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過去の礼拝説教

「重荷を負わせない愛の配慮」

2019年02月03日 聖書:使徒言行録 15:22~35

今朝の御言葉は、先週の箇所の続きです。ですから、今朝の御言葉を理解するためには、先週ご一緒に読んだ御言葉を振り返ってみる必要があります。

先週の御言葉は、エルサレム会議と呼ばれる、教会会議のことを、伝えていました。

事の発端は、異邦人を主体とするアンティオキア教会に、エルサレム教会のユダヤ人クリスチャンがやって来て、「あなた方は、割礼を受けなければ救われない」、と言った事でした。

この事を巡って、彼らと、アンティオキア教会を指導していた、パウロやバルナバとの間に、激しい論争が起きたのです。

パウロやバルナバは、人が救われるのは、割礼という儀式によってではなく、主イエスの十字架と復活の恵みを信じる、信仰によるのだ、と主張しました。

これは、「人は何によって救われるのか」という、信仰の根本問題を巡る、対立でした。

ですから、安易な妥協は、許されませんでした。両者は、激しく対立したのです。

この重大な問題を解決するために、エルサレムで教会会議が開かれました。そこで、どのようなことが、話し合われたのか。そのことが、先週の御言葉で、語られていました。

ペトロや、パウロや、バルナバたちの、熱意溢れる言葉によって、会議は、「割礼を受けなくても救われる」、という方向に導かれて行きました。

この会議の議長は、主イエスの肉における兄弟であり、エルサレム教会の指導者でもあった、ヤコブでした。彼が、最後に、「神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません」、と議長裁決を下して、会議は終了しました。

「異邦人を悩ませてはならない」ということは、異邦人クリスチャンに、割礼や律法の重荷を、課してはならないということです。

主イエスを信じる、信仰のみによって、救いに与ることができる。この恵みは、ユダヤ人にも、異邦人にも、みな等しく与えられている。そのことが、確認されたのです。

これによって、キリスト教が、世界宗教として、大きく発展していく道が、開かれました。

ところがヤコブは、発言の終りに、この結論とは、一見矛盾するような、提案をしています。

先週の御言葉の最後の箇所、15章20節に、その提案が書かれていました。

「ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです。」

先週の説教では、この御言葉については、全く触れませんでした。

ですから、今朝は、この御言葉に戻って、聴いてまいりたいと思います。

ここで、ヤコブは、四つのことを、避けるように、と言っています。

これらは当時、異邦人が、ユダヤ人と、食事を共にするために、守るべき条件でした。

ここで、避けるべき第一のものとして、挙げられているのは「偶像に供えて汚れた肉」です。

当時の、ギリシア、ローマ世界には、町の中に、様々な神殿や、祭壇がありました。

そこに動物の肉が、献げものとして供えられ、その後、その肉が市場で売られる、ということがなされていたのです。

しかし、ユダヤ人たちは、それは、異教の神々に供えられた、汚れた肉であり、それを食べると、自分も汚れてしまう、と考えていました。

ですから、ユダヤ人たちは、「この肉は、偶像に献げられたものではない」、ということを、いちいち確認した上で、肉を食べていたのです。

ユダヤ人が、異邦人と会食する時にも、そのような肉が、食卓に出されたら、食べることができませんでした。そのことに対する配慮が、求められたのです。

二つ目は、「みだらな行い」を避けることです。これは、旧約聖書が禁じている、近親相姦などの、性的な罪のことを言っています。

当時の異教社会では、こうしたことが、平気で行われていたようです。ですから、ここで、はっきりと、禁止すべきであると、言い渡されたのです。

三つ目の「絞め殺した動物の肉」と、四つ目の「血を避けるように」というのは、基本的には、同じことを言っています。

ユダヤ人たちは、動物の肉を食べる時に、血は絶対に食べませんでした。律法において、禁じられていたからです。

レビ記17章11節には、「生き物の命は血の中にある」、と書かれています。

ユダヤ人は、生き物の命は血に宿っている、と考えたのです。そして、その命は、神様のものである。命は、神様が与え、神様が取り去られる。だから、神様のものである命を、食べることは許されない。これが、ユダヤ人の信仰でした。

ですから、動物の肉を食べる時には、血は、土に注ぎ出すことが、命じられていました。

動物を屠殺する場合には、必ず血を注ぎ出す、という屠殺方法を取っていたのです。

そういう屠殺方法ではなく、「絞め殺した動物の肉」には、血が残ってしまいます。

ですから、それを食べれば、やはり血を食べることに、なってしまうのです。

それを避けるために、「絞め殺した動物の肉」は、食べないように、と言っているのです。

ヤコブは、異邦人が、これらの禁止規定を守るなら、ユダヤ人との交わりが許される。

だから、割礼は受けなくてもよいが、これらの禁止規定は守りなさい、と言っているのです。

しかし、これらの禁止規定を守るように、という提案は、「信仰のみによって救われる」、という福音と、矛盾するように思えます。

では、この提案の意図するところは、一体、何だったのでしょうか。

ヤコブはそれを、次のように説明しています。15章21節です。「モーセの律法は、昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれているからです。」

