MENU

過去の礼拝説教

「信仰に踏みとどまりなさい」

2019年01月20日 聖書:使徒言行録 14:21~28

会堂建築の御業が進められている今、私たちは、教会の原点を探り、そこに立ち帰りたい、との思いから、使徒言行録から、ご一緒に御言葉に聴いております。今朝の御言葉は、パウロの第一回伝道旅行の、終わりの部分です。

先週は、リストラの町で、パウロが、足の不自由な人を癒した、という奇跡物語から、御言葉に聴きました。

この奇跡に驚いた人々は、パウロとバルナバを、ギリシアの神々に祭り上げようとしました。二人は必死になって、それを止めさせて、まことの神様の恵みを、熱心に語りました。

二人の働きによって、リストラの町での伝道は、大きく前進しようとしていていました。ところが、ここでの伝道は、思いがけないことによって、突然終ることになってしまいます。

アンティオキアとイコニオンから、パウロたちに反対するユダヤ人たちが、リストラまでやって来たからです。先週の御言葉の最後の所、19節、20節に、そのことが、書かれていました。

リストラの町は、アンティオキアから、160キロ以上も離れています。それなのに、パウロとバルナバを追って、わざわざやって来たのです。何という、執念深さでしょうか。

パウロたちに敵対する、ユダヤ人たちは、リストラの町の群衆を抱き込んで、パウロに石を投げつけて、殺そうとしました。そして、彼が死んでしまったと思って、町の外に引きずり出し、そこに放り投げたのです。しかし、パウロは、死んでいませんでした。

パウロは、激しく石で打たれて、気絶しましたが、命は取り留めたのです。これは、奇跡的な、神様の助けです。もし、パウロが気を失って、「死んでしまった」と、思われなかったら、本当に、この場で、殺されていたかもしれないからです。

パウロは、かつて、ステファノが、石を投げられて、殉教した時に、首謀者としてその現場にいて、ステファノの殉教の様子を、目撃していました。

しかし、今度は、自分が、同じ目に遭っているのです。それでも尚、パウロの、福音宣教への情熱は、冷める事なく、更に先へと、前進していきました。

このようなパウロの、命懸けの伝道は、彼がステファノの殉教を、目撃していたことと、深い関係が、あるのではないかと思います。

ステファノが、石で打たれ、殺されていく。その最期の時にも、彼の顔は、尚も輝いていました。そして、天を見上げ、共にいてくださる、主イエスを、しっかりと見つめていました。

その時の、ステファノの姿は、パウロの脳裏に焼き付いていて、離れることがなかったと思います。ステファノの殉教は、それ程、大きな衝撃を、パウロに与えたのです。

ですから、ダマスコ途上における、パウロの劇的な回心も、また、キリストの使徒として、喜んで生涯をささげる、決断をなしたことも、ステファノの殉教が、その出発点となっていると、思います。

ステファノは、一粒の麦として、死にましたが、そこから、パウロという芽が出たのです。

敵対者たちは、パウロが、てっきり死んだものと思って、町の外に放り出しました。

そのパウロを、弟子たちが心配そうに、取り囲んでいると、彼は体を起して、立ち上がり、また町に入って行った、と書かれています。

その足どりは、ふらついていたかもしれません。しかし、その後ろ姿からは、凄まじい程の気迫が、滲み出ていたと思います。

このパウロの、鬼気迫るような、伝道の姿を、じっと目撃していた、一人の若者がいました。

一体、誰でしょうか。テモテです。テモテは、この地方の出身で、リストラやイコニオンでの、パウロに対する、激しい迫害を、目撃していたのです。

そのことは、パウロ自身が、テモテへの手紙二の3章11節で語っています。

新改訳聖書で読みます。「あなたは、アンティオキア、イコニオン、リストラで、私に降りかかった迫害や苦難に、ついて来てくれました。私はそのような迫害に耐えました。そして、主はそのすべてから私を救い出してくださいました。」

