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過去の礼拝説教

「天における執り成し」

2018年10月28日 聖書:ヘブライ人への手紙 13:14~21

今朝、私たちは、召天者記念礼拝を共に守っています。この日は、天に召された方々の信仰を想い起し、それを受け継いでいく思いを、新たにする日です。日本の教会は、大体この時期に、召天者記念礼拝を献げています。それは、長い教会の歴史から生まれたものです。

ローマ・カトリック教会では、古くから11月1日を、「諸聖人の日」として、守ってきました。「諸聖人の日」は、古くは「万聖節」とも言われて、亡くなった聖人たちを記念する日です。

英語では、「オール・セインツ・デー」と言いますが、別名「ハロウ・マス」とも言います。「ハロウ」とは、「聖なるものとする」という意味です。そして、「マス」とは、お祭りを意味する言葉です。クリスマスの「マス」と同じです。クリスマスは、クライストのお祭りなのです。ですから、「ハロウ・マス」とは、「聖なるものとする祭」、という意味です。

余談ですが、この「ハロウ・マス」の前夜(イブ)が、ハロウ・イブ、略すとハロウィンです。但し、ハロウィンは、キリスト教の行事ではなくて、ドゥルイッドという、ケルト人の土俗宗教の祭りです。

ケルト人の暦では、新年は11月1日から始まります。その前夜、つまり大みそかの夜には、死んだ人の霊が、家族の許に帰ってくると信じられていました。その時、同時に、悪い霊や魔女たちも出てきて、悪さをするのです。それで、この夜に、仮面を被ったり、野菜をくりぬいて作ったランタンに、火を灯したりして、魔除けにする習慣が生まれたと言われています。

尤も、これには諸説あって、どの説が正しいかは、定まっていないようです。

ハロウィンは、キリスト教の行事ではありませんが、11月1日は、ローマ・カトリック教会では、亡くなった聖人たちを記念する日として、昔から守られてきました。

私たち、プロテスタント教会では、この「諸聖人の日」の趣旨を活かして、聖人ではなくて、召天された教会員や会友を覚えて、記念する日として守っています。

日本キリスト教団の教会歴では、11月の第1主日が、「聖徒の日、永眠者記念日」となっています。それで、多くの教会は、この日に、「召天者記念礼拝」を守ります。

しかし、私たち茅ヶ崎恵泉教会は、1週間前の10月の最終聖日に「召天者記念礼拝」を守っています。これは、「召天者記念礼拝」と同じ日に献げられる、墓前礼拝と関連しています。私たちの教会墓地は、湘南キリスト教墓苑にあります。

この墓苑は、11の教会が、共同で使っています。その内の多くの教会が、11月第1主日に、召天者記念礼拝を献げていますので、その日に、墓前礼拝を行うことを希望しています。それで、私たちは、それらの教会に譲って、1週間早く、墓前礼拝をすることにしたのです。

それから、もう一つ。私たち茅ヶ崎恵泉教会の創立記念日は11月7日です。この日に一番近い聖日に、私たちは「創立記念礼拝」を献げます。

今年は、11月4日に、小林誠治先生をお招きして、「創立記念礼拝」を献げます。この「創立記念礼拝」と、重ならないためにも、10月の最終聖日の方が、茅ヶ崎恵泉教会のスケジュール上、都合が良いのです。

さて、私たちは、昨年の「召天者記念礼拝」で、183名の方々を、覚えさせて頂きました。今年は、新たに3名の方々が、この天の教会員名簿に加えられました。

樋口輝夫兄弟、濱田早苗姉妹、上田テル子姉妹の3名です。今年は、これら3名の方々を加えて、186名の方々を覚えて、この礼拝を、ご一緒に守っています。

今朝ここにおられる方々の多くが、これら186名の方々と、何らかの繋がりを持っておられる方々です。

或いは、この名簿にある方々との繋がりはなくても、私たちは、皆、愛する人、親しい人を、天に送ったという、経験を持っています。

父、母、兄弟、姉妹、或いは子供、祖父、祖母、恩師、友人など、愛する人との別れを、経験しています。そして、愛する人を失った悲しみ、淋しさを味わっています。今朝、私たちは、その悲しみ、淋しさを、今一度、噛みしめています。

しかし、また同時に、私たちは、この礼拝で、心の奥底に、大切にしまっている、幸いな記憶をも、想い起こしているのではないでしょうか。

今は天に在る、父が、母が、妻が、夫が、兄弟が、姉妹が、そして子供が、私たちにしてくれたこと。愛する人から、語り掛けられた愛の言葉、愛の仕草。心の奥底に、大切にしまっていた、それらの記憶が、浮かび上がってくる時、私たちは、悲しみ、淋しさを超えて、懐かしい温もりを感じるのではないでしょうか。

そして、それは、愛する人たちが、この世に在った時、その人たちを、生かしてくださった、神様の愛を想い起すことに、繋がっていくのではないでしょうか。

愛する人たちが、主イエスと出会い、主イエスの愛に包まれ、主イエスに守られて、生きられた。その人たちを生かした、主イエスの愛。その愛が、私たちをも、包んでいくのです。

