならば、それで世の人々に、受け入れられる群れになるかというと、決してそうではありません。

一時的には、そういうことを、喜ぶ人々もいるかもしれませんが、結局は、教会は、世の人々にとって何の魅力もない、称賛もされないものになってしまうのです。

気の抜けたサイダーのような、ただの砂糖水になってしまうのです。

初代教会は、人々にとって、気楽に入れる、近づき易い群れであったから、人々が加わり、成長したのではないのです。

そうではなくて、初代教会は、この世の他の集団とは、何か違ったものを持っていて、その違ったものに魅かれて、それを求めて、人々が教会に加わったのです。

教会には、この世にないものがある。それが、教会の成長の鍵であったのです。

この世にないもの。それは、教会の中に働かれる、神様の御力です。神様の愛です。

これは、教会の中にしかありません。

どんなに背き続けても、尚も、私たちを、愛して下さり、私たちを救いたい、と願っておられる、神様の愛。

教会が、その神様の愛に生かされ、その救いの恵みに、しっかりと立っているなら、人々は教会を、無視することができなくなる筈です。

愛する兄弟姉妹、茅ヶ崎恵泉教会が、そのような教会となることができますように、心を一つにして、祈り求めて行こうではありませんか。

あそこには、他にはない何かがある。何か、聖なるものがある。その秘密を知りたい。

そう言って、人々が集まって来る教会を目指して、共に歩んでまいりましょう。