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過去の礼拝説教

「すべての人を救う恵み」

2018年12月23日 聖書:テトスへの手紙 2:11~15 ルカによる福音書 5:1~11

ある教会で、教会員たちが「クリスマスって、どういう時なのだろうか」、と議論していました。

大人たちが、色々な意見を言っているのを、じっと聞いていた、小さな子が言いました。

「みんな違うよ。クリスマスって、『主は来ませり、主は来ませり』って、歌う時だよ」。

何と素晴らしい結論でしょうか。それを聞いて、大人たちは、「あぁ、そうだ。クリスマスとは、主イエスが、この世に来てくださった出来事なのだ。そのことを、素直に喜び、感謝する時なのだ」、と改めて教えられたそうです。

その子が言った通りなのです。「主は来ませり」と、心から喜び歌うなら、その時こそが、恵みの時、クリスマスなのです。

「主は来ませり」。クリスマスは、主イエスが、私たちのところに、来てくださった時です。

私たちが、イニシアティブを取った出来事ではありません。主イエスの方から、私たちに近づいてくださり、私たちのところに来てくださった出来事。それが、クリスマスです。

主イエスは、ご自身の方から、私たちに、近づいて来てくださいました。今も、私たち、一人一人に、近づいてくださっています。

「私は、あなたを愛している。だから、あなたと共にいたい。この辛く、厳しい世の中だからこそ、あなたと共に歩みたい」。 主イエスは、そう言われて、近づいて来てくださるのです。

先ほど読んでいただいた、ルカによる福音書5章1節から11節にも、近づいてこられる、主イエスのお姿が、書かれています。

ここには、ガリラヤ湖の漁師たちが出て来ます。シモン・ペトロと、ゼベダイの子ヤコブとヨハネたちです。聖書には、書かれていませんが、シモン・ペトロの兄弟のアンデレも、その場に一緒にいたと思われます。

彼らは、一緒に漁に出て、一晩中働きました。でも、その夜は、一匹も取れなかったのです。

シモンも、彼の仲間たちも、疲れ切っていました。徹夜しても、たくさんの漁があれば、その疲れも忘れるかもしれません。でも、何も取れず、徹夜の仕事は、徒労に終わってしまったのです。

彼らは、惨めで、空しい思いに、覆われていました。今は、ただ網を洗って、早く家に帰って眠りたい。その一心であったと思います。

そういうシモンのところに、主イエスの方から、近づいて来られました。

早く家に帰って休みたい。でも、網だけは、洗っておかなければならない。空しい思いの中で、疲れた体を励ましながら、黙々として仕事をしている。

そんなシモンに、主イエスは近づかれて、「その舟を貸しておくれ」、と語り掛けられます。

主イエスというお方は、私たちの、そういう場面に、入り込んで来られる、お方なのです。

シモンが、主イエスを招いたのではありません。主イエスが、シモンに近づかれたのです。

私たちに対してもそうです。何もかもうまくいかなくて、ただ空しい思いに、打ちひしがれている。そんな私たちに、主イエスの方から、近づいて来られ、私たちの、空しい心の中に、入り込んでくださるのです。

そして、あなたと一緒にいたい。一緒にいさせて欲しい、と語り掛けてくださるのです。

今朝、皆様のお手元に配られた、「恵泉」の巻頭言にも、同じようなことを、書かせて頂きました。そこには、徴税人のザアカイ、という人のことが、書かれています。

エリコの町で、皆から嫌われて、空しい思いをしているザアカイに、主イエスの方から近づかれて、「今夜、是非、あなたの家に泊まりたい。いや、あなたの家に、泊まらなければならない。それが、私の願いなのだ」、と言われたのです。

