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過去の礼拝説教

「洗礼を受けても良いですか」

2018年08月19日 聖書:使徒言行録 8:26~40

一人の人が主イエスと出会い、主イエスの救いに、招き入れられる仕方は、様々です。

しかし、すべての人に、共通していることが、いくつかあります。

まず、神様は、その人の内に、まことの救いを求める心を、起こされます。初めの内は、未だはっきりと、主イエスというお方を、意識するまでには、至っていないかもしれません。

でも、自分はこのままで良いのだろうか。自分は、今、本来の生き方をしているのだろうか。

このような思いに導かれたなら、心の奥底で、救いを求めている、と言えると思います。

そのように、無意識の内にも、救いを求めている人の所に、神様は、導く人を遣わされます。主イエスのことを、伝えてくれる人を、送ってくださいます。

私たち自身のことを振り返っても、私たちが、主イエスと出会うために、誰かの勧めや、導きがあった筈です。

それは、家族の誰かであったり、友人や、学校の先生であったり、職場の人であったりと、様々です。たまたま訪れた教会の人、ということもあるでしょう。

でも、誰かが、何らかの方法で、主イエスの恵みを、伝えてくれた筈です。

或いは、人ではなくて、書物であったり、映画であったり、することもあるかもしれません。

信仰に入るには、誰かの、或いは、何らかの形での、導きが必要なのです。

一人の人が、キリスト者になる時には、求める人と、伝える人が、神様の導きによって出会って、二人の間で、救いの恵みが、分かち合われる、という出来事が起こります。

そのような、不思議な出会いを、神様は、これまでも、数え切れないくらい、用意してこられました。そして、これからも、用意してくださいます。

今朝の御言葉にも、神様が、不思議な仕方で、一人の人を、救いに導かれた出来事が、記されています。

ここで、救いを求めていたのは、エチオピアの女王に仕える、高官です。そして、救いを伝えたのは、フィリポという人です。この二人が、聖霊の導きによって出会い、聖書の御言葉を通して、主イエスの救いの恵みを、分かち合ったのです。

ここに出てくる、フィリポという人は、初代教会において、十二使徒を補佐するために立てられた、七人の奉仕者の一人です。

フィリポは、迫害を逃れて、エルサレムから、サマリアの町に行きました。

そして、そこで、多くの人々を、キリストと出会わせて、救いへと導きました。

フィリポの働きによって、サマリアの町に、キリストを信じる教会が、立てられたのです。

このようにフィリポは、サマリアにおける伝道で、大きな成果を上げました。

こういう時、人は、その成功の喜びに、暫し浸っていたい、と思うものです。

しかし、神様は、それを許さないかのように、突然、フィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザに下る道に行け」、と言われました。

もし、私が、そのような命令を受けたら、「神様、もう暫く、サマリアにおらせてください。この町の人々と、救いの恵みを分かち合う喜びに、もう少しの間、浸らせてください」、と言ってしまうかもしれません。でも、フィリポは、一言も抗議することなく、直ちに出かけました。

ガザという町は、今は、多くのパレスチナの人たちが住んでいて、頻繁に、イスラエルと衝突を繰り返している所です。

しかし、その当時は、荒れ果てた、寂しい所であったようです。

フィリポは、サマリア伝道での成功に浸る間もなく、寂しいガザへの道へと、向かいました。ここに、真実に神様に仕える、伝道者の姿を、見ることができます。

一体、神様は、なぜ、あんなに荒れ果てた、寂しい道へ行けと、言われるのだろうか。

フィリポは、そう思い巡らしながら、ガザへと下る道を、歩いたと思います。

ところが、何と、そこに、福音を求めていた、一人の人がいたのです。

その人は、「エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産を管理していたエチオピア人の宦官」でした。

