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過去の礼拝説教

「信じる者になりなさい」

2019年04月21日 聖書:ヨハネによる福音書 20:19~29

瞬きの詩人と言われた水野源三さんが詠まれた、「こんな美しい朝に」、という詩があります。

空には/夜明けとともに/雲雀が鳴きだし

野辺には/つゆに濡れて/すみれが咲き匂う

こんな美しい朝に/こんな美しい朝に

主イエス様は/墓の中から/出て来られたのだろう

この詩が詠っているような「こんな美しい朝」に、皆さんとご一緒に、イースター礼拝を献げられる恵みを、心から主に感謝いたします。

さて、今、世間では、何かと言うと、「平成最後の○○」と言って、大した事でもないのに、仰々しく持ち上げる風潮があります。

それに乗って言えば、今朝、私たちは、「平成最後のイースター礼拝」を、献げていることになります。しかし、私たちは、「平成最後のイースター礼拝」、などとは言いません。

教会は、主イエスが、この世に来てくださった年、つまり主の年から始まる西暦を、大切にしているからです。ですから、私たちは、「平成最後のイースター」、などとは言いません。

もし、「最後の」と言うのであれば、今朝、私たちは、「この会堂で献げる最後のイースター礼拝」を、守っています。

この朝、この会堂での、最後のイースター礼拝を献げ、そして、クリスマスを新会堂で祝う。

そのことを、祈り願いつつ、これからの8ヶ月の日々を、共に歩んで行きたいと思います。

さて、今朝の御言葉は、こう語り始めています。「その日、すなわち週の初めの日の夕方」。

これは、主イエスが復活された、日曜日の夕方ということです。

イースターの日の夜、復活された主イエスが、弟子たちの所に、来てくださいました。

弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、家の戸に鍵をかけて、ひっそりと隠れていました。

ところが、そこに、復活の主イエスが、すり抜けるようにして、入って来られて、弟子たちの中に立って言われました。「あなたがたに平和があるように」。

弟子たちは、復活の主イエスに出会って、大きな喜びに包まれました。

しかし、十二弟子の一人で、ディディモと呼ばれるトマスは、主イエスが来られた時に、彼らと一緒にいなかったのです。一体、トマスは、どこに行っていたのでしょうか。

もしかしたら、あのゲツセマネから逃げ出した後、ずっと隠れていたのかもしれません。

主イエスの死を、一人どこかで、歎き悲しんでいたのかもしれません。

そのトマスが、漸く、皆のところに戻ってきます。他の弟子たちも、同じように落胆していると思いきや、何と彼らは、復活の主イエスに出会ったことを、興奮して語り合っていました。

感動と喜びの、大きな渦が、湧き起こっていました。

しかし、トマスは、その輪の中に、素直に入っていくことができません

他の弟子たちが、興奮して、熱心に語れば語るほど、トマスの心は、冷えていきました。

「ねえ、トマス、私たちは、本当に主にお会いしたんだ」、と他の弟子たちは言いました。

しかし、トマスは、「私は、あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れて見なければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、決して信じない」、と言ったのです。

この言葉のために、教会では、トマスのことを、「疑い深いトマス」と呼ぶようになりました。

この後、ご一緒に歌う、讃美歌197番にも、そのような歌詞が、出て来ます。

でも、トマスは、果たして、疑い深い人だったのでしょうか。私は、そうではないと思います。

トマスも、他の弟子たちのように、信じたかったのだろうと思います。でも、信じたいけれども、信じられない。そういうジレンマというか、葛藤の中にいたのだと思います。

「信じたいけれども、信じられない」。私たちも、そのような葛藤を、味わうことがあります。

トマスは、「あぁ、自分もその場に、居合わせたかった」、と心から思ったと思います。

自分も一緒にいたかった。一緒にいれば、信じられたのに。そう思ったことでしょう。

でも、トマスは、残念ながら、その場にいなかったのです。ですから、疑わざるを、得なかったのです。ある人が、トマスの疑いを、このように分析しています。

『すべての疑いの中で、最も深いものは、我々の人生経験から、生まれた疑いだ。

批評家の書斎で生まれる疑いは、大したことはない。宗教学の論争で生まれる疑い、科学の発達の過程で、宗教にかけられてきた疑いも、別に深いものではない。

信仰の妨げとなる疑いは、科学の実験室や、思想家の研究室で、生ずるものではない。

すべての疑いの中で、最も深いものは、そして、信じる妨げとなる疑いは、人生と呼ばれる奇妙な体験の中で生まれてくる。

「キリストの処女降誕が、生理学的に言って可能だろうか」。そんな疑いは、神がいれば可能であり、神がいなければ不可能である、という単純なものに過ぎない。

しかし、愛する子どもを失った母親の疑い、「果たして神などいるのだろうか。神は愛である、というのは真実なのか。果たして子どもは天国に行ったのだろうか」。

このような疑いは、はるかに深くて、深刻である。

子どもの頃から、父親にけなされ、踏みにじられた体験をして来た人が、「天国には、慈愛に満ちた、父なる神がおられる」、と聞いても、「そんなことは信じられない」という疑いは、はるかに深刻なものである。』 これは、真実だと思います。