その主イエスを、迎え入れた時、ザアカイの生き方は、全く変えられました。

クリスマスは、主イエスが、「是非、あなたの心に、宿りたい」と言われて、来てくださった出来事です。

その主イエスを、「どうぞおいでください」、とお迎えする時、私たちの人生が変わります。

主イエスは、シモン・ペトロに、近づいていかれました。そして、ペトロの船に乗り込まれて、そこから、岸にいる群衆に説教されました。

舟を操っていたシモンは、図らずも、主イエスのすぐ傍らで、説教を聞くことになりました。耳元で語られる、主イエスの御言葉が、シモンの疲れた体と心を、癒していきました。

説教を終えられた主イエスは、シモンに、「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」、と言われました。

「私と一緒に、もう一度、沖へ漕ぎ出そうではないか。そして、私が示す場所に、網を降ろしてごらんなさい」。主イエスは、シモンに、こう言われたのです。

これは、漁師のシモンから見れば、愚かなことのように思えました。彼は、漁をするのに、最も都合のよい夜に、徹夜で働いたのです。でも、熟練したプロの漁師が、ここだと思う漁場に、網を降ろしても、何も取れなかったのです。

この時、シモンには、いくらでも、断る理由がありました。今日は、魚はいません。それに、もう疲れ果てています。またの時にしましょう。

いくらでも断れたのです。でも、シモンは答えて言います、「しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。彼は、「お言葉ですから」、と漕ぎ出して行きます。

しかし、そこで、シモンは、驚くべき大漁を経験したのです。彼が見たのは、信じられないような、おびただしい量の魚でした。あまりにも収穫が多くて、舟が沈みそうになったのです。

シモンは、その大漁に、恐れを抱きました。全身を貫くような、戦慄に襲われて、シモンは身を震わせました。

この時、シモンが言ったのは、ただ一言です。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」。良く考えると、これは、私たちの常識に、反する言葉です。

シモンは、自分が、今、まさしく、神の前にいることを、知らされたのです。

そうであれば、「主よ、私から離れずにいてください。どうか、私の傍にいて、私を守ってください」、と言うべきところです。

「神様、いつも、私の傍にいてください」。普段、私たちは、そう願います。でも、この時、ペトロは、正反対のことを言いました。そう言わざるを、得なかったのです。

まことの神様の前に、今、私は立っている。その時、シモンの心に、迫って来たのは、自分の罪深さでした。

聖なるお方の前に立った時、自分の汚れが、否応なしに、示されるのです。

自分は、このお方の前に立つことを、許されるような者ではない。聖なるお方の前にいるのに、相応しい者ではない。そのことを、示されたのです。

ですから、「わたしから離れてください」、と言わざるを、得なかったのです。

「わたしから離れてください、わたしは罪人だからです、主よ」、原文はこのような順序です。

「主よ」、という言葉は、最初ではなく、最後に出てくるのです。一番言いたかったことは、私から離れてください、ということです。

主よ、あなたの御力、あなたの聖さに、触れた時に、自分が、どんなに汚れているかが、よく分かりました。ですから、「主よ、わたしから離れてください」と、シモンは言いました。

