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過去の礼拝説教

「思いもよらない救い」

2018年12月30日 聖書:使徒言行録 13:13~43

使徒言行録13章と14章には、「パウロの第一回伝道旅行」、と呼ばれている出来事が記されています。

しかし、この旅を、出発当初から、「パウロの伝道旅行」、と呼ぶのは、正しくありません。

出発した当初、リーダーシップを取っていたのは、バルナバの方でした。バルナバが主役で、パウロは補佐役として、旅立ったのです。

ですから、今までの箇所では、すべて「バルナバとサウロ」というように、バルナバの名前が、先に出ていました。

ところが、今朝の御言葉の13節を見ますと、「パウロとその一行は」、と書かれています。

また14節にも、「パウロとバルナバは」、とあります。今までとは、順序が逆転しています。

これは、この伝道旅行のリーダーシップが、バルナバからパウロに、移って行ったことを、示しています。おそらく、キプロス島における、パウロのめざましい活躍で、自然とそのようになっていったのだと思います。

それで、これ以降は、パウロの名前が、先に出るようになり、「パウロの伝道旅行」、と呼ばれるようになっていったのです。

さて一行は、キプロス島のパフォスから船出して、北へ向かい、パンフィリア州のペルゲという港に入りました。その時に、一つの出来事が起こりました。

助手として連れて来た、マルコとよばれていたヨハネが、一行から離れて、エルサレムに帰ってしまったのです。その原因はよくわかっていません。

ある人は、ヨハネは、自分の従弟の、バルナバについて来たのに、リーダーが、パウロに替わってしまったので、不満を持ったのではないか、と考えています。

また、そうではなくて、単なるホームシックに、罹ったのだ、という人もいます。

或いは、パウロとバルナバが、これからの伝道計画を、話し合っているのを聞いて、これは、極めて困難な旅だと知って、恐れをなして、身を引いてしまったのだ、という人もいます。

私は、この三番目の理由が、一番あり得るシナリオだと思っています。ヨハネは、これから予想される、伝道の厳しさに、とてもついていけない、と思ったのではないでしょうか。

例えば、二人は、ペルゲから、ピシディア州のアンティオキアに行く、計画を立てました。

ペルゲから、ピシディアのアンティオキアまでは、直線にして約150キロの距離です。

しかし、その道のりは、決して容易いものでは、ありませんでした。

そこには、二千メートル級の山々が連なる、タウロス山脈がそびえ立っていたのです。

ですから、険しい山々を越え、谷を下り、飢えや寒さと戦いながら、歩いて行かなければなりませんでした。しかも、途中の山道には、山賊たちも潜んでいた、と言われています。

でも、パウロとバルナバは、そのような厳しい状況を、まるで気にしていないかのように、回り道などせずに、真っ直ぐに進んで行こうと、話し合っていました。

その様子を見て、若いヨハネは、この二人について行ったら、いずれ命を失ってしまうかもしれないと、不安を覚えたのではないでしょうか。ですから、帰ってしまったのだと思います。

キリスト教系の旅行会社が企画する、「聖書の旅」の定番の一つに、「パウロの足跡を辿る旅」があります。その旅行に参加した人は、口を揃えたように、同じことを言います。

「私たちは、快適な冷暖房付きのバスで、各地を訪ねましたが、パウロたちは、この険しい旅路を、全て歩いたのです。どんなにか、辛く厳しい旅であったことだろうか、と思います。

でも、ただ福音を伝えたい。一人でも多くの人を救いたい。その一心で、歩き続けた。

その事を思うと、胸が熱くなります。そして、そのような伝道のお蔭で、今、私たちにも、福音が届けられたことに、感謝の思いが込み上げてきます。」

パウロとバルナバの旅は、私たちの想像を絶するような、厳しい旅だったと思います。

しかし、このような苦難は、多かれ少なかれ、いつの時代にも、あります。

でも、だからといって、その苦難を避けていたのでは、「すべての国民を弟子にせよ」という、主イエスの宣教命令に、応えることは出来ません。神の国の建設は、進展しません。

