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過去の礼拝説教

「魂の渇きを癒す水」

2019年06月09日 聖書:ヨハネによる福音書 7:37~39

今朝、私たちは、ペンテコステ、聖霊降臨日礼拝を、ご一緒にささげています。

ペンテコステとは、ギリシア語で「50番目」という意味です。主イエスが復活された日、つまり、イースターから数えて、50番目の日が、今日になるのです。

この日に、エルサレムの、とある家の2階に集まって、熱心に祈っていた、120人の弟子たちに、聖霊が降りました。

それまでは、ユダヤ人の迫害を恐れて、ひっそりと隠れていた弟子たちが、聖霊の力に満たされて、力強く立ち上がり、その後、世界各地に、福音を宣べ伝えて行ったのです。

さて、今朝の御言葉は、「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に」、と語り始めています。

ここで言われている祭りとは、「仮庵の祭り」です。なぜ、この朝、ペンテコステには、直接関係がない、「仮庵の祭り」での出来事を、敢えて読んだのでしょうか。

それは、この箇所が、聖霊を与えられることの意味を、私たちに教えてくれているからです。

これから、ご一緒に、そのことを、探っていきたいと思います。

仮庵の祭りというのは、イスラエルの民が、エジプトを出てから、40年の間、荒野で仮の宿に住んだことを、想い起すための祭りです。

荒野での暮らしは、困難の連続でした。しかし、そのような時にも、主は、いつも共にいてくださり、食べ物や、飲む水を与えてくださった。

その恵みを忘れないように、この祭りの一週間の間、人々は、家の庭や屋上に作った、仮小屋に住んで、先祖たちの荒野の生活を、想い起こしたのです。

そして、この祭りの時に、エルサレム神殿では、「水を注ぐ」、という儀式が行われました。

神様は、荒野でも、水を与えてくださった。私たちの渇きを癒してくださった。

そのことを、想い起して、感謝するための儀式でした。

祭りの間の7日間、毎日朝になると、祭司が神殿の丘を降りて、シロアムの池に行って、聖なる水を、黄金の桶で汲みます。そして、その水を、神殿に運び、祭壇に注ぐのです。

それを大勢の群衆が取り囲んで、大きな声で賛美します。

イスラエルの人々にとっては、この儀式は、単に、大昔の荒野の体験を、想い起こさせるため、だけではありませんでした。命の水を、待ち焦がれる儀式でもありました。

その水というのは、預言者エゼキエルが、幻の内に見た水です。

やがて神様の救いが完成する、その日、神殿の敷居から水が溢れ出る。そして、その水が川となって流れる。そういう幻を、エゼキエルは見ました。

その川の水は、不思議な力を、持っていました。その水が流れる所では、すべての水がきれいになり、すべてのものが生き返るのです。

更に、この水に住む魚は、非常に多くなり、その川のほとりにある樹には、絶えることなく、実が実る、というのです。魚も、植物も、そして人間をも、すべてを、豊かに生かす。

そのような命の水を、人々は待ち焦がれながら、この仮庵の祭りを、祝っていたのです。

しかし、祭司が、いくら立派な黄金の桶で、水を汲んで、祭壇に注いだとしても、それは、命の水ではない。ただの水に過ぎない。人々は心の底で、秘かに、そう思っていました。

その時、音楽が奏でられ、人々は興奮して、歓喜の歌声を上げます。

しかし、それはあくまでも、祭りの儀式に過ぎない。そのことを、解っていました。

祭りの興奮で、気持ちを覆い隠していましたが、実は、人々は、心の奥底で、渇いていたのです。本当に、自分を生かす、命の水に、渇いていたのです。

目の前にある、金の桶に入った水は、魂の渇きを、真実に癒すことはできない。

人々が、本当に求めていたのは、魂の渇きを癒す、命の水だったのです。

1996年に、アメリカ海兵隊の、ジョイ・モーラという人が、イラン沖で停泊していた空母から、ちょっとした弾みで、海に落ちてしまいました。

しかし、72時間後に、奇跡的に、イランの漁船に拾われて、助かります。

後に、インタビューに答えて、「その72時間、神様は、何度も彼を、絶望の淵から引き上げ、支えてくださった」、と彼は証しをしています。しかし、また、こんなことも言っています。