しかし、また、同時に、「だからこそ、主よ、あなたが、共にいてくださらなくては、私たちには、希望はないのです」、ということも、知らされました。

「主よ、離れてください。罪深い私から。いえ、主よ、行かないでください。共にいてください。私を見捨てないでください」。何とも、矛盾した願いです。

しかし、シモンだけではありません。私たちは、皆、こう叫ばずにはいられません。

「主よ、離れてください。いえ、主よ、行かないでください。私たちのところに、来てください」。この矛盾した願いが、私たちの祈りなのです。

私たちは、あの家畜小屋のように、暗く、冷たく、汚れています。主イエスをお迎えする、私たちの心は、飼い葉桶のように、粗末で、堅くて、汚いのです。

ですから、私たちは、主イエスを、お迎えできるような者ではありません。しかし、また、主イエスに、来ていただかなければ、救われる希望のない者なのです。

ですから、「主よ、離れてください。いえ、主よ、どうか、私たちのところに、来てください」。私たちは、この矛盾した祈りを、叫ばざるを得ないのです。

主は、この祈りに応えてくださって、最も高い所、最も聖い所から、最も低い所、最も卑しい所に、降りて来てくださいました。

そして、十字架において、私たちの罪や汚れを、すべて代わって負ってくださいました。

罪に汚れた私たちは、神様を恐れます。神様を恐れて、「どうか、私から離れてください」、と叫びます。

しかし、そこで、主イエスの、この御言葉が響きます。「恐れることはない」。

主イエスがシモンに言われた、この言葉は、クリスマスのキーワードの一つでもあります。

天使は、マリアに、「恐れることはない」、と言いました。羊飼いにも、「恐れるな」、と呼び掛けました。そして、祭司ザカリアにも、「恐れることはない」、と告げました。

「恐れることはない」。この言葉は、あなたの罪を赦す、という意味を含んでいます。

主イエスは、言われています。「私は、あなたの罪を全て引き受け、それを背負って、十字架に死んだ。それによって、あなたの罪は、もう赦されている。

だから恐れることはないのだ。もう、あなたは、私から、遠く離れていなくても良いのだ。大胆に、近づいて良いのだ」。主イエスは、そう言っておられるのです。

主イエスは、このために、飼い葉桶に生まれてくださり、十字架への道を、歩んでくださったのです。それが、クリスマスの出来事なのです。

クリスマスは、最も高い所におられたお方が、最も低い所に、来てくださった出来事です。最も栄光に満ちたお方が、最も暗く、汚く、冷たい所に、来てくださった出来事なのです。

先程、もう一か所、テトスへの手紙2章11節以下を読んで頂きました。

2章11節はこう言っています。「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました」。この御言葉は、クリスマスの出来事を、語っています。

主イエスが、飼い葉桶に生まれてくださった。それは、すべての人を救う、神の恵みが現れた出来事なのだ、と言っているのです。

「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました」。

ここにある「現れた」という言葉は、「太陽が闇を破って昇って来る」ことを表わす言葉です。夜明けに、太陽が昇ってきます。その時、次第に闇が白み始めます。

しかし、一旦太陽が、ちょっとでも、山の端から出てきますと、パァ一つと光が差し込んで、一瞬にして闇は破られて、朝の光が広がります。そのように、これは、「突然輝き出る」、という意味の言葉なのです。

主イエスが、この世に、来てくださった。それは、暗闇を突き破って、突然、朝日が昇るように、神様が私たちに、救い主を遣わしてくださった、いうことなのです。

クリスマスの出来事は、闇を打ち破る、光の出来事なのです。なぜなら、それによって、すべての人が救われるからです。主イエスを、救い主と信じた人は、誰でも救わるのです。

神様は、この救いのご計画を、長い間、ご自身の中に、育んで来られ、その時を、忍耐強く待ってくださいました。

そして、まさに「この時」、というタイミングで、実現してくださったのです。

何とかして、人間を救いたいという、神様の熱い思いが、この時に、一気にほとばしり出るように、実現したのです。ここに、神様の、思いと力が、結集して現れたのです。

「ハドソン川の奇跡」、と呼ばれている出来事があります。

今から10年ほど前2009年1月15日、3時26分に、ニューヨークのラガーディア空港を飛び立った、USエアウェイズ1549便は、離陸直後に、ガンの群れに遭遇しました。

