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過去の礼拝説教

「主イエスこそまことの平和」

2019年08月04日 聖書:エフェソの信徒への手紙 2:14~22

今朝、私たちは、平和聖日の礼拝を献げています。

日本キリスト教団の教会暦では、8月の第一主日が、平和聖日とされています。これは、8月6日の広島の原爆記念日、9日の長崎の原爆記念日を、覚えるためだと思います。

キリスト教は、「記念」ということを、大切にします。

それは、過去を懐かしく思い出すためではなくて、過去に働かれた神様の力が、今を生きる私たちにも働いていることを、体験するためです。

この後、私たちがご一緒にあずかる、聖餐式。これも記念として行うものです。

聖餐式は、主イエスの十字架の苦しみという、二千年前の出来事が、今を生きる私たちのためであるということを、心と体に刻みつけるために行うものです。

そして、その二千年前の十字架の出来事が、今の私たちに、罪の赦しと永遠の命を与えてくれているという、救いの恵みを、心と体で味わうのです。

私たちは、過去の出来事を、なかったことにすることはできません。

確かに、私たちの罪は、十字架において、償われ、赦されています。しかし、だからと言って、罪がなかったことにはなりません。

私たちは、主イエスの十字架によって、私たちの罪が、すべて赦されたことを信じています。

これは、本当に大きな、恵みの出来事です。しかし、それによって、私たちの罪が、なかったことには、ならないのです。

罪が赦されたことと、罪がなかったこととは、全く別の問題なのです。

むしろ、私たちは、罪の赦しを覚える度に、赦された罪の大きさを想い起し、感謝の気持ちを、新たにするのです。

ですから、過去は、しっかりと刻まなければなりません。そして、過去をしっかりと刻んだ者だけが、真実に前に進むことができるのです。

ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世も、過去としっかり向き合うことを、大切にした人でした。

ヨハネ・パウロ二世は、「空飛ぶ平和の巡礼者」、とも言われ、世界100か国以上を訪問し、様々な人たちとの対話を通して、平和をもたらそうと努めました。

この教皇は、1981年2月に日本を訪れ、広島で平和のアピールをしました。

そのアピールの、初めの部分を紹介させて頂きます。

『戦争は人間の仕業です。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です。この広島の町、この平和記念堂ほど強烈に、この真理を世界に訴えている場所は他にありません。

もはや切っても切れない対をなしている二つの町、日本の二つの町、広島と長崎は、「人間は信じられないほどの破壊ができる」ということの証として、存在する悲運を担った、世界に類のない町です。

この二つの町は、「戦争こそ、平和な世界をつくろうとする人間の努力を、いっさい無にする」と、将来の世代に向かって警告しつづける、現代にまたとない町として、永久にその名をとどめることでしょう。

本日、わたしは深い気持ちに駆られ、「平和の巡礼者」として、この地にまいり、非常な感動を覚えています。

わたしがこの広島平和記念公園への訪問を希望したのは、過去をふり返ることは将来に対する責任を担うことだ、という強い確信を持っているからです。』

教皇はこのスピーチの中で、何度も、「過去をふり返ることは将来に対する責任を担うことです」、と繰り返して語っています。

今年、平成から令和に、元号が変わりました。平成を特徴づける言葉として、「近代日本において、戦争がなかった唯一の時代」、とよく言われます。

確かに、戦争がなかったことは、本当に感謝なことでした。

しかし、その平和は、広島や長崎を始めとする、国内、海外の各地で死なれた多くの方々の、痛ましい死を礎として、造り上げられたものであることを、忘れてはならないと思います。

ですから、今の平和を、喜び、感謝する時には、同時に、あのような戦争は、二度と起こしてはならない、という切なる願いを、新たに確認しなければならないと思います。

過去から学ぶことの大切さについて、ドイツのヴァイツゼッカー元大統領は、戦後40周年の演説の中で、次のような有名な言葉を残しています。

「問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。

後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。

しかし過去に目を閉ざす者は、結局のところ、現在にも盲目となります。」

「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる」 。その通りだと思います。

ですから私たちは、過去を正しく見つめ、過去からしっかりと学ばなくては、ならないのです。

人類は、その歴史が始まって以来、ずっと、力によって相手を押さえつけて、平和を実現しようとしてきました。現在でも、そのように考える人たちが、世界各国の政治を司っています。

国と国との間に、敵対関係がある以上、それは止むを得ない、という意見もあります。

しかし、主イエスの教えに照らすならば、それは明らかに間違っています。

主イエスの十字架は、力による平和を、意味しません。力による解決は、常に、憎しみの連鎖を、生み出します。やられたら、やり返す。この繰り返しが、延々と続くことになります。

憎しみに、憎しみをもって、報復しても、憎しみは消えません。

憎しみを克服するのは、愛のみなのです。愛のみが、憎しみを克服し、赦しを与えるのです。

主イエスは、十字架につけられた時、ご自身のことを、十字架につけて、嘲り、罵る人たちのために、祈られました。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