海に漂う間、彼の内側から、非常に強い欲求が上がって来た。その欲求が、やがて叫びとなり、彼を支えた、というのです。一体、どのような、叫びだったのでしょうか。

それは、「水が欲しい」、という叫びであったそうです。

水が欲しい。海に漂っているのです。周りは、水、水、水。一面の水なのです。

その水の中で、全身が叫んだのです。「水が欲しい。自分を生かす、命の水が欲しい」。

「命を支える水が飲みたい」。この欲求が、彼を支えたのです。

私たちは皆、心の奥深い所で、渇くことのない、生ける水を求めています。谷川の流れを慕う鹿のように、命の水を、慕い求めています。

この世の富や栄誉を、いくら獲得しても、心の渇きは、決して癒されません。一つの欲望を満たしても、また直ぐに渇きます。限りがないのです。安らぐことがないのです。

なぜなら、人間は、神様のもとに帰らない限り、本当の平安を、見出すことはできないように、造られているからです。

私たちは、単なる生き物ではありません。目的をもって、神様に創造されたものなのです。

その目的とは、神様との、活き活きとした交わりに、生きるということです。

ですから、たとえ、この世の様々な楽しみに、囲まれていても、心の奥底では、神様から与えられる、生ける水を求めて、叫び続けているのです。

主イエスは、そのことを、よくご存知でした。人々の、心の奥底にある、魂の渇きを、知っておられました。ですから、この祭りの騒ぎの只中で、主イエスは、大声で言われたのです。

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」

新改訳聖書の脚注には、この御言葉は、「いつもわたしのもとに来て、いつも飲んでいなさい」、という意味を含んでいる、と書かれています。

「誰でも渇く者は、いつもわたしの所に来て、そしていつも飲んでいなさい」、と主イエスは言われた。そのような意味がある、というのです。

私たちは、過去の恵みを想い起し、それにいつまでも、頼っていることがあります。

「あの時は、あんなに恵まれた。あんなに祝福された。あの時の恵みを、想い起こして、頑張ろう」。そう思うことがあります。それは、必ずしも、間違ってはいません。

でも、主イエスは、言われるのです。そうではなくて、「いつもわたしのところに来て、いつも飲んでいなさい」。

私の恵みは、毎日新しく与えられている。私の祝福は、日毎に新たになる。それを、毎日、いや、いつも受け取りなさい。いつも、私が与える命の水を、飲んでいなさい。

そうすれば、貯えられた恵みは、あなたの内で泉となり、やがて、その泉から、生ける水が、川となって、流れ出るようになる。そのように、主イエスは、私たちを招いておられます。