神様は、その人と出会わせるために、フィリポを、その寂しい道に導いたのです。

宦官とは、去勢された男性で、女王や、王の周囲の女性たちに、仕える働きをした人です。

このエチオピア人の宦官について、聖書はこう記しています。「エルサレムに礼拝に来て、帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた」。

今日でも、エチオピアという国はありますが、この当時のエチオピアは、今のスーダンや、南スーダンのことであると、言われています。エジプトのすぐ南に続く、大きな国です。

この宦官は、そこから千数百キロもの旅をして、エルサレムまで礼拝を献げに来たのです。

これは大変なことです。往復するだけでも、何ヶ月も掛かったと思われます。

彼は、そんな大変な旅をしてでも、エルサレムの神殿で、礼拝を献げたいと思ったのです。

ここに、この人の、神様を慕い求める、ひたすらで、真実な思いが示されています。

そのような思いをもって、彼は、はるばる旅をして、エルサレムにやって来ました。

しかし、彼は、そこで、悲しい体験をすることになります。

彼は、ユダヤ人ではありません。異邦人です。異邦人が、エルサレムの神殿で、礼拝をしようとする時、そこには、厳しい隔ての壁がありました。

当時の神殿は、何重にもなっていて、一番外側の広い場所が、「異邦人の庭」と呼ばれているスペースでした。異邦人は、その庭までしか、入ることができなかったのです。

この庭から、2メートル半ほど、階段を上った内側に、「婦人の庭」がありました。

ユダヤ人の女性は、そこまで入ることが、許されていました。

更に、その内側に、ユダヤ人の男性のみが、入ることができる、「イスラエル人の庭」がありました。そして、一番奥に、「祭司の庭」があり、そこに、聖壇と、至聖所があったのです。

「異邦人の庭」と、「婦人の庭」との間には、立札が立てられていて、「この垣根を超える異邦人は死をもって罰せられる」、と書かれていました。

ですから、異邦人である彼は、神殿の中心部分には、近寄ることができなかったのです。

たとえ、どんなに身分が高くても、どんなに金持ちであっても、また、どんなに遠くから来たとしても、神殿の外側からしか、礼拝をすることができなかったのです。

しかし、異邦人が、神殿に近づく道が、全く閉ざされていた訳ではありません。

異邦人が、ユダヤ教に改宗すれば、ユダヤ人と同じになれたのです。

そのためには、割礼を、受けなければなりませんでした。そして、更に、改宗のための洗礼を受け、神殿への献げものを守るならば、ユダヤ人と認められたのです。

ですから、もし宦官でなかったなら、彼は、ユダヤ教に改宗して、神殿の奥まで入って、礼拝することもできたのです。でも、宦官の彼には、その道も、閉ざされていました。

なぜなら、旧約聖書の申命記23章2節に、「去勢された者は主の会衆に加わることはできない」、という掟があったからです。去勢された人は、呪われた人、と見られていたのです。

ですから、宦官である彼には、ユダヤ教に改宗する道も、閉ざされていたのです。

悲しいことに、彼は、どんな手段を取っても、神殿の奥まで入ることができなかったのです。

彼は、スーダンからエルサレムまで、長い道のりを旅して、礼拝を献げに来ました。

それほどまでに、まことの神様を、熱心に慕い求めていました。

しかし、残念なことに、神殿の内側まで入って、礼拝することが、出来なかったのです。

きっと彼は、深い悲しみを、味わったことだろうと思います。

さて、礼拝を終えて、帰国するに際して、彼は、大きな買い物をしました。

珍しいお土産を、たくさん買い込んだ訳ではありません。実は、聖書を買ったのです。

この当時の聖書は、専門の写本家によって、すべて手で書き写されたものでした。

創世記や、出エジプト記など、それぞれの書が、一巻ずつ大きな巻物になっていました。

ですから、個人で聖書を所有する、などということは、よほどのお金持ちでなければできませんでした。彼は、大金を払って、聖書を買い求めて、帰国の途につきました。

そして帰る道すがら、馬車に揺られながら、それを読んでいたのです。

この時、彼が読んでいたのは、イザヤ書でした。なぜイザヤ書を読んでいたのでしょうか。

これは、推測の域を出ませんが、恐らく彼は、イザヤ書56章3節以下の御言葉を知らされて、その言葉に、深く心を、動かされたのだと思います。

イザヤ書56章3節~5節には、こう書かれています。(P.1335、またはP.1153)

