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過去の礼拝説教

「待ち伏せするキリスト」

2018年08月26日 聖書:使徒言行録 9:1~19a

「かいしん」という言葉を聞いた時、世間の人は、どのような漢字を思い浮かべるでしょうか。心を改める、という意味の「改心」を、思い浮かべる方が多いと思います。

或いは、野球の好きな人は、「会心」の当たりのホームラン、という場合に使われる、心に会う、という字を思い浮かべるかもしれません。

心を開く、という意味の「開心」を、思い浮かべる方も、おられるかもしれません。

今朝の御言葉には、「サウロの回心」、という小見出しが、つけられていて、その漢字は、心が回る、という字が当てられています。

心がぐるりと回る。回心とは、その人の心も、そして生き方も、180度回って、これまでとは、全く違う方向を向く。そういうことを、表す言葉です。全く新しい生き方をすることです。

キリスト教の指導者の中には、この回心体験を持つ人が、少なくありません。

古代教会の指導者であった、アウグステイヌスは、32歳のときに、ローマの信徒への手紙13章13節~14節を読んで回心し、放蕩三昧の生活を捨てて、クリスチャンになりました。

宗教改革者のルターは、22歳のときに、友人の死に出会い、更に激しい雷雨の中で、自分自身の死をも覚えて回心し、修道士となりました。

メソジスト教会の創立者、ジョン・ウェスレーは、ロンドンのアルダスゲート街で行われた、モラヴイア兄弟団の集会に出た時、不思議に心が熱く燃え、回心を体験しました。

その様なことを聞くと、私たちは、何か劇的な回心の経験がなければ、クリスチャンとして本物ではない、と誤解してしまいがちです。

しかし、劇的な経験があるかないかが、大切なのではありません。大切なことは、回心が劇的な仕方で起こるか、否かではなく、そこで、何が起こったのか、ということなのです。

今朝は、そのことを、ご一緒に、御言葉から聴いてまいりたいと思います。

今朝の御言葉には、使徒パウロの回心の出来事が語られています。ここで、パウロは、ユダヤ人としての名である、サウロという名前で登場しています。

サウロが、この使徒言行録に登場するのは、今朝の箇所が、初めてではありません。

7章58節に、既に登場しています。そこには、「証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた」、と書かれています。

最初の殉教者、ステファノの処刑に際して、石を投げる証人たちの、後ろだてになっていたのが、サウロでした。

また、8章1節には、「サウロはステファノの殺害に賛成していた」、と書かれています。

更に、8章3節には、「一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた」、とあります。

サウロは、エルサレムにおける、キリスト教迫害の、中心人物であったのです。

今朝の御言葉には、キリスト教迫害の、急先鋒を務めていた人物が、キリストにとらえられて、今度は、福音宣教の急先鋒へと、180度変えられていった出来事が、書かれています。

彼がキリスト教会を迫害したのは、単にクリスチャンが嫌いだった、というような感情的な理由に、基づくものではありませんでした。

彼の考えによれば、十字架にかけられるような者は、呪われた者である。それが、甦っただの、神である、などということは、神を冒瀆することである。そんなことは、断じて許すことができない。

クリスチャンたちもまた、偽のメシアを信じることによって、神を冒瀆している。

だから、彼らを、根絶やしにして、この地上から、キリスト教をなくしてしまうことこそ、神の御心に適うことである。彼は、そう確信していたのです。

このサウロの、キリスト教迫害は、熱心というよりも、狂気に近いものでした。

彼は、エルサレムと、その近くの村々にいたクリスチャンたちを、捕らえただけでは、不十分だと思ったのです。エルサレムから、各地に逃げていった、クリスチャンをも捜し出して、一人残らず捕らえなければならない。そう考えたのです。

1節、2節をご覧ください。「さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった」。

クリスチャンを、この地上から、完全に抹殺する。それこそが、神への最大の忠誠だと、思い込んだサウロは、ダマスコの教会をも、撲滅しようとしたのです。

ダマスコとは、現在のシリアの首都、ダマスカスのことです。当時、ダマスコには、1万5千以上のユダヤ人が住んでいたと、伝えられています。

そのように、ユダヤ人の多い町でしたから、エルサレムで迫害されたクリスチャンたちのうち、かなりの数が、ダマスコに逃れて来ていた、と想像されます。

さて、サウロが、そのダマスコに近づいたとき、「ダマスコ途上のキリスト」、と一般に呼ばれている、サウロの回心の出来事が起りました。

昔から、サウロの回心は、彼の心の中に起こった、疑問や迷いによって、惹き起こされたものだ、と見る人々がいます。こういう見方です。

サウロは、熱心に律法を守ることが、神に対する最大の忠誠であると、考えていた。

しかし、そのように生きていても、彼の心には、今一つ、まことの喜びや平安がなかった。

そうした時に、彼は、ステファノの、最高法院における、堂々とした説教を聞いた。裁きを受けているにも拘わらず、臆することなく、大胆に自らの信仰を語る、その姿に感銘を受けた。