「仮庵の祭り」に来ている人々は、祭司が、祭壇に水を注ぐ、儀式を見ています。

その水は、シロアムの池から、汲んで来た水です。立派な黄金の桶に入っています。

しかし、それは、単なる水に過ぎません。人々は、そのことを、よく知っています。

この儀式によっては、自分の魂の渇きは、癒されないということを、知っているのです。

でも、その渇きを、祭りの興奮によって、一時的に、覆い隠そうとしているのです。

そういう中で、主イエスの招きの声が、響きます。

「だれでも、いつもわたしのところに来て、いつも飲みなさい」。

主イエスは、「だれでも」と言われました。この「だれでも」の中に、私たちも入っています。

私たち一人一人も、主イエスから、命の水を頂いて、魂の渇きを癒すようにと、招かれているのです。

ここで、主イエスが、与えてくださる、命の水とは、聖霊のことだと、御言葉は言っています。

聖霊とは、父なる神様と、主イエスから、送られる、神の霊です。

ですから、それは、神様の御心そのものです。主イエスの思いそのものです。

そして、神様の御心、主イエスの思いとは、愛です。私たちに対する愛です。

私たちを救うために、命さえもささげてくださった愛です。

それが、いつでも、だれにでも、与えられる、というのです。

そして、それを頂いた時、私たちの渇きは、初めて、真実に癒され、私たちの内側から、命の水がほとばしり出るような、喜びに満たされるのです。

私たちの中には、本来、そのような愛の泉はありません。ですから、いつも、その愛を与えて頂かなければ、私たちの内にある泉は、涸れてしまいます。

先週の祈祷会において、ルカによる福音書の11章5節~13節の御言葉を学びました。

主イエスは、弟子たちに、主の祈りを教えられた後、それを補足するために、ある譬え話を語られました。

真夜中に、旅行中の友人が、突然訪ねて来た。でも、その人に食べさせるパンがないので、近くの友人にパンを借りに行く、という譬え話です。そして、執拗に頼んだので、既に寝ていた友人が、わざわざ起きて来て、パンを与えてくれた、というのです。

この譬え話で、パンを与えてくれた人は、神様です。私たちは、友人に与えるパンを持ってないので、神様に借りに行ったのです。パンをひたすらに、願ったのです。

私たちに欠けていたパン。それは、私たちの愛を表しています。赦しの心を表しています。

友人にねだられたパンというのは、愛のパンなのです。赦しのパンなのです。

愛が求められている時、赦しが求められている時、そこで、私たちは、自分には、パンがないことを知るのです。愛がないのです。赦す力がないのです。それが私たちの現実です。

しかし、私たちが、愛の貧しさの中に、赦しの貧しさの中に、立ちすくんでしまう時。

その時に、主のお言葉が響きます。「願ったらよい。しきりに願ったらよい」。

愛の欠乏を嘆きつつ、「神様、私には、愛がありません。どうぞ、私に愛を与えてください」と訴えるならば、必ず、その折りは聞かれる、と約束してくださるのです。

そして、最後に、主イエスは、こう言われています。

「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

あなた方は、罪深い者であっても、自分の子供には、良い物を与えようとするではないか。

それなら、天の父なる神様は、あなた方に、良い物をくださらない筈がない。

天の父なる神様が、与えてくださる良い物。それこそが、聖霊なのだ、と主イエスは言われました。神様が、私たちの祈りに応えて、与えてくださるのは、聖霊なのです。

先程も言いましたように、聖霊とは、神様の御心そのものです。そして、神様の御心とは、愛です。私たちに対する、限りない愛です。

私たちが、真実に求めているのは、これなのです。神様の愛なのです。愛なる神様に出会い、神様の愛に包まれること。これが、私たちが、求めていることなのです。

その時、私たちの、魂の渇きは、真実に癒されるのです。

以前、岩谷香さんという方の、お話をさせて頂きました。覚えておられる方も多いと思います。

もう60年以上も前のことです。岩谷香さんは、ミス青森に選ばれました。

ところが、職場の友人がそれを妬んで、岩谷さんの美しい顔に、硫酸をかけたのです。

加害者は即座に逮捕され、刑務所に入れられました。

一方、岩谷さんは、東京の警察病院へ入院し、そこで1年半以上に亘って治療を受けました。

この警察病院に奈良本さんという、親切な看護婦さんがいました。

彼女が、あまりにも親切なので、ある日、岩谷さんは「あなたはどうして、そんなに親切なのですか」と質問しました。

そう聞かれて、奈良本さんは、「私は職務上、当たり前の事をしているのですが、親切と受け取られたことを、嬉しく思います。強いて言いますなら、私は隣の富士見町教会に通っています」、と答えました。

岩谷さんは、「私も心の平安を得たいので、教会に連れていって下さい」、とお願いしました。それから2人の教会通いが始まりました。

何ヶ月がたって、退院の日が近付いてきました。岩谷さんは、洗礼を受けたいと決意して、そのことを牧師に伝えました。

この教会の牧師であった島村亀鶴先生は、彼女を前に座らせて、こう言いました。

「あなたに聞いておきたいことが、一つあります。あなたは今、洗礼を受けて、イエス様の弟子になろうとしています。

そのイエス様は、十字架の上で磔になって殺されました。その時、イエス様は、自分を殺そうとしている人々のために祈られました。「どうか、彼らの罪を赦して下さい」と。

あなたは、このイエス様の弟子になるのですから、あなたに硫酸をかけた、そのお友達を赦しますか」。 この問いに、彼女はしばらく沈黙していて、すぐには答えませんでした。

