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柏牧師:過去の礼拝説教

「結末を知らされている幸い」

2019年09月15日 聖書:使徒言行録 27:1~26

今朝の御言葉において、いよいよパウロのローマ行きが実現します。当時の世界の中心であった、ローマで伝道することは、パウロの長年に亘る、切なる願いでした。

そして、それはまた、神様のご計画でもありました。

今朝の御言葉は、「わたしたちがイタリアに向かって船出することに決まったとき」、と語り出しています。「わたしたち」というのですから、この使徒言行録を書いたルカも、このローマへの旅に、同行していたのです。

ですから、この27章の船旅の記録は、とても詳細で、迫力に満ちています。命の危険を、実際に経験した者でなければ、とても書けないような、真に迫った描写が続いています。

今朝の御言葉にもあるように、当時の船旅は、今日では想像もつかないくらい、困難で危険なものでした。そのためか、昔から、私たちの信仰の歩みは、船旅に譬えられてきました。

船旅のように、私たちの信仰の歩みにも、様々な困難や危険が伴います。

逆風に悩まされて、進めなくなったり、嵐に翻弄されて、沈みそうになったり、浅瀬に乗り上げて、動けなくなったりと、様々な試練に出会うのが、私たちの信仰の歩みです。

先ほど、讃美歌460番、「やさしき道しるべの 光よ」を、ご一緒に讃美しました。

この讃美歌は、ジョン・ヘンリー・ニューマンという、イギリスの牧師が作詞したものです。

ある時、ニューマンは、イタリアに宣教旅行に出かけました。喜びと期待をもって、出かけたのですが、シシリ―島で病気になってしまます。

暫く静養しましたが回復せず、ニューマンは志半ばで、帰国しなければならなくなりました。

挫折と失意の中で、帰国する船を待ちました。あいにくイギリスに向かう船がなく、3週間も待たされました。一刻も早く帰って、治療をしたかった彼には、辛い日々でした。

やっとのことで、マルセイユ行きの船に乗り込みましたが、その船は、途中のコルシカ島付近で、霧のために、一週間も行く手を阻まれてしまいます。

派遣された宣教地から、不本意にも帰らなければならない。しかも、その航海も、思うように進まない。この先、一体どうなるのだろうか。

暗澹たる思いの中で祈っていた時、この讃美歌の歌詞が、与えられたそうです。

原文は、こう言っています。「やさしい光よ、暗闇の中で、私を導いてください。闇は深く、私は故郷から遠く離れています。遠くを見ることは願いません。ただ一歩で充分です。」

ただ一歩で充分です。「one step enough for me.」 主よ、一歩先へと、導き給え。

私たちの信仰生活にも、このような祈りを、祈らざるを得ない時があると思います。

大きな苦しみや悩みが、逆風のように吹き付けてきて、前に進むことが出来ない。

まず一歩。まず一歩先へと、導き給え。主よ、今は、この祈りしか祈れません。

そのような信仰の試練に思いを馳せつつ、今朝の御言葉を味わっていきたいと思います。

さてパウロたちは、ユリウスという百人隊長に引き渡され、カイサリアからローマに護送されました。途中シドンに立ち寄り、小アジアの沿岸を西へ進み、ミラという港に入りました。