現代においても、伝道に命を賭けている、宣教師の先生方がおられます。

かつて、エスキモーと呼ばれていた人々は、今は、イヌイットと呼ばれていますが、カナダのイヌイット伝道のために、北極圏へ出かけて行かれた宣教師が、多くおられました。

その中に、日本人の婦人宣教師がいました。鈴木教子(のりこ)という先生です。

言葉もわからないまま、宣教師として送られて、村人からどんなに拒絶されても、決して諦めることなく、極寒の村々を訪れ、伝道しました。

水道や電気が、当たり前ではない状況で、村の人たちに、振り回されながら、それでも彼らを、「わが愛しの人々」と呼んで、暖かく包んでいきました。

先生が67歳になられたとき、所属する教団は、ご高齢を理由に、引退を強く勧めました。

しかし、鈴木宣教師は、「それでは、教団の支援なしに、一人で行きます」と言って、再び極寒の地に、単身で赴任されました。まさに、命懸けの伝道です。

このイヌイット伝道を、最初に始めた、一人の宣教師の物語を、読んだことがあります。

その宣教師が赴任して、数年経った時、その地方にひどい飢饉がありました。

現地の人々は、その宣教師のところにやってきて、こう言いました。

「こんなに魚や鯨が取れなくなったのは、お前がやって来て外国の神を伝えようとしているからだ。それで、この土地の神様が怒って、魚を下さらないのだ。

お前の神に、魚や鯨が取れるように祈れ。もし、それでも取れなかったら、そんな神を伝えたお前が悪いのだから、お前を崖から突き落として、この土地の神様への生贄にする。」

こう言って、彼らは、次に来るまでの、時間を区切って帰っていきました。この宣教師は、必死になって祈りました。しかし、魚は取れませんでした。

とうとう期限の日が来て、彼らはその宣教師を、崖から突き落としてしまいました。

そして、彼らが、宣教師の死体を捜しに、崖の下まで降りてみると、宣教師の死体の脇に、巨大な鯨が一頭、打ち上げられていたそうです。

彼らは、大きな恐れを感じて、その鯨の骨で、十字架を作り、全員が洗礼を受け、クリスチャンになったということです。

キリスト教の歴史は、このような宣教の歴史なのです。そして、その歴史の延長線上に、私たちもいるのです。そのことを、忘れずに、心に刻み付けていたいと思います。

ピシディアのアンティオキアに到着した、パウロとバルナバは、いつものように、安息日にユダヤ教の会堂に入って、その礼拝に出席することから、伝道を始めました。

そこでは、律法と預言者の書が朗読された、と15節にあります。これは、礼拝において、旧約聖書が朗読された、ということです。

当時、旧約聖書の巻物は、会堂にあっただけで、今のように、各自が一冊ずつ、聖書を持っていた訳ではありません。会堂でしか、聖書の御言葉を、聴けなかったのです。

ですから、集まった人たちは、真剣に聖書の朗読に、耳を傾けました。

今、私たちは、好きな場所で、好きな時に、聖書を読むことができます。

私たちは、それを、どれ程、感謝しているでしょうか。いつでも読めるという安心感が、御言葉の価値を、小さくしている、ということはないでしょうか。

この時代の人たちのように、もしかしたら、一生に一回しか、この御言葉を聴くことができないとしたら、もっと真剣に、またもっと感謝して、その御言葉を、聴くと思います。

因みに、初代教会においては、讃美歌は座って歌われましたが、聖書が朗読される時は、会衆は立って聴きました。一言も聴き洩らさないように、立って、集中して聴いたのです。

