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過去の礼拝説教

「安らかに老いる幸い」

2018年09月09日 聖書:ルカによる福音書 2:25~35

昨年のこの礼拝、高齢祝福の祈りの礼拝において、私は、内村鑑三の「後世への最大遺物」という講演を、紹介させて頂きました。

その講演の中で、内村は、私たちの、誰もが残せて、しかも、後世への最大の遺物とは、「勇ましい高尚なる生涯」である、と言っています。

しかし、この「勇ましい高尚なる生涯」とは、決して、英雄的な生き方のことではない、というのです。では、どのような、生き方なのでしょうか。

この世は、悪魔ではなく、神様が支配する、世の中である。だから、希望の世の中であり、喜びの世の中である。そのことを、自分自身の生き方を通して、示していく。

それが、「勇ましい高尚なる生涯」である、と内村は言っているのです。

今朝の御言葉に登場するシメオンも、そのような意味における、「勇ましい高尚なる生涯」を、後世への遺物として、残した人ではないでしょうか。

しかし、このシメオンが、どのような人物であったか、について聖書は何も記していません。

年齢も定かではありません。しかし、相当の高齢であったことは、想像できます。

ただ一つ分かっていることは、このシメオンは、生涯、神を信じ、イスラエルの慰められるのを、ひたすら待っていた人であった、ということです。

彼は、その生涯を通して、救い主は必ず来られる、と信じて、待っていた人だったのです。

そして、決して、その希望を失わなかったのです。そうであれば、この人の人生は、内村鑑三が語る、「勇ましい高尚なる生涯」であった、ということができると思います。

祈りながら、ひたすら待つ。それには、強い忍耐力が必要です。しかし、シメオンは、その生涯の大半を、この「待つ」という、困難な務めに、かけていた人でした。

彼は、「あなたは、必ず救い主に出会って、慰めを与えられる。それまでは、決して死なない」、という約束を、聖霊によって、与えられていました。

そして、その約束が、実現することを、「今か、今か」と、ひたすら待ち続けていたのです。

慰めを見出すまでは死なない、ということは、言い換えれば、それまでは、慰めのない状態の中で、歩み続けなければならない、ということです。

シメオンが、このお告げを受けてから、主イエスと出会うまでに、一体、何年位、経っていたのかは、分かりません。しかし、それは辛い、苦しい歳月だったと思います。

シメオンは、長い年月を、ひたすら待ち望みつつ、過ごしてきました。

一方、主イエスの両親の、ヨセフとマリアは、主イエスが生まれて、40日目に、律法に定める、きよめの儀式をするために、エルサレム神殿に上りました。幼な子イエスを、しっかりと胸に抱いて、神殿に上って行きました。

そして、そこで、救い主を、ひたすら待っていた、シメオンと出会ったのです。

神殿には、多くの人々がいました。でも、誰も、ガリラヤの田舎の村、ナザレから出て来た、貧しい、若い夫婦などには、目を留めませんでした。

しかし、長く求めていた、シメオンには、「このお方こそが、救い主だ」、と分かったのです。

今、この礼拝にも、未だ信仰を告白するには、至っていない方々が、出席されておられます。でも、その時を、待ち望んでおられます。もしかしたら、私には、そのような時は、来ないのではないかと、不安を覚えておられるかもしれません。