ここで、イタリア行きの大型の輸送船に乗り換えて、出帆しました。

しかし、逆風のため船足ははかどらず、やっとの思いでクレタ島の南へ出て、「良い港」と呼ばれる所に、漸く着きました。

逆風による遅れで、予定よりも日数がかかってしまい、断食の季節も過ぎてしまいました。

断食の季節というのは、ユダヤ教の贖いの日のことで、9月末から10月上旬頃です。

地中海では、9月中旬以降の航海は、海が荒れるので、危険と見做されていました。

パウロは、何度も船旅をしていましたので、この時期の航海の危険を、よく知っていました。

ですから、今いる「良い港」に留まって、危険な航海は止めるようにと、忠告しました。

「皆さん、わたしの見るところでは、この航海は積み荷や船体ばかりでなく、わたしたち自身にも危険と多大の損失をもたらすことになります。」

しかし、船長や船主は、フェニクスという港まで行って、そこで冬を過ごすことを提案しました。フェニクスの方が、冬を過ごすのに、快適であったからです。

この船旅に責任を持つ、百人隊長ユリウスは、船長や船主の意見を入れて、フェニクスの港まで行くことを決めました。 パウロの意見は、結局、無視されたのです。

折よく南風が吹いてきたので、この時とばかりに、フェニクスに向けて、出発しました。

ところが、間もなく、「エウラキロン」と呼ばれる暴風が、島の方から吹き降ろしてきました。

「エウラキロン」とは、北東の風、という意味の言葉です。その暴風は非常に激しくて、船は進むことが出来ず、ただ流れるにまかせるしかなくなりました。

船が沈むのを防ぐために、大切な積み荷も、船具も、海に捨てる羽目になりました。

幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が吹きすさんだので、もはや助かる望みはない、と思われるような状況でした。

当時は、今日のように、機器が揃っていませんでしたので、太陽や星を頼りにして、航海していました。その肝心の、太陽や星が、全く見えなくなっていたのです。

ですから、どこにいるのかも、どっちの方向に行けば良いのかも、分からなくなってしまったのです。

私たちの人生にも、そのような時があります。自分が今、どこにいて、どこに進むべきなのか。

それが全く分からず、何も見えなくなって、ただ不安と恐れに、捕らわれてしまう。

そんな時どうするでしょうか。どうすれば良いかが、分かっているなら、まだ良いのです。

どうすべきかすらも、分からない。打つべき手が全く無い。そんな時は、絶望しかありません。

この時、船に乗っていた人たちもそうでした。あらゆる努力をし、あらゆる手段を講じました。

でも、嵐の前には、全く無力でした。もはや、打つべき手がないのです。

そんな中で、パウロは、人々に言いました。「皆さん、わたしの言ったとおりに、クレタ島から船出していなければ、こんな危険や損失を避けられたにちがいありません。」

これは、「私の言うことを聞かないから、こんなことになったのだ。一体どうしてくれるんだ」と、文句や恨み言を、言っているのではありません。

パウロは、「私たちは必ず助かる。だから安心しなさい。元気を出しなさい」、と人々を、励ましているのです。

出港前には、パウロは、危険を予告しました。しかし、今は、危険ではなく、救いを予告しているのです。同船の人たちを、励ましているのです。

パウロは、こう言っています。「しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。」

常識では、「ついに助かる望みは全く消えうせようとしていた」というような、絶望的な状況でした。

そんなの中で、「皆さんのうちだれ一人として命を失う者はない」、と確信をもって語ったのです。

根拠のない気休めとして、言ったのではりません。確信をもって言い切ったのです。

どうしてパウロは、こんなことが言えたのでしょうか。何がその確信の根拠なのでしょうか。

それは、前の晩に、次のような、神様の御言葉を聞いていたからです。

「パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない」。この御言葉が、パウロに告げられていたのです。

この「しなければならない」というのは、「神様がそのようにお決めになっている。だから、それは必ず実現する」、という意味を含んだ言葉です。

パウロが、ローマへ行って、ローマ皇帝の前で、キリストの福音を語る。これは、神様が、決めておられることなのだ。だから、目の前の現実がどうあろうとも、必ず実現する。

この御言葉によって、パウロは必ずローマに行ける、という確信を持つことができたのです。

しかし、御言葉が、パウロに告げたのは、それだけではありません。御言葉は、更に、「神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださった」、と告げました。

