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過去の礼拝説教

「本当に大切なものを遺そう」

2019年09月08日 聖書:創世記 48:8~16

今朝は、ファミリー礼拝です。『高齢祝福の祈り』を、共にささげるために、私たちは、ここに呼び集められました。

敬愛する80歳以上の信仰の先輩方を覚えて、これまでの主の支えに感謝し、更なる祝福を、神様に願う時です。

以前、こんな川柳を、目にしたことがあります。 『手をつなぐ むかしデートで いま介護』。

皆さんは、この川柳から、どんな場面を、想像されるでしょうか。

ご高齢のご夫婦が、手をつないで、支え合い、励まし合って、歩かれている。そんな微笑ましい光景を、思い浮かべられるでしょうか。

それとも、デートで手をつないでいた、幸せな昔と比べて、今はなんと、辛い日々だろうか。そんな、暗い状況を、想像されるでしょうか。

『手をつなぐ むかしデートで いま介護』。この川柳を、どう解釈するか。人によって様々だと思います。そのように、「歳を取る」ということの捉え方も、人によって様々です。

孫引きですが、アメリカのある神学者の著書から、二つの経験を、紹介させて頂きます。

「ある日、バスに乗ろうとすると、一人の高齢の男性が、やっとのことでバスを降りてきました。

そして思わずこう呟きました。『年を取ると何も良いことはない。苦しみばっかりだ。』

もう一つの経験は、彼が長年チャプレンをしていた病院で起こりました。

そこで、かつての同僚である、高齢の女性と再会しました。彼女は、満面の笑みを浮かべて、こう言いました。

『神様に感謝しなきゃ。私にとっては、もう毎日が感謝祭よ。』」

私たちは、彼女のように言うことができたら、どんなに幸いかと思います。

しかし、周りを見渡しますと、実際には、バスを降りてきた男性のように、辛い日々を送る人たちが、多くおられます。

以前にも紹介しましたが、敬老の日が近づくと、よく読まれる詩があります。

ヘルマン・ホイヴェルスという、カトリック教会の神父で、上智大学の学長をなさった方が書かれた、『人生の秋に』という本に紹介されている、「最上のわざ」という詩です。

ホイヴェルス神父が、54年に亘る日本での仕事を終えて、故郷の南ドイツに帰った時、友人から贈られた詩だそうです。読ませていただきます。

「最上のわざ
この世の最上のわざは何?/楽しい心で年をとり、働きたいけれど休み、/しゃべりたいけれども黙り、失望しそうなときに希望し、/従順に、平静に、おのれの十字架をになう。/
若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、/人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、/弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること。/
老いの重荷は神の賜物、 古びた心に、これで最後のみがきをかける。/まことのふるさとへ行くために。/おのれをこの世につなぐくさりを、少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事。/
こうして何もできなくなれば、それを謙虚に承諾するのだ。/神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ。/手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。/愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。/
すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。/『来よ、わが友、われなんじを見捨てじ』 と。」