でも大丈夫です。礼拝において、御言葉と真剣に向き合い、救いの恵みを、待ち続けていれば、シメオンのように、必ず主イエスと、出会うことができます。

そのことを信じて、希望をもって、教会生活を続けて頂きたいと、心から願っています。

シメオンは、幼な子イエスを、しっかりと腕に抱いた時、「私はもう、いつ死んでも構わない。私はこの目で、あなたの救いを見たからです」、と賛美しました。

年老いたシメオンが、幼な子イエスを胸に抱いて、本当に心満たされて、この賛美を献げている姿に、心惹かれます。私たちも、この場面を、思い描いてみたいと思います。

誰しも、小さな赤ちゃんを、抱いたことのある人であれば、知っている筈です。

あの柔らかな、小さな命。ちょっと手に、力を入れるならば、すぐに壊れてしまうような弱さ。

神の子である主イエスが、そのような、小さな、弱いお姿で、この世に来てくださった。

そのことを思うだけで、私たちは、心を動かされます。

その幼な子を抱き上げた、シメオンは、こう言っています。「私は、もう十分に生きた。しかも遂に、その目的を果たした。もう満足して死ねます」。

「もう死んでも良い」。これは、すごい言葉です。どうして、こんなことを言えたのでしょうか。

シメオンは、その理由を、はっきりと、語っています。「わたしはこの目であなたの救いを見たからです」。

「わたしの目」、これは原文では複数形です。ですから、私は、この二つの目で、あなたの救いを、しっかりと見た、と言っているのです。ですから、もう死んでも良い、というのです。

でも、「救いを見た」、と言っても、何か、劇的な出来事を、目撃した訳ではありません。

モーセが、海の水を分けて、イスラエルの民を、エジプトから脱出させたような、大きな奇跡を、見た訳ではありません。そのような、奇跡的な出来事は、起きていないのです。

ただ、小さな赤ちゃんを、抱いているだけです。シメオンの腕の中に、抱かれているのは、本当に小さくて、無力で、弱々しい赤ちゃんです。

でも、その赤ちゃんを、抱き上げて、その小さな顔を見ながら、ここに、ここにこそ、神の救いがある、私はそれを、二つの目で、しっかりと見たと、言っているのです。

信仰とは、そういうことです。すべてを造られ、すべてを支配されておられる、全能のお方が、こんなに小さくなられて、こんなに無力になられて、こんなに弱くなられて、私たちのところに来てくださった。

小さくて、無力で、弱い、私たちを救うために、私たちと同じお姿となって、来てくださった。

いえ、私たちよりも、もっと小さな者となって、来てくださった。

そのことを、しっかりと見て、感謝をもって、受け止めていくことです。

私たちも、シメオンのように、その幼な子イエスを、しっかりと胸に抱き締めるのです。こんなに小さくなられて、私たちのところに、来てくださった。その主イエスを抱き締めるのです。

その時、私たちも、シメオンのように、「もう、いつ死んでも良い。神様の救いを、この目でしっかりと見て、この腕で抱き締めたからだ」、という思いに、満たされていくのだと思います。

「もう思い残すことはない、これで安心して死んでいける」。

このシメオンの言葉は、決して、ご高齢の人が、近づいて来る死を、平安の内に、受け入れることができるようになった、という意味の言葉ではありません。

この言葉は、若い人であっても、語ることができる言葉です。いや、むしろ、このように語ることができる所にこそ、本当に幸せな、充実した人生があるのです。

ですから、これは、すべてのキリスト者が、口にすることができる、いえ、口にすべき言葉なのです。「これで安心して、死んでいける」。

この言葉は、年を取ってから、語れるようになればよい、というものではありません。

「いつ、死を迎えても、私は、安らかに、この世を去ることができる」。あなたは、今、そう言い切ることが、できますか。これは、私たちすべてに、問われていることなのです。

私は、あなたの慰めの内に、生かされています。あなたの恵みに満たされて、生きています。最も大切なものを、既に、頂きました。ですから、いつ、御許に召されても、結構です。