「主のもとに集って来た異邦人は言うな。主は御自分の民とわたしを区別される、と。

宦官も、言うな。見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。

なぜなら、主はこう言われる。宦官が、わたしの安息日を常に守り、わたしの望むことを選び、わたしの契約を固く守るなら、わたしは彼らのために、とこしえの名を与え、息子、娘を持つにまさる記念の名を、わたしの家、わたしの城壁に刻む。

その名は決して消し去られることがない。」

ここには、主なる神様が、異邦人も、そして宦官さえも、ご自身の民として、迎え入れるという、約束が宣言されています。

宦官であるが故に、ユダヤ教に改宗することも出来ず、一番遠くからしか、礼拝をすることができない。そんな彼にとって、この御言葉は、明るい希望を、与えてくれるものでした。

異邦人も宦官も、皆、等しく神の民とされる。宦官は、枯れ木ではない。息子、娘を持つにまさる、記念の名が、神の家に刻まれる。何という素晴らしい、希望の約束なのだろうか。

彼は、ここに語られている救いは、どのようにして実現するのか。それを是非、知りたいと思いました。異邦人であり、宦官である自分が、神様の恵みに与るには、どうしたらよいのか。そのことを、何としても知りたいと願ったのです。

ですから、熱心にイザヤ書を、読んでいたのです。

そして、慈しみ深い神様は、この宦官の救いのために、フィリポとの、出会いを用意されました。フィリポに、この宦官と、対話するように、お命じになったのです。

神様の霊が、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」、とフィリポに語り掛けました。

フィリポは、このお言葉に従って、宦官の馬車の傍らに、走り寄りました。

その時、彼は、イザヤ書53章7節、8節を、朗読していました。

イザヤ書53章は、「苦難の僕の歌」、と言われている箇所です。ここには、主イエスの受難が、預言されています。

イザヤ書53章には、すべての人の罪を、無力な一人の僕が、その身に引き受けて、ただ黙々として、苦難を受ける姿が、描かれています。

屠殺場に引かれていき、黙って毛を刈られる、羊のように、苦しめられ、裁きも行われずに殺されていく。そんな、主の僕の姿が、語られているのです。

しかし、その打たれた傷によって、すべての人が、癒されるのだ、と書かれています。

ここには、主イエスの贖いの御業が、預言されているのです。

この宦官が、主イエスに出会うのに、これほど相応しい箇所はありません。

「苦難の僕の歌」を、熱心に読んでいる彼に、フィリポは、優しく語りかけます。「読んでいることがお分かりになりますか」。

宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言って、フィリポを馬車に乗せ、傍らに座らせました。

そして、この「苦難の僕」について、フィリポに、尋ねました。「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか」。

これは最も大切な質問です。宦官は、あらゆる質問の中で、最も大切な質問をしたのです。

聖書は、一体誰のことを、証ししているのか。聖書の中心主題は、何かという質問です。

この問いに対して、フィリポは、「聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた」、と書かれています。