これは、パウロと一緒に航海している、すべての人たちが助かる、という約束です。

パウロだけではなくて、同船しているすべての人が、この嵐から救い出されるのです。

それは、神様が、彼らを、パウロに任せてくださったからだ、というのです。

この「任せてくださった」、という言葉は、直訳すると、「賜物として与えてくださった」、という意味の言葉です。

神様は、共に航海している、すべての人たちを、パウロに与えてくださっているのです。

この御言葉を聴いたので、パウロは、「皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです」、と断言することができたのです。

ところで皆さんは、この時のパウロを、どう捉えておられるでしょうか。

パウロは、命の危険にさらされながらも、何の不安もなく、平然としていた、と思っているでしょうか。もし、そう思っているなら、それは違います。パウロも恐れていたのです。

ですから御使いは、「パウロ、恐れるな」、と言ったのです。パウロ自身も、恐れていたからこそ、「恐れるな」、という神様の励ましの言葉が、必要であったのです。

では、パウロは、恐れの中で、何をしていたのでしょうか。彼は、祈っていたのです。

パウロは、この嵐の只中で、ひたすらに祈っていたのです。しかも、自分の行く末だけではなく、同船の人々の無事をも、切に祈っていたのです。

そして、その祈りの中で、あの神様の言葉を聴いたのです。「パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ」。パウロは、この約束を、祈りの中で、しっかりと聴いたのです。

そして、パウロはそれを信じたのです。パウロが、絶体絶命の危機の中でも、人々を励ますことができたのは、神様の御言葉は、必ずその通りになると、信じていたからです。

これが、信仰です。激しい嵐の中で、もはや望みはない、というような現実の中で、尚も、神様の御言葉を信じるのです。

神様の御言葉こそが、目に見える現実にも優る、まことの現実であって、それは必ず実現する、と信じるのです。

私たちも、信仰の旅路において、このパウロの船旅と同じように、突然の嵐に遭って、絶望的な状況に、追い込まれることがあります。

しかし、そういう状況の中で、ただ絶望的な思いに、落ち込んでいるのではなくて、御言葉によって立ち上がり、不安と恐怖に脅えている人々を、力づけることができたなら、何と幸いなことかと思います。

実はそれが、この世にあっての、キリスト者の使命なのではないか、と思うのです。

信仰者だけではなく、すべての人の人生は、船旅のようなものです。

そして、その人生の中で、何人かの人たちが、同じ船に乗り合わせ、共に航海していくということが起るのです。

「家庭丸」という船、「会社丸」という船、「ボランティアグループ丸」という船。

私たちは、色々な船に乗り合わせています。色々な人たちと、同じ船に乗り込んで、航海を共にしています。

そういう中で、神様の御言葉をしっかりと握り締め、それに従って歩んでいるなら、私たちは、どのグループにあっても、「励まし手」となることができるのです。

神様は、共に生きるすべての人たちを、私たちに任せてくださり、賜物として与えてくださっています。

そして私たちを通して、神様の恵みを、その人たちにも及ぼしたい、と願っておられるのです。

私たちは、同じ船に乗っている人たちの、励まし手、慰め手、となることを、神様から、期待されているのです。

そんな大変な務め、とてもできないと、立ちすくんでしまう必要はありません。

パウロと同じようにすればよいのです。パウロは、嵐の中でもひたすらに祈りました。パウロがしたことは、ただそれだけです。

絶望的な状況にあっても、神様を信じて、自分だけでなく、共にいる人たちのために祈る。

そのような信仰者が、励まし手となり、慰め手となるのです。

メソジスト教会の創始者のジョン・ウェスレーは、若き日に、英国国教会の司祭として、アメリのジョージア州に、伝道に出掛けました。ところが、大西洋上で激しい嵐に遭いました。

