MENU

過去の礼拝説教

「人の思いを超える神のご計画」

2018年09月30日 聖書:使徒言行録 10:9~23a

先週は、カイサリアに駐屯していた、ローマ軍の百人隊長のコルネリウスに、主の御使いが顕れた出来事から、ご一緒に御言葉に聴きました。

コルネリウスが、午後三時の祈りをしていた時、天使が彼に語りかけ、「ヤッファへ人を送り、ペトロと呼ばれるシモンという人を招きなさい。彼は、皮なめし職人シモンの家にいる」、と命じました。ヤッファは、カイサリアから、南へ48キロほど、下ったところにある町です。

翌日、コルネリウスが遣わした三人の使者が、ヤッファの町に近づいたころ、ペトロは、正午の祈りをするために、屋上に上って行きました。

彼は、そこで、非常な空腹を覚え、夢心地になりました。お祈りをしながら、ウトウトとしてしまったのです。教会に伝わる、古いジョークでは、そういうのは、「お祈り」ではなく、「おいねり」というそうです。その「おいねり」の中で、ペトロは幻を見ました。一階の台所からは、おいしそうなお昼ご飯の匂いが上ってきますから、食べ物の幻を見るのは、当然と言えば当然です。

しかし、その内容な、まことに奇妙なものでした。天が開けて、大きなシーツのような入れ物が、四隅を吊るされて、地上に降りて来たのです。そして、その中には、地上のあらゆる獣や、地を這うものや、空の鳥が入っていました。

不思議なものを見て、驚いているペトロに、声が聞こえてきました。「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」。

しかし、ペトロは答えます。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」

ここで、ペトロが語った、清くない物とか、汚れた物とは、旧約聖書レビ記11章に記されている、食物規定に基づくものです。そこには、動物や鳥や、魚の中で、食べてよいものと、食べてはならないものが、詳しく定められています。

例えば、動物でも、ひづめが分かれていて、反すうする羊や牛は、食べても良いのですが、豚やラクダやウサギは、食べてはならないとされています。鳥については、鷲や鷹などの猛禽類は、食べてはならないのです。魚も、ヒレや鱗のないものは、食べてはならない。イナゴなどの、飛び跳ねるものを除いては、昆虫も食べてはならない。地上を這う、爬虫類は食べてはならない。

このように、細かく定められていたのです。そして、食べることを禁じられた生き物は、「汚れたもの」であるので、それを食べた者は、汚れるとされていました。ですから、「汚れたもの」を食べている異邦人は、汚れた人々であったのです。

そういうこともあって、ユダヤ人は、異邦人と交際したり、彼らと一緒に食事をしたりすることを、堅く避けていました。彼らと交わると、自分たちも汚れてしまう、と思っていたのです。

この時、ペトロが見た幻の中には、食べてはならない生き物が、たくさん含まれていました。ですから、それを屠って食べなさい、という天からの声に対して、律法の掟を忠実に守って来たペトロは、反射的に拒否反応を示しました。

「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません」。ペトロは、そう言って、激しく抵抗したのです。

恐らく、ペトロは、褒められることを、期待していたと思います。「良く言ったペトロ。あなたは立派だ」。そんなお褒めの言葉を、頂けるものと、思っていたと思います。

あの荒野の誘惑において、「石をパンに変えて食べたら良い」と言った、サタンの誘惑を、きっぱりと退けられた主イエスと、同じことをした、と誇らし気に、思っていたかも知れません。

しかし、天からの声は、ペトロが、思っても見なかった、意外な言葉でした。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」。

これは、ペテロにとって、天と地がひっくり返るような、衝撃的な言葉でした。ですから、ペトロは、直ぐには、この言葉に、従うことはできませんでした。

ペテロは、尚も、「主よ。とんでもないことです。それはできません」、と言い続けました。そういうことが、三度も繰り返されたのです。

「さあ、ほふって食べなさい。」

「いやです。主よ。とんでもないことです。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や、汚れた物を、食べたことがないのです。」

「神が清めた物を、あなたは、清くないなどと、と言ってはならない。」

「でも、だめな物はだめなのです。私には無理です」

「何を言っているのかペテロ。あなたは本当に頑固だな。その名前が「ペテロ、岩」と言われるくらいの頑固者だね。でも、私が、清い物としたのだよ。」

「いくら言われても、できないものはできません。無理です」。

こういうやり取りが、三度もあった後に、その入れ物は、天に引き上げられていったのです。

三度繰り返された。この言葉で、もう皆さんは、ある場面を想い起こされていると思います。鶏が鳴く前に、主イエスを三度も知らないと言った、あの大祭司の庭での出来事です。

あの夜、ペトロは、自分の弱さや罪を、思い知らされました。そして、それまでの、自信に満ちた、傲慢な自分が、徹底的に打ち砕かれ、激しく泣き崩れました。あの時は、ペトロにとって、回心の時でした。ペトロが大きく変えられる、きっかけとなった出来事でした。

