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過去の礼拝説教

「恵みの言葉に立つ教会」

2019年05月26日 聖書:使徒言行録 20:25~32

皆さんは、愛する人と、もう二度と会えないという時、どのような言葉を、残したいと思われるでしょうか。

クラーク博士は、札幌農学校を去る時、このような言葉を残したと伝えられています。

「少年よ、大志を抱け。この老人のように。金銭や私利私欲のための大志ではなく、…キリストのための大志を抱け」。

また、マザー・テレサは、後に続く人たちに、このような言葉を、残したと言われています。

「昨日は去りました。明日はまだ来ていません。わたしたちにはただ、今日があるのみ。さあ、始めましょう。」

今朝の御言葉は、パウロが、エフェソの教会の長老たちに語った、告別説教の続きです。

パウロは、もう二度と会うことのない、エフェソの教会の人たちに、溢れる思いをもって、別れの言葉を語りました。

是非、これだけは聞いて欲しい。私が去った後も、この言葉をしっかりと握り締めて、これからも歩んで行って欲しい。そのような願いと祈りを込めて、語りました。

この時、パウロが語ったのは、エフェソの教会の長老たち、つまり教会の指導者たちです。

今の、私たちの教会に当てはめれば、役員の方々に対して、語られたのです。

実は、皆さん方は、今朝の御言葉を、ごく最近、既に聞いておられます。

4月7日に、役員任職式が行われました。その時、28節以下の御言葉が、読まれたのです。

「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。・・・今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。』」

この御言葉が読まれた後、役員の方々に誓約をして頂きました。

ですから、今朝の御言葉は、役員としての、基本的な心構えを、教える言葉なのです。

役員になられた方に、是非これだけは聞いて頂きたい、という御言葉なのです。

しかし、この御言葉は、役員や長老たちだけが、聞けばよいというものではありません。

この御言葉は、私たちすべてに、教会とはどのようなものであり、またどうあらねばならないか、ということを語っています。

ですから、役員だけではなく、教会員一人一人が、しっかりと聞くべき御言葉なのです。

特に今、茅ヶ崎恵泉教会は、主の導きのもとに、新会堂建築に取り組んでいます。

この大切な時こそ、教会とは、どういうものであって、どうあるべきか、ということを、しっかりと聞いていかなければ、ならないのです。

皆さんも、ご承知のように、教会とは、建物のことではありません。建物がなくても、教会は成り立ちます。では、教会とは、一体、何なのでしょうか。

28節に、「神が御子の血によって、御自分のものとなさった神の教会」、と書かれています。

この御言葉が語っているように、教会とは、主イエスの十字架の血という、尊い対価を払って、神様が、ご自分のものとして、買い取ってくださった者たちの群れなのです。

神様に買い取られた者たちの群れ。それが教会なのです。

教会は、独り子の命さえも、惜しみなく与えてくださった、神様の愛によって、成り立っているのです。ですから、教会は、神様のものなのです。

皆さん、私たちは、教会を、誰のものだと、思っているでしょうか。

私たちは、よく、牧師の名前をあげて、「○○先生の教会」、ということがあります。

ということは、教会は、牧師のものだと、思っているのでしょうか。今は、教会を、牧師の所有物だと、思っている人は、まずいないと思います。

でも教会とは、牧師さんがやっているものだ、と思っている人はいるかもしれません。あそこで、牧師さんが教会をやっている。そんな風に、捉えている人は、いるかもしれません。

或いは、役員さんたちが、やっているものだ、と思っている人が、いるかもしれません。

いや、そうではない。教会は、牧師のものでも、役員のものでもない。

教会員みんなのものだ。だから、みんなで教会を守っていかなくてはならない。

そう思っている人も、いるかもしれません。

しかし、それらの思いは、どれも間違っています。どれも、正しくありません。

教会は、牧師のものでも、役員のものでも、教会員みんなのものでも、ありません。

たとえ、その教会が、ある牧師の、献身的な働きによって、全くのゼロから開拓されたとしても、その教会は、牧師のものでは、ありません。

或いは、ある有力な信徒の、多額の献金によって、建てられ、維持されているとしても、教会は、その信徒のものではありません。

教会は、神様のものなのです。神様が、御子イエス・キリストの血という、かけがえのない対価を払って、買い取ってくださった者たちの群れ。それが教会です。

私たちは、そのことを、何度も聞かされています。幼い時から教えられています。

でも、この大切なことを、本当に、分かっているでしょうか。

教会は、神様のものである。このことを、揺るぎない真理として、確かに、握り締めているでしょうか。

頭では理解していても、実際の教会生活では、教会は、あの牧師のもの、あの有力な信徒のもの、いや、私たちみんなのもの。そういう思いに、陥っていることはないでしょうか。

