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過去の礼拝説教

「私のようになってください」

2019年09月01日 聖書:使徒言行録 26:19~32

私たちは、今、主の恵み御手に導かれ、支えられて、会堂建築の御業を進めています。

この大きな御業を進めるに当たって、私たちは、使徒言行録から御言葉に聴くようにと示されて、ここまでご一緒に歩んで来ました。

使徒言行録には、教会の誕生と、その後の成長の様子、が記されています。

初代教会の信徒たちが、どのようにして福音の恵みに出会ったのか。そして、その恵みに生かされて、どのようにして福音を伝えていったのか。

その歩みが、記されています。いわば、教会の原点が示されています。

教会の誕生と発展を導かれた、聖霊なる神様が、今、私たちにも、語り掛けておられます。

会堂建築という、大きな御業を進めているこの時、あなた方に必要なことは、信仰の原点を見つめ直し、教会の本来の姿を学び直すことである。だから、使徒言行録から聴きなさい。

聖霊なる神様は、そのように私たちに語り掛け、私たちを導いてくださっています。

その使徒言行録からの学びも、会堂建築が進むにつれて、終わりに近づいてきました。

今朝の御言葉は、先週に引き続いて、パウロの最後の伝道メッセージを記しています。

しかし、形式上は、ここでのパウロのメッセージは、ローマ総督フェストスと、アグリッパ王に対する弁明です。

神殿を汚したと、ユダヤ人から訴えられたパウロは、ローマ皇帝に上訴しました。

ローマの市民権を持つパウロが、皇帝に上訴した以上、総督フェストスは、パウロを、ローマに護送しなければなりません。その際、パウロの上告書を提出する必要がありました。

しかし、ユダヤ人の宗教に疎いフェストスには、これは容易いことではありませんでした。

そこで、偶々挨拶に来たアグリッパ王に、助けを求めました。アグリッパ王にパウロの弁明を聞いて貰って、上告書を書くアドバイスを得たいと思ったのです。

こうしてパウロは、フェストスとアグリッパの前に呼び出され、弁明をすることになりました。

しかし、パウロにとっては、これは、フェストスとアグリッパに対する、またとない伝道の機会となりました。パウロは、この機会を捕らえて、熱心に福音を語りました。

ですから、今朝の箇所は、弁明という名を借りた、パウロの伝道メッセージなのです。

パウロは、自分が語っていることは、全て聖書の約束に基づくものであること。

そして、その中心は、イエス・キリストの十字架と復活であることを、熱心に語りました。

しかし、聖書の知識を持たないフェストスにとって、それは全く理解できない話でした。

フェストゥスには、パウロが語っていることが、とても正気の沙汰とは思えなかったのです。

ですからフェストスは、大声でパウロの話を遮りました。

「パウロ、お前は、なぜ、そんなあり得ないようなことに夢中になって、ユダヤ人全体を敵に回しているのか。パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ。」

上告書を書くヒントを得ようとして、弁明させたのに、自分の目的とは、全く違う方向に話が進んでいることに、フェストスは、苛立ちを覚えて、叫んだのです。

しかし、パウロは、冷静に応えています。「フェストゥス閣下、わたしは頭がおかしいわけではありません。真実で理にかなったことを話しているのです。」

神様を無視し、神様に背を向けている人にとっては、福音の真理が、熱心に語られれば語られるほど、それは、気違い沙汰であると、聞こえたのかもしれません。

これは、他人事ではありません。私たちも常に、この問いの前に、立たされています。

私たちの周りにも、十字架の贖いや、復活の話をすると、この人はちょっと頭がおかしいのではないか、という思いを持つ人が、いるかもしれません。

そこまでいかなくても、イエスという人が神の子で、十字架で死んで、復活したという話は、人間が考えた作り話だ。そんなこと、まともに信じられない、と思う人もいると思います。

或いはまた、イエスという人は、高い倫理を説いた偉人だった。倫理をただ説いただけでなく、自らも実践して模範を示した人だった。でも、神ではない、と言う人もいるでしょう。

更には、イエスという人は、徹底的に弱い人の立場に立って、ローマの支配から、人々を解放するために戦って、そのために殺された、人民解放の勇士だった、と捉えている人もいます。

そういう人たちにとっては、復活とは、人々の心の中で、イエスの記憶が生き続けているという、象徴的な事柄になってしまいます。

このように、私たちが、主イエスの十字架と復活を、人々に語っていく時、フェストスのように、それは現実離れした妄想だとして、全く受け入れない人がいます。

或いは、受け入れられそうなところだけを、受け入れる人もいます。中には、自分が納得できる形に、変えてしまう人もいます。

私たちが、主イエスの十字架と復活を語っていく時に、人々が示す反応は実に様々です。

それは主イエスの出来事が、常識や感覚で、すんなりと理解できる事ではないからです。

フェストゥスも、秀才の誉れが高かったパウロが、こんな訳の分からないことを、真剣に信じたために、命を狙われているなど、馬鹿げたことであり、頭がおかしいと思ったのです。