テモテは、パウロが石で打たれ、死に直面しても尚、福音を伝えていく姿を見ていました。

そして、「ここまでする信仰とは、どういうものなのだろう」という思いに、迫られたのです。

そして、その信仰の素晴らしさを知ったとき、自分自身も、命をかけて、福音を伝えて行く者へと、変えられていったのです。

彼は、やがて、パウロの第二回、第三回伝道旅行に、同行するまでに成長していきました。

ステファノの殉教を目撃したパウロが、不屈の宣教者になり、そのパウロの苦難を目撃したテモテが、パウロに従って、伝道者として成長していく。

命懸けの伝道は、このように、それを目撃した人の生き方を、変えてしまうのです。

さて、リストラで、命に危険にさらされたにもかかわらず、パウロとバルナバは、そのすぐ翌日には、次の宣教地デルベに向かって、旅立ちました。これは、本当に、凄いと思います。

気絶するほど、石で打たれたのに、休む間もなく、もう翌日は、次の町に向かったのです。二人の伝道にかける熱意は、とても常識では測れません。

恐らく、弟子たちは、もう少し休むようにと、勧めたと思います。しかし、二人の熱意は、そのような勧めを、全く受け付けないような、凄みを持っていたのです。

デルベでの、パウロとバルナバの、伝道の記録は僅かです。しかし、21節には、「福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にして」、とありますから、平穏な中での、成功した伝道であった、と思われます。

デルベで伝道した二人は、出発地の、シリアのアンティオキアに、帰って行きました。

聖書の後ろにある地図の7、「パウロの宣教旅行1」、を見て頂くと、すぐ分かると思います。

デルベから、出発地である、シリアのアンティオキアに帰るには、陸路を東へ向かった方が、ずっと近いのです。

ところが、パウロとバルナバは、これまで来た道を、西へと引き返して、リストラ、イコニオン、アンティオキアという、かつて伝道した町々を訪問しました。

しかし二人は、それらの町々で、以前、激しい迫害を受けたのです。もし、そこに戻ったならば、今度こそ、殺されるかもしれません。ですから、普通なら、この道は、選びません。

パウロとバルナバが、そのような危険を、敢えて冒してまで、これらの町々を訪ねたのは、何のためだったのでしょうか。

22節には、「弟子たちを力づけ、『わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない』と言って、信仰に踏みとどまるように励ました」、とあります。

彼らが、わざわざ遠回りをして、来た道を引き返していった理由。それは、それぞれの町に立ち寄って、生まれたばかりの教会を訪問し、信者たちを励まし、力づけるためです。

恐らく、これらの町の信者たちは、大変困難な状況に、置かれていたと思います。

パウロとバルナバは、迫害を受けて、それらの町を、去らざるを得なくなりました。でも、残してきた教会の信徒たちは、信仰に入ってから、未だ日が浅かったのです。

ですから、迫害に耐えかねて、信仰を捨てる恐れも、十分にありました。

そこで、二人は、これらの町のクリスチャンたちを、信仰に踏みとどまるようにと、力づけ、励ますために、戻って行ったのです。

「信仰に踏みとどまりなさい」。これこそが、パウロたちが、救われたばかりの教会員たちに、是非とも伝えたい、と願っていたことでした。

「信仰に踏みとどまりなさい」。この言葉は、何の問題もない、平穏無事な中で、言われたのではありません。苦しみや、困難の只中で、言われた言葉です。実際に、殺されかけた人によって、言われた言葉です。

明日、殺されるかもしれない。でもそういう時に、いや、そういう時だからこそ、信仰にとどまりなさい、と言っているのです。ですから、この言葉には、重みがあったのです。

では、今の時代に生きる、私たちは、この言葉を、どのように、捉えるべきなのでしょうか。

「信仰に踏みとどまりなさい」。これは、2千年前の教会に対して言われたことで、今の私たちには、直接関係のないことなのでしょうか。勿論、そうではありません。

福音が宣べ伝えられるところでは、それに反対する人々による迫害が、必ず起ってきます。このことは、今日においても、変わりはありません。

今、日本では、信仰を持ったために、命の危険にさらされる、ということは無いと思います。

しかし、社会全体が、聖書の教えとは、反対の方向に、流れている中で、信仰にとどまって、御言葉に忠実に従って、生きていくには、有形無形の様々な圧迫と、戦わざるを得ません。