そして、まるで天使の顔のように輝いていた、ステファノの顔が、深く印象に残った。

また、ステファノが、石で打ち殺されつつも、「この罪を彼らに負わせないでください」、と祈りながら、殉教していった。その姿に激しい衝撃を受けた。

そのような、ステファノの姿が、彼の脳裏に焼き付いていて、教会を迫害しながらも、果たして自分のしていることは、正しいのだろうか、という疑問が、次第に大きくなっていった。

ひょっとしたら、キリストを信じている人々の方が、本当に神を信じているのではないのだろうか。そういう思いが強くなっていった。

だから、そのような思いを、打ち消すために、更に激しい迫害に走った。

目障りな教会を、撲滅してしまえば、そのような迷いからも、解放されると思った。

そのように、自分の行動と、自分の思いとの、ギャップが次第に大きくなっていって、遂にそれが、ダマスコの町の手前で、堰を切ったように迫って来て、彼は地に倒れてしまった。

サウロの心の動きを、このように推察して、それによって、彼の回心の出来事を、説明しようとする見方が、昔からあります。

確かに、サウロが、ステファノの殉教の死の気高さに、強い衝撃を受けたことは、十分に考えられます。ステファノの姿が、サウロの脳裏から、消えることはなかったと思います。

そして、それは、サウロの回心への道を整える、備えとしての役割を、果たしたと思います。

しかし、それだけで、あのような劇的な、回心が起きたとは、とても思えません。

それでは、一体、ここで、何が起ったのでしょうか。

彼が、ここで、聞いた声に、その問いを解く鍵があります。

天からの、強い光に照らされて、地に倒れた彼は、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」、という声を聞いたのです。

それに対して、サウロは、「主よ、あなたはどなたですか」、と尋ねました。

サウロという、私の名前をご存知のあなたは、一体どなたなのですか。

太陽よりも強い光の中から、語り掛けてくるあなたは、一体どなたなのですか。

私が、あなたを迫害している、とあなたは言われます。主よ、私はそんなに、畏れ多いことを、しているのでしょうか。一体あなたは、どなたなのですか。

サウロは、恐れと緊張に満ちて、そう尋ねたのです。

「主よ」、という呼びかけは、神様のような、聖なる存在に対する、呼び掛けの言葉です。

サウロには、聖なるお方を、迫害しているという、自覚はありませんでした。

それなのに、「なぜ、わたしを迫害するのか」という、天からの声を聞いたのです。

あなたは、私を迫害している。私を苦しめ、傷つけている、という声を、彼は聞いたのです。

サウロは、自分が迫害しているのは、神を冒瀆している、クリスチャンたちだ、と思っていました。そのクリスチャンたちが集まっている、教会を迫害しているだけだ、と思っていました。

でも、その声は、「なぜ教会を迫害するのか」、とは言っていません。「なぜクリスチャンたちを迫害するのか」、とは言っていないのです。

「なぜ、わたしを迫害するのか」、と言っているのです。ですから、サウロは、「主よ、あなたはどなたですか」、と尋ねたのです。

この問いに対する答えは、サウロの生涯を、一変させるに、十分なものでした。サウロの全存在を、粉々に打ち砕くほど、衝撃的な言葉でした。

「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」。

なんと、今、ここで、まばゆい光の中から、自分に声をかけておられるのは、あの十字架につけられて、死んだはずのイエスなのか。では、ステファノを始め、クリスチャンたちが、命懸けで証ししていた、あの復活は事実だったのか。

復活が事実なら、イエスというお方は、まことの救い主、キリストである、ということになる。

私は、教会やクリスチャンたちを、迫害してきたと思っていた。でも、実は、救い主であるイエスというお方を、迫害していたのか。

このイエスというお方は、教会や信徒たちの痛みを、ご自身の痛みとして、受けておられる。教会と一体となっておられる。

私は、イエスの弟子を縛り上げて、牢屋に送り込んだ。でもそれは、実は、イエスを縛り上げて牢屋に送り込んだことなのか。イエスの弟子の殺害に、賛成して加担した。でも、それは、イエスの殺害に賛成して、加担したことなのか。

もし、そうであるなら、自分は、神に対して、取り返しのつかない、とんでもなく大きな罪を、犯してしまったことになる。

そのことを知ったサウロの衝撃は、とても言葉では、言い尽くせないものだったと思います。

今まで、彼が信じて来た、すべてが崩壊したのです。

そのサウロが、なお生き続けることができたのは、主イエスが、「起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」、と言ってくださったからです。

