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柏牧師:過去の礼拝説教

「人間からか、それとも神からか」

2018年07月22日 聖書:使徒言行録 5:33~42

教会の歴史の中には、苦しみの只中で、神様に真実に出会い、神様の愛に捉えられた人たちが、数多く登場します。

私が高校時代に、聖書科の先生をされていた、橋本ナホ先生も、その中のお一人です。

先生のご主人の橋本鑑牧師は、生まれつき病弱で、経済的にも不安定な結婚生活でした。

そうした中で、ナホ先生は、第一子を死産、続いて第二子を、生後5ヶ月で失いました。

二人の子供を、相次いで亡くした挙句、その後間もなく、結婚生活9年足らずで、夫の橋本 鑑牧師を天に送りました。ところが先生は、その時、初めて、神様の愛が分かったそうです。

そして、34歳にして神学校に入学し、牧師となって、世田谷の用賀教会を開拓されました。

最初の礼拝は、男子3名、女子4名が、畳の上にまるく座って、小さなちゃぶ台を囲んで、行なわれたそうです。

しかし、その後、用賀教会は、先生の燃えるような伝道によって、大きく成長していきました。

高校の聖書の授業で、橋本ナホ先生は、口癖のように、こう言われていました。

「私は、子供を亡くし、主人を亡くした時に、初めて神様の愛が分かった。だから嬉しくてたまらなかった。主人の葬儀の時も、神様の愛に迫られて、嬉しくて、思わず笑顔になってしまったので、多くの人から誤解されてしまったが、それ程、嬉しかった。」

こういう信仰の証しを聞く時、多くの人は、「すごい信仰だなぁ、でも自分はそんな体験とは、無縁だ」、と感じると思います。

そう感じる理由の一つには、自分が、そのような大きな苦難に、まだ出会ったことがない、ということがあるかもしれません。

しかし、歴史に残るような、大きな苦難でなくても、自分にとっては、とても深刻で、立ち直るのが難しい、と感じるような、悩み・苦しみは、誰でもが体験していると思います。

そして、その悩み・苦しみを、本当に分かってくれる人は、誰もいないという孤独感を、誰もが感じたことがあると思います。

そういう時に、「いや、主イエスなら、この苦しみを、きっと分かってくださる。十字架において、私のために、極限の苦しみを味わって下さり、孤独の内に息を引き取られた、あの主イエスなら、きっと分かってくださる」。

このような思いに、導かれた方は、おられるのではないでしょうか。

そして、その時、主イエスが、今まで以上に、身近に感じられ、主イエスの御手のぬくもりを感じて、心が熱くなった、という経験をお持ちの方は、おられるのではないかと思うのです。

悩み・苦しみの時に、主イエスを、より身近に感じて、主イエスとの交わりが、深まる。

それによって、苦しみが和らぎ、やがて喜びに変えられる。

今朝の御言葉には、そのようなことを、体験した使徒たちの姿が、書かれています。

ユダヤの最高法院から、宣教禁止命令を受けたにも拘わらず、使徒たちは、ますます熱心に、主エスの十字架と復活の恵みを、宣べ伝えました。

それを怒った、祭司長たちは、使徒たちを捕らえ、最高法院を開いて、裁判にかけました。

しかし使徒たちは、最高法院の議員たちに、はっきりと答えました。

「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」。

この言葉は、権力者たちの怒りを、更に燃え立たせました。

33節に「これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた」、と書かれています。

最高法院の議員たちは、殺気だって、今にも、使徒たちに対して、死刑判決を、宣告しそうになったのです。

その緊張した場面で、一人の議員が立ち上がって、驚くべき発言をしました。

その議員の名はガマリエル。この人は、民衆全体から、尊敬されている、律法の教師で、ファリサイ派に属していました。

ガマリエルは、使徒たちを、一旦議場から退出させた上で、こう言いました。

「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい」。

「取り扱い」という言葉は、直訳しますと、「あなたがたがしようとしていること」、となります。

最高法院の議員たちが、今にも使徒たちに、死刑判決を、下そうとしている。

それを見て、その「しようとしていること」を、思い止まらせようとしたのです。

ガマリエルは、その理由を、二つの実例を挙げながら、分かり易く説明しました。

第一の例は、テウダという人の例です。ガマリエルは、こう言いました。「以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった」。

ガマリエルが述べたテウダの事件とは、ヘロデ大王の死後,ユダヤに起こった、暴動のことであると思われます。

第二の例は、ユダの反乱です。37節には、「その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた」、と語られています。

このガリラヤのユダによる反乱は、紀元6年に起こされたものです。ヘロデ大王の死後、ユダヤはローマの属州となりました。

その時、ローマに納めるべき、税金の額を査定するために、人口調査が行われました。

これに対して、「ユダヤ人の王は神お一人であって、ローマ皇帝に税金を納めることは、唯一の神に対する反逆である」と言って、ガリラヤのユダという人物が、反乱を起こしました。

しかし、この反乱は、ローマ帝国の軍隊によって、ほどなく鎮圧されてしまいました。

余談ですが、この反乱の残党が、「熱心党」という一派を形成して、その後も、ローマの支配に、抵抗し続け、遂には、エルサレムが滅亡した、ユダヤ戦争を引き起こすことになります。