あなたは、このように、言うことができるかどうか。それが、問われているのです。

この言葉は、どのような思いを抱いて死ぬか、ということではなく、どのような思いを抱いて、今、生きているか。そのことを、問い掛けている言葉なのです。

「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます」。

この言葉は、「私は、そのように言うことができる、平安を得ました。その平安の中を、喜びを持って、生きています」、と告白している言葉なのです。

このような言葉を、口にしつつ、生きることができるかどうか。それこそが、私たちの人生の、最大の課題であると言えます。

28節には、そのシメオンが、「幼な子を腕に抱き、神をたたえて言った」と記されています。

更に34節には、「シメオンは両親を祝福し」、と語られています。

ここでシメオンは、神をほめたたえ、幼な子イエスの両親を、祝福しています。

興味深いことに、ギリシア語の原文では、この「ほめたたえる」、と「祝福する」とは、全く同じ言葉です。元々は、「よいことを言う」、という意味の言葉です。

よい言葉を言う。シメオンは、そのよい言葉を、神様に対して、言うことができた人でした。

そして、また、幼な子イエスの両親にも、言うことができたのです。

シメオンは、祭司ではありません。一人の信徒に過ぎません。しかし、神様に対しても、また、幼な子の両親に対しても、「よいことを言う」ことが出来た人でした。

私たちが、神様に献げる、よい言葉は「賛美」となります。また、よい言葉を、人に語れば、それは「祝福」になります。信じるということは、このような「よい言葉」を、口にすることができるようになることです。賛美と祝福を、告げる者とされることです。

この茅ケ崎恵泉教会にも、シメオンのように、神様に対する賛美と、人に対する祝福を、告げてくださる、信仰の先輩方が多くおられます。そのことを、心から感謝したいと思います。

シメオンは、「私は救いを見た」、と言いました。生まれたばかりで、まだ話すことも出来ない、幼な子イエスを、抱きしめながら、そう言ったのです。不思議なことです。

どうして、そんな小さな赤ちゃんに、神の救いを、見ることが、できたのでしょうか。

それは、聖霊の示しによって、としか言いようがありません。

幼な子イエスのお姿の中に、何かそれらしい印があった、ということではないのです。

それは、聖霊なる神様の、不思議な御業です。

シメオンは、「イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた」、と書かれています。25節、26節、27節と、続いて三度も、「聖霊」が登場しています。

神の霊が、シメオンを、捕らえていたのです。神の霊が、シメオンを、導いていたのです。

ですから、彼は、小さな赤ちゃんに、神の救いを、見ることができたのです。

シメオンが、偉かったからでは、ありません。神様が、共にいてくださったからです。

31節に、「これは万民のために整えてくださった救い」、とあります。

万民のためです。万民ですから、イスラエルの民、だけではありません。

世界中の民が、日本人でも、中国人でも、アメリカ人でも、皆が、あぁ、これは私たちの救いだ、と受け取ることができるような救いを、神様は備えてくださった、と歌っているのです。

未だ、本当に小さい、生まれたばかりの幼な子を、腕に抱きながら、シメオンは、そのような壮大な幻を見ることができたのです。なぜでしょうか。

恐らくシメオンは、ずっと万民の救いのために、祈っていたのだと思います。

シメオンは、イスラエルの慰めと、万民の救いを、切に祈り続けていたのです。

苦しむ人、悲しむ人のために、祈り続けていたのです。

彼自身も、年を重ねるに従って、苦しみや、悲しみを、重ねて来ました。ですから、それだけ深く、苦しんでいる人、悲しんでいる人のために、祈ることができたのです。

年を取る、ということは、そういうことです。このような祈りの内に、年を取っていくのです。

それが、キリスト者の、年の取り方です。

体がどんなに衰えて、自由に動かなくなっても、祈ることはできます。

しかし、祈るということは、年を取って、暇ができたからする、というようなことではありません。忙しい人は、しなくても良い、ということはないのです。

教会に生きる、全ての者がすることです。そこにこそ、教会のまことの姿があります。

しかし、長い人生を通して、信仰の経験を深めて来られた、ご高齢の方々は、より深く、また、より真実に、その祈りを献げることが、出来るのではないでしょうか。

シメオンは、幼な子イエスを、待ち望んでいた救い主として、胸に抱き上げました。

その時の、シメオンの顔は、きっと輝いていたに、違いないと思います。この上なく、美しい顔であったと思います。

私は、いつも思うのですが、信仰の旅路を、歩み続けて来られた、ご高齢の方のお顔は、本当に美しいと思います。美人だとか、ハンサムだとか、そういうのではなくて、人生の豊かさや、尊さが、そのお顔に、にじみ出ているのです。

