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過去の礼拝説教

「勇気を出せ」

2019年07月07日 聖書:使徒言行録 22:22~23:11

第三回伝道旅行を終えて、エルサレムに着いたパウロは、清めの儀式のために、神殿に上りました。ところが、そこで、ユダヤ人たちから、神殿を汚したとの、あらぬ疑いを掛けられてしまいます。

嘘の情報に煽られて、激昂した群衆は、パウロに押し迫り、殺そうとしました。

その騒動を見て、ローマ軍の千人隊長が、鎮圧のために、軍隊を出動させて、パウロを逮捕し、兵営へと連行していきます。

それによって、パウロは、一先ず、命の危険からは、逃れることができました。

一件落着かと思われましたが、パウロは、千人隊長の許可をもらって、敢えてユダヤ人たちに、話し掛けます。

それは、神殿を汚したという、疑いを晴らすためではなく、自分の回心体験を語ることによって、キリストの恵みを、証しするためでした。

どんな機会をも、キリストを証しするために、用いていったのです。

パウロは、自分の生い立ちから、淡々と語っていきました。熱心なユダヤ教徒であり、人一倍、律法を忠実に守っていたこと。そして、教会を迫害する点でも、リーダーであったこと。

そのようなことを話している間は、群衆は、静かに、共感さえ持って、聞いていました。

しかし、パウロが、主イエスと出会った話になると、落ち着かなくなりました。

そして、パウロが、主イエスによって、異邦人伝道のために遣わされた、ということを語り出すと、群衆は、再び怒りを爆発させました。

彼らは、ユダヤ人だけが、神に選ばれた民であって、異邦人が救われることなど、あり得ないと思っていたからです。

ですから、パウロが、異邦人への伝道が、神様の御心である、と言ったことに、群衆は、激しい憤りを覚えて、再び騒ぎ出しました。

「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしてはおけない」。彼らは、そうわめき立てて、上着を振り回し、塵をまき散らしました。着物の塵を払うとは、拒絶の意思表示です。

千人隊長は、パウロが語った、アラム語での弁明を、理解できませんでした。まして、群衆が、どうしてこんなに興奮して、声を張り上げているのか、見当もつきませんでした。

ですから、このパウロという男は、よほど重大な犯罪を、犯したのだろう、と思ったのです。

そうであるなら、この騒ぎの真相を究明するために、パウロを、むち打ちの拷問にかけて、自白させようと考えました。

兵士たちが、むち打ちの用意をしていた時、パウロは、傍に立っていた、百人隊長に言いました。「ローマ帝国の市民権を持つ者を、裁判にかけずに鞭で打ってもよいのですか。」

パウロが、ローマ帝国の市民であると聞いて、百人隊長は、びっくりして、千人隊長のところへ飛んで行って、報告しました。「どうなさいますか。あの男はローマ帝国の市民です。」

これを聞いた千人隊長も、驚いてパウロのところへ来て、「あなたはローマ帝国の市民なのか」、と尋ねました。

そして、パウロが、「そうです」、と答えると、千人隊長は、ますます驚いて、一体どうやって市民権を得たのかを、尋ねました。

「わたしは、多額の金を出してこの市民権を得たのだ」。この千人隊長の言葉には、彼が、多額の賄賂を使って市民権を得た、ということがほのめかされています。

それなのに、どう見ても、金持ちには見えない、このパウロという男が、市民権を持っていることが、千人隊長には、不思議に思えたのです。

しかし、パウロは、静かに言いました。「わたしは生まれながらローマ帝国の市民です」。

パウロは、父親の代から、市民権を持つ家に、生まれたことを、明らかにしました。

ということは、ローマの市民としては、パウロの方が先輩である、ということになります。

恐らく、パウロの父親か、祖父が、ローマ帝国に、何かしらの大きな貢献をして、特別に市民権を与えられたのだと思われます。

パウロが、生まれながらのローマ市民である、ということが明らかになったことで、事態は一変しました。

千人隊長は、パウロを鎖につないだことを恐れました。市民権の侵害として、訴えられる恐れがあったからです。

パウロが、ローマの市民権を持っていたということは、福音宣教に大変役に立ちました。

今までもローマ市民であることで、ユダヤ人の迫害から、守られたことが何度もありました。

また、この後、パウロが、安全にローマに行き、そこで伝道することができたのも、市民権に基づいて、皇帝に上訴したからでした。

パウロは、この特権を、有効に使いました。しかし、決して、自分の利益のために、利用することはありませんでした。あくまでも、福音の前進のために、活用したのです。

キリスト者も、一生懸命努力した結果、特別な立場や地位を、与えられることがあります。

それを、主のため、福音のために活用するなら、それは、御心にかなうことだと思います。

クリスチャン作家の三浦綾子さんは、キリスト者としての自分の半生を、小説にして多くの人に伝えました。また、様々なキリスト者の生き様を、小説として書き残しました。

評論家の中には、自分の信仰や思想の普及ために、文学作品を利用することは、筋違いであり、文学者として相応しい行為ではない、と批判する人もいました。

しかし、三浦さんは、そういう批判を受けても、少しもひるまずに、「私が小説を書く目的は、キリスト教を広めるためなのです。ですから、誰に何と言われようとも、これは止めません」、と言い切って、書き続けました。