ガマリエルは、これらの運動が失敗したのは、人間による企てであったからで、神様の御心ではなかったからだ、と語りました。

だから、このイエスをリーダーとする集団も、神からのものでなければ、その内、自然に消滅していくだろう、と説いたのです。38~39節です。

「そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ」。

このガマリエルの言葉は、最高法院の議員たちを納得させ、使徒たちを殺すべきだ、と言う者はなくなりました。

では、私たちは、このガマリエルの裁きを、どのように評価すべきでしょうか。

人間から出たものなら自滅するが、神からのものなら、滅ぼすことはできない。

素晴しい言葉です。そして、実際に、ガマリエルの言葉の通りに、神からのものである教会は、人の手によって滅ぼされることなく、力強く成長していったのです。

では、このガマリエルの言葉は、彼の純粋な信仰から出た、勧めだったのでしょうか。

私は、そうではないと思います。

ガマリエルが挙げた二つの例は、いずれもリーダーが死んで、人々が散らされた、という話でした。ここには、イエスという人物も、既に十字架で死んだのだから、彼に従った集団も、その内に自滅するだろう、という考えが、その根底にあります。

ガマリエルは、主イエスの十字架の贖いと、復活の希望を、信じていた訳ではないのです。

「もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかも知れない」、という言葉も、使徒たちの言葉や行動が、神からのものかも知れない、と畏れているのではないと思います。

考えてみてください。もし、自分が、本当に、神に逆らう者となるかも知れない、と恐れたなら、「だから放っておこう」、という判断をするでしょうか。

ガマリエルは、イエスの一派も、いずれ、勝手に自滅するだろう、と思っているのです。

だから、今、慌てて殺すことはない。そんなことをすれば、また民衆が騒ぎ出すかもしれない。ガマリエルは、そのことを恐れたのです。

もしガマリエルが、自分が、神様に逆らう者になるかも知れない、と本気で恐れたなら、もっと真剣に、使徒たちの話を、聞こうとしたと思います。

もっと熱心に聖書を調べ、主イエスが、救い主であることを、確かめようとしたと思います。

彼らに関わらずに、放っておけばよい、というような判断には、ならなかった筈です。

主イエスの十字架と復活の出来事は、それを聞いた者に、決断を迫ります。

主イエスが救い主であることを、受け入れるか、受け入れないか。その決断を迫ります。

あのペンテコステの日に、ペトロの説教を聞いた、エルサレムの人々は、大いに心を打たれ、ペトロたちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」、と尋ねました。

民衆は、主イエスが、救い主だと分かった。或いは、そこまで行かなくても、この先、この方を無視して、生きて行くことはできないだろうという、心の迫りを感じたのです。

主イエスの十字架の贖いが、自分の罪のためであったと知って、心を抉られるような痛みを感じて、居ても立ってもいられなくなったのです。

ですから、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と、思わず口にしたのです。

真実に主イエスに出会った者は、「私はどうしたらよいのか」、という決断を迫られます。

主イエスの十字架の愛の、深さ、尊さを知らされた者は、応答を迫られるのです。

そこでペトロは、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」と、勧めました。

よく人生は賭けだと言われますが、中でも最大の賭けは、神がいる方に賭けるか、或いは、神がいない方に賭けるかです。

ある哲学者は、「神がいる方に賭けろ。勝てば君は永遠の生命と無限に続く喜びを得ることになる。賭けに負けたとしても、失うものは何もない。 反対に、神がいない方に賭けて、人生の最後に、神はいると分かった時は、取り返しがつかない。その損失はあまりに大きい」、と言っています。

多くの民衆が、主イエスを、救い主と信じた一方で、権力者たちは、主イエスの救いの知らせを聞きながらも、それを拒んでしまいました。主イエスの救いを、受け入れるか、それとも拒むか。人生最大の賭けに対する、対象的な、二つの姿が示されています。

最高法院の議員たちは、ガマリエルの意見に従って、使徒たちを殺すことは、思い止まりました。しかし、この時の最高法院の判決は、無罪判決ではありませんでした。

死刑ではありませんでしたが、鞭打ちの刑を、言い渡したのです。

鞭打ちは、時には、死に至ることがあるほど、激しい苦痛を与える刑罰です。

ところが、使徒たちは、「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜んだ」、と書かれています。

「辱めを受けるほどの者」、というのは、新改訳聖書では、「はずかしめられるに値する者」、と訳されています。この方が、原語の意味に忠実な訳です。

鞭打たれ、辱めを受けたことを喜んだ。これは通常では、とても考えられないことです。

普通なら、もう二度と鞭打たれたくない、と思うものです。

しかし、「主イエスの名のため」に、苦難を受けることは、喜びであるというのです。

これは無理をして、エェ格好をして、心にもないことを、言っているのではありません。

神様のための、苦しみなのだから、これは喜びなのだと、無理矢理、思い込ませようと、しているのではないのです。

或いは、こんな困難に遭っても、尚も頑張っている自分を、誇っているのでもありません。

使徒たちは、キリストのために、苦しみや辱めを受ける、ということが、自分にはそれを頂く値打ちがないほどの、特権であり名誉である、と言っているのです。

エッと、思わず耳を疑うような言葉です。なぜ、そんな考えになるのでしょうか。

それは、苦しみや辱めが、彼らと主イエスが一体であることの、確かな証となったからです。主イエスは、使徒たちのために、十字架につかれて、苦しみと辱めをお受けになりました。