この時、主イエスに、憎しみがあったでしょうか。恨みがあったでしょうか。

もし、憎しみや、恨みがあるなら、逆に、「父を、彼らを罰してください」、と祈った筈です。

この時、主イエスにあったのは、愛だけです。自分を十字架につけた人たちを、尚も愛する愛だけです。そして、その愛に基づく赦しです。

復讐によっては、憎しみを消し去ることはできません。新たな憎しみを、生み出すだけです。

憎しみを消し去るのは、愛だけなのです。そのことを示す、エピソードがあります。

以前にも、ご紹介しましたので、覚えている方もおられると思います。

ドイツのベルリンの南に大きな墓地があります。第二次世界大戦が終わった直後、その墓地で、一人の男が、毎日黙々と働いていました。

ベルリンでの激しい戦いで、多くのドイツ兵が命を失いました。とにかく早く片付けなければならないというので、それらの兵士の死体は、纏めてその墓地に埋葬されたのです。

この人は、土の中に葬られている死体を、一人ひとり掘り起こして、その体に付いている認識票を調べて、身元を明らかにしていきました。

身元が分かると、近親者に連絡をとって、改めて新しい墓を作って葬ったのです。

いつ終るとも知れないような仕事を、この人は一人で、黙々と続けました。

何とその人は、戦争中、ナチスによって、強制収容所に入れられていた、ユダヤ人でした。

なぜあなたが、こういう仕事に力を入れるのか、と尋ねられて、この人はこう答えました。

「何としてでも、私は憎しみを葬らなければなりません」。

自分の同胞を虐殺した、憎らしいドイツ兵を、葬るというのではないのです。自分の中にある、憎しみを葬るために、この愛の業をしなければならない、とその人は言ったのです。

憎しみは、自分で墓を作って、入ってくれる訳ではありません。また、時が経てば消え去る、というようなものでもありません。まして、報復することによって、消えるものではありません。

憎しみや恨みを葬る唯一の力は、愛なのです。愛の業のみから、憎しみや恨みを越える、赦しが生まれるのです。

そして、そのような愛は、私たちの内には、ありません。私たちの外から来るのです。

十字架の上で、自分を殺そうとする者への、赦しを祈られた、主イエスの許から来るのです。

あなたは、憎しみが渦巻く心の闇から出て、私の愛の中に来なさい。復讐ではなくて、赦しをもって、敵対する者たちに、向かいなさい。主イエスは、そう言っておられるのです。

なぜなら、あなた方は、お互いに愛するようにと、神様によって造られたからだ、と言われているのです。神様を愛し、隣人を愛する者として、神様は、人間を造られました。

そうであるのに、人間は罪を犯して、神様から離れ、神様との関係を自ら断ってしまいました。

人間の罪によって、神様との愛の関係が、断絶してしまったのです。

更に、神様との愛の関係が断絶したことから、人間同士の愛の関係も、崩れてしまいました。

お互いに助け合い、愛し合うようにと造られた人間でした。それが、逆に、お互いに憎み合い、傷付け合うように、なってしまったのです。

このような世界をご覧になって、神様はどんなに、心を痛めておられるでしょうか。

私は、あなた方を、そんなものとして造ったのではない。私は、あなた方一人ひとりを、かけがえのない愛の対象として造ったのだ。あなたがたが、お互いに愛し合うようにと、造ったのだ。

それなのに何故、あなた方は、お互いに傷付け合うのか。何故、お互いに殺し合うのか。

神様の悲痛な叫びが、聞こえてくるような思いがします。

このような世界に、平和をもたらすためには、断絶してしまった神様との関係を、まず回復しなければなりません。それが、最初になすべきことです。

主イエスは、まさに、そのために来てくださいました。主イエスは、私たちと神様との、関係を回復するために来てくださったのです。

私たちと神様との間に、平和をもたらすために、来てくださいました。

先程、ローマの信徒への手紙5章1節を、読んで頂きました。

「わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている」、と御言葉は言っています。

主イエスは、私たちのために、十字架にかかってくださり、私たちの罪を贖ってくださいました。

それによって、罪のために断絶していた、神様との関係を回復してくださり、私たちと神様との間に、平和をもたらしてくださいました。

主イエスの十字架は、まず神様と人との和解を、成し遂げてくださいました。そして、神様と人との和解が成し遂げられたことによって、人と人との和解の道も、初めて開かれたのです。