つまり、異邦人クリスチャンの周りには、安息日ごとに、ユダヤ教の会堂で、律法を聞いている、ユダヤ人クリスチャンがいる。

そういう人々の、躓きにならないように、配慮をするように、と言っているのです。

主イエスは、どのような食べ物も、清いものとされました。ですから、クリスチャンは、どのような食べ物も、食べることが出来るのです。これは本当に、感謝なことです。

しかし、長い間ユダヤ教の慣習に、浸り切ってきた人は、なかなかそこから、抜け出せずにいました。頭では分かっていても、生理的に受け付けなかったのです。

そのような人たちの、躓きにならないように、配慮しなさい、と言っているのです。

間違って頂きたくないのですが、ヤコブは、この四項目を守ることが、救いに必要である、と言っているのではありません。これらを、救いの条件として、命じているのではないのです。

異邦人クリスチャンが、ユダヤ人クリスチャンを、躓かせないための、愛の配慮として、命じているのです。

例えば、異邦人とユダヤ人が、共に礼拝を守る教会では、異なった習慣を持つ、これらの人々が、共に食卓を囲む機会も、多かったと思われます。

その時、異邦人クリスチャンが、ユダヤ人の食物規定に、全く配慮しなかったとすれば、ユダヤ人クリスチャンは、教会から離れてしまうかもしれません。

ですから、未だ、食物規定に縛られている人々への、心遣いとして、せめてこれらの四項目くらいは、避けるようにしてほしい、と言っているのです。

もしそうでなければ、ユダヤ人たちは、異邦人クリスチャンとの交わりを、受け入れることが、できなくなってしまうからです。

ここにも、私たちが、学ぶべき、大切な教訓があります。

時々、私たちは、「筋を通す」ことに拘って、やたらに正論をふりかざす人に、出会うことがあります。確かに、正論も大事です。

しかし、もっと大事なことは、愛の配慮である、と思います。

愛の配慮を欠いた正論は、人を納得させるよりも、躓きのもととなることが、多いのです。

藤木正三という牧師が、こんなことを言っています。

「人間は誰でも、分かっていても、止められない弱さを持っています。道理の通った正論で、この弱さを裁かれては、堪らないのも事実です。

正論とは、道理は通っているが、人間に届いていない、せっかちさです。

反対に、道理は通っていないが、人間に届いている緩やかさ、それを愛というのです。」

名言だと思います。

使徒パウロも、コリントの信徒への手紙一の中で、他者への愛の配慮という理由で、こう言っています。「それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。」

偶像に供えた肉を、食べてもよいのか、悪いのか。そいうことが、最も大切なことなのではない。食べ物のことで、人々に躓きを与えないように、配慮をすることこそが、最も重要なのである。パウロは、そう言っているのです。

これは、決して表面的な妥協や、安易な歩み寄りを、意味しているのではありません。

「人々の救いのために」というのが、クリスチャンにとって、最優先課題なのです。

この点について、マルティン・ルターは、有名な言葉を残しています。

「大事には一致を。小事には自由を。全てのことには愛を」。

基本は、愛なのです。愛が、律法を全うするのです。愛は全てを完成させる絆なのです。

ヤコブは、ユダヤ人にも、異邦人にも、受け入れることが出来る、愛のある配慮、愛の判断を、神様から与えられたのです。

教会が、真っ二つに分裂するか、と思われた危機を、エルサレムでの会議は、見事に乗り越えることができました。

それは、ここに集まった人々が、人間の考えではなく、神様の御心を、第一に求める思いで、一致したからです。

さて、エルサレム教会は、この会議で得た結論を、諸教会に伝達することにしました。

そこで、教会は、手紙を書いて、パウロとバルナバに、託しました。更に、手紙に記された結論を、証言する証人として、ユダとシラスという、二人の使者も、同行させることにしました。

この手紙は、バルナバとパウロのことを、「わたしたちの主イエス・キリストの名のために身を献げている人たちです」、と紹介しています。

バルナバとパウロは、アンティオキア教会の指導者です。ですから、二人を改めて紹介する必要はない筈です。でもよく知っている人を、改めて紹介するのには、意味があるのです。

ここでは、二人を、高く評価しています。それは、エルサレム教会が、異邦人伝道を支援し、積極的に推し進めようと、していることを、示しています。

従って、この手紙は、異邦人教会への、信任状を兼ねている、とも言えるのです。

会議の結論は、手紙の最後に、簡潔に記されています。それは、20節でヤコブが言ったことと、同じ内容です。

ここで、注目すべきことは、この会議の決定は、人間が決めたことでなく、神様の導きによって、決められたことである、と受け止められていることです。

「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました」、という言い方は、聖霊の導きによって決めた、ということを意味しています。