この詩からは、色々なことを教えられます。

しかし、今朝は特に、「老いの重荷は神の賜物、 古びた心に、これで最後のみがきをかける。/まことのふるさとへ行くために」、という言葉に、目を留めたいと思います。

「まことのふるさとへ行くために、最後のみがきをかける」。それは、「おのれをこの世につなぐくさりを、少しずつはずしていく」ことだ、というのです。

言い換えれば、それは、自分の力に頼るのではなく、神様の御手に委ねて生きるための準備を、一つずつ進めていく、ということです。

歳を取ると、今まで当たり前だった生活が、出来なくなります。それまで、自分が頼みとしていたものが、一つ一つ引き剥がされていきます。

「この先あなたはどうなるの?」 そういう厳しい問いが、突きつけられます。

しかし、見方を変えれば、歳を取るということは、大きなチャンスにもなると思うのです。

実は、「年を取る」ということは、私たちの人生にとって、最大のチャンスの時なのです。

一体、どんな意味での、「チャンス」なのでしょうか。

私たちの人生にとって、「本当に大切なもの」を見出すための、チャンスの時なのです。

私たちは、歳を取っていく中で、それまで自分が頼りにしていたものを、一つ一つ取り去られて行くのを経験します。それは、本当に辛いことです。

しかし同時に、私たちは、「それらは、本当に頼りとするべきものではなかったのだ」、ということにも、気付かされるのではないでしょうか。

「それらは確かに大切なものだった。けれども、本当の意味で、なくてはならないものではなかった」、と気付かされるのです。

「この私を、本当に生かしてくれるものは、もっと別なものなのだ」、と知らされるのです。

そして、「あらゆるものが剥ぎ取られても、私はこれによって生きて行ける」。

そういうものを、悟らせてもらえるのではないでしょうか。

そういう意味で、「歳を取る」ということは、人生の最高のチャンスの時だと、言えるのです。

では、そのようにして悟らされる、「本当に大切なもの」とは、一体何なのでしょうか。

ご一緒に、御言葉から聴いていきたいと思います。

今朝の御言葉に、一人の老人が出て来ます。ヤコブという人です。しかし、今朝の箇所では、「イスラエル」と呼ばれています。

ここで、イスラエルと呼ばれているのは、ヤコブのことです。イスラエルとは、神様によって与えられた、ヤコブの別名です。

ヤコブは、ユダヤ民族の先祖アブラハムの孫です。イサクの子です。

ヤコブは、この時、病の床に伏せており、そろそろ人生の終わりが、近づいていました。

そのヤコブを、息子のヨセフが、二人の孫を連れて、見舞いに来ます。ヨセフは、ヤコブの12人の息子の11番目です。

このヨセフは、数奇な運命を辿って、エジプトで総理大臣になっていました。それで、お父さんのヤコブを、故郷のカナンから、エジプトに呼び寄せて、養っていたのです。

かつてヤコブは、パレスチナ地方における、有力な遊牧民の族長でした。

12人の息子と、大勢の使用人と、多くの家畜を持ち、周囲から一目置かれる存在でした。

しかし、パレスチナ地方を襲った、激しい飢饉のため、一族滅亡の危機に瀕しました。

そこで、息子のヨセフを頼って、エジプトに逃れてきたのです。

今まで頼みとしていたものを、すべて失い、一人の無力な老人となって、見知らぬ土地のエジプトに、やってきたのです。

しかし、ヤコブは、そこで、心から神様に頼って生きる、生き方を教えられました。

神様を、何よりの頼みとして生きていく。それが、あらゆるものを剥ぎ取られたヤコブが、老いの中で見出した、「本当に大切なもの」、だったのです。

ヤコブは、色々なものを、剥ぎ取られて行く中で、うろたえたと思います。しかし、それがむしろ、「人生で最高チャンス」になったのです。

あらゆるものが剥ぎ取られても、尚も、「剥ぎ取られることのない幸いと救い」を、与えて下さる、神様の恵みを、見出したのです。

今朝の御言葉において、ヤコブは、その生涯を閉じるに当たって、最後の、そして最も大切な仕事を、しようとしています。

それは、自分の子どもたちや、孫たちを祝福することです。「本当に大切なもの」を、愛する子と孫に、遺すことです。

9節で、ヤコブは、こう言っています。「ここへ連れて来なさい。彼らを祝福しよう」。

「彼らを祝福しよう」。これが、人生を閉めくくるに当たって、是非ともしたかったことです。

ヤコブは人生の最期に、力を振り絞って、自分にできる、最高のことをしようとしています。

もし、遊牧民の族長として、たくさんの財産を持っていたなら、ヤコブは、神様の祝福ではなく、他の物を遺そうとしたかもしれません。しかし、それらは、いつかは無くなってしまうものです。

