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過去の礼拝説教

「信仰の狭さと広さ」

2019年02月10日 聖書:使徒言行録 15:36~16:5

ご一緒に、使徒言行録15章を、読み進んでいます。先週までの箇所には、エルサレムでの教会会議の出来事が、語られていました。

エルサレム会議で、異邦人は割礼を受けなくても、ただイエス・キリストを信じる信仰によって救われるという、まことに恵みに満ちた、決定がなされました。

この決定は、パウロたちを、大いに力付けました。勇気百倍となったパウロは、新たな伝道旅行を計画し、バルナバを誘いました。

前回の伝道旅行の際に誕生した、諸教会を訪問し、信徒たちを励まそうと提案したのです。

36節に「数日の後」とあります。この言葉からは、第一回伝道旅行から、帰って間もなく、また諸教会を訪問しようと、提案したように読めます。

しかし、実際には、その間に、エルサレム会議などもあって、かなりの時間が経っていたものと思われます。一説によると、3年くらい経った後のことであった、と見られています。

その間、パウロは、ずっと、各地の諸教会のことを、思い続けていました。何をしていても、教会のことが、頭から離れることはなかったと思います。牧師とは、そういうものです。

この第二回伝道旅行は、思いがけない幕開けとなりました。何と、パウロとバルナバとの間に、「激しい衝突」が、生じたのです。

この仲違いのきっかけは、「マルコと呼ばれるヨハネ」を、伝道旅行に連れていくかどうか、ということでした。

バルナバは、前回同様、自分のいとこに当る、マルコを連れて行くことを、望みました。

しかし、パウロは、第一回伝道旅行の途中で、勝手に帰ってしまったようなマルコを、連れて行くべきではない、と考えたのです。

このマルコの母マリアは、主イエスに従っていた人々の中でも、中心的な存在でした。

マリアの家は、エルサレムにおける、キリスト者たちの集会所に、なっていたようです。

主イエスが、最後の晩餐をなさったのも、またペンテコステの日に、弟子たちが集まって祈っていたのも、このマリアの家だったのではないか、と見られています。

幼かったマルコは、主イエスと弟子たちとの、最後の晩餐を目撃したかも知れません。

また、ペンテコステの不思議な出来事も、目撃したかもしれません。

そのようなことを通して、彼は、早い内から、エルサレム教会の会員となっていました。

恐らくマルコは、エルサレム教会の、若きホープであったのだと思われます。

そのように、彼は、経済的にも、信仰的にも、恵まれた環境で育ちました。ただ、恵まれた環境の中で育ったが故の、弱さも持っていたと思われます。

確かな理由は分かりませんが、マルコは、第一回伝道旅行の途中で、使命を放棄して、故郷に帰ってしまったのです。

バルナバは、第二回伝道旅行に、もう一度このマルコを、連れて行くことを提案しました。

しかし、パウロはそれに反対しました。

そのことを巡って、「意見が激しく衝突し、彼らはついに別行動をとるようになった」のです。

この出来事は、私たちに、戸惑いを与えます。

あの尊敬すべき、パウロとバルナバとの間に、決裂するほどの「激しい衝突」が起るとは、俄かに信じられないからです。一体、この仲違いを、どう考えたらよいのでしょうか。

これは、感情的な対立と言うよりも、パウロとバルナバの、人の育て方の相違、或いは、性格の相違によるもの、と考えられます。

バルナバは、相手の話を良く聞いて、適切な助言を与える、カウンセラーのような賜物を、持った人でした。バルナバという名前は、「慰めの子」という意味のあだ名です。

この「慰め」という言葉は、「励まし」とも「勧め」とも、訳せる言葉です。

バルナバは、人を慰め、励まし、勧めをする。そういう賜物を持った人だったのです。

弱い人を温く見つめ、成長を促すための、配慮ができる人、であったのです。

バルナバは、そういう思いから、マルコにもう一度、伝道者として立つ、チャンスを与えよう、としたのです。忍耐強くマルコを導き、マルコの成長を、待ったのです。

しかし、パウロは、どんな理由があろうと、伝道を放棄して、家に帰ってしまうような者は、伝道者として整えられていない、と判断しました。

それはパウロ自身の、伝道への厳しい姿勢を、反映した思いでした。