ヤコブが宣言した、教会会議の決論は、聖霊と教会との、共同決議でした。

これは、教会も、そこでの会議も、そしてそこで得られた結論も、すべて聖霊の導きのもとにあって、なされたということです。

今日、私たちが、役員会や、その他の会議を開く時にも、人間の意見や合議だけで、すべてを決めるという思いで、話し合ってはいけないのです。そうではなくて、御心に従った決定がなされるようにと、聖霊の導きを祈り求めることが、大切なのです。

大切な事柄を決めるときに、教会は会議を開いて決めます。

その会議は、教会の頭なる、主イエスを仰ぎ見て、その導きを求めつつ、話し合いがなされ、結論が出されるのです。

教会の会議は、聖書の朗読と祈りをもって、始められます。

これは、単なる形式ではありません。聖霊が、会議を導いて下さり、主イエスの御心に従った、決定がなされることを、求めている、ということなのです。

教会の歴史で、最初の会議である、エルサレム会議も、聖霊の導きのもとになされました。

そして、救いに与るには、割礼を受ける必要はないという、恵みに満ちた決定を下しました。

その事を、手紙は、「次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷も負わせないことに決めました」、と語っています。

「一切あなたがたに重荷を負わせない」、というのは、割礼などの、律法の重荷を負わせない、という意味です。

但し、「次の必要な事柄以外」と言って、先に述べた、四つの禁止項目を挙げています。

ユダヤ人クリスチャンを、躓かせないために、これだけは守って欲しい。どうか、愛の配慮をして欲しい、と言っているのです。

この手紙を読んだアンティオキア教会の、異邦人クリスチャンは、それをどのように、受け止めたでしょうか。但し書きを付けるなんて、潔くないと思って、不満を持ったでしょうか。

そうではありませんでした。

彼らは、「励ましに満ちた決定を知って、喜んだ」、と書かれています。エルサレム会議の決定を、自分たちに対する、「励まし」として、受け止めたのです。その理由として、二つのことが、考えられます。

その第一は、自分たちに、律法の重荷を負わせない、ということが決められたことです。

律法の行いではなく、主イエスの恵みを信じる、信仰によって救われる。この真理が確認された。これは、アンティオキア教会の、異邦人クリスチャンにとって、大きな励ましでした。

第二に、ユダヤ人クリスチャンと、共に歩む、具体的な道が、示されたことです。

異邦人クリスチャンは、「偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けること」、というように、配慮すべき事柄を、具体的に示されました。

これを守りさえすれば、ユダヤ人クリスチャンと、主にある交わりを、喜ぶことができる。その具体的な道筋が、整えられたのです。

ここにある、配慮すべき事柄とは、負うことのできないような、重荷ではありませんでした。

なぜなら、それは、ユダヤ人クリスチャンを、躓かせないという、愛の律法に、基づいたものであったからです。

アンティオキア教会の、異邦人クリスチャンたちは、配慮すべきと命じられた、四つの事柄は、愛という動機に基づいて、命じられている、ということを、理解したのです。

そして、教会で、最も大切なものは、愛だということを知って、励まされたのです。

割礼の問題を巡って、厳しい緊張関係にあった、アンティオキア教会とエルサレム教会は、ただ主イエスの恵みによって救われる、という福音の真理と、互いに愛し合いなさい、という愛の法則によって、喜ばしい一致に、至ることができたのです。

教会が、励ましに満ちた群れとなるために、必要とされることは何でしょうか。

何よりも、一人一人が、主イエスの救いの恵みに、揺るぎなく立つことです。

お互いに、行いを要求し合うのではなく、主イエスが、私たちのために、成し遂げてくださった救いの御業を、共に信じ、主の愛を、共に喜ぶことを、交わりの中心に置くことです。

そして、第二に、相手に躓きを与えない、という愛の法則が、尊ばれることです。

私たち一人一人は、皆、異なった環境に生きています。考え方や性格も、異なっています。

そんな私たちが、主によって、呼び集められた群れ。それが教会です。

一人一人、皆、違います。しかし、私たち全てに、共通していることがあります。それは、一人一人が、主の限りない愛の対象として、ここに集められている、ということです。

そうであるなら、聖霊の導きによって、愛の法則に従って、歩んでいくことができる筈です。

どうすれば、お互いに、躓かせることなく、共に歩んでいけるのか。そのことを、謙遜な思いで、尋ね求めていける筈です。

性格の強い人が、そうでない人を、躓かせないためには、どうすればよいか。

経済的に豊かな人が、そうでない人を、躓かせないためには、どうすればよいか。

健康な人が、そうでない人を、躓かせないためには、どうすればよいか。

高学歴の人が、そうでない人を、躓かせないためには、どうすればよいか。

そして、信仰の強い人が、信仰の弱い人を、躓かせないためには、どうすればよいか。

一人一人が、主イエスの御心を尋ねつつ、愛し合い、励まし合いながら、共に歩んでいく教会を、目指して歩んでいきたいと願います。

互いに重荷を負わせない、愛の配慮に満ちた教会を目指して、歩んでいきたいと思います。