この使徒言行録10章は、「コルネリウスの回心」を伝えている箇所だ、と言われています。しかし、よくよく考えて見ますと、この箇所は、果たして、「コルネリウスの回心」、というテーマで正しいのだろうか、と思わされます。

この10章は、コルネリウスの回心であると共に、いやそれ以上に、ペトロの回心の出来事である、と言えるのではないでしょうか。この10章で、大きく変えられたのは、コルネリウス以上に、ペトロであったのです。

そして、ペトロが変えられたことこそが、その後の教会の歩みにおいて、決定的なこととなったのです。教会が、ユダヤ人だけの教会から、全世界の人々の教会になるためには、先ずペトロ自身が、変えられなければならなかったのです。

しかしペトロは、変えられることに、激しく抵抗しました。神様の命令を、三度も拒否しました。神様によって、変えられることを拒み、今のままの自分で、いようとしたのです。

今、自分が大切にしている、自尊心や、誇りを、必死に守ろうとしたのです。しかし神様は、その都度、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」、と言われて、ペトロを諭されました。

ペトロは、これまで、ユダヤ人として、律法をしっかり守ってきました。汚れたものを、食べないことが、自分の救いのために、絶対に必要なことだと、信じて来ました。

これは、ペトロだけでなく、ユダヤ人たちが、先祖代々、ずっと守り続けてきたものでした。ですから、そう簡単に、止められることではありませんでした。

そのペテロに対して、天からの声は、革命的でした。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」

神様ご自身が、それらを清い物とされ、食べるようにと、命じられたのです。律法で、汚れた物と定められていた物を、その律法を与えられた、神ご自身が、今や、清い物とされたのです。だから、「清くない」などと、あなたは言ってはならない、というのです。

あなたを、縛り付けていた、律法の規定が、今や廃止されたのだ、と言われたのです。主イエスの、十字架の救いによって、あなたは、もう、律法の縄目から、解放されたのだ、というのです。

今や、すべての生き物は、清いものとされている。すべての人が、清いものとされている。皆、等しく、主イエスの十字架の血潮によって、清められている。天からの声は、ペトロに、そのことを、教えようとしていたのです。

ペトロは、長く培ってきた、自分の思いに、固執していました。しかし、自分の中に染みついる、価値観や習慣を、主イエスの御言葉によって、一旦リセットしなければ、新しい、自由な生き方は、得られないのです。

実は、ペテロは、主イエスと行動を共にしていた時、食べ物が聖いか聖くないかという、同じ課題について、主イエスが、語られた御言葉を、既に、聞いていた筈なのです。

マルコによる福音書7章15節の御言葉です。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」ペトロは、この御言葉を、最も身近な場所で、はっきりと聞いていたのです。

しかし、その時、ペトロは、この主イエスの御言葉を、理解することができませんでした。ですから、自分を縛り付けている、律法の掟から、解放されることがなかったのです。

愚かで、鈍いペトロです。しかし、このペトロは、私たちの代表です。ペトロの姿は、私たちの姿です。愚かで、鈍いペトロを、聖霊は、忍耐強く、教え導いていきます。同じように、聖霊は、自分の思いに固執している、私たちにも働かれ、私たちを、教えてくださいます。そして、ペトロが、変えられたように、私たちをも、変えてくださいます。

ペトロは、今見た幻は、どういう意味かと、思い巡らせていました。するとそこに、コルネリウスの使いが、ペトロが滞在している、皮なめし職人シモンの家に着いて、声をかけました。「ペトロと呼ばれる方が、ここに泊まっておられますか」。

言葉の訛りから、訪問者は外国人であることが、すぐに分かりました。ペトロに、聖霊が、語りかけます。「三人の者があなたを捜しに来ている。立って下に行き、ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ。」

尋ねてきた異邦人は、私がよこした人たちなのだと、聖霊なる神様が、言われたのです。「異邦人であるローマ人が、あなたを招こうとして来ている。しかし、あなたは、彼らの招きを、断ろうなどと、考えてはならない。招きに応じることを、ためらってはならない。なぜなら、彼らをここに導いたのは、私だからだ」、と神様ご自身が、言われたのです。

「ためらわないで」、という言葉は、「何の差別もせずに」、とも訳せる言葉です。異邦人だからと言って、差別せずに、彼らと一緒に、出発しなさい、と言われたのです、

ペトロが下に降りていって、訪問者たちに、「あなたがたが探しているのは、この私です。どうして、ここへ来られたのですか」と問うと、訪問者たちは、次のように答えました。

「百人隊長のコルネリウスは、正しい人で、神を畏れ、すべてのユダヤ人に評判の良い人ですが、あなたを家に招いて話を聞くようにと、聖なる天使からお告げを受けたのです」。

この言葉を聞いて、ペトロは初めて、あの不思議な幻の意味が、分りました。あの幻の意味は、福音を聞きたいと言って、あなたを招く人があれば、その招きが、異邦人からのものであっても、決して断ってはならない。その招きを受けて、キリストを宣べ伝えに行きなさい、ということであったのだ。