パウロは、マルコが好きだとか、気に入らないとかではなく、伝道の厳しさを考えた時、今のままのマルコを、伝道旅行に連れて行くことは、適切ではないと思ったのです。

そして、同時に、性格的な弱さや、甘えの体質を持っているマルコに、厳しい態度を示すことを通して、彼を訓練したい、という思いもあったのだと思います。

パウロは、マルコにとっての、厳しい「しつけ」役に、なろうとしたのかもしれません。

「躾」という漢字は、身に美しい、と書きます。これは、日本で作られた和製漢字です。

身なりを美しく整える、という意味を込めて、作られたのだと思います。

また、この言葉は、裁縫する際の、「仕付け」から来ている、という説もあります。

裁縫で、形を正しく保つために、荒い縫い目で、縫いつけておくことを、「仕付け」と言います。

そうしておいて、本縫いをします。縫い上がって、しっかりと形が整った後、役割を終えた仕付け糸は、抜き取られます。

この時、パウロは、マルコにとっての、「仕付け糸」と、なろうとしたのかもしれません。

マルコが、伝道者として、形を整えるために、まずざっくりと、荒縫いをしなければならない。

パウロは、その荒縫いのための、「仕付け糸」の役割を担った。そして、伝道者として、マルコの形が整えられるのを、期待しつつ待ったのです。

やがて、マルコの形が、整えられたなら、「仕付け糸」としての、自分の役割は終って、静かに抜き取られていく。パウロは、そういう役割を、演じようとしていたのかもしれません。

バルナバは、先ず広い心で受け入れてから、徐々に厳しさを教えていく、というやり方で、マルコを導こうとしました。広さから狭さへと、導く指導方法です。

一方のパウロは、先ず厳しさ、つまり狭さを教えて、訓練によって形を整えた後に、広い心で、その人を用いていこうとしたのです。

バルナバは、広さから狭さへ。パウロは、狭さから広さへ。人を導くプロセスが、違っていたのです。信仰の世界には、そうした、狭さと広さがあります。

例えば、同じ説教を聞いても、狭さを重んじる人は、「生ぬるい」と感じられるでしょう。しかし、広さを重んじる人は、それを「厳しい」と感じられると思います。どちらの要素も大切です。

しかし、いつまでも、狭いまま、或いは、広いままであっては、いけません。

信仰の狭さは、それを通り越した後は、広さに繋がらなければならないのです。

そうでなければ、それはただ重荷となってしまいます。そして、いつまでも、狭さにこだわっていると、いつしか、律法主義に陥ってしまう、危険性があります。

また、信仰の広さは、次第に狭さへと導かれていく、広さでなければなりません。

そうでなければ、それは、いつまで経っても、生ぬるいだけで、活き活きとした、本当の救いの恵みを、味わうことができないままで、終ってしまいます。

パウロとバルナバにおける、人の導き方の違い。それは、どちらが正しいか、間違っているか、の問題ではなく、二人の性格の違いから来るものでした。

しかし、二人とも、本気だったのです。ですから、激しく衝突したのです。

しかし、神様は、本当に、不思議なお方です。神様は、このような、人間の対立をも、益に変えてしまわれて、御業を進められました。

初めの計画では、一つのチームだけが、伝道旅行に出発する筈でした。

しかし、結果的には、二つのチームが、出発することになったのです。一方はパウロの故郷の、キリキアへと進み、他方は、バルナバの故郷の、キプロスへと渡ったのです。

また、当初は、パウロとバルナバの、二人だけの筈でしたが、結果的には、パウロとシラス、そしてバルナバとマルコというように、二人の同労者が加わることになりました。

期せずして、チームと伝道者が倍増したのです。それだけ、宣教の働きも豊かになります。

仲違い自体は、ほめられるものではありません。しかし、神様は、そのことさえも、福音の前進に、用いてくださったのです。

また若いマルコにとっても、自分のことで、パウロとバルナバという、偉大な伝道者が、仲違いしてしまったということを、深く心に留めることになったと思います。

この出来事は、後に彼が、有益な器となるための、良い訓練となったと思います。

そして、それを、導いてくださったのも、主御自身でした。

マルコのことは、この後、パウロの手紙にも出てきます。テモテへの手紙二の4章11節に、「マルコを連れて来てください。彼はわたしの務めをよく助けてくれるからです」とあります。