愛する人たちは、この地上に在った時、主イエスに抱き締められ、「わたしにとって、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」、という御声をきいたのです。そこから、生きる希望を、与えられたのです。

また困難の中で、「恐れなくても良い、私はあなたと共にいる。決して見捨てることはない」、という励ましの言葉を聞いたのです。それによって、立ち上がる勇気を、頂いたのです。

主イエスと、召された人たちとの、そのような愛の交わりが、私たちをも、包み込んで、私たちにも、希望を与えてくれた。それによって、私たちをも励まされた。そのような記憶を、想い起すことはないでしょうか。

今は亡き愛する人たちの思い出と、主イエスの御言葉が、重なり合うようにして、私たちに聞こえてくる。それを、私たちが、しっかりと捉え、心の耳で聞いていく。それこそが、私たちが、召天者記念礼拝を献げる、意味なのです。

召天者記念礼拝は、お寺で行う法要とは違います。お寺での法要は、亡くなった方の冥福を祈ることです。

しかし、召天者記念礼拝は、召された方のために行うのではありません。召された方は、既に、天において、神様の御懐に抱かれています。ですから、地上に残された私たちが、その方たちのために、何かをして差し上げる必要はないのです。

召天者記念礼拝は、遺された者たちのために、行なわれるものなのです。遺された者が、召された方の歩まれた道筋を想い起し、その方を生かしてくださった信仰に思いを馳せ、神様と故人の前に、今の自分の生き方を、顧みる時なのです。そして、これからの歩みを、神様と、故人に、約束する時なのです。

更には、召された方から受け継いだ信仰を、今度は、私たちが、子どもたちに伝えていく。そのことの大切さを、再確認する時なのです。

そのような思いをもって、この召天者記念礼拝を、献げていきたいと思います。

今朝与えられた、聖書の御言葉は、ヘブライ人への手紙13章14節から21節です。

このヘブライ人への手紙は、教会に対する、ローマ帝国の、厳しい迫害の最中に、書かれた手紙です。

しかし、迫害に身を縮めて、受け身の教会生活を送るのではなくて、むしろ積極的に出て行く生き方を、勧めています。

今朝の箇所の直前では、「わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか」、と呼び掛けています。

自分たちを保護してくれる陣地に、ただひたすら籠っているのではなくて、その外に出て行こうではないか、と勧めているのです。

しかし、それだけではなくて、同時に、この世に執着しない生き方をも、勧めています。この世への執着から離れて生きる、積極性。一見矛盾したような生き方です。

このような生き方は、一体、どのような基盤の上に、立っているのでしょうか。実は、それが、先に召された方々の、この世に於ける、信仰の基盤でもあったのです。

14節の御言葉は、その信仰の基盤について、語っています。「わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、来るべき都を探し求めているのです」。

この世に執着しない積極性。それは、この地上に、永続する住まいを持っておらず、天の都を探し求めている、という生き方なのです。

召された方々も、そして私たちも、天の都を目指して、旅をしている者なのです。来るべき都を、ひたすら求めて、この地上を、旅して生きる生き方を、生きているのです。

では、来るべき都とは、どこのことでしょうか。言うまでもなく、天にある神の都です。キリスト者とは、天にある神の都を目指して、この地上を、旅している者なのです。

今朝、私たちは、天に帰られた、お一人お一人のお名前を、深く味わいながら、そして、その方々を、身近に覚えながら、私たち自身も、旅する者であることを、今一度、しっかりと捉えたいと思います。

信仰の先達たちは、旅する者として、この地上の生を、生き貫かれ、天に帰られました。私たちも、旅する者として、来るべき都を求めて、この地上の生を、生きていきたいと思わされます。その時、初めて、私たちの口には、絶えず賛美が溢れ、善い行いと施しに、喜んで務めることが、できるようになるのだと思います。

続く17節の御言葉は、こう言っています。「指導者たちの言うことを聞き入れ、服従しなさい。この人たちは、神に申し述べる者として、あなたがたの魂のために心を配っています。彼らを嘆かせず、喜んでそうするようにさせなさい。」

この「指導者」という言葉ですが、今朝、私たちは、天に帰られた、私たちの愛する方々、お一人お一人を、この言葉によって、思い浮かべたいと思います。「指導者」という言葉を、「召された方」と置き換えて、読んでいきたいと思います。

私たちのことを、愛して下さり、優しい温もりを残して、天に帰られた方々。それは、ある人にとっては、父であり、或いは母であり、夫であり、妻であり、子供であるかも知れません。それらの愛する人たちは、今、天で、何をしているのでしょうか。

今朝の御言葉は、言っています。「この人たちは、神に申し述べる者として、あなたがたの魂のために心を配っています」。

私たちの愛する、召された方々は、私たちの魂のために、心を配ってくださっている、というのです。ここで、「心を配る」と訳されている言葉は、元々は「寝ないで見張っている」という意味の言葉です。「寝ずの番」をしている、ということです。

召された人たちは、私たちの魂のために、寝ないで見張ってくれている、というのです。天において、私たちのことを、心配していてくれているのは、勿論です。でも、心配してくれているだけでなく、寝ずの番をしてくれているのです。