私たちには、三浦さんのような、文学の才能は有りません。しかし、それぞれに、異なった賜物が与えられています。その与えられた賜物を、福音宣教のために、少しでも役立てることができるなら、まことに幸いだと思わされます。

千人隊長は、ローマの市民権を持つ、パウロの処遇に、苦慮しました。

彼の任務は、エルサレムの治安を守ることで、ユダヤ人の宗教論争には、興味がなかったのです。興味がないというより、関わりたくなかったのです。

しかし、激昂している、ユダヤ人たちを、なんとか鎮めなくてはなりません。

また、パウロが、ユダヤ人たちから、訴えられている、その理由も、知りたいと思いました。

そこで、最高法院の議員たちを招集し、パウロを最高法院の場で、弁明させました。

ユダヤ人たちの間で、議論をさせれば、その論点が見えてくるだろうと考えたのです。

パウロは、群衆の前で、弁明する機会を、与えられたのに続いて、今度は、議会において、弁明することになりました。この議会は、70人の議員から成っていました。

この時、最高法院の議長は、大祭司であるアナニアという人物でした。

この人は、自分の地位を利用して、私利私欲に走り、ローマの権力者に、媚びへつらっていたため、あまり評判が、よくなかったようです。

70人の議員は、エルサレム神殿を地盤とするサドカイ派と、律法学者たちの大半が所属するファリサイ派に、分かれていました。

議会において多数を占めるサドカイ派は、ローマ帝国の支配を是認し、ユダヤの支配者階級とつながっていました。

一方のファリサイ派は、議会では少数派でしたが、各地の会堂で民衆を直接指導していて、人々から広い支持を得ていました。そのため、少数であっても、強い力をもっていました。

パウロは、これらの議員たちを、見つめて語り始めました。「見つめて」、という言葉は、「目を逸らさないで、じっと見る」、という意味の言葉です。

パウロは、恐れることなく、議員たちを、しっかりと見つめて、堂々と語り出しました。

「兄弟たち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました。」

この自信に満ちた、パウロの言葉は、大祭司アナニアのプライドを傷つけました。

また、最高法院の議員たちと、自分とを同列に置いて、「兄弟たちよ」と呼びかけたのも、気に入らなかったようです。

大祭司アナニアは、ひどく腹を立てて、「彼の口を打て」、と命じました。

すかさずパウロも反論します、「白く塗った壁よ。神があなたをお打ちになる。あなたは、律法に従ってわたしを裁くためにそこに座っていながら、律法に背いて、わたしを打てと命令するのですか。」

パウロは、アナニア自身が、律法に違反している、と指摘しました。ユダヤの律法では、2人以上の証言がなければ、人を有罪にすることはできない、とされていました。

そして、被告が、有罪と宣告されるまでは、無罪であって、被告の権利を、十分に保護しなければならないとされていました。

アナニアは、有罪が確定していないのに、刑罰を与えようとしたのです。これは、明らかに律法に、違反する行為でした。

パウロは、このアナニアのことを、「白く塗った壁よ」、と言っています。

マタイによる福音書23章にも、似たような表現があります。主イエスが、律法学者とファリサイ派の人々に対して、言われた言葉です。

「あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。」

白く塗るとは、本来ならば、悪いものであるにもかかわらず、上辺だけを繕うということ。

つまり、偽善ということです。

また、もろくなって倒れそうな壁を、上辺だけを白く塗って、危険な状態を覆い隠している。そのような愚かさをも、表しています。

パウロは、大祭司が、白く塗った壁、つまり偽善者で、愚かな者だと言ったのです。

これを聞いた人たちが、「神の大祭司をののしる気か」、と言ってパウロを咎めました。

これに対する、パウロ応答は、興味深い言葉です。

パウロは、「兄弟たち、その人が大祭司だとは知りませんでした」、と言っています。

議長席に座っている人が、大祭司だとは知らなかった。そんなことは、あり得ないと思います。ですから、これは、痛烈な皮肉の言葉です。

イスラエルの指導者たる大祭司が、律法に反することを、平気で命令している。これは、一体どういうことですか。それでもあなたは、大祭司と言えるのですか。

このような思いが、この言葉には、込められています。

更に、パウロは、この最高法院の議場の様子を、冷静に見極めて、語っていきます。

彼が見極めたのは、6節にあるように、「議員の一部がサドカイ派、一部がファリサイ派である」、ということです。

ファリサイ派と、サドカイ派は、お互いに対立していました。その対立の一つの焦点が、復活の問題でした。

8節にあるように、サドカイ派は、復活も天使も霊もないと主張し、ファリサイ派は、これらのいずれをも、認めていたのです。パウロは、勿論、そのことを知っていました。

パウロは、そこに目をつけて、「わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです」、と言いました。この発言によって、議会の分裂を図ったのです。これは、天からの知恵であると言えます。