この言葉は、パウロとマルコの関係が、その後、麗しいものとなり、マルコはパウロの善き助け手となったことを示しています。

第二回伝道旅行の時は、「連れて行かない」、と言っていたマルコを、「連れて来てください」、というまでに、パウロにとって、必要な存在となったのです。

私たちの歩みには、嬉しい出会いもあれば、悲しい別れもあります。様々ないさかいや、対立によって、どうしても共に歩めなくなる、ということもあります。

そこには、私たちの罪や弱さが、絡んでいます。しかし神様は、そのような私たちを、尚も導いてくださり、用いてくださって、御業を行ってくださるのです。

そして、その事を通して、私たちを、慰め、励ましてくださるのです。

ですから、私たちは、挫折や破れの中にあっても、最後には益としてくださる、神様に望みを置いて、歩んで行くのです。

パウロとシラスの一行は、第一回伝道旅行とは、逆のコースを辿って進みました。

シリア州からキリキア州へと、東から小アジアに入り、先ずデルベに向かったのです。

旅路を歩んでいる間も、パウロの心は、教会のことで、いっぱいであったと思います。

教会が困難の中にあるなら、信徒たちを励ましたい、と思いつつ足を進めました。

しかし、もしかすると、実際に励まされたのは、逆に、パウロの方であったかもしれません。

偉大な使徒パウロとは、比べ様もありませんが、私も似たような経験をしたことがあります。

20代半ばの頃、私は、職場の転勤によって、3年間ニューヨークで暮らしました。

その時、日米合同教会にお世話になりました。ある時、牧師に呼ばれて、牧師館を訪ねると、日本語の日曜学校を始めるから、君も手伝いなさいと、有無を言わせず誘い込まれました。

50年も前の事です。当時、ニューヨークの日本商工会議所に登録していた日本人家庭は、およそ5千所帯でした。その1%でも応えてくれれば、との祈りをもって、5千通のダイレクトメールを、全家庭に郵送しました。

開校日当日、子ども用のイスを揃え、子ども讃美歌や、紙芝居などを用意して、5千通の1%、50人の子どもを与えてください、と祈りつつ、子どもたちを待ちました。

神様のなさることは、本当に不思議です。開校日には、ちょうど50人の子どもたちが、来てくれました。その時の、畏れにも似た感動は、忘れられません。

しかし、その後、子どもの数は、次第に減っていきました。その上、中心になっていた牧師と校長先生が、相次いで日本に帰国し、そして、間もなく私も、帰国することになりました。