どのような時代にあっても、キリスト者として、真剣に生きていく時には、多かれ、少なかれ、困難が伴うのです。信仰とは、戦って守るべきものなのです。

パウロたちは、その戦いの中にある兄弟たちを、力づけるために、迫害を受けた町々へと、危険を顧みずに、戻って行きました。

22節に、「弟子たちを力づけ」、という言葉があります。この「力づけ」、という言葉は、元々は、「強くする」、とか「支える」、という意味の言葉です。

面白い使い方では、「突っ支い棒となる」、という意味でも、使われるそうです。パウロとバルナバは、困難な状況の中にいる、信徒たちを支える、突っ支い棒になったというのです。

では、二人は、どうやって、信徒たちを、支えたのでしょうか。何が、信徒たちを支える、「突っ支い棒」であったのでしょうか。

それは、御言葉です。彼らは、信徒たちに、神様の御言葉を語りました。そして、この御言葉に、留まり続けなさい。御言葉の恵みの中に、居続けなさい、と勧めたのです。

御言葉こそが、困難な中にいる、あなたたちの支えであり、倒れそうになった時の、突っ支い棒となります。だから、神様の御言葉に、しっかりと繋がって、離れないようにしなさい。

御言葉という突っ支い棒によって、支えられていなさい。二人はそのように勧めたのです。

先週届いた「信徒の友」に、こんな川柳が、掲載されていました。「折れかけた 心に聖句で 添え木する」

素晴らしい句だと思いました。「折れかけた 心に聖句で 添え木する」

まさに、これが、パウロとバルナバが、勧めたことなのです。困難に出遭って、心が折れかけた時、あなた方は、御言葉で、心に添え木して、信仰を守りなさい。二人は、そう言って、励ましたのです

「信仰に踏みとどまる」とは、具体的には、御言葉に踏みとどまることなのです。どんな時にも、御言葉に聴き、御言葉を第一とて、歩んでいく、ということなのです。

そして、その御言葉の中心は、主イエスの、十字架と復活の恵みです。ですから、御言葉に踏みとどまるとは、主イエスの、十字架と復活の恵みの内に、留まり続ける、ということなのです。

神様の独り子主イエスが、この私の罪の贖いとして、十字架に死んで下さり、復活して下さった。それによって、罪の赦しと、新しい命が与えられた。

「信仰に踏みとどまる」とは、この救いの恵みの上に、しっかりと立ち、そこにとどまり続ける、ということなのです。その時、私たちの人生に、真実の突っ支い棒が、与えられるのです。

「信仰に踏みとどまりなさい」。迫害によって、殺されかけた、パウロが言った言葉です。

「私は、信仰を持ったために、殺されそうになった。だから、もう信仰なんか、捨ててしまおう。皆さんも、信仰など捨てなさい。信仰を持っていても、ろくなことはないですよ」。普通なら、このように言う所です。でも、パウロは、そう言いませんでした。

そうではなく、「信仰に踏みとどまりなさい」、と言ったのです。

主イエスに、従って行く時、苦しみや、困難が、あるかも知れない。しかし、その様な時こそ、十字架の主が、最も近くにいてくださるのです。その主を見上げ、その主を喜びつつ、信仰にとどまりなさい。パウロは、そう言って、信徒たちを励ましました。