迫害してきた自分を、主イエスが、尚も生かし、なすべきことを、与えようとしておられる。

その主の憐れみによって、彼は何とか起き上がって、先へ進むことができたのです。

目が見えなくなったサウロは、手を引かれて、ダマスコの町に、入って行きました。

信仰とは、このように、私たちが、「あなたはどなたですか」、と主に問い掛け、「私はあなたの神、イエスである」、という声を聞いていくことです。

主イエスと自分との間に、「あなたとわたし」という、活き活きとした関係ができて、それによって、生きていくことです。

誰かを介してではなく、或いは、何かを通してでもなく、主イエスと自分が、直接、「あなたとわたし」という関係に、生きていくことです。

さて、人々に手を引かれて、ダマスコに入ったサウロは、三日間、目が見えず、食べることも、飲むこともしませんでした。

三日の間、暗闇の中で、「なすべきことが知らされる」のを、ひたすら待っていたのです。

10節には、主イエスが、アナニアという弟子に現れ、サウロのもとを訪ねるようにと、お命じになった、と記されています。

主イエスは、アナニアに言われました。「今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ」。

驚くべきことに、サウロは、今、「祈っている」というのです。

つい最近まで、クリスチャンを捕らえて、牢に入れることを、使命と考えていたサウロが、クリスチャンであるアナニアが、訪ねてくれるのを、祈って待っているというのです。

このように、主イエスは、教会の迫害者サウロを、キリストの救いを待ち望む人に、変えてくださいました。

しかし、アナニアは、主イエスの命令に、直ぐには、従いませんでした。ためらったのです。

なぜなら、サウロの狂気じみた迫害の様子は、ダマスコにまで、知れ渡っていたからです。

そして、そのサウロが、「御名を呼び求める人を、すべて捕らえる権限」を、祭司長たちから、受けていることを、アナニアは知っていました。

そのような男の所に行くには、命を捨てる覚悟が必要です。ステファノのように、石で打ち殺されるかもしれません。ですから、これは、そんなに簡単には、従えない命令なのです。

しかし、主イエスは、ためらっているアナニアに、はっきりと言われました。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」。

主イエスは、人間の思いを超えた、深い御計画を、アナニアにお示しになりました。

なんと主は、教会の迫害者であるサウロを、キリストの名を、「異邦人や王たち、またイスラエルの子らに」伝える器として、お選びになったのだ、と言われたのです。

主が、サウロを伝道者として、用いようとされているのであれば、人間がこれに反対したり、逆らったりすることはできません。

アナニアは、サウロの許を訪れ、サウロの上に手を置いて、こう言いました。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです」。

自分たちを、散々苦しめてきた、サウロのことを、アナニアは、「兄弟」と呼んだのです。

サウロよ、過去はどうであれ、今や、あなたは、主に出会って、主によって捕らえられ、主に用いられようとしている。そうであるなら、お互いは、主にあって「兄弟」なのだ、と言ったのです。なんという、あたたかい言葉でしょうか。信仰に基づかなければ、言えない言葉です。

教会もそうです。私たちは、皆、それぞれが、異なった過去を、背負って生きています。

でも、皆が、等しく、主に出会って、主に捕らえられ、主に呼び集められて、ここに来ています。同じお方を、主として仰ぎ、同じお方に、「父なる神様」と、祈っています。

ですから、私たちは、兄弟姉妹なのです。そのことを、今一度、想い起し、兄弟姉妹の交わりを、大切にしたいと思います。

アナニアに手を置いてもらい、祈ってもらった時、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、目が見えるようになりました。

サウロは、喜びに満たされて、洗礼を受け、食事をして、元気を取り戻しました。

古いサウロが死んで、新しいサウロが、誕生した瞬間でした。

サウロの回心。彼の人生の大転換は、このようにして起こりました。

サウロは、直接、復活の主イエスと出会い、回心へと導かれました。

しかし、私たちの場合は、サウロのような、出会い方ではなく、聖書を通して、復活の主イエスと出会います。私たちは、聖書の御言葉を通して、復活の主の御声を聞くのです。

主は、サウロを捕らえるために、ダマスコ途上で、出会ってくださいました。

サウロは、全く知りませんでしたが、主は、秘かに、サウロを、ご自分のものとされるために、ずっと働いておられたのです。その主は、今、私たちのために、働いてくださっています。

以前、フランソワ・モーリアックという人の、「待ち伏せする神」、という言葉を紹介させていただきました。こういう言葉です。

「主は、エルサレムからダマスコへ行く道の、曲がり角で待ち伏せをし、サウロを、つまり彼の最愛の迫害者を狙っていた。このとき以後、全ての人間の運命の中に、この待ち伏せをする神がい給うであろう」。

気が狂ったように、主の教会を迫害していた、サウロさえも、主イエスは愛しておられ、是非出会いたいと、ずっと待っておられたのです。

そして、ダマスコの教会を、迫害しに行くサウロを、曲がり角で待ち伏せして、彼を捕え、彼を救いへと、招き入れてしまわれたのです。

同じように、主イエスは、すべての人の、それぞれの人生の、曲がり角で、待ち伏せしておられます。是非あなたと会って、話がしたい。そして、あなたを救いたい。

そういう切なる思いを持って、待ち伏せしておられるのです。

その主に、待ちぼうけを、喰らわせることがないように、主の呼び掛けに、しっかりと応えていきたいと、思わされます。