トマスは、信じたかったのです。「私も信じたい。でも、私は、復活の主イエスに出会う、という経験をしていない。だから、信じることができない。疑わざるを得ない」。

トマスは、そういう葛藤の中で、苦しみ悩んでいたのではないかと思います。

「私は、あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れて見なければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、決して信じない」。

これは、「復活の主イエスに会いたい、会って信じたい」、というトマスの祈りの言葉です。

トマスの偉い点は、その様に悩みながらも、弟子たちの群れから、離れなかったことです。

トマスは、悩み、苦しみながらも、弟子たちの群れの中に、尚も留まり続けました。

そして、そこに居続けたために、復活の主イエスに、出会うことができたのです。

このことは、私たちに大切なことを、教えてくれます。私たちも、教会に来た時に、直ぐに信じられた訳ではありません。初めは、トマスのように、信じることができませんでした。

でも、教会から離れずに、居続けていくなら、いつか、必ず、主イエスの方から、近づいて来てくださり、信じられるように、導いて下さるのです。

私たちは、そのことを信じて、主イエスとの出会いを、待ち望んでいくのです。

信仰が曖昧になって、確信を失ったときも、同じです。確かな信仰に立てなくなったときこそ、教会から離れずに、教会の中に居続けることが、大切なのです。

では、主イエスは、どのようにして、トマスに、出会ってくださったのでしょうか。

26節は、こう言っています。「さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。」

八日の後、すなわちイースターの次の日曜日に、主イエスが、再び弟子たちに、その御姿を顕されました。この時は、トマス一人のために、わざわざ来てくださったのです。

この時の状況は、19節と同じです。19節でも、やはり戸は、全部閉められていました。

主イエスは、そこに入って来られて、「平和があるように」、と言われたのです。

全く同じ言葉が、二回繰り返されています。これは、主イエスは、このようにして、私たちの所に来てくださる、ということを、強調しているのです。

私たちが、様々な問題を抱えて、疲れ果てて、心の扉を堅く閉ざしている。そのような時、主イエスは、その堅く閉ざした扉を、すり抜けるようにして、入って来られるのです。

そして、「平和があなたがたにあるように」、と言ってくださるのです。

そのようにして入って来られた、主イエスは、トマスに対して、「お前は不信仰だ」などとは、言われませんでした。

もしかしたら、弟子たちの間では、そのような批判が、出ていたのかもしれません。

「私たちは本当に、主イエスを見たのだ。それなのに、なぜあなたは信じないのか。

トマス、お前は素直じゃない」。弟子たちは、そういうことを、言ったかもしれません。

しかし、主イエスは、そんなことは、一言も言われませんでした。

「決して信じない」、と言っているトマスを、一言も咎めずに、ただ「平和があるように」、と言ってくださったのです。そして、続けて言われました。

「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

主イエスは、ただ、「平和があるように」、と言われて、入って来られました。

そして、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」、と優しく仰いました。

トマスの心の中の葛藤を、すべてご存知の上で、主イエスはそう言われたのです。

「トマス、あなたは、これが見たかったのだね。さあ、私の手の傷に触れてみなさい。わきに手を差し入れてみなさい。間違いなく私なのだ。あなたを、命懸けで愛した私なのだよ」。