この苦難の僕と呼ばれている人は、実は主イエスのことなのです、と明確に答えたのです。

神の独り子が、私たちの身代わりとなって、十字架にかかってくださったのです。それによって、私たちすべてが、罪赦され、等しく神の民として、迎え入れられているのです。

ですから、このお方の前には、もはや、ユダヤ人も、異邦人も、宦官も、ないのです。

隔ての壁は、もはやないのです。主イエスにあって、皆が、一つとされているのです。

ですから、あなたも、この主イエスの十字架の恵みによって、神の子とされるのです。

主イエスを信じる信仰を告白し、洗礼を受けることによって、その恵みに、与ることができるのです。フィリポは、このように、主イエスの福音を、告げ知らせました。

フィリポから、聖書の説き明かしを聞いた宦官は、それまで彼が、熱心に求めながら、与えられなかった救いが、まさに、このお方、主イエスにあることを、示されました。

どうしても乗り越えることができなかった、隔ての壁が、主イエスによって、打ち砕かれ、今や、大胆に、神様に近づくことが、出来るようになったことを知ったのです。

それを知ったら、もう居ても立ってもいられません。

一時も早く、洗礼を受けたい、という思いに、導かれました。

水のある所に来ると、彼はフィリポに尋ねます。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか」。

さて、注意深い方は、36節の終わりに、十字架のマークがあって、38節にとんでいることに、気付かれたと思います。37節がないのです。

実は37節は、この使徒言行録の最後に、記されています。314ページ、または272ページを、ご覧ください。そこに記されています。

なぜこのようなことになっているかと言いますと、この37節は、古い有力な写本に、欠けているからです。それで、元々の本文にはなかったもので、後の時代に付け加えられたものだと、見られているのです。37節は、こう言っています。

「フィリポが、「真心から信じておられるなら、差し支えありません」と言うと、宦官は、「イエス・キリストは神の子であると信じます」と答えた。」

これが、「洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか」、という問いに続く言葉として、記されているのです。

「真心から信じているなら、洗礼を受けても、差し支えありません。あなたは、真心から信じていますか」。「はい、イエス・キリストは神の子であると信じています」。

これらの言葉は、古代教会において、洗礼式の時に言い交わされた、誓約の言葉であると、見られています。

そして、この言葉は、洗礼を受けるには、何が最も大切かを、短く要約しています。

「洗礼を受けても宜しいでしょうか」。「もし、あなたが、真心から信じているなら、洗礼を受けても、差し支えありません。あなたは、真心から信じていますか」。「はい、イエス・キリストは神の子であると信じています」。洗礼を受けるには、これで十分なのです。

このエチオピア人の宦官は、何重にも隔てられた、外側から、神様を求めていました。

今一つ、中に踏み込めずに、もどかしい思いで、礼拝を守っていました。

憧れつつも、中に入れず、外側に立って、遠くから神様を、礼拝していました。

この彼の姿は、今この礼拝に集っておられて、まだ洗礼を受けておられない、求道者の方々の姿と重なります。

神様との出会いを求めて、教会に来られた。でも、今一歩、中に飛び込めずに、ためらっておられる。外側に立って、遠くから神様を、礼拝している。そんなお姿と、重なります。

でも、主イエスは言われるのです。何をためらっているのか。

隔ての壁は、私が、既に、十字架において、打ち砕いたではないか。もはや、あなたの前には、何の壁もないではないか。

あの宦官を見なさい。彼は、異邦人であるから、神の民とはなれないと思っていた。

宦官の自分は、枯れ木だと思っていた。でも、そうではなかったではないか。

ただ、キリストを、神の子と信じる信仰さえあれば、あなたは神の民となることができる。

あなたは、もう枯れ木ではない。新しい命と希望に、生きることができるのだ。

私は、そう約束したではないか。

だから、あの宦官は、喜びに溢れて、その後の旅を続けたではないか。

あなたも、同じように、喜びの人生を、生きることができるのです。そのために、私は、十字架で、あなたのために、命をささげたのです。あなたを、命懸けで、愛しているのです。

だから、ためらわずに、恐れずに、この私の腕の中に、飛び込んできなさい。

これが、主イエスの、切なる願いなのです。

今、ためらっている皆さん、この主イエスのお言葉に応えて、喜びの旅路へと、ご一緒に、旅立とうではありませんか。「あなたも洗礼を受けて良いのです。」