でも、そういう中で、私たちは、信じていくのです。主イエスの十字架と復活は、決して妄想や作り話ではなく、真実であると信じていくのです。

誰が、何と言おうとも、これは、揺るぎない真理であり、ここにこそ、救いがあると、信じ抜いていくのです。そこに、命をかけていくのです。それが信仰なのです。

そして、あなたも是非、この真理を受け入れて、救いに入れられてください、と勧めていくのです。

なぜ、そんなことができるのでしょうか。

それは、この真理が、人間が頭で考えて、作り出したものではないからです。人間の知恵や知識から、導き出されたものではないからです。

私たちの信仰は、人間の勝手な思い込みから、生まれたものではありません。

もしそうであるなら、それに命を懸けるようなことはできません。人は、勝手な思い込みに、命を懸けることはできません。そのために、殉教などできません。

しかし、2千年の教会の歴史は、パウロだけではなく、この真理に命を懸けてきた、無数の人たちによって、埋め尽くされています。

そして、私たちも、その人たちの群れの一番後に、連なっているのです。

パウロは19節で、「私は天から示されたことに背かず」、に伝道してきたと語っています。

パウロが語っていることは、自分が考えたことではなくて、「天から示されたこと」なのです。

主イエスの救いは、人間が考えた末に到達した、理論や哲学ではありません。まして、現実逃避のための妄想や、妄信的な思い込みではありません。

それは、神様から示され、明らかにされたことなのです。

フェストゥスは、パウロを、「学問のしすぎで、頭がおかしくなったのだ」と言っています。

学問のしすぎ、ということは、人間の知識から、来ていると思っているのです。

しかし、パウロは言うのです。そうではありません。もし私が、自分の勝手な思い込みによって、このことを語っているなら、頭がおかしい、と言われても構いません。

でも、そうではないのです。私は、天からの強烈な光に、打たれたのです。復活の主イエスと、実際に出会ったのです。そして、目が見えなくなって、地に倒れてしまったのです。

真実が見えるようになるために、まず、人間的な目を、見えなくさせられたのです。

そして、まことに立ち上がるために、神様によって、地に打ちのめされたのです。

神様は、私の見えなくなった目を開き、本当に見るべき真実を、見させてくださいました。

神様が、手を取って立たせてくださり、本来立つべきところに、立たせてくださったのです。

パウロは、そう言っているのです。

私たちの目を開き、本当に真実を見させてくれるのは、復活の主イエスとの出会いです。

私たちのために、十字架にかかって死んでくださり、復活してくださった主イエスとの、真実の出会いによってのみ、私たちは、神様の恵みを見ることができるのです。

フェストスは、パウロの言葉を聞いても、全く心を開かず、「お前は頭がおかしい」、と言って、その言葉を拒みました。

そこでパウロは、フェストスの方から、アグリッパ王の方に、向き直って語り掛けました。

「王はこれらのことについてよくご存じですので、はっきりと申し上げます。このことは、どこかの片隅で起こったのではありません。ですから、一つとしてご存じないものはないと、確信しております。」

今、私が語ったことは、エルサレム中に、知れ渡っていることなどで、アグリッパ王も知っている筈だ、と言ったのです。

そして、続いて尋ねました。「アグリッパ王よ、預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います。」 これは、アグリッパの胸に、ぐさりと突き付けられた鋭い問いです。

もし、預言者を信じていると言えば、主イエスの苦難と復活は、「預言者たちやモーセが、必ず起こると語ったこと」の成就だという、パウロの言葉を認めることに、繋がってしまう。

そうなると、パウロの説いている福音を、受け入れざるを得なくなってしまう。

しかし、だからと言って、預言者を信じないと言ったら、全てのユダヤ人から、激しい抗議を、受けることになってしまう。

当惑したアグリッパは、苦し紛れに、パウロよ、お前は、「短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか」、と言って逃げようとしました。

このような短い説明で、信じろというのは、無理な相談だ、と言ったのです。

これは、明らかに、アグリッパの逃げ口上です。彼は、ユダヤ人として、旧約聖書を理解していた筈です。また、主イエスの十字架の出来事を知らなかった筈はありません。

主イエスを信じる人たちが、主イエスは復活したと言っていることも、知っていた筈です。

ですから、パウロの説明を、不十分だということは、できない筈なのです。

彼は、ただ、決断を避けたのです。「まだ早い、いつか、その内に、信じよう」。そう言って決断を先送りしたのです。このように、信仰の決断を、先送りする人が多いのです。

しかし、「まだ早い、いつか」と言っている内に、その人は、いつの間にか、救いから、決定的に、遠ざかってしまいます。

こんな話があります。ある時、悪魔の親分が、人間を誘惑して、滅ぼすために、三人の子分を、派遣しようとしました。そこで、子分たちに、どんな作戦を考えているかを尋ねます。