暫くしてから、岩谷さんは、体をねじるようにして、「赦します」と静かに言いました。

岩谷さんは洗礼を受け、青森の自宅に帰りました。

しかし、自宅に帰ったものの、彼女の心に、まことの平安はなかったのです。

島村先生から、「あなたに硫酸を浴びせた人を、赦すことができるか」、と聞かれた時は、「ハイ」と答えることができた。

その時は、聖霊に満たされた祈りの場に居て、それはできると、素直に思ったのです。

けれども、郷里には、厳しい戦いの日々が待っていました。

醜い顔になった屈辱と、消えることのない、肉体の不自由さと痛みに、さいなまれました。

そして、前途の不安に思い悩む度に、決して赦していない自分を、発見しました。

聖書に、赤線をいっぱい引いて、暗唱するほどに、一生懸命読んでも、具体的な喜びの力とはなりませんでした。本当の平安は、与えられませんでした。

そのような時に、岩谷さんは、イザヤ書53章と出会いました。それはまさに光でした。

そこから、主イエスの十字架の愛を、知らされたのです。

罪なき神の独り子が、この私と同じ、弱い肉体を持つ、ただの人間として、あの恐ろしい、十字架の刑罰を受けられた。そして、父なる神様にまで捨てられ、陰府の底にまで下られた。

それは、この私の罪の身代わりであった。そのことによって、私は赦されているのだ。

そのことが分かりました。聖書の御言葉が、生ける力となって、迫って来ました。

限りない神様の愛が、注がれた時、「赦すのは私ではない。私こそ、赦されねばならない者なのだ。加害者は彼女ではない。私こそ加害者なのだ。主よ、赦してください」と、神様の御前に泣きながら祈りました。

この信仰が与えられると、岩谷さんは、驚くべき行為に出ました。

和歌山の刑務所にいたその友達に、ひっきりなしに手紙を書いて、「私はイエス様によって救われました。あなたもイエス様を信じて、罪を赦されますように」、と勧めたのです。

しかし、何度手紙を出しても、返事は一通も来ませんでした。

やがて、刑期を終えたその友達が、青森に帰って来ました。そして、自分の実家に帰るよりも前に、岩谷さんの家にやってきたのです。

玄関の戸を開けて、二人はじーっと見つめ合いました。何も言いません。いえ、何も言えません。長い沈黙の後で、その友達はこう言いました。

「あなたが手紙を何度もくれたのは、私を誘い出して、殺すつもりなんでしょう。私にはもう前途の希望もありません。殺すなり、何なりと、あなたのしたいようにしなさい」。

それを聞いた岩谷さんは、「それは違います、わたしは本当にあなたを赦しています」、と必死になって言いました。

それを聞いて、その友人に目から、大粒の涙があふれ出し、わーっと泣き出し、「どうか赦してください」、と岩谷さんの胸にすがったのです。

そしてその後、岩谷さんとその友達は、何と一緒に住み、お互いに励まし合いながら、共同生活を始めたのです。

神様は、岩谷さんに、命の水である、聖霊を注いでくださいました。岩谷さんに、神様の愛を分からせ、赦しへと導いたのは、聖霊でした。手紙を書かせたのも、聖霊でした。

聖霊は、岩谷さんが求めていた、愛のパン、赦しのパンを、与えてくださり、岩谷さんの、心の渇きを、癒してくださったのです。

友人の心を開いて、和解へと導いたのも、聖霊の働きでした。聖霊は、私たちを、生かすだけではありません。私たちの内から溢れ出て、他の人たちにも、命を与えるのです。

その同じ聖霊が、同じ事を、私たちに、してくださることを、私たちは、信じています。

ですから、私たちはペンテコステを祝うのです。主よ、聖霊を注いでください、と祈るのです。

ご一緒に、魂の渇きを癒す、命の水を、いつも飲ませて頂く恵みに、与りましょう。