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過去の礼拝説教

「神がそうなさるのです」

2018年11月18日 聖書:使徒言行録 11:1~18

暫く離れていましたが、また使徒言行録に戻ってまいりました。

既に、10章まで読み終わっていますので、今朝から11章に入ります。この11章は、10章の続きであると言えます。

10章には、カイサリアにいるローマの百人隊長コルネリウスが、ペトロが語った神様の言葉を聞いて、バプテスマを受けた出来事が、記されていました。

コルネリウスは、ローマ軍の百人隊長です。ですから、当然、異邦人です。

カイサリアに住む異邦人が、神の言葉を信じて、洗礼を受けたのです。

この知らせは、直ぐにエルサレムにも伝えられました。

そして、私たちには、想像も出来ないほど、エルサレム教会に、大きな衝撃を与えました。

ただ残念なことに、それは、喜ばしい衝撃ではありませんでした。

受洗者が、与えられたのです。ですから、それは当然、大きな喜びの知らせとして、受け取られたに違いない。私たちなら、そう思います。今、この時も、来月に迫ったクリスマスに、受洗者が与えられるようにと、多くの教会員が、熱心に祈ってくださっています。

でも、当時のエルサレム教会の人々にとっては、この知らせは、喜びよりも、戸惑いや、反発を呼び起こすものであったのです。

エルサレム教会のユダヤ人クリスチャンたちは、主イエスは、ユダヤ人のための救い主である、と信じていました。ユダヤ人は、選ばれた神の民であって、主イエスの福音の恵みに与れるのは、割礼を受けたユダヤ人のみである、と信じていたのです。

ですから、主イエスの福音を、異邦人に伝えることなど、考えてもいませんでした。

まして、異邦人にも聖霊が注がれて、彼らもその救いに、入れられることなど、あり得ないことだ、と思っていたのです。ですから、カイサリアでの出来事を、知らされた時は、それこそ、天と地がひっくり返るような、驚きを覚えたのです。

彼らは、主イエスを救い主と信じる、信仰を得た後も、依然として、ユダヤ人の伝統の中で、生きていました。神の民のしるしである割礼を重んじ、安息日を厳格に守り、律法で清いとされている食べ物のみを食べ、清くないとされた食べ物は、断固として避けていました。

更に彼らは、汚れた食べ物を食べている異邦人も、汚れた者と見做していました。

そして、その汚れが、自分に移らないように、異邦人との交際を避けていました。

異邦人の家に入って、食事を共にすることは、決してしませんでした。

ユダヤ人と異邦人の間には、そのような大きな、隔ての壁があったのです。

ですから、ペトロが、その壁を乗り越えて、異邦人の家の客となって、主イエスの福音を宣べ伝えたことは、驚くべきことだったのです。

いえ、驚くべきこと、というよりは、非難すべきことであったのです。彼らの非難は、ペトロが、「割礼を受けていない、異邦人のところへ行って、一緒に食事をした」、ということでした。

彼らにとって割礼は、ユダヤ人と異邦人を区別する、重要な印でした。

また、「一緒に食事をする」ことは、深い交わりの印です。ですから、異邦人の家に入ることも、また一緒に食事をすることも、禁止していたのです。

ペトロは、その掟を破っています。エルサレム教会の人々は、そのことを非難したのです。

エルサレム教会の仲間たちから、このような非難を受けて、ペトロは、事の次第を、順序正しく説明しました。5節から17節まで、ペトロの説明の言葉が続きます。

その内容は、私たちが、既に10章において、読んだ事柄と同じです。

ペトロは、心を込めて、順序正しく、丁寧に説明しました。

兄弟たち、聞いてください。私は、ヤッファの町で、祈りをささげていた時、まことに不思議な幻を見たのです。

大きな布が天から、私の前に吊るされてきたのです。そして、その中には、清くない動物たちが、たくさん入っていました。すると「これを屠って食べなさい」、という声が聞こえました。

私は、「清くない物は食べられません」、と断りました。

しかし、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」、という声が聞こえたのです。そんなやり取りが、三回も繰り返されました。

この幻の意味は、一体どういうことなのだろうかと、思いめぐらしていると、まさに丁度その時、カイサリアから、コルネリウスという人の使いが到着したのです。

そして、聖霊の導きによって、私は、さっき見た幻の意味を知りました。

あの幻は、汚れていると見做して、交わろうとしない、異邦人を訪ねて、彼らにも、福音を宣べ伝えなさい、ということであったのだ。そのことを悟ったのです。

そこで、聖霊に促されて、コルネリウスの家を、訪ねました。

すると、まことに不思議なことに、コルネリウスもまた、ヤッファにいる私を招くようにとの、神様からの啓示を受けたので、私を招いたことが分りました。

もっと驚いたことは、私が、キリストの十字架と復活について、語り始めますと、それを聞いていたコルネリウスや家族の上に、聖霊が降り、なんと彼らが、神を賛美しだしたのです。