両方のエンジンに、同時に鳥が巻き込まれるという、極めてまれなバードストライクによって、二つともエンジンが停止し、飛行高度を維持することが、出来なくなりました。

サレンバーガー機長は、空港への着陸を目指しましたが、高度と速度が低すぎるため、それは不可能と判断しました。

そこで機長は、市街地への墜落を防ぐため、ハドソン川への緊急着水を決意しました。

着水時に、機体が少しでも傾いていれば、飛行機は水面に衝突して、分解してしまいます。無事に着水することは、高度の操縦技術を必要とする、極めて難しい仕事でした。

トラブル発生から僅か3分後、飛行機は、ニューヨークのマンハッタンとニュージャージー州の間に流れるハドソン川へ、時速270kmで滑るような着水をしたのです。

スムーズな着水により、機体の損傷は、最小限に抑えられました。そして、乗客155人全員が、脱出シューターや、両方の主翼の上に、避難することができたのです。

全員の救助を、未届けたかのように、事故機は、着水から1時間後に、水没しました。

人々は、この事故を、「ハドソン川の奇跡」、と呼んで、称賛しました。

何故、この事故の事を、長々とお話ししたかと言いますと、この事故は、クリスマスの出来事と、重なる部分があるように、思われるからです。

この飛行機は、通常は、一万メートルの高度で、飛行していました。地上からは、目に見えない程の、高い空を飛ぶべき飛行機であったのです。

その飛行機が、最も低いハドソン川に、着水したのです。そして、すべての乗客155人の命を救った後に、その飛行機は、冷たい川底に、沈んでいきました。

限りない高みにおられた、神の独り子が、最も低い所にお生まれになって、そして、全ての人を救うために、十字架にその命を献げてくださった。

私には、この飛行機は、主イエスを、象徴しているように思えるのです。

川に着水すれば、いずれ沈んでしまうことは分かっている。しかし、乗客の命を救うためには、それしか方法がない、だから、敢えて、ハドソン川に着水し、全ての乗客の命を救った。そして、その僅か一時間後に、飛行機は、川底に沈んでいった。

この飛行機と、主イエスのお姿とが、重なって見えるのです。

私たちは、神様が操縦する、主イエスという飛行機に乗って、命を救われたのです。

しかし、主イエスは、そのために、冷たい川底に、沈んでいかれました。

この飛行機を操縦していた、サレンバーガー機長は、操縦歴42年の大ベテランでした。

彼は言っています。「それまで、私は、42年間も、操縦技術を学んで来た。様々な、厳しい訓練を受けて来た。どんな時にも、備えられるように、経験を積んできた。

その様な、42年間の厳しい訓練と、様々な経験を通して、私は、大きな貯金を蓄えてきた。

その貯金が、この時に、一気に引き出されたのだ。」

今まで、営々として、積み上げてきた、経験と技術が、この時に、一気に発揮されて、このような奇跡を生むことができたのです。

クリスマスも、そのような時です。人間は、神様から与えられた、たった一つの約束さえも、守ることができず、罪を犯してしまいました。

そのため、神様との間の、麗しい関係が崩れ、人間は神様の許を、離れなければならなくなったのです。

しかし、神様は、人間が、罪を犯して、離れていった、その日から、ずっと、人間との関係を、回復することを願って、おられたのです。

ですから、様々な事を通して、人間を御許に呼び戻そうとされました。

様々な歴史の出来事を通して、神様のご支配を、解らせようとされました。

或いは、自然の力を通して、ご自身の御力を示され、人間に語り掛けられました。

そして、何度も預言者を遣わされて、御言葉を伝えました。でも、人間は、神様に立ち帰らなかったのです。

とうとう最後に、神様は、最愛の独り子を、この世に送られました。私たちに代って、御子を十字架につけることによって、立ち帰ろうとしない私たちを、赦してくださるためです。

神様が、歴史の初めから、ひたすらに願われ、計画された、救いの御業が、一気に、爆発するかのように、実現した愛の奇跡。それがクリスマスなのです。

サレンバーガー機長の42年の経験と技術が、一気に引き出されて、ハドソン川の奇跡が生まれました。

それとは、全く次元が異なりますが、歴史が始まって以来の、神様のひたすらな願いと熱い思いが、一気に実現したのが、飼い葉桶の奇跡とも言うべき、クリスマスの出来事なのです。まさに、この時に、神様の救いの出来事が、私たちに、もたらされたのです。

御言葉は告げています。「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました」。

この神の恵みを、心から感謝し、共に喜んでまいりたいと思います。