聖書が朗読された後、会堂長が、パウロたちに、聖書の説き明かしを、依頼しました。

パウロは、「待っていました」とばかりに、会堂長の招きに応じて、会衆の前に立ちました。

ここでの説教は、使徒言行録が伝える、パウロの最初の説教です。一体、パウロはどのように、主イエスの福音を語っていったのでしょうか。

ここで、私たちが、意外に見落としていることを、想い起しして頂きたいと思います。

それは、この時は未だ、新約聖書は書かれていない、ということです。

ということは、パウロたちは、旧約聖書だけで、福音を語らなければ、ならなかったのです。

皆さんも、一度、試してごらんになると、良いかもしれません。伝道をするとき、旧約聖書だけで、主イエスの福音を語るということは、容易いことではありません。

旧約聖書は、来るべき救いを、待ち望む書です。旧約聖書の中には、未だ、その答えは示されていません。待ち望んでいる救いが、どのようにして、与えられるのか。それは書かれていません。それが、示されているのは、新約聖書です。

では、使徒たちは、旧約聖書だけで、どのようにして、福音を伝えたのでしょうか。

今朝の箇所には、二重の鍵カッコで、囲まれた言葉が、たくさん出てきます。これらは、すべて、旧約聖書からの引用です。

パウロは、かつて、ファリサイ派の若きホープとして、旧約聖書を熱心に学んでいました。

そのパウロが、旧約聖書の言葉を、自由自在に駆使して、何と今は、主イエスの福音を語っているのです。

旧約聖書が待ち望んでいた救いが、主イエスにおいて実現したことを、熱く語っています。

ここでパウロが、先ず語っているのは、イスラエルの民の歴史です。

パウロは、イスラエルの歴史を貫いているのは、神様の導きであると語り出しました。

そして、その導きが、あのダビデ王において、一つの頂点に達した。

そのダビデ王の子孫として、お生まれになった方が、主イエスであって、この主イエスこそが、イスラエルに約束された救い主なのだ。この事は、バプテスマのヨハネも、確かに証ししている。このように、パウロは語っていきます。

けれども、そのようにして、せっかく神様が遣わされた、救い主イエス様を、エルサレムの人々は、十字架につけて殺してしまったのです。

しかしパウロは、この出来事さえも、神様の導きの下に行われたのだ、と言っています。

主イエスの十字架の死は、旧約聖書の預言の、実現だったのだ、と言っているのです。

預言者たちは、様々な仕方で、救い主の死を、前もって預言していました。

ユダヤ人の指導者たちは、主イエスを十字架につけることで、主イエスについて書かれている、神様のご計画を、自らの手で、成し遂げる結果になったのだ、と言っているのです。

しかし、そのようにして死なれた主イエスを、神様は、そのまま放っておくことは、なさいませんでした。30節です。「しかし、神はイエスを死者の中から復活させてくださったのです」。

神様の救いの御業は、ダビデに与えられた約束を通して、主イエスへと繋がり、その十字架と復活において、クライマックスに達したのだ、と言っているのです。

罪なき神の独り子が、私たちの罪をすべて背負って、その償いを成し遂げて下さった。

そして、父なる神様は、この主イエスを復活させてくださり、私たちが、主イエスと共に、新しく生きることができるように、してくださった。神様の救いのご計画は、この主イエスの十字架と復活において、成就している。これが、パウロの説教の結論です。

続いてパウロは言っています。「あなたがたは、モーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです」。