この分断作戦は成功し、復活について、ファリサイ派とサドカイ派は、激しく議論を戦わせることになりました。そして、議場は大混乱に陥りました。

とうとう、ファリサイ派の数人の律法学者たちが、「この人には何の悪い点も見いだせない。霊か天使かが、彼に語りかけたのだろう」、とまで言い出しました。

こうして、ファリサイ派の一部が、パウロに同意したため、議場の混乱は、収拾がつかなくなりました。もはや、パウロの裁判をするどころの話では、なくなってしまったのです。

千人隊長は、パウロの身を案じて、「パウロを彼らの中から力ずくで引き出し、兵営に連れて行くように」、兵士に命じました。

これは、パウロの、冷静な判断力と機転による、作戦勝ちである、ということができます。

その夜、主イエスが、パウロの傍に立って、語り掛けられました。

「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」

「ローマでも証しをしなければならない」、と主イエスは、パウロに言われました。この「しなければならない」という言葉は、使徒言行録の著者のルカが、好んで使った言葉です。

ルカによる福音書19章の、ザアカイの話にも出て来ます。

主イエスが、ザアカイに言われた言葉。「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。

この言葉も、「あなたの家に泊まらなければならない」、という意味の言葉です。

「泊まることになっているのだ。必ずそうなるのだ」、という強い言葉です。主イエスの熱い思いが、込められているのです。

パウロの切なる望みは、ローマに行って伝道することでした。

そのパウロに、主イエスは、「あなたの願いは、必ず達成される。あなたはローマで、私のことを証しすることに、なっているのだ」、そう約束されたのです。

パウロにとって、これ程、慰めに満ちた、励ましはありません。

パウロが、色々な知恵を用いて、困難を乗り越えているように見えます。しかし実は、乗り越えさせてくださったのは、主イエスの熱意なのです。

主イエスは、パウロに、「勇気を出せ」、と言われました。この短い一言は、挫折し、失望している多くの人々を、励まし立ち上がらせてきました。

興味深いことに、この言葉は、新約聖書の中では、命令形でしか、使われていません。

主イエスご自身の、励ましの命令、愛の命令として、使われています。

嵐の海で、死の恐怖に脅えている弟子たちに、海の上を歩いて、近づかれた主が言われたお言葉。「安心しなさい、私だ」。

12年間も出血で苦しむ婦人に、主イエスが言われたお言葉。「娘よ、元気になりなさい。」

主イエスが十字架へと向かわれることに、底知れぬ不安を覚える弟子たちに、言われたお言葉。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

これらの励ましは、すべて具体的な約束を、伴っています。しかし、そのすべての約束の基にあるのは、「私があなたと共にいる」、という事実です。

あなたは、安心して良い、元気を出しなさい、勇気を出しなさい、私があなたと共にいるではないか。私は、あなたを決して見捨てない。

この約束に勝るものはありません。私のために十字架にかかってくださり、そして復活してくださった主が、共にいてくださる。これ以上の励ましはありません。

「勇気を出しなさい」。皆さんの中の多くの方は、この御言葉を、つい最近聞いておられます。いつだか覚えておられるでしょうか。6月9日の起工式の時です。

その時、ハガイ書の2章4節が読まれました。「今こそ、ゼルバベルよ、勇気を出せと/主は言われる。大祭司ヨツァダクの子ヨシュアよ、勇気を出せ。国の民は皆、勇気を出せ、と主は言われる。働け、わたしはお前たちと共にいると/万軍の主は言われる。」

このハガイ書にも、やはり不安な民の様子が、書かれています。

新しい神殿を建てよ、という幻を与えられた、イスラエルの民は不安でした。

完成できるかおぼつかない。そんな不安の中にいました。

そんな民に、ハガイを通して、主は語られました。「勇気を出せ。勇気を出して働け。私はお前たちと共にいる」。

ここでも主は、「私はお前たちと共にいる」という励ましを、イスラエルの民に与えられました。今、大切なことは、お前たちが、共にいる私に信頼し、勇気を出して、働くことなのだ。

主は、今、私たちにも、同じように言われています。

私たちは、この御言葉に励まされて、今、会堂建築の御業を、進めています。主は、「勇気を出せ、私は共にいる」という、励ましを与えてくださっています。

そして、また、会堂建築だけでなく、福音宣教にも、勇気を出して当たりなさい、と言われています。「勇気を出せ、私の言葉を伝えよ」と言われています。

パウロに、「勇気を出せ、あなたは、ローマで、私のことを、証ししなければならない。いや、証しすることになっているのだ」、と言われた主は、私たちにも、語り掛けられておられます。

「勇気を出せ、あなたは、この茅ケ崎の地で、私のことを、証ししなければならない。

いや、証しすることになっている。あなたに、与えられた救いの恵みを、自分だけのものにしていてはいけない。その恵みを、あなたの愛する人々に分け与えなさい。

さあ、勇気を出して、伝えなさい。私はあなたと共にいる。新会堂は、そのために与えられるのではないか。」

今朝、私たちは、パウロに語られた御言葉を、私たちへの御言葉として受け止め、聞いていきたいと思います。