私は、この日本語の日曜学校も、やがて消え去ってしまうだろう、と悲しい思いを持って、別れを告げて来ました。

それから8年後、ニューヨーク出張の機会があって、再び、日米合同教会を訪ねました。

果たしてどうなっているかと、不安を抱えながら、日曜学校をしていた部屋に近づくと、なんと、子どもたちの元気な歌声が、耳に飛び込んできました。

ドアを開けると、子どもたちの笑顔、笑顔、笑顔です。私は思わず涙を流してしまいました。

嬉し涙と、自分の不信仰を懺悔する涙でした。私は、自分たちが帰ったら、この日曜学校も自然消滅してしまうだろうと、不遜にも思っていたのです。私は、傲慢でした。

しかし、神様のご計画は、違っていたのです。後に残ったスタッフが、祈り合い、助け合って、立派に礼拝を守ってくれていたのです。

もしまだ続いていたら、励まそうと思っていた私は、逆に、大きな励ましを受けたのです。

そして神様の御業を、自分の小さな思いの中に、閉じ込めてはいけないと教えられました。

第二回伝道旅行のパウロも、同じだったのではないかと思います。

心配して訪ねた教会が、立派に礼拝を守っている。その姿を見て、逆に励まされ、神様の御業を褒め称えたのではないかと思います。

パウロたちは、キリキア州のデルベから、リストラの町へと向かいました。

前回リストラを訪問した時、パウロは石を投げられ、瀕死の重傷を負わされました。

普通なら、そんな町は、なるべく避けたいと、思うのではないでしょうか。

しかし、そういう町だからこそ、そこで信仰を守っている信徒たちを、励ましたかったのです。

神様は、そのようなパウロに、素晴らしいプレゼントを、用意してくださいました。

リストラで、パウロは、生涯変ることのない忠実な弟子、テモテを得ることができたのです。

後にパウロは、テモテのことを、「信仰によるまことの子」、と呼んでいます。

パウロにとってテモテは、単なる弟子ということに止まらない、特別な存在となったのです。

テモテの父はギリシア人、母はユダヤ人クリスチャンでした。ユダヤの律法によれば、父親が異邦人であっても、ユダヤ人の母親から生まれた子は、ユダヤ人でした。

ですから、生まれたときに、ユダヤ人のしるしである、割礼を受けさせなければならない、というのが常識でした。ところが、何らかの理由で、テモテは、割礼を受けていませんでした。

この事は、ユダヤ人からすれば、受け入れがたいことであったのです。

もしテモテが、両親とも異邦人の子であったとすれば、彼が割礼を受けていなくとも、何の問題もありませんでした。異邦人の子が、割礼を受けていないのは、当然であったからです。

ところが、テモテは、ユダヤ人の子でありながら、割礼を受けていませんでした。

これは、ユダヤ人に伝道する際に、大きな躓きとなることでした。ですから、パウロは、テモテに割礼を受けさせたのです。

勿論パウロは、救われるためには、割礼が必要である、などとは全く考えていません。

ただ、テモテが、これから先、ユダヤ人にも伝道していくためには、割礼を受けさせた方が良い、と判断したのです。

テモテに割礼を受けさせることが、ユダヤ人伝道に必要であるならば、割礼を受けさせよう。パウロは、福音の真理については、少しの妥協も許さないという、厳しさを持っていました。しかし、伝道の実践に当たっては、とても柔軟な姿勢を持っていたのです。伝道の役に立つことなら、何でもしたのです。

何時の時代でも、教会にとって大切なことは、「キリストの恵みのみによって救われる」、という福音の真理と、「隣人を躓かせない」、という愛の配慮です。そこに立ち続けることです。

テモテに、割礼を受けさせたのは、ユダヤ人に対する、愛の配慮であったのです。

伝道の仕方は、相手が受け入れ易いように、工夫していかなければならないのです。

台湾長老教会のスローガンは、こう言っています。「福音不変、時代在変、伝道応変」

福音不変。福音は時代を超えて変わらない。時代在変。しかし時代は変化の中に在る。

そして、伝道応変。伝道は変化に応じて、柔軟に。

これが、スローガンの意味するところです。その通りだと思います。

パウロは、マルコに対して示したように、伝道の姿勢については、眞に厳しかったのです。

しかし、実際の伝道の仕方、その実践においては、テモテのケースに見られるように、広い愛の配慮を、心掛けていました。そして、それが、次のような結果を生んでいったのです。

「こうして、教会は信仰を強められ、日ごとに人数が増えていった」。

バルナバとの別れ、という痛みを負って出発した、第二回伝道旅行でした。しかし、神様は、そのようなパウロに、人知を超えた、慰めと励ましを、豊かに与えてくださったのです。

神様は、人間の失敗や、挫折すらも用いて、大いなる御業を、行なってくださいます。

私たちが、どんなに弱く、欠け多き者であっても、私たちを通して、聖霊が働いてくださるなら、そこに大いなる御業がなされるのです。

その事を信じて、主の慰めと、励ましの中を、共に歩んでまいりたいと思います。