「モーセの律法では義とされえなかった」、というのは、どういうことでしょうか。

律法を守って生きるとは、このように生きるべきだ、という戒めを、自分の力で、頑張って、守っていく、ということです。

でも、そのように、一生懸命に頑張って、正しく生きていこうとすれば、それによって、あなた方は、本当に、平安と、喜びと、希望に満ちた生活を、送ることができるのか

そうではないだろう。律法に従って、立派に、正しく、生きようとすればするほど、それができないことを知らされ、罪の重さは、いよいよ増していくのではないだろうか。

救われる前のパウロは、この律法と現実とのギャップに、悩み続けました。

しかし、主イエスの十字架の贖いによる、罪の赦しを経験して、初めて、律法の重い縄目から、解放されたのです。

主イエスの十字架の贖いを、信じるだけで救われる。この福音を、初めて聞く人は、それが、あまりにも、思いがけないことであるので、戸惑います。

立派な行いによって救われる、と信じていた人たちにとっては、思いもよらない、救いなのです。しかし、だからこそ福音、よい知らせなのです。

神様は、私たちを極みまで愛して下さって、私たちの罪を罰する代わりに、最愛の独り子、主イエスを十字架につけて、私たちの罪を贖ってくださったのです。

私たちは、この思いもよらない救いの出来事を、信じるだけで、義とされるのです。

パウロは、渾身の思いを込めて、この福音を語りました。

そして、パウロの説教を、聞いた多くの人たちは、深い感銘を受けました。恐らく、今まで聞いた、どの説教とも、異なっていたからだと思います。

ですから、人々は、「次の安息日にも、同じことについて、話してくれるように」と、パウロに頼んだのです。

この思いもよらない救いの恵みは、私たちに迫ってきます。自分の生き方を、今一度、顧みる様にと、迫ってきます。

一年の終わりに当たって、今朝、私たちは、もう一度、私たちに与えられた、福音の恵みの尊さを想い起し、私たちの生き方を、振り返る時を持ちたい、と思います。

このような、思いもよらない救いに、招き入れてくださった主に、どのように、応えていくかを、静かに考えたいと思います。

私は、毎年、この時期になると、一人の宣教師のことを、思い出します。安東栄子先生、という宣教師です。以前にもお話ししたので、憶えている方も、おられると思います。

安東栄子先生は、アンテオケ宣教会から、インドネシア、カリマンタン島のアンジュンガン神学校の教師として、派遣されていた宣教師でした。

1990年1月9日、アンジュンガン神学校の第一回目の卒業式の翌日、先生は自動車事故によって召天されました。40歳を少し過ぎたくらいの若さでした。

召天された日の11日前に書かれた先生の日記には、こう記されていました。

「12月29日(金)/ 1989年も風のようにすぎ去ろうとしている。

私の歩んできた道のなんとけわしかったことか。でも神の前に静まった時、はっきりと神のみ手の跡がみえる。神の恵みの数々をかぞえてみよう。

私は不忠実だったけれども、神様あなたの真実は変わることなく私を支えて下さいました。

私は汚れ、罪を犯しましたけれども、あなたのゆるしは私を聖めつづけ、ゆるしつづけて下さいました。

私は高慢で、自己中心だったけれども、あなたはいつもへりくだって、誠実をもって教え続けて下さいました。神様ありがとうございました。

私は知恵がなく思慮が欠け、軽率な者でしたが、あなたは折りにかなった助けとみことばによって、私を諭していて下さいました。

私には愛がなく、人を憎み、傷つけ、悲しませる者でしたが、あなたはそんな私の本当の姿をご存知で、なおかつ私をつくりかえようとしていて下さいました。

痛い、苦しい、悲しい経験をくり返して、はじめてあなたのみこころに気づくにぶい者ですが、あなたはあきらめずに私を見ていてくださるのですネ。ありがとうございます。

神様、あなたの前に私は裸です。何も飾ることはできません。

人生がもうこの年で終ってもいいと思うほどです。何も思い残すことがないんです。

私の人生の大半はもう終ってしまったように感じます。」

不思議なことに、安東先生の日記は、まるで、ご自身の死を、予知されておられたかのように、書かれています。そして、もし、人生がこの年で終ってしまったとしても、何も思い残すことがない、と書いておられます。

安東先生の死をきっかけに、アンジュンガン神学校の学生たちが、事故現場に近いプニティの町に伝道を始めました。

今、この町にはプニティ教会と三つの伝道所が立てられているそうです。そして、アンジュンガン神学校は、現在150名が学ぶ正式な神学大学となっているそうです。

安東栄子先生という、一粒の麦が、宣教の地に蒔かれ、大きな実を結んだのです。

安東先生の生き様は、私たちに、語り掛けます。

私たちは、思いもよらない恵みに、どのように応えていけば、良いのでしょうか。

来るべき2019年、私たちは、この問い掛けを、常に耳にしつつ歩んでいきたいと思います。