でも、改めて覚えて頂きたいのです。教会は、神様のものなのです。

この事を忘れてしまうと、私たちは、大きな過ちを、犯してしまいます。

教会で、神様の御心よりも、人間の思い方が、大事にされてしまう、という過ちです。

神様の御言葉よりも、人間の言葉の方が、優先されてしまう、という間違いです。

たとえ、それが、牧師の思いや言葉であろうと、役員の思いや言葉であろうと、或いは、強い影響力を持つ、有力な信徒の思いや言葉であろうと、大きな違いはありません。

もし、人間の思いや言葉が、神様の御心や、神様の御言葉よりも、大事にされてしまうなら、そこはもはや教会ではありません。教会は、神様のものなのです。

その大切な神の教会を、管理、運営するために、「聖霊は…あなた方を、この群れの監督に任命なさったのです」、とパウロは言っています。

聖霊が、長老たちを、任命したといっているのです。聖霊が任命した。

牧師にしても、役員にしても、人間が、自分たちの勝手な思いによって、立てた者ではなくて、聖霊によって、任命された者なのです。これは、とても大切なことです。

聖霊は、教会に、牧師や、役員や、或いは、必要な奉仕者を任命します。そして、任命した者たちの働きを通して、神様の御心を、進めていかれるのです。

私たちは、そのことを、大切なこととして、受け入れ、信じていくのです。

そのようにして立てられた奉仕者たちに、求められている、大切な務めが、二つあります。

それは、自分自身に気を配ることと、教会という群れ全体に、気を配ることです。

聖霊によって任命された指導者たちは、自分自身と、群れ全体とに、気を配らなければならない、というのです。

先ず、「あなたがた自身に」、つまり自分自身に、気を配りなさい、と教えられています。

自分自身が、御言葉に従っているか。自分の思いではなく、主の御心を優先しているか。

そのことに、いつも気をつけていなさい、と勧められているのです。

教会の奉仕に、一生懸命になるあまりに、自分自身の信仰の養いが、疎かになっている。

そして、いつしか、御言葉に聴くことを、忘れてしまっている。

そういうことにならないように、まず自分自身に気を配りなさい、と教えられているのです。

そして更に、「群れ全体に」、気を配ることが、求められています。

教会の群れ全体が、本当に御言葉に従って、歩んでいるか。御言葉よりも、人間の言葉が、優先してしまってはいないか。そのことに、いつも気を配っていなさい、というのです。

役員任職式においても、そのことが、最も大切な、役員の務めとして、勧告されていました。

「もしも、真理から迷い出る者があるならば、愛をもってその誤りを正し、彼らをよく導くのはあなたがた役員の務めです。」 任職式で、このように勧められていました。

パウロは、エフェソの教会の長老たちへの、最後の言葉として、このことを、どうしても語っておきたい、と思ったのです。

なぜなら、教会が、御言葉から離れて、人間の言葉に支配されていく、ということを、パウロ自身が、しばしば見て来たからです。

パウロは、そのことを、29節、30節で語っています。

「わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。」

間違った教えや、人間の思いを持った偽教師が、教会の中に入り込んで、教会の信徒を惑わすことがある。それらは、必ずしも、教会の外部から、侵入するとは限らない。

内部からも、そうした危険は起きる。あなた方の中からも、そういう者が現れる。

パウロは、そのことを警告しています。

では、そういう人たちは、何をするのでしょうか。彼らは、「邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする」、というのです。

「弟子たちを従わせようとする」。これは、自分の子分を造ろうとすることです。つまり、自分を中心とする、派閥を造ろうとするのです。

そうなりますと、その指導者は、教会という主の御体を引き裂いて、食い散らす、残忍な狼となってしまうのです。

このようなことが、起らないためには、どうしたらよいのでしょうか。

31節は、こう言っています。「だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい」。

自分は、この三年間、エフェソの教会で、「夜も昼も涙を流して教えてきた」。

その言葉を、いつも想い起こして欲しい。パウロは、そう言っているのです。

では、パウロは、夜も昼も涙を流して、何を教えてきたのでしょうか。

それは、主イエスの十字架と復活です。パウロが語ったことは、これ以外にありません。

罪なき神の独り子主イエスが、私たちの罪を贖うために、十字架にかかって死んで下さった。ただ私たちを愛する、その愛の故に、背き続ける私たちに代わって、命を献げて下さった。

そして、三日目に、復活してくださった。それによって、私たちに、罪からの解放と、永遠の命の希望を、与えてくださった。この出来事です。

パウロは、ただひたすら、この救いの出来事を語りました。主イエスの大きな愛に迫られて、涙を流しながら、夜も昼も語ったのです。

ここに、あなたの救いがあります。どうか、この恵みに、生かされてください。パウロは、エフェソの教会の信徒一人一人に、命懸けで語ってきました。

そのパウロだからこそ、言い得た言葉があります。それが26節、27節の言葉です。

「特に今日はっきり言います。だれの血についても、わたしには責任がありません。わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなく、あなたがたに伝えたからです。」