今、ヤコブは、決して、失われることのないものを、与えようとしています。

自分が受けた、神様の祝福を、彼らに、受け継がせようとしているのです。

どうか神様を信じ、その祝福の内を歩んで欲しい、と祈っているのです。

皆さんは、最期に、子どもたちや孫たちに、何を残そうと、考えておられるでしょうか。

「もしあれば」の話ですが、何か財産を残したい、と思っておられるでしょうか。

ヤコブは、自分をこれまで守ってくださった、神様への信仰を、残したいと願ったのです。

15節、16節でヤコブは言っています。「わたしの生涯を今日まで/導かれた牧者なる神よ。わたしをあらゆる苦しみから/贖われた御使いよ。/どうか、この子供たちの上に/祝福をお与えください。」

私の信じる神様は、今日、この日まで、私の羊飼いとして、ずっと私を養い、導いてくださった。この神様が、あなたたちにとっても、良き羊飼であってくださるように。

そして、私を、あらゆる苦しみから贖われた主が、どうか、あなたたちの上に、限りない祝福を与えてくださるように。ヤコブは、そのように祈っているのです。

これこそが、愛する者に、遺すべき、「本当に大切なもの」ではないでしょか。

こんな話を、以前読んだことがあります。

将来を有望視されていた青年が、大学を卒業しようとしていました。彼は、大学のそばにある、高級車のショールームに展示されている車に乗りたい、と願っていました。

父親は、とても裕福な実業家です。ですから青年は、その車が欲しいと、機会ある毎に、父親に伝えて来ました。

大学の卒業式の夜、父親は息子を、自分の書斎に呼びました。そして言いました。

「愛する子よ、優秀な成績で卒業したお前を、私は誇りに思っているよ」。

そう言って、きれいに包まれた、贈り物の箱を、彼に手渡しました。

青年は、目を輝かせて、その箱を見ました。きっと、その中には、あの高級車のキーが入っているのだろうと思って、大きな期待を持って、箱を開けました。

しかし箱の中を見て、がっかりしました。中から出て来たのは、革張りの聖書だったのです。

その表紙には、彼の名前と、大学を卒業した年が、金文字で刻印されていました。

青年は失望し、激しく怒りました。そして、聖書を父親の机に、叩きつけて言いました。

「お金持ちのお父さんが、卒業式に、聖書をくれるとは思わなかった。僕が欲しかったのは、あの車であって、聖書なんかじゃない」。

息子は、もう父親の顔など、見たくもない、と捨て台詞を残して、家を出て行きました。

それから何年も、父親に会うことはありませんでした。

ある日、父親の弁護士から、連絡が来ました。「お父さんが亡くなりました。そして全財産を、あなたに遺されました。その手続きのために、事務所にいらっしゃってください」。

息子はびっくりして、飛んで家に帰ります。

そして卒業式の日に、あんなことで、どうして家を出てしまったのか。その後、どうしてそんなことを引きずってしまったのか、後悔の念でいっぱいになりました。

彼は、懐かしい、お父さんの書斎に入りました。そして、お父さんの机の上に、あの日叩きつけた聖書が、そのまま置かれてあるのを見ました。

その聖書をめくってみますと、表紙の裏側に、お父さんの手で、御言葉が記されていました。

それは、マタイによる福音書7章11節でした。

「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」

親であるならば、たとえ人間的には立派でなくても、自分の子どもには良い物を、と考えるではないか。だとしたら、天の父は、尚のこと、あなたがたに、良いものを考えておられる。