召された人たちは、眠ることなく、私たちを見張っていてくださり、私たちのために、祈り続けてくれている。なぜ、そこまでしてくれるのでしょうか。

御言葉は、「神に申し述べる者として」、そうするのだと、言っています。私たちのために、神様に執り成しをする者として、いつも目覚めていなければならないのだ、と言っているのです。

私たちのための執り成し。それは、この地上に生きている時だけではないのです。この世の終わりの時に、私たちは、皆、主の前に立つことになります。その時に、何が起こるのでしょうか。私たち一人一人の歩みが、神様によって点検され、裁かれるのです。

しかし、その時、私たちは、決して独りではありません。先に召された人たちが、傍らに立って、私たちについて、申し述べてくれる、というのです。

弁護してくれるのです。それをするために、いつも目覚めて、心を配っていてくれるのです。

ですから御言葉は、先に召された人たちが、神様の前で、私たちのことを、喜んで弁護できるようにしようではないか、と呼び掛けているのです。

私たち一人一人のために、申し述べてくれるとき、召された方々が、嘆いたり、困ったりしたりしないようにしよう。いや、むしろ、喜んで申し述べることが、できるようにしよう。召された人たちの、悲しみの種ではなく、喜びの種となるように生きていこうではないか。

御言葉は、そう語りかけています。そして、そのためにも、召された人たちの思いを、受け入れて欲しい、と語っているのです。

召された人が、残された人のことを、神様に申し述べてくれる。そのことについての、心温まるエピソードがあります。

160年ほど前に、命を懸けて横浜に来た宣教師たちの中に、バラやブラウンという人たちがいました。

このバラやブラウンたちの、日本語の教師になった、矢野元隆という人がいます。この人は、江戸で、はり医者をしていた人です。

彼は、別に、キリスト教信仰に、興味があった訳ではなくて、ただ頼まれて、日本語を教えることになったのです。しかし、やがて聖書の和訳も、手伝うようになっていきました。

その矢野元隆が病を得ます。結核であったと言われています。1865年11月5日、明治維新の3年前です。矢野元隆は、遂に申し出て洗礼を受けました。

バラにとって最初の受洗者です。いえ、日本のプロテスタント教会の最初の受洗者です。

その一ヶ月後に、矢野元隆は召天しました。その死の少し前に、バラ夫妻は、矢野元隆を見舞いました。その時、矢野は、バラ宣教師にこう言ったそうです。

「私はもう直ぐ死にます。私はイエス様のところに行きます。そして先生、私は先に行って、先生たちの話を、イエス様にしておきます」。

まだ日本における伝道の道は、全く開けていなかったのですが、バラはこの言葉を聞いて、終生、日本に献身することを決意した、と伝えられています。

そしてバラは、その通りに、横浜ばかりでなく、西は岐阜県の中津川あたりまで、北は盛岡まで、伝道して歩きました。90歳近くになるまで、日本に留まって伝道を続けたのです。

バラには、多少うつ的な傾向があって、そのために、休養を余儀なくされるようなこともあったそうです。しかし、矢野元隆の遺言、「天国に行ったならば、神様にあなたのことを話します」、という言葉を聞いた彼は、途中で止めることができませんでした。そして、最後まで、その生涯を、日本における伝道のために、ささげることとなったのです。

このように、天国で、自分のことを、神様に申し述べてくれる人がいる。先に召された人が、寝ないで見守ってくれて、神様に、自分のことを執り成してくれている。この事は、私たちにとって、本当に大きな慰めであり、励ましです。

今は、既に天に帰られた、私たちの愛する人たち。その人たちが、この私のために、神様に執り成しをしてくれる。こんなに、力強いことはありません。

そのことを知ると、本当に喜びに溢れます。そして、その人たちが、喜んで、自分のことを、神様に執り成してくれるように、それに相応しい者になりたい、と思わされます。

召された人が、嘆きながら、冷や汗をかきながら、執り成しをするのではなく、喜び勇んで、私のことを、執り成してくれる。そういう者に、なりたいと思います。

そして、更に、私たち自身も、やがて天に帰り、私たちの後に続く人たちのために、神様の前に立って、執り成す者になるのです。

私たちは、自分の愛する子どもたちや孫たちのために、良き弁護者として、神様の前に、立つことができる者に、なりたいと思います。

あなたが、そんなに喜んで、執り成しをするのなら、私も喜んで、この人を受け入れよう。神様がそう言ってくださるような、執り成し手になりたいと思います。

この手紙は、20節、21節に「祝福の言葉」を述べて結んでいます。

この祝福の言葉は、「羊の大枚者の祝福」、と呼ばれているもので、元旦礼拝の祝祷として、祈られることもありますし、結婚式の最後の祝祷として、祈られることもあります。更には、葬式の最後に、祈られる祝祷でもあります。私が葬儀を司式する時は、必ずこの言葉を、祝祷として最後に祈ります。物事のスタートにおいても、締め括りにおいても、祈られる祝祷なのです。

今朝は、最後に、この祝祷に込められた恵みを、ご一緒に味わいたいと思います。

「永遠の契約の血による羊の大枚者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。」