私たちは、平和と聞くと、人と人との争いをどうしたらよいか、と先ず考えます。

しかし、本当の平和を実現するためには、人と人との争いの解決が先なのではなくて、実は、神様と人との和解の方が先なのです。

それが出来た時、初めて、人と人との和解の道筋が、見えてくるのです。

今朝の御言葉、エフェソの信徒への手紙2章14節以下は、そのことを語っています。

14節、『実に、キリストはわたしたちの平和であります』。

御言葉は、「キリストこそ、私たちの平和です」、と力強く宣言しています。

そして、更に、キリストは、二つのものを一つにした、と語られています。

文脈から言えば、この二つのものというのは、ユダヤ人と異邦人のことを指しています。

当時、ユダヤ人は、自分たちは、神様から律法を与えられ、それを守っている、選ばれた民である、という誇りに生きていました。

そして、律法を持たない、異邦人を軽蔑し、異邦人との交わりを、一切拒否していました。

一方の異邦人も、ユダヤ人のことを、異質で独善的な人たちと見て、煙たがっていました。

お互いに、軽蔑したり、避け合っている。そういう両者の間には、当然、良い関係は、築かれません。ユダヤ人と異邦人の間には、根深い敵意がありました。

しかし、御言葉は言っています。キリストは、「二つのものを一つにし、御自分の肉において、敵意という隔ての壁を、取り壊しました」。

「御自分の肉において」。これは、十字架で、主イエスの肉が、裂かれたことを言っています。

この十字架において、私たちは、ただ一方的な恵みによって、罪を赦され、救い出されました。

この十字架の愛は、私たちすべての者を、覆い包みます。すべての者が、この愛の中に入るようにと、招かれています。

この愛の中に入れられる時、私たちは、初めて、敵意の壁を、取り壊すことができるのです。

異なった主義・主張を持つあの人も、私と同じように、主イエスの、限りない愛の対象なのだ。

主イエスは、あの人のためにも、十字架にかかられて、死なれたのだ。

この私が赦されたように、あの人も、赦されているのだ。私に注がれている、神様の憐れみ、神様の愛は、あの人にも注がれているのだ。

このことを、心から受け入れた時に、初めて、敵意の壁が崩されていきます。隔ての中垣が、取り払われて、二つのものが、一つとされるのです。

これが、主イエスが与えてくださる平和です。絶対に一つにはなれない、と思われていた人たちを、一つにする平和です。

15節に、「こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し」、と語られています。

ここで言われている、「二つのものが一つになる」ということは、人と人とが仲直りして手を繋ぐ、ということではありません。

二つのものを造り替えて、新しい人を造るということです。全く新しいものが造られるのです。

この「一人の新しい人」、或いは「一つの体」、と言われているのは、一人の個人のことではなくて、実は、「教会」のことを言っているのです。

全く新しい人にされた、人々の群れ。それが教会なのです。その群れに、まことの平和がもたらされるのです。

御言葉は、まことの平和は、教会の中に、実現している、と語っています。

意見や立場の違う人々が、十字架の下に、一つとされて跪く時、敵意という隔ての壁が、取り払われるのです。そういうことが、教会の中に、実現するのだ、と言っているのです。

教会は、同じような考えや、同じような立場の人たちが集まる、仲良しクラブではありません。

教会には、様々な人たちが集まってきます。年齢も、育ちも、環境も、思想も、生活水準も、社会的立場も、それぞれ異なる人たちが、集まって来ています。

そのような様々な人たちが、一つとされているのが、教会なのです。そのような平和を生きるのが教会なのです。そのような平和を、世に証ししていくのが、教会なのです。

もし、教会さえも、「新しい人」になっていないなら、この世に、希望はありません。

もし、教会の中で、二つのものが、一つとされていないなら、この世のどこに、それを求めることができるでしょうか。

もし、教会の中で、敵意の壁が、取り壊されていないなら、この世のどこで、それを見出すことができるでしょうか。

まず教会が、一つとなった群れを、示していかなければ、平和への道筋は、見えてきません。

私たちが、教会に入れられたのは、私たちに託された使命。平和を造り出す使命を、果たすためなのです。

主イエスは、「平和主義者は幸いです」、とは言われませんでした。「平和をつくる者は幸いです」、と言われたのです。

私たちは、争いを作る者ではなくて、平和を作る者になりたいと思います。

先ほど紹介した、ドイツのヴァイツゼッカー元大統領は、同じ演説の中でこうも言っています。

「同時に「若い人たちにお願いしたい。他の人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。敵対するのではなく、たがいに手をとり合って生きていくことを学んでほしい。われわれ政治家にもこのことを肝に銘じさせてくれる諸君であってほしい」。

ここにある「若い人たちという言葉は、そのまま教会に置き換えることができると思います。

これも以前申し上げたと思いますが、国語辞典に出てくる、一番初めの名詞は「愛」です。

そして、最後に出てくる名詞は「腕力」です。「愛」で始まり、「腕力」で終わっているのです。

これは、神様が愛をもって造られた、美しい世界を、人間が腕力をもって、醜いものに変えてしまったことを、象徴しています。

神様は、愛をもって、この世界を美しく造られました。しかし、人間は腕力を持って、その世界の美しさを、壊してしまいました。

私たちは、これを逆回転させて、腕力に支配されているこの世を、再び愛が支配する美しい世に、作り変えていきたいと思います。

そのためには、先ず足許からです。自分が置かれているそれぞれの場所で、家庭で、職場で、そして何よりも教会において、平和を造り出す者とならせて頂きたいと思います。

身近なところから、平和を作り出す努力を、共にしていきましょう。