ペトロは、この神様の御心を、知ることができました。大きな布の中の、汚れた物とは、異邦人のことだったのだ。そして、それを、神様ご自身が、清くしたと言われたのだ。だから、神様が清めた物を、ペトロが清くないなどと、言ってはいけない。異邦人も、神様によって、清くされ、主イエスの救いに、与ることができるのだ。

主イエスの救いは、ただ神様の恵みによって、与えられるのだ。この恵みの前には、ユダヤ人も異邦人も関係ないのだ。ペトロは、そのことを示されました。ペトロは、自分の思いを捨てて、この神様の御心に、従っていくことを、求められました。

伝道においては、受ける側より、伝える側の方が、より大きく、変えられる必要があります。伝道は、相手を説得して、変えてやろう、とすることではありません。むしろ、伝える自分の方が、変えられなければならないのです。用いられるためには、自分が先ず、変えられることが、必要なのです。

ペトロは、自分の意志や努力によって、異邦人伝道を、志したのではありません。ただ、神様に導かれて、聖霊に促されて、カイサリアに出発したのです。

このように、ペトロによる、コルネリウスへの伝道が実現したのは、神様が、幻を通して、二人を導いてくださったからです。神様ご自身が、彼らに、働きかけてくださったことによって、ユダヤ人と異邦人の隔たりが、乗り越えられたのです。ペトロもコルネリウスも、先立って働かれた、主イエスの御業を、受け入れただけなのです。

このようにして、主イエスの福音は、人と人との隔たりをも、乗り越えて伝えられていきます。そして、更に、その隔ての壁をも、打ち壊してしまうのです。

そのことを、エフェソの信徒への手紙2章14~16節が、このように語っています。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」。

主イエスの十字架の恵みは、神様と人を和解させ、また神様との和解を通して、人と人をも和解させるものなのです。その恵みは、敵意という隔ての壁を、取り壊してしまうのです。

今朝の御言葉は、ユダヤ人と異邦人との交わりを、妨げていた隔ての壁。長い歴史を通して、打ち立てられた、厚くて高い隔ての壁が、主イエスの十字架の恵みによって、乗り越えられていったことを、語っています。そして、そのような和解の御業は、主ご自身によって、進められていくのです。そこで働かれるのは、徹底的に神ご自身なのです。

その神様の導きによって、「主よ、とんでもないことです」、と言っていたペトロも、思いを変えられて、遣わされていきました。

この「とんでもない」、という言葉の原語は、「決してない」という、強い否定の言葉です。人の常識では、「決してない」と、思われるようなことを、神様はなさるのです。

主は言われました。「ペトロよ、汚れている異邦人を訪ねて、彼らに伝道することなど、とんでもないと、あなたは言うのか。そんなことは、決してできない、と言うのか。しかし、私が、あなたのためにしたことを、想い起してみなさい。罪人であるあなたを、救うために、私は、神の身分をすてて、人となってこの世に降り、苦しみを受け、十字架にかかったのだ。これは、とんでもないこと、ではないとでも、あなたは言うのか。あなたは、このとんでもない、神の業によって、救われていながら、その救いを、異邦人に伝えることは、どんでもないと言って、拒否するのか。」

ペトロは、この主の言葉を聞いたのです。そして、主の命令を、三度も拒否した自分こそ、とんでもない者であることを、示されたのです。

ペテロは、使いの三人を迎え入れて、泊まらせました。これも驚くべき行動です。ユダヤ人にとって、外国人を招いて泊まらせ、食事を共にすることは、考えられないことだったからです。それこそ、とんでもないことだったのです。

皮なめし職人シモンの家と、伝えられている家は、今も、ヤッファの町にあります。私も、訪れたことがあります。地中海の畔、波打ち際にある、石造りの小さな家です。

その小さな家に、ペトロと、コルネリウスの三人の使いは、肩を寄せ合うようにして、泊まりました。異邦人の僕、ローマの兵卒、そして主イエスの使徒であるペトロ。つい先程までは、口もきくことさえ、避けていたお互いでした。しかし、今は、主イエスの十字架の愛に促されて、共に食事をし、同じ部屋で一夜の宿を取っているのです。

これは、教会のあるべき姿を、示しているのではないでしょうか。私たちが、今、建築中の新会堂も、決して大きな建物ではありません。そして、そこには、様々な思いや、異なった考えを持った人たちが、集まってきます。お互いに、避け合っていた者たち、口をききたくない、と思っていた者たちが、同じ会堂で、肩を寄せ合うことになります。

しかし、もし、そこに、愛と和解の主ご自身がおられるなら、そこは皮なめし職人シモンの家となることができます。主イエスが、隔ての壁を打ち壊し、十字架を通して、私たちを一つの体としてくださいます。

お互いが、十字架の血潮によって、罪赦され、清められた者同士として、受け入れ合うことができます。圧倒的な主イエスの恵みの前に立つ時、私たちは、隔ての壁を乗り越えることができるのです。

新会堂が、そのような意味で、皮なめし職人シモンの家となりますように、主の導きを求めて、祈り合ってまいりたいと思います。