各地の教会は、まだ生まれて間もない、本当に若い教会でした。信徒たちを、そこに残して行くのかと思うと、二人は、後ろ髪を引かれるような、思いであったと思います。

しかし、二人は、心の底では、平安でした。「彼らをその信ずる主に任せた」からです。パウロたちは、町を去るに当たって、残していく教会を、主に委ねたのです。

彼らは、各教会に、長老たちを任命しました。でも、その長老たちに、「この教会をお前たちに任せるから、しっかりやれ」、と言ったのではありません。主に委ねたのです。

教会とは、主に委ねられるべきものなのです。なぜでしょうか。教会は、主によって建てられた、主のものだからです。

主イエスは、ペトロが、「あなたこそメシア、生ける神の子です」、と信仰告白をした時、こう言われました。

「あなたのその信仰の上に、私は、私の教会を建てる」。

主イエスは、「私は、私の教会を建てる」、と言われたのです。「あなたが、あなたの教会を建てる」のではないのです。英語の聖書では、「I will build my church」、と書かれています。

教会は、主イエスによって建てられた、主の家なのです。主イエスが、創立者であり、オーナーなのです。ですから、全ては、主のものなのです。

パウロも、バルナバも、そのことを、よく知っていました。ですから、長老を立てて、教会の体制を、整えることはしましたが、最後は、すべてを、主に委ねたのです。

これが、教会なのです。私たちは、このことを、深く覚えておきたいと思います。

さて、アンティオキアに帰った二人は、母教会の人々を集めて、神様が、彼らと共にいて行われた、すべてのことを報告しました。

二人は、自分たちの、輝かしい成果を、報告したのではありませんでした。神様がなしてくださったことを、報告したのです。主語は、自分ではなく、神様なのです。

彼らは、喜びと感謝をもって、神様の御業を、報告しました。

アンティオキア教会の人々は、それを、どのような思いで、聞いたでしょうか。

二人が、送り出された時のことを、想い起してください。教会の人々は、断食して祈り、二人に手を置いて、送り出したのです。祈って、送り出したのです。そして、その後も、ずっと祈っていたのです。

神様、どうか二人を守ってください。二人に、恵みと祝福を、注いでください。二人を通して、あなたの御業をなしてください。教会の人々は、ずっと祈っていたのです。

ということは、教会の人たちも、二人と一緒になって、旅をしていたのです。霊において、一緒に旅をしていたのです。

ですから、彼らの報告を聞いた時に、心から喜んだのです。何故、喜んだのでしょうか。

二人の旅は、他人ごとではなかったからです。自分のことであったからです。

今朝、この礼拝に、神奈川教区の海員宣教協力委員会から、ロナルド・ジュリアン宣教が、遣わされて、来ておられます。

ジュリアン宣教師は、劣悪な職場環境で働く、海員たちのお世話をして、船を訪れ、彼らの悩みを聞き、問題解決に協力し、出来る限りの支援をされています。

たった一人で、活動されています。ですから、孤独です。

しかし、ジュリアン宣教師は、祈りをもって、送り出され、今も祈られています。多くの人が、霊において、共に働いています。ジュリアン宣教師の働きを、他人ごとではなく、自分のこととして、祈っている人たちがいるのです。

それらの祈りが、ジュリアン宣教師を、生かし、支え、励ましています。

このように、教会の働きには、祈りが必要なのです。この、茅ヶ崎恵泉教会の働きのためにも、祈りが必要なのです。

どうか皆さん、この教会の働きのために、祈ってください。至らない牧師のためにも、祈ってください。お互いのために、もっと祈っていこうではありませんか。

救われる魂のためにも、祈ってください。そのことを、他人のこととしてではなく、自分のこととして、祈ってください。

もし、一人の人が、救われたなら、祈っている私たちは、お互いに、それを、自分のこととして、喜び合うことができるのです。神様の御業を、共に喜び合うことが、出来るのです。

祈っている群れに、主は、生きて働いてくださいます。御業を見せてくださいます。それが、まことの教会の姿なのです。

私たちが、信仰に踏みとどまっているなら、御言葉の恵みに、とどまり続けているなら、神様は、必ず御業を見せてくださいます。

様々な困難があるかも知れません。しかし、マイナスをプラスに変えてくださり、全てを益としてくださる主が、必ず御業をなしてくださいます。

それを信じて、信仰にとどまり続けましょう。御言葉に、聴き続けましょう。