ウェスレーの乗っていた船は、今にも沈みそうになりました。ウェスレーは死の恐怖に脅えて、震えました。

そんな中で、ふと船室の片隅をみると、そこに数人の人たちがいました。その人たちは、周囲が泣き叫ぶ中で、静かに祈り、讃美歌を歌っていたのです。

彼らは、モラビア兄弟団という、敬虔なキリスト者のグループでした。ウェスレーは、彼らに近寄って、質問しました。

「どうして、あなた方は、こんな時に、平安でいられるのですか。」

すると彼らが、逆に質問してきました。「兄弟、あなたは、本当に、救われていますか」。

何と、英国国教会の司祭に、信徒の彼らが、そう問い掛けてきたのです。

ウェスレーは、「そう願っています。I hope so.」と、力ない返事をしました。

この時の経験は、ウェスレーに、深い感銘を与えました。そして、彼が、後に、メソジスト運動を起こす、きっかけとなっていったのです。

荒波に翻弄される船の中で、静かに祈り、賛美していた一握りの人々が、一人の伝道者に、励ましを与え、やがて、大きな運動を呼び起こす、きっかけを与えたのです。

パウロが、沈みそうな船の中でしていたことも、祈ることでした。

しかも、それは、「わたしが仕え、礼拝している神」に、祈ることでした。

パウロが、神様の約束を、確信することができたのは、その神様が、「私が仕え、礼拝している神」、であったからです。

普段から仕え、礼拝していなかったなら、いざという時に、その約束を、信じ抜くことは、難しいのです。「苦しい時の神頼み」、ではだめなのです。

普段から、真実に神様に仕え、礼拝していたからこそ、確信に立つことができたのです。

そして、その確信に立って、彼は、同船の人々を、励ますことができたのです。

同じように、私たちが、真実に神様を礼拝し、神様に仕え、祈っていくならば、そのことを通して、私たちと共に歩んでいる人々が、励まされ、神様の祝福に与っていくのです。

家族や、職場や、その他の団体において、私たちが、数少ない信仰者として、立てられていることには、このような大切な意味があるのです。

この船のキリスト者たちは、圧倒的な少数派でした。パウロたち数人だけでした。

しかし、この船に乗っていた、全員の人たちが、少数のキリスト者によって、励ましと、慰めを受けたのです。そして、来週ご一緒に学びますが、全員の命が助かったのです。

この27章には、少数のキリスト者による、全員の救いの物語が、記されているのです。

私たちもキリスト者です。少数派です。しかし私たちにも、任せられている人たちがいます。

「この人たちの励まし手、慰め手となりなさい」、と神様から与えられた人たちがいるのです。

パウロは、船に乗り合わせた人たちに、「元気を出せ、私たちは助かるのだ」、と言うことができました。一体、どのようにして、助かるのか。それは、分かっていません。

何が、これから起きるのか、それは示されていないのです。

しかし、途中経過は分からないけれども、結果は必ずこうなることが分かっていると、パウロは言い切ることができました。

パウロは、結末を知らされていたのです。「あなたは、ローマに行って、皇帝に証しをしなければならない。神様は、そうお決めになっている。だから、このことは、必ず実現する。」

パウロには、この結末が知らされていました。

先日、祈祷会でもお話したことですが、どんなに恐ろしいスリラー小説でも、最後のページを、先に読んでしまっているなら、途中がどんなに恐ろしくても、安心して読んでいけます。

スポーツの放送でも、既に結果を知っているなら、安心して見ていられます。

そのように、私たちの人生の旅路も、結末を知らされているのです。

主イエスの十字架の贖いによって、罪赦された私たちは、永遠の命の救いへと、入れられることを、知らされているのです。人生のゴールは、既に、示されているのです。

ですから、その途中に、どのような困難があっても、大丈夫なのです。「元気を出しなさい」、と、人々を励ますことができるのです。最後のページが、与えられているからです。

ゴールが分かっているなら、その途中を、あれこれ心配しなくても良いのです。

嵐の中でも、やさしき道しるべの光に、一歩一歩を、導かれて行けば、よいのです。

One step is enough for me、と心から歌うことができるのです。