最初の子分は、「私は、人間に、神なんかいない、と言います」、と答えました。

すると、親分は、「そんなことで、人をだますことは出来ない。神がいることは、皆知っているのだから」、と言いました。

次の子分は、「私は地獄など無い、というつもりです」、と報告しました。ところが、親分は、「そんなことで、だまされる人は、一人もいない」と言って、これもだめでした。

最後の子分は、「私は、急ぐ必要は無いよ、と言います」、と答えました。すると親分は、「行け、お前はたくさんの人々を、堕落させることが出来る」、と言ったという話です。

「急ぐことは無い。いずれまた」、という決断の先送りが、救いの絶好のチャンスを、逃してしまうことがあるのです。悪魔は、それをよく知っているのです。

パウロは、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と言っています。救いの決断は、「今」が大切なのです。「今」の延期は、永遠の延期に、なってしまうのです。

パウロの問いに対する、応答を避けたアグリッパ王に対して、パウロはこう続けました。

「短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。」

人が皆、「私のようになってくれること」、というのが、キリスト者の共通の願いです。

これが、伝道の原点です。パウロは、このことを繰り返して、語っています。

第一コリント4章16節。「そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい。」

フィリピの信徒への手紙3章17節。「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。」

ガラテヤの信徒への手紙4章12節。「わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください」。 まだ、他にもあります。

誤解しないでください。これらの言葉は、自分の立派さを、誇っているのではありません。

私が立派な人間だから、私の真似をしなさい、と言っているのではありません。その逆なのです。

パウロは、自分のことを、罪人の頭である、と言っています。また、土の器である、とも言っています。自分は、何と惨めな人間なのか、と心から嘆いています。

では、そんなパウロに倣うとは、どういうことなのでしょうか。

罪人の頭である私が、キリストによって、赦され、救われている。ただ、主イエスの十字架の贖いによって、救われて、生かされている。この救いの出来事に、目を留めて欲しい。

そして、この救いに生かされている、自分に倣って欲しい。パウロは、そう言っているのです。

あなた方も、この救いの恵みの内を、生きていって欲しい、と言っているのです。

ですから、見て欲しいのは、実は、自分ではなくて、自分を生かしている、キリストなのです。

私は、そのキリストを救い主として信じるか、と問われて、「はい」と言っただけなのです。

何か、立派なことをした訳ではありません。だから、あなたも「はい」と言ってごらんなさい。

私のように、「はい」と言って、十字架の救いを受け入れて欲しい。

こんなに大きな恵み、こんなに尊い救いに、背を向けているのではなく、受け入れて欲しい。

パウロは、涙ながらに、そのように呼び掛けています。

三浦綾子さんのかつての恋人、前川正さんは、何とかして、綾子さんを、キリストのもとに導こうと、熱心に勧めました。しかし、綾子さんは、かたくなに心を開こうとしません。

ある時、前川さんは、自分の足を、石で打ち叩きながら、涙を流して、「綾ちゃんだめだ。このままでは、綾ちゃんはだめになってしまう」、と泣いたそうです。

愛する人が、まことの救いに、背を向けている。そのことを、涙を流して、悲しんだのです。

パウロが流した涙も、同じです。まことの救いを拒んで、滅びへと向かっている人たちがいる。そのことを、胸が張り裂けるばかりに、悲しんでいるのです。

パウロは、自分が主イエスの恵みによって、生かされているように、あなた方も、そのように生きて欲しい、と涙ながらに言っているのです。

そして、主イエスの恵みによって生かされている、自分の生き様を、愛する人たちに、示しているのです。

私たちも、そのような、信仰の先輩の生き様に触れて、信仰へと導かれました。

私たちが、信仰に入る時に、初めから、福音の真理に感動して信じる、ということは稀です。

初めは、先輩のキリスト者の生き様に触れて、どうしたらあんな風に生きられるのか。

それを知りたくて、教会の門をくぐる。そういうことが多いと思います。

伝道は、口先だけではできません。「主イエスに結ばれた自らの生き方」を、実際に示していく時に、伝道は力強く進んでいくのです。

伝道をする者にとって、最も大切なことは、自らが、福音を生活することなのです。自らが、福音の真理を、生きることなのです。それこそが、最も確かな伝道の方法なのです。

私たちは、生活の全体を通して、福音を証ししていく者と、ならせて頂きたいと思います。

主イエスに結ばれた生き方を、人々に示していく者と、ならせて頂きたいと思います。

しかし、私たちが、「主イエスは、私たちの身代わりとなって、十字架で死んでくださり、復活してくださいました」、と証ししていく時、人々は、一体どのような反応を示すでしょうか。

フェストスのように、「お前は頭がおかしい」、と言うかもしれません。

或いは、アグリッパ王のように、「こんなに短い時間で、私をクリスチャンにしようとするのですか」、と逃げられてしまうかもしれません。

しかし、何と言われようとも、その時に、「どうか、あなたも、私のように、『はい』と言ってください」、と言える者でありたいと思います。

そのためには、先ず、自分自身が、主イエスの十字架と復活の恵みに、生かされなければなりません。その姿を、示していかなければなりません。

ご一緒に、そのような生き方に、導かれますように、助け合い、励まし合いつつ、共に歩んでいきたいと思います。