マザー・テレサの写真を、長年撮り続けた沖守弘という方がいます。

沖さんは、彼の写真集の中で、マザーの顔は美しい、と書いています。年老いて、しわだらけで、化粧もしていない、マザー・テレサの顔が、この上もなく美しい、と言っています。

シメオンの顔も、輝きに満ちていたと思います。感謝に溢れた、美しい顔であったと思います。今朝、礼拝を共にされている、信仰の先輩方も、美しいお顔をされています。

シメオンは、イスラエルが慰められるのを、待ち望んでいました。

そのために、一日も早く、救い主を送ってください、と祈り続けてきたのです。

そして今、その祈りが聴かれて、シメオンは、救い主を、胸に抱きしめています。

その時に、シメオンが、どうしても、言わなければならないことが、ありました。

それが、マリアに対する、言葉です。シメオンは、マリアを祝福しつつ、こう言いました。

「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」

このシメオンの言葉は、明らかに、主イエスの、これからの生涯、特に、十字架に至る生涯を、預言している言葉です。

「確かに救い主は、この世に来た。私は今、そのお方を、この胸に抱いている。だから、もう自分はこの世から去ってもよい。

しかし、この幼な子によって、この世が、本当に、救われるためには、この子は、苦難を受けねばならない。人々は、恐らくこの人に、つまずくであろう。そして、この人は、最後には、十字架にかかって、死ぬことになる。

マリアよ、その死によって、あなたの胸は、深い傷を、受けることになるであろう。」

シメオンは、マリアに、そう言ったのです。

私たちはここに、主イエスのご生涯の、厳粛さというものを、感じざるを得ません。

人間を救うために、神様は、大いなる痛みをもって、独り子を、この世に遣わしてくださいました。それなのに、人間は、その救い主をも、殺してしまうのです。

そのような、どうしようもなく深い、人間の罪を、ここで、シメオンは、見つめています。

でも、そのような、救い主の苦難の生涯を、預言しつつも、シメオンは、希望を捨てませんでした。いや、むしろ、その苦難の生涯にこそ、救いのしるしがある。

シメオンは、そのことを示されたのです。そして、その幼な子イエスに、救いを見ることができたのです。シメオンは、既に、ここで、主イエスの、十字架の救いを、望み見ています。

私たちが、滅びを招かないですむ、ただ一つの道である、十字架への道を、主イエスが、選び取ってくださる。そのことを、遥かに望み見て、喜びの歌を、歌っているのです。

年を取って、だんだんと、肉体の目は、かすんでいきます。

しかし、シメオンの、信仰の眼差しは、ますます明らかに、救いの幻を、見ているのです。

それは、シメオンが、神様の約束という、しっかりとした座標軸を、握り締めていて、揺らぐことがなかったからです。

今、世界全体が、自分勝手な主張を繰り返して、相互不信と、不安に陥っています。

まさに、慰めと救いのない状況の中で、本当に信頼できるもの、まことに頼りになるものを、探し求めています。しかし、それを見出せずにいるのです。

座標軸を見失って、漂流しているようなこの世にあって、私たちは、シメオンの様に、神様の御言葉という、揺らぐことのない座標軸を、しっかりと握り締めていきたいと思います。

座標軸を確かに握っていた、シメオンの生涯は、まさに、人が後世に残すことのできる、「最大の遺物」であった、と思います。シメオンの祈りが、それを端的に示しています。

「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。

わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」

皆さん、私たちも、声を合わせて、主に向かって、言いましょう。

「主よ、私たちは、平安です。この目で、あなたの救いを見たからです。」