MENU

過去の礼拝説教

「本物と偽物の違い」

2019年04月28日 聖書:使徒言行録 19:11~22

私たちは今、主の恵みと導きの許に、新会堂建築という大きな御業に、取り組んでいます。

この大切な時に、教会の源流を尋ね、私たちの信仰の原点に、立ち返りたいとの願いをもって、使徒言行録から御言葉に聴いています。

ご一緒に、使徒言行録を読み進んできて、今、19章に入っています。この19章は、パウロの、エフェソにおける、伝道の様子を伝えています。

今朝は、前回、既に読みました、8節に戻って、その様子を、眺めてみたいと思います。

パウロは、エフェソでは、他の町よりも長く、ユダヤ教の会堂で、説教することができました。

しかし、やがて、反対者が現れたため、会堂を去って、ティラノという人の講堂に、説教の場を移しました。

「講堂」と訳されている、ギリシア語のスコレ一は、英語のスクールの語源の言葉です。

ですから、この場所は、ティラノという人が所有していた、学校であったと思われます。

ある写本には、パウロは、この講堂を、午前11時から午後4時まで使っていた、と書かれています。この時間帯は、人々が、長い昼寝をする時間とされていました。

これは、南ヨーロッパ特有の習慣で、日中は蒸し暑いので、早朝と午後遅くに働いて、11時から4時までは、昼食を取った後、長い昼寝をしていたのです。

パウロは、早朝から11時まで働いて、その後の休息時間に、ティラノの講堂で、毎日福音を伝えました。朝と夜は、生活のために働いて、昼間はティラノの講堂で説教をする。

これは、普通では考えられないような、精力的な働きです。激務と言っても良いでしょう。

しかも、このような働きが、二年間の長きに亘って、毎日行われたのです。

神様によって、特別に用いられる人には、このような、常識を超えるような、力が与えられることがあります。

メソジスト教会を創立したジョン・ウェスレーという人は、生涯に4万2千5百回も説教した、と伝えられています。平均すると毎週15回です。

ということは、一日に2回、多い時には3回も、説教した計算になります。

私などは、聖日礼拝の説教と、祈祷会での聖書講解だけでも、フーフー言っているのに、想像を絶するような働きです。

このように神様は、これはと思う人に、特別な賜物を与えられて、福音宣教の御業を、進めていかれるのです。

エフェソは、アジア州の州都で、アジア全域から、人が集まってきていました。

そのエフェソにおいて、このような宣教活動が、二年間も続いたので、アジア州全域に、福音が広く、伝えらえていきました。

この講堂で、パウロから福音を聞いて、信じた人たちが、アジア州の各地に散って行って、それぞれの地で、福音を宣べ伝えたからです。

このティラノの講堂は、アジア州全域に福音を伝える、伝道センターとなったのです。

更に、パウロのエフェソでの伝道には、目覚ましい奇跡が伴っていました。

12節に、「彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった」、と書かれています。

さて、このような奇跡の記事から、私たちは、一体、何を読み取っていくべきなのでしょうか。

実際に、そのような奇跡が、起きたのかどうか。それが、問題なのでしょうか。

そうではありません。私自身は、全能の神様の御力による、奇跡を信じています。

しかし、奇跡が実際に起きたのかどうか。或いは、どのようにして起きたのか。そのようなことを、あれこれ詮索すること、御言葉は求めていません。

ここで、御言葉が、私たちに、教えようとしていること。

それは、パウロが語った福音の恵みが、信じる人たちに変化をもたらした、ということです。

信じた人々が、福音の恵みによって、まるで悪霊に取りつかれたような、悩みや苦しみから、解放されて、心身ともに、健康な生活を送ることができるようになった、ということです。

救いの恵みは、人々の生活を新しくし、悩みや苦しみから、眞の解放を、もたらすのです。

そのことを示すために、御言葉は、このような奇跡を、語っているのです。

パウロが身に着けていた、手ぬぐいや前掛けに、魔術的な力が宿っていた、ということではありません。

神様を信じた人が、パウロの身に着けていたものに、触れるという仕方で、自分の信仰を表わしたときに、神様が全能の力を示されて、その人に変化が起きたのです。

決して、パウロの手ぬぐいや前掛け自体に、神秘的な力があった訳ではありません。

そのことは、11節の、「神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた」、という言葉からも明らかです。これらの奇跡は、パウロの業ではなく、神様ご自身の御業なのです。