そのようにして見せられた傷痕は、十字架の傷跡でした。

トマスは、十字架の傷痕を見せられ、それに触れるようにと、言われたのです。

その十字架の傷痕は、単に疑いを晴らす以上の、深い意味があります。

その傷痕は、主イエスが命懸けで、トマスを愛しておられる、ということのしるしなのです。

主イエスが、トマスの罪を背負われた、ということのしるしです。

主イエスは、私たちが、堅く閉ざした心の中に、入って来られます。そして、仰います。

「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。

復活の主イエスに出会い、この主イエスのお言葉を聞いた時に、トマスは変えられました。

トマスはそこにひざまずいて、「わたしの主、わたしの神よ」と、告白します。

「わたしの主、わたしの神よ」。これが、トマスが言い得た言葉の、すべてでした。

また、トマスが言うべき言葉の、すべてでもありました。

トマスは、これしか言えなかったのです。でも、これさえ言えば、十分だったのです。

私たちが、生ける神様に出会った時に、発することができる言葉は、この言葉だけです。

「わたしの主、わたしの神よ」。この言葉しかありません。この言葉がすべてです。

トマスは、主イエスが復活された日、そこにいませんでした。

主イエスの復活を、他の人から聞いて、受け取る側に立たされていました。

私たちもそうです。私たちも、主イエスの復活を、後から知らされた者です。

その意味でも、トマスは、私たちの代表です。

トマスは、私たちの代表として、疑い、迷い、苦しんでいました。そのトマスを目指して、主イエスは、会いに来てくださったのです。

トマスは、主イエスを見捨てて、逃げてしまいました。そんな自分の所に、主イエスが、来てくださって、「平和があるように」と祝福してくださる。

そんなことは、あり得ないと思っていたのです。

でも、そのトマスの所に、主イエスは、会いに来てくださったのです。

きっと、主イエスは、信じることができずに、苦しみ、悩んでいる、トマスのために、心を込めて、祈ってくださっていたのだと思います。

トマスは、イースターの夜、復活の主イエスに、会えませんでした。でも、主イエスは、トマスのことを、ずっと見ておられたのです。

トマスは、気づいていませんでしたが、主イエスは、ずっと、トマスと共におられたのです。

そして、トマスのためだけに、再び来てくださったのです。

そして、トマスの不信仰を、一言も咎めずに、慈しむようにして、言われました。

「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

こんなことをされたら、私たちはもう、何もできません。もう何も、言えません。

ただ、「わたしの主、わたしの神よ」と言って、ひざまずくしか、できません。

私たちの主は、私たち一人一人のことを、本当に良くご存知なのです。そして、一人一人に、最も適した方法と、お姿をもって、会いに来てくださるのです。

トマスのために祈られ、トマスのためだけに、わざわざ来てくださった主イエス。

その主は、私たち一人一人のためにも祈られ、私たち一人一人にとって、最も受け容れ易い仕方で、来てくださいます。

私たちは、そのことに、気がつきません。しかし、主はいつも、共におられ、私たちのことを、見ていてくださるのです。

そして、「信じない者でなく、信じる者になりなさい」、と言っておられるのです。

「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。

これは、主の命令のように、聞こえます。しかし、これは、主の命令ではなく、実は、主の願いなのです。主イエスが、心から望んでおられることは、ただこのことだけなのです。

この時、果たしてトマスは、自分の指を、主イエスの手の釘跡に、差し入れたでしょうか。

それは、書かれていないので、分かりません。しかし、ただ一つ明らかなことは、「触って信じた」。とは書かれていない、ということです。

触ることは、もう問題ではなくなったのです。そんなことは、もう、どうでもよかったのです。

トマスは、信じられないという、自分の悩みが、主イエスによって、知られている、ということを知ったのです。

それだけでなく、その不信仰にもかかわらず、赦されている、ということを知ったのです。

不信仰のままに、受け入れられていることを、知ったのです。それで十分だったのです。

復活の主イエスには、十字架の傷跡が、はっきりと残っていました。それは、人間の罪が刻んだ、忌まわしい傷跡です。

何故、復活の主イエスの御体には、そのような、十字架の傷が、残っていたのでしょうか。

栄光に包まれた、復活の御体なのですから、そのような傷跡は、消え去っていても良かった筈です。

一体何のために、復活の主イエスの御体に、十字架の傷跡が残っていたのでしょうか。

それは、私たちの罪深い手や指を、ご自身の傷の中に、包み込んでくださるためではないでしょうか。

あなたの罪を、いやあなた自身を、この十字架の傷の中に入れなさい。私は、それを包み込んで、あなたと共に生きて行こう。復活の主イエスは、そう言われているのです。

そして、主イエスは、「見ないで信じる者になりなさい」、とトマスに言われました。

「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」。

この言葉も、トマスを叱っておられるのではありません。

そうではなくて、見ないで信じる幸いへと、招いてくださっているのです。

主イエスは、見ないで信じる人を、祝福しようとしておられるのです。

それが、主イエスの御心なのです。主イエスの切なる願いなのです。

主イエスは、信じることを、大切にされています。信じても、信じなくても良い、というのではありません。私たちが、信じる者になることを、主イエスは、心から願っておられます。

何故、それ程、信じることが大切なのでしょうか。

もし、信じることをしないなら、神が、人となられて、この世に来てくださったことは、無意味になるからです。主イエスが、十字架にかかられて、苦しまれたことも、無駄になります。

父なる神様が、御子を、この世に与えてくださったのは、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」、なのです。

主イエスを信じるとは、主イエスを、「わが主、わが神」、と呼ぶことです。

主イエスと結ばれて、主イエスのものとされることです。心を明け渡して、主イエスの愛を、受け入れることです。

そして、その愛に押し出されて、「わが主よ、わが神よ」、と呼ぶのです。

愛する兄弟姉妹、私たちは心の中で、「わが主よ、わが神よ」、と呼ぼうではありませんか。

いえ、声に出して、「わが主よ、わが神よ」、と呼び掛けようではありませんか。

主イエスは、今日も、戸の外に立って、私たちの心の扉を、叩き続けてくださっています。

そして、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」、と語り掛けてくださっています。

私たちが、扉を開けて、「わたしの主、わたしの神よ」、と言って、礼拝することを願っておられます。私たちは、扉を開けて、この主を、私たちの心の内に、迎え入れましょう。

信じない者ではなく、信じる者と、ならせていただきましょう。