そのことを確かに見た上は、もはや彼らに、バプテスマを授けるのを、ためらう理由はありませんでした。

神様ご自身が、彼らに、私たちと同じように、聖霊の賜物を、お与えになったのです。

そうであるなら、私のような者が、どうしてそれを、妨げることができるでしょうか。

このようにペトロは、事の次第を、順序正しく、しかし、熱い思いをもって、説明しました。

実は、この出来事に、最も驚いたのは、他ならぬペトロ自身でした。彼は、その驚きの体験を、エルサレム教会の仲間たちに、心を込めて語ったのです。

ペトロは、実際に見たこと、聞いたことを、何の修正も加えずに、そのまま語りました。

実は、これが、神様に用いられる時の、私たちのあるべき姿なのです。

私たちが、神様の御業を伝える時には、自分が見たこと、聖書から聴いたこと、或いは、自分の身に起こったことを、そのまま、ありのままに、伝えれば良いのです。

理屈ではなくて、ただ事実を示せば良いのです。

それには、「順序正しく」、実際に起きた出来事を、そのまま話すのが、何よりも説得力を持ちます。自分の頭で考えた理屈よりも、実際に起こったことを、そのまま伝える方が、力強いメッセージとなるのです。

ヨハネによる福音書の9章には、生まれながらに、目が見えなかった男の人が、主イエスによって、目を見えるようにして頂いたという、奇跡物語が記されています。

その奇跡が行われたのは、安息日でした。ファリサイ派の人々は、「安息日に、そのような医療行為を行ったことは律法違反だ、一体誰が、そんなことをしたのか」、とその男を問い詰めました。その時、その男の人は、堂々として言いました。

「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」

この力強い言葉に、ファリサイ派の人々は、何も返すことができませんでした。

主の恵みの出来事。その事実を、ありのままに伝えること。それ以上に、力強い証しはないのです。事実の前には、どのような反論も、成り立ちません。

主は、私たちが、論客になることなど、期待してはおられません。論客になるのではなくて、証人になって、事実をありのままに伝えることを、期待しておられるのです。

是非聞いてください。主は、私に、こんなことをしてくださいました。これは事実なのです。

このような証しこそを、主は求めておられるのです。

ですから、私たちは、口下手でも良いのです。ただ恵みの事実を、紹介すれば良いのです。

12節を見ますと、ペトロに同行して、コルネリウスを訪ねた弟子たちは6人でした。

ペテロを入れると7人です。これも、神様の、不思議な御配慮だと、思わざるを得ません。

というのは、当時よく知られていた、エジプト法やロ-マ法では、訴訟や遺言状などの署名には、7人の証人を必要とする、という決りがあったのです。

そして、ここにも、事実を目撃した、7人の証人がいたました。この事が、ペトロの説明を立証するのに、有効であったのは間違いないと思います。

福音の前進のために、神様は、本当に、不思議なことをなされるお方なのです。

ペトロが、異邦人コルネリウスを訪ねて、伝道したということは、ユダヤ人の常識に反する行為でした。その上、異邦人に、洗礼まで授けたというのは、ユダヤ人クリスチャンにとっては、大変な暴挙であると思われました。

ユダヤ人クリスチャンの考えでは、救われるためには、神の民のしるしである割礼を、まず受けなければ、ならなかったからです。

割礼を受けていないような人が、救われる筈がない、と彼らは思い込んでいたのです。

しかし、神様の御心は、全く違っていました。神様の御心は、世界中のすべての人々が救われることでした。

人種や、国籍や、階級や、性別にかかわりなく、すべての人を、救うことでした。

あの進化論で有名なダーウィンが、南太平洋のある島を、訪れた時のことです。

その島の原住民は、原始時代さながらの、生活をしていました。家らしい家もなく、畑を耕すこともせず、果物や魚を採取して、まるで獣の様に、その日暮らしの生活をしていました。

それを見て、ダーウィンは、この島の住人は、猿から人間への進化から、取り残されている。彼らが進化して、人間らしく生きることは、全く期待できないと言って、その島を離れました。

しかし、その島を、何人かの宣教師が、訪れました。宣教師たちは、命懸けで福音を伝え、彼らの生活を導きました。

キリスト教の布教だけでなく、作物を作ることを指導し、家を建てさせ、一つずつ社会を作り上げていきました。

住人たちは、キリストを信じ、宣教師の教えに従って、徐々に生活を整えていきました。

やがて、そこに、立派な村ができ、教会が建ち、共同体が作り上げられました。

かなりの年月が経って、ダーウィンは、最晩年に、その島を再び訪れました。

そして、全く変わっている島の姿を見たのです。進化から取り残されていて、人間らしく生きる希望はない、と見放した人たちが、立派に共同生活を営み、農耕生活をしていました。