「だれの血についても、わたしには責任がありません」。これは、もし、私が語った、神の教えに従わずに、滅びる人がいたとしても、私には責任がない、ということです。

一見すると、冷たい言葉に聞こえます。しかし、パウロは、三年間、夜も昼も、涙を流して、神の言葉を伝えてきたのです。伝えるべきことは、すべて伝えたのです。

だから、私がいなくなっても、私が語ったことを忘れずに、どうか想い起して欲しい、と言っているのです。

ですから、このパウロの言葉は、祈りです。冷たく突き放す言葉ではありません。

学校の先生が、三年間担任した、愛する生徒の卒業に際して、万感の思いを込めて、こう言ったとします。

「私は、三年間、命懸けで、あなた方を教えて来た。夜も昼も、涙を流しながら、教えるべきことを、すべて教えた。だから、卒業したら、あなた方は、自分で責任をもって、生きていって欲しい。先生が、教えてくれなかったから、こうなった。だから先生の責任だ、などと言わないで欲しい。」 パウロが、言いたいことは、恐らく、こういうことであったと思います。

私は、語るべきことを語り尽くした。だから、これからは、私から聞いた神の言葉を、想い起して、それに従って、生きていって欲しい。これは、パウロの祈りの言葉です。

パウロの祈りは、32節にも、記されています。「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです」。

パウロは今、エフェソ教会の長老たちとの、最後の別れに臨んでいます。

この時、パウロは、愛するエフェソの教会を、誰に託そうとしているのでしょうか。

長老たちに、託そうとしているのでしょうか。「この教会を、君たちにゆだねるから、しっかりやれ」、と言っているのでしょうか。そうではありません。

パウロは、自分よりも優れたものに、愛する教会を託そうとしています。

後は、あなたに任せますから、よろしく頼みます。安心して、そう言うことができるのは、自分よりも優れた存在に対してだけです。

私事を申し上げて恐縮ですが、献身して神学校に進むようにと、神様からの召しを受けた時、私は、米国系のコンサルティング会社の経営に携わっていました。

契約社員や派遣社員も含めて、500人ほどの従業員がいました。内部の運営面では、私がトップでしたから、突然辞めると言った時、社内に大きな動揺が起きました。

「柏さん、私たちを見捨てるのですか」、と何人もの人から言われました。その時、「私よりも優れた後任を、きっと探しますから、安心してください」、と言って納得してもらいました。

そして、多くの候補者と面接し、「この人なら」と思う人に、後を託しました。

愛する人々を委ねるのは、信頼のおける、優れた存在でなければ、できません。

パウロは、愛するエフェソ教会を、神とその恵みの言葉とに、ゆだねると言いました。

神様とその恵みの御言葉とに、ゆだねる。これ程、確かなことはありません。

なぜなら、教会は、神様のものだからです。神様が、命がけで買い取った群れが、教会だからです。その神様の愛の御手に託す。その神様の、恵みの言葉に、ゆだねる。

これ程、確かなことはありません。

「ゆだねる」とは、「前に置く」という意味の言葉です。パウロは、どんなに望んでも、永遠に、エフェソにいることはできません。いずれは、去っていかなければならないのです。

ですから、パウロは、今まで自分の前にいた、エフェソの教会の人たちを、御言葉の前に置き直して、私は去って行く、と言っているのです。

これからは、あなた方の前にいるのは、私ではなく、御言葉です。だから、私を見るのではなく、御言葉に導かれて、歩みなさい、と言っているのです。

パウロだけではありません。伝道者、牧会者は、皆、同じです。

かつて、この教会を牧会された、高戸先生も、小橋先生も、大門先生も、坐間先生も、この教会を去っていかれました。

その時、パウロと同じように、神とその恵みの言葉とに、この茅ケ崎恵泉教会を、ゆだねます、という祈りをされて、去って行かれたと思います。

そのように祈られた先生方は、安心して、去って行かれたと思います。

なぜなら、茅ケ崎恵泉教会を託した、神様の御言葉は、「恵みの言葉」だからです。

そして、その恵みの言葉は、私たちを「造り上げる」と、語られています。

この「造り上げる」という言葉は、「家を建てる」という意味の言葉です。

神様の恵みの御言葉は、教会という神の家を、建て上げるのです。

まさに今、私たちは、新会堂の建築を進めています。私たちは、この会堂建築を、何にゆだねているでしょうか。

設計士にゆだねているのでしょうか。施工業者に委ねているのでしょうか。或いは、会堂建築委員の方々に、ゆだねているのでしょうか。

そうではありません。私たちは、教会建築の御業を、神様の恵みの御言葉に、ゆだねているのです。

ですから、どんな時も、御言葉に聴き、御心を尋ねていかなければ、ならないのです。

私たちが、神様の恵みの御言葉に、ゆだねていくなら、必ず神の家は、建て上げられます。他のものにゆだねるのではなく、神の恵みの御言葉に、ゆだねていくなら、必ず、私たちの思いを遙かに超えた、神の御業を見させていただけます。

神様の恵みの御言葉には、そのような力があります。その御言葉の力を信じ、ゆだねて、共に歩んでいきたいと思います。