この御言葉が書かれていたのです。息子の心に、鋭い痛みが走りました。

そして、聖書をぱらっとめくったら、その聖書の間に、当時の日付で、車の契約書が挟まっていました。彼が欲しかった、あの車の契約書でした。

お父さんはちゃんと、彼に車を上げるつもりだったのです。けれども、そんなこと以上に、自分の持っている信仰を、まず与えたかったのです。

今に至るまで、私の羊飼いとして、ずっと守り続けて下さった、神様の恵みを、愛する息子に、贈りたかったのです。神様の恵みに生きる信仰を、与えたかったのです。

お父さんは、大学を卒業していく息子に、これからの人生を歩むに当たって、先ず、このことを教えたかったのです。

私は、父親として、お前に良い物を与えたいと、願って来た。そして、出来る限りのものを与えて来た。この車もそうだ。

しかし、天の父なる神様は、お前に、更に良い物を与えてくださる。これから先の、お前の人生を、神様は、必ず、豊かな祝福で満たしてくださる。

そのことを、お父さんは伝えたかったのです。

これは実話かどうか分かりません。しかし、この父親の気持ちは、よく分かります。

親として、いつでも、子どもには良い物を、とひたすらに願ってきた。そして、それを、出来る限り与えてきた。

しかし、一番与えたかったのは、神様の愛であり、一番遺したかったのは、信仰なのです。

今日、この日まで、いつも私の羊飼いとして、導いてくださった神様。すべての罪から、私を贖い出してくださったイエス様。

どうか、この私を祝福してくださったように、この子どもたちや孫たちを、祝福してください。

この祈りこそが、年取った私たちが、最後に祈るべき、祈りなのではないでしょうか。

この祈りこそが、私たちの、最後の奉仕なのではないでしょうか。

もしかしたら、私たちは老齢になった時に、自分の家族の名前すら、忘れてしまうかもしれません。語るべき言葉を、正しく語れなくなって、しまうかもしれません。

でも、そこに至る歩みの中で、いつも、子どもたちや家族のために、神様に祝福を祈っていくならば、たとえ、言葉を発せなくなったとしても、その願いは、神様に届くと信じます。

その思いは、子どもたちや家族に、届くに違いありません。

ちょうど、あの父親の思いが、死んだ後に、息子に届いたように、届くと思います。

私たちは、信仰を継承したいと、心から願っています。本当に大切なものを、愛する子どもたちや孫たちに、残したいと願っています。

ですから、ヤコブのように祈るのです。私たちの羊飼いとなって、私たちの生涯を、ずっと導いて下さった神様に、祝福を祈るのです。

それが、私たちが、なすべき務めです。それが、私たちの、本当の愛の業です。

旧約聖書の学者で、また詩人でもあった、松田明三郎先生は、嫁ぎ行く娘さんに、父親として与えることが出来る、最高のプレゼントとして、聖書を贈っています。

そして、「これは鏡台などに先立つものだ。鏡はそなたの姿を美しくしてくれるが、聖書はそなたの魂を、美しくしてくれる」、と書いた詩を、それに沿えています。

また、内村鑑三は、その著書、「後世への最大遺物」の中で、次のように語っています。

「力のある人は、思想を残すことも良い。事業を残すのも良い。財産を沢山残すのも良い。素晴らしい文学を残すのも良い。

けれども、最も大切なものは、信仰による生涯を、神様の恵みとして受け止める、勇ましく高尚な生涯を送ることである」。

信仰の生涯を生きることこそが、子や孫たちに遺すべき、最も大切なものである、と言っているのです。

ある二代目クリスチャンが、こう言っていました。

「私は、両親から、キリスト教について、教えられたことはなかった。しかし、信仰を教えられた。信仰に生きるとは、どういう生き方なのか、それを、実生活の中で、示してもらった。

それこそが、私が両親から受け継いだ、最大の遺産だった。」

この両親は、最も大切なものを、愛する子に、確かに遺したのです。

高齢者に、神様から与えられた務めとは、このことではないかと思います。

バッハの楽譜は、すべて、「主よ、助けたまえ」、という言葉の頭文字の、“JJ”で始まっており、「ただ神に栄光あれ」の頭文字、“S.D.G”で終っています。

私たちも、人生の旅路において、何度も、「主よ、助けたまえ」と叫びます。しかし、その最期には、「ただ神に栄光あれ」、と主を賛美して、旅路を終えたいと願わされます。

そして、最も大切なものを、後の世代に、遺していきたい、と心から願います。