ダーウィンは、この時、自らの進化論に、疑問を持ったと、伝えられています。

まるで、猿のような生活をしていて、進化から取り残されている、と思われた人たちが、キリストの福音によって、見事に変えられているのを、ダーウィンは見たのです。

ダーウィンが、死の床についていた時、知り合いの婦人が、彼を訪ねました。

婦人は、ダーウィンが、熱心に聖書を読んでいるのを見て、驚きました。

かつて無神論者であったダーウィンは、進化論について、こう言ったそうです。

「あれは、若い者が考えるような、未熟な論理ですよ」。

そして彼は、その婦人に、主イエスの救いについて、教えてくれるように頼んだそうです。

ダーウィンが、進化以前の原始人とまで言った、その島の人たちのことを、神様は、決して見捨ててはおられなかったのです。彼らを救うことが、神様の御心だったのです。

この世の誰一人として、救いの招きから、洩れている人などいないのです。

そのことは、17節の御言葉にも、よく現れています。「こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか」。

コルネリウスを救いに導いたのは、ペトロではなく、神様御自身であったのです。

ですから、ペトロは、それを妨げることなど、到底できなかった、と言っているのです。

ユダヤ人と同じように、神様は、コルネリウスをも、救いに入れようとされていたのです。

それが、神様の御心だったのです。

「私のような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか」。

このペトロの言葉は、至極、当然のことと思われます。神様のなさることを、私たちが妨げることなど、出来る筈がない。私たちは、皆、そう思っています。

しかし、私たちは、無意識のうちに、神様のご計画を、妨げていることはないでしょうか。

あの人は、何度言っても、信じようとしない。あの人には、伝道しても無駄だ。

そう言って、伝道を諦めてしまっている。その人を、切り捨ててしまっている。

そういうことはないでしょうか。今一度、振り返ってみたいと思います。

ユダヤ人クリスチャンたちは、異邦人は神様の救いの対象ではないと、初めから思い込んでいました。

しかし彼らが、ペンテコステの時に受けたのと、同じ聖霊が異邦人にも与えられたのです。

そこまで神様がなさるなら、「どうして私などが神のなさることを、妨げることができましょう」。このペトロの言葉を聞いて、彼らは、自分たちが、間違っていたことを、知らされました。

では、このペトロの話を聞いた、エルサレム教会の人たちは、どうしたでしょうか。

18節です。「この言葉を聞いて人々は静まり、『それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ』と言って、神を賛美した」。

彼らは、まず静まりました。沈黙したのです。そして、その次にしたことは、神を賛美することでした。

全ての人を救いたい。この神様の御心を示された時、人は深い感動に包まれ、沈黙します。

そして、その沈黙は、やかて、賛美に変えられていきます。

命を懸けて、私たちの罪を赦し、救いへと導き入れようとされる、神様の愛。

その大いなる愛に迫られた時、私たちのちっぽけな心は、ただ沈黙して、神様を賛美せずにはいられなくなります。

こうして、ユダヤ人クリスチャンたちも、異邦人が、主イエスを信じて、その救いに与ることを、ようやく認め、受け入れたのです。漸くです。

しかし、神様が、異邦人をも、救いに入れて下さるという御心は、実際には、もっと前から示されていました。

フィリポが、エチオピアの宦官に伝道し、彼が主イエスを信じた、という出来事もそうです。

或いは、復活された主イエスが、弟子たちに、「あなたがたは、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」、と言われた御言葉にも、既にその御心が示されていました。

更には、クリスマスの夜、遠い東の国から、占星術の学者たちが、ベツレヘムを訪れ、幼な子イエス様を礼拝した話も、そのことを示しています。この学者たちは、異邦人です。

それは、主イエスが、異邦人をも、救ってくださる、まことの王であることを、示しています。

このように、神様の御心は、主イエスの誕生の時に、既に示されていたのです。

神様は、ずっと先へ進んでおられるのに、教会の人たちの意識が、なかなかそれに、追いついて行けなかったのです。

18節は、その神様の御心を知らされ、その御業を賛美している、彼らの言葉です。

「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ。」

この言葉は、口語訳聖書では、「命にいたる悔改めをお与えになった」、と訳されていました。この方が、原語のニュアンスに近いと思います。私たちの悔い改めは、命に至る悔い改めなのです。ちょっと後悔する、というような、軽いものではないのです。

滅びから、永遠の命に向かって、完全に向きを変えることなのです。

そして、その悔い改めさえも、神様が与えてくださったものなのです。

悔い改めというと、自分の意思で行うこと、自分の気持ちの変化であると、思いがちです。

しかし、実は、悔い改めとは、神様が、与えてくださる恵みなのです。

ですから、真実の悔い改めとは、自分には、何の資格も、功績もないのに、ただ一方的な恵みによって、こんな自分が救われたという事実の前に、完全に砕かれることなのです。

マルティン・ルターは、「神は、キリスト者の全生涯が、悔い改めであることを欲し給う」、と語っています。私たちは、神様が、私たち一人一人に、命に至る、まことの悔い改めを、日々与えてくださるように、祈り続けたいと思います。

この悔い改めを通して、私たちは、教会の聖なる交わりに、招かれているのです。

ですから、私たちの悔い改めも、救いも、教会の交わりも、全てが徹頭徹尾、神様の御業なのです。

何の功もない私たちに、そのような恵みの賜物を与えてくださった神様に、心から感謝したいと思います。

どうか、茅ヶ崎恵泉教会が、キリストの教会以外の、何ものでもなく、ただキリストの教会であることができますようにと、共に祈っていきたいと思います。