主イエスの御名が、呼ばれるところに起きる、神様の恵みの御業なのです。

私たちキリスト者の特権とは、この主イエスの名を、呼ぶことができるということです。

感謝すべきことがあったときに、「イエス様、ありがとうございます」、と言うことができる。

困難に陥ったときには、「イエス様、助けてください」、と叫ぶことができる。

お願いしたい時は、「イエス様、お願いします」、と祈ることができる。

言葉に言い表せない、深い悲しみの中にいる時も尚、「イエス様」、と呼ぶことができます。

私たちは、喜びの時、悲しみの時、悩み苦しみの時、願いを訴える時、主の名を呼びます。

聖書の中には、そのように、神様の名を呼ぶ場面が、多く出てきます。

しかし、一方では、十戒の三番目の戒めのように、「主の名をみだり唱えてはならない」、とも教えられています。或いは、神を試してはならない、とも書かれています。

では、一体どのようにして、主イエスの名を呼べば、良いのでしょうか。

今朝の御言葉には、そのことをめぐっての、ある出来事が、記されています。

主イエスの名前を、ちょっと試しに、使ってみた人たちのことが、書かれています。

試しに、神様の名前を持ち出して、使ってみる。これは禁止されています。なぜでしょうか。

私たちが、何かを試すとき、私たちの心の中を支配しているもの。それは疑いです。

本当にそうだろうか。信じられないけれども、取り敢えずやってみよう。試してみよう。

私たちが、何かを試そうとする時、私たちは、確信してはいません。半分は疑っています。

でも、取り敢えずやってみる。そして、もし、上手くいったら、儲けもの。そんな気持ちです。

スケワという者の七人の息子たちもそうでした。どうやらイエスという名には、すごい力があるらしい。パウロという人物も、その名を使って、すごいことをしている。

もしかしたら、自分たちも、その名前を使ったら、何かすごいことが、できるかもしれない。

一つ試しにやってみようではないか。彼らは、そう思って、取り敢えず言ってみました。

「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」。

結果は、散々でした。悪霊に取りつかれている男が、この祈祷師たちに飛びかかって、押さえつけ、ひどい目に遭わせたのです。

彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出す羽目に、なってしまいました。

旧約聖書でも、占いやまじないや魔術などは、厳しく禁じられています。なぜでしょうか。

自分のために、神様の力を利用しようする。それが、まじないや、占いや、魔術だからです。

スケワの息子たちは、自分が口にしている、イエスという方を知りません。勿論信じてもいません。信じようとすらしていません。

ただ、パウロという者が、この名によって、奇跡を行っているから、この名には、特別な力があるみたいだ。そう思って、その力を、自分たちも利用しようとしただけです。

それがまじない、占い、魔術です。神様が、それを固く禁じられたのは、そのためです。

このようなことによって、神様との間の、正しい関係が損なわれてしまうからです。

ユダヤ人の祈祷師たちは、悪霊に取りつかれている人に、イエスの名によって「悪霊よ、出ていけ」と、試しに命じてみました。

すると、悪霊が、彼らに言い返しました。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ」。

イエスやパウロには、とてもかなわない。彼らが出てきたら、退散せざるを得ない。

だが、彼らの名を語る、お前たちは、一体何者なのだ。

この問い掛けに対して、スケワの息子たちは、答えることができませんでした。

「祭司長スケワの息子たちだ」、そう答えたかも知れません。しかし、その答は、何の役にも立ちませんでした。

では、ここで、私たちのことを、考えてみましょう。「いったいお前たちは何者だ」、つまり「あなたは誰なのか」、その問いに対して、私たちは何と答えるでしょうか。

アメリカの長老教会が出版した、『みんなのカテキズム』という、子供向けの信仰問答書があります。この信仰問答は、こう始まっています。

[問一、あなたは、誰ですか」。「答え、わたしは神さまの子どもです」。

キリスト者とは、どのような存在なのでしょうか。

「あなたは誰ですか」、「いったいお前は何者だ」、と問われたときに、「わたしは神さまの子どもです」、と答えることができる者。それがキリスト者です。

続いて問二です。「問二、神さまのこどもであるとはどういうことですか」。

「答え、わたしが、わたしを愛してくださる、神さまのものだ、ということです」。

キリスト者とは、自分は、神様に愛されている、神様の子どもです、と言える者なのです。

スケワの息子たちは、「いったいお前は何者だ」、という問いかけに対して、「私は、神様に愛されている、神さまの子どもです」、と答えることができませんでした。

まさに、そこに、この人たちの、致命的な間違いがありました。

この事に関連した、「お前は誰だ」、という題の例話があります。こういう話です。

昏睡状態にあった婦人が亡くなりました。彼女はすぐさま天へ連れて行かれ、裁きの座の前に立たされました。「おまえはだれだ」、と天の声が言いました。

「私は市長の妻です。」 「だれの妻かと聞いているのではない。『おまえはだれだ』と聞いておる。」

「私は四人の子の母です。」 「だれの母かと聞いているのではない。おまえはだれだ。」

「私は教師です。」 「おまえの職業を聞いているのでない。おまえはだれだ。」

そんなやりとりが続きました。何を答えても、「おまえはだれだ」という問いに、満足な答えを返していないようでした。

「私はクリスチャンです。」 「おまえの宗旨をきいているのではない。おまえはだれだ。」