その主イエスを信じ、主イエスに従っていることの、確かな証が、キリストの名のために辱めを受ける、ということだったのです。

主イエスは、こんな私のために、あの十字架の苦しみを、負ってくださった。

今、私は、その主イエスの苦しみの、ほんの一部を、味わっている。

それによって、主イエスを、より身近に、感じられるようになった。主イエスを、更によく知ることが、できるようになった。主イエスと、もっと深い交わりに、与ることができた。

使徒たちは、この迫害を通して、自分たちは、主イエスと一体とされている、という確信を、強めることができたのです。

鞭打ちの刑罰、それ自体が、喜びとなった訳ではありません。苦しみは、苦しみなのです。

しかし、苦しみと辱めを通して与えられた、主イエスとの、活き活きとした命の交わりが、使徒たちに、深い喜びをもたらしたのです。

坂戸キリスト教会の牧師をしておられた、村上宣道先生は、この箇所から話された説教の中で、このように述べられています。

『私の父は牧師でしたが、戦時中に検挙されて、投獄されました。父の牧会していた教会は、解散させられ、集会は禁じられました。

当時、私たちは青森市にいましたが、母はリンゴの袋はりなどをして、留守の家庭を支えてくれました。私は、その母の苦労を、間近に見て育ちましたが、子供心にも不思議だったのは、いつも母の口から、賛美が溢れ、いつも母がニコニコしていることでした。

母はよく、「お父さんは、イエス様のために苦しめられて、きっと喜んでいるよ」、と話していました。時代が時代だけに、私も学校で、「スパイの子」と、罵られたり、石を投げ付けられたりすることが、しばしばありました。

でも、そんな時でも、私は母と、「きょうも、イエス様のために、ひどい目に遭ったよ。でも、天国でのごほうびが、また貯まったね」、などと言っていたことを、憶えています。』

村上先生のご家庭も、弾圧の最中で、苦難を通して、主イエスと一つとされる、喜びを味わっておられたのです。

今、私たちは、会堂建築という、聖なる御業に、参加する特権を与えられています。

この事を祈り願いつつも、先に天に召された、多くの先輩方のお心を思う時、この御業に参与できることに、本当に大きな喜びを感じています。

しかし、同時に、喜びと共に、様々な困難をも、与えられています。でも、困難を通して、私たちは、より一層主イエスに近づき、主イエスとの交わりを深め、主イエスと一体であることを、感じさせられています。そして、それもまた、大きな喜びとなっています。

使徒たちも、捕らえられ、鞭打たれたことを通して、主イエスに、より近づいたという喜びを、味わっていました。

そして、その喜びに満たされて、彼らは、伝道禁止命令にも拘わらず、むしろ今まで以上に熱心に、キリストの福音を、宣べ伝えたのです。

迫害に遭っても、その只中で、苦難が喜びに変わる。この不思議な出来事の根底には、主イエスとの、活き活きとした交わりがあります。

以前この礼拝で、キリスト教の本質は、何だと思いますか、と問い掛けたことがあります。

その答えを、憶えておられるでしょうか。

その時、キリスト教の本質は、神様との交わりである、と話させて頂きました。

主イエスとの、活き活きとした交わり。私たちの信仰は、すべてそこから生まれ、そこを目指していくのです。

使徒たちは、試練を通して、より深く、主イエスとの交わりを、実感しました。

そして、そこから、大きな喜びを、与えられたのです。

今朝、私たちは、私たちの信仰が、本当に主イエスとの、生きた交わりを、目指しているかどうか、今一度、顧みたいと思います。

信仰を持っていても、信仰生活から、喜びが失われることがあります。

それは、信仰の目標を、主イエスとの交わりでなく、別のものに、置いているからです。

いつの間にか、自分中心の慰めや、自分中心の満足を、信仰の目標にして、それが、かなえられないとか、まだ足りないと言って、呟いていることがあります。

しかし、本来、教会に満ち溢れているのは、主イエスとの豊かな交わりからくる、深い喜びである筈です。

そして、それは私たちが、謙遜に願うならば、溢れるほど豊かに与えられるものなのです。

主イエスとの、活き活きとした交わりに、生きている人は、絶望することはありません。

主イエスとの、活き活きとした交わりに、生きている人は、どんな時も、祈ることができます。

主イエスとの、活き活きとした交わりに、生きている人には、希望があり、喜びがあります。

主イエスとの、活き活きとした交わり。そこに、私たちのまことの命があり、希望があり、喜びのすべてがあるのです。

主イエスとの交わりを、共に喜び、その喜びに共に生かされ、その喜びを共に賛美しつつ、歩んでいく教会でありたいと願います。