「私は毎日教会におまいりし、いつも貧しい人、弱い人を手助けしています。」

「何をしたかをきいているのではない。おまえはだれだ。」

彼女は、この試験に落ちたので、地上へ送り返されました。

病が癒えたとき、彼女は、自分がだれなのかを、見究めようと決心しました。

そして、それ以後、彼女の生活は、一変したそうです。

私たちは、おまえは誰だ、と聞かれた時、「私は神様に愛されている、神様の子どもです」、と答えることが許されています。

そして、それこそが、どんな問い掛けをも、たとえ悪霊からの問い掛けをも、満足させる唯一の答なのです。

さて、主イエスの名を濫用した祈祷師たちが、厳しく裁かれたことによって、逆に、主イエスの名の権威が、周囲の人々に、知れ渡ることとなりました。

この事件を通して、眞に畏れ敬うべき権威とは何か、ということが明らかにされたのです。

そして、そのことが、エフェソの人々の心に、悔い改めを呼び起こしました。

18節に、「信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した」とあります。

ここで。信仰に入った人たちとは、完了形で書かれていますから、既に洗礼を受け、信者になっていた人たちのことです。

その人たちが、尚も犯し続けていた、悪しき行いを、告白したのです。ここにある悪しき行いとは、具体的には、次の19節にある、「魔術を行っていた」、ということだと思います。

主イエスを信じ、救いの恵みに、生き始めていながら、なお占いや魔術に、頼っていた人たちがいたのです。しかし、これは、決して、他人事ではないと思います。

私たちの中にも、多かれ少なかれ、同じような思いが、あるのではないでしょうか。

主イエスの十字架と復活の恵みを信じ、それに依り頼んで生きるべきであるのに、それだけでは何か物足りない。もっと別の、目に見える安心を、自分のものとしたいという思いです。

片方の足は、主イエスに、重心を掛けているのです。でも、もう片方の足は、べつのものに重心を掛けているのです。しかし、それは、信仰とは言えません。

信仰とは、主イエスの救いの恵みに、全身の重みを掛けていくことです。

神様を信じ、神様の力のみに、依り頼む筈であるのに、まだ別のものに、依り頼んでいる。

エフェソの人たちにとっては、それは、様々な魔術的なものに、すがろうとする思いでした。

しかし、今の私たちにとっては、それは、財産であったり、名誉や地位であったり、或いは、常識とか社会の価値基準であったりとか、様々だと思います。

私たちは、主イエスの十字架によって、永遠の命の恵みに、生かされながらも、尚も、それらのものに、片足を置いている、ということはないでしょうか。

以前ここで、インドの孤児院に収容された、ある子どもの話をしました。

その子は、路上で飢え死にしそうになっていた所を、教会の孤児院に収容されました。

もう安心です。周りには食べ物が一杯あります。もう飢えることはありません。

不思議なことに、この子は、いつも左手を、しっかりと握っていて、決して開こうとしません。

夜寝ている時も、握り締めています。不審に思った施設の人が、ある夜、その子が深く寝入ったのを見て、その左手を、こじ開けました。中には、一体、何があったでしょうか。

その手の中には、干からびた、小さな肉片が、あったのです。

その子は、飢えて死にそうになった時の、最後の望みとして、この干からびた小さな肉片を、取っておこうとして、決してそれを、離そうとしなかったのです。

周りには、食べ物がいっぱいあって、もう何の心配ないのに、そのことを、信じようとしなかったのです。その子が、握り締めていた、干からびた小さな肉片。

私たちも、そのような物を、握り締めて、決して離そうとしない、ということはないでしょうか。

主イエスによって救われて、永遠の命という、最高の宝を与えられているのに、つまらないもの、干からびた小さな肉片を、後生大事に、握り締めている、ということはないでしょうか。

エフェソの教会の人々は、そのことに気付かされたのです。そこで彼らは、そのような罪の思いを告白し、隠し持っていた、魔術の書物を持って来て、皆の前で焼き捨てました。

救われたにも拘らず、尚も捨て切れなかった、魔術の本を、きっぱりと捨て去ったのです。

しかし、ここで焼き捨てられたのは、実は本ではありませんでした。

一人一人の心の中の、魔術を求める思い。神様を、自分のために、利用しようとする心。

それが、ここで焼き捨てられたのです。信仰には、捨てるという決断が、必要とされます。

両手に荷物を抱えたままでは、救いの恵みを、掴み取ることはできません。

恵みを掴み取るためには、今まで、握り締めていたものを、捨てなければならないのです。

信仰とは、捨てる決断である、と言うことができます。悔い改めた人たちは、今まで秘かに、依り頼んでいた、神様以外の力を、きっぱりと捨て去りました。

ここに、スケワの息子たちとの違いが、はっきりと表れています。

スケワの息子たちは、自分のために、主の名を利用しました。

しかし悔い改めた信仰者は、自分のために神様を利用しようとする思いを、捨てたのです。

スケワの息子たちは、「お前たちは何者だ」という問いに、答えられませんでした。

しかし、悔い改めた信仰者は、「わたしは神様に愛されている、神様の子どもです」、と答えることができるのです。

「いったいお前は何者だ」、と問われた時、私たちは必死に、その答えを探そうとします。

自分はこういう者だ、あれができる、これもできる。そのように自分を言い表そうとします。

しかしそれらは、やがて時間と共に、すべて消え失せます。

それらすべてが消えた時に、最後まで残るものが、「わたしは神さまの子どもです」という答えです。このように答えることができる者は、揺らぐことはありません。

「わたしは神様によって愛されている、神様の子どもです」。この言葉によって、私たちは支えられているのです。