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過去の礼拝説教

「あの人は今も語っている」

2019年10月27日 聖書:創世期 35:1~3 ヘブライ人への手紙 11:4~5

今朝、私たちは、召天者記念礼拝をささげるために、ここに集まってきました。

茅ヶ崎恵泉教会では、毎年10月の最後の聖日に、召天者記念礼拝を守っています。

毎年、当然のように、この日が来ると、召天者記念礼拝をささげています。

ですから、もしかしたら、お彼岸のお墓参りと同じような感覚で、この日を捉えておられる方も、おられるかもしれません。

では、召天者記念礼拝とは、一体何なのでしょうか。どういう意味があるのでしょうか。

今朝は、まず、そのことを、創世記35章から、教えられていきたいと思います。

35章3節は、こう言っています。「さあ、これからベテルに上ろう。わたしはその地に、苦難の時わたしに答え、旅の間わたしと共にいてくださった神のために祭壇を造る。」

これを、私たちに置き換えて言うなら、「さあ、これから茅ヶ崎恵泉教会に行こう。そして、そこで、苦難の時私に答え、人生の旅の間、私と共にいてくださった、神様を礼拝しよう」、ということになると思います。実は、これが、召天者記念礼拝の意味なのです。

この言葉を語ったのは、ヤコブと言う人です。ユダヤ民族の祖先であるアブラハムの孫で、イサクの子です。

ヤコブは、一族を率いて、ベテルに上り、そこで神様を礼拝しました。

そして、その後、そこから、主イエスがお生まれになった、ベツレヘムに向かいます。

その道の途中で、最愛の妻ラケルが、ベニヤミンを出産します。ところが、それが大変な難産で、ラケルはそこで、死んでしまうのです。

最愛の妻の死。ヤコブにとって、それは、どんなに悲しく、辛い出来事であったでしょうか。

子どもの出産という、本来最も幸せな瞬間が、最も悲しい瞬間に変わってしまったのです。

ラケルは、陣痛のひどい苦しみの末に、生まれた子に「ベン・オニ」という名前を残しました。「ベン・オニ」というのは、「苦しみの子」という意味です。

しかしヤコブは、死にゆくラケルに、「この子は私にとって、幸せの子となる」と言いました。

この子は、苦しみの子「ベン・オニ」ではなくて、幸せの子「ベニヤミン」だと、言ったのです。

その後、ヤコブは、その子を見るにつけ、その子の命と引き換えに、死んでいった、最愛の妻ラケルのことを、思い出したと思います。

その子を見るたびに、ラケルと過ごした、幸せな日々を、想い起したと思います。ラケルとの日々、それは苦しみではなく、幸せであった。

ですから、その子をベニヤミン、「幸いの子」と、名付けたのです。この子は、苦しみの象徴ではなく、幸せの象徴なのだと、言ったのです。

実は、この創世記35章だけで、ヤコブは、3人の近親者の死を、経験しています。

35章8節には、ヤコブの母、リベカの乳母のデボラが、死んだことが記されています。

更に、35章28節には、ヤコブの父のイサクが、死んだことが書かれています。

最愛の妻ラケルの死、母リベカの乳母デボラの死。それから父親のイサクの死。

それらの出来事が、35章に集中しています。

先程の3節は、家族や親しい者を、次々に失っていったヤコブが、そのような現実を見つめつつ、語った言葉である、と見ることも出来ると思います。

ヤコブは、一族全員に言いました。「さあ、これからベテルに上ろう。」

このベテルというのは、ヤコブが若い時に、初めて神様を礼拝した、土地の名前です。

ベテルとは、「神の家」という意味です。ヤコブは、さあ、そこ上って行こう、と言いました。

あの最初の礼拝の時から、今に至るまで、様々な苦労や困難があった。

波乱万丈の人生だった。しかし、今、ヤコブは、それらすべてを、乗り越えて言っています。

「さあ、これからベテルに上ろう。私はその地に、苦難の時、私に答え、旅の間、私と共にいてくださった、神様のために、祭壇を造る。」

召天者記念礼拝というのは、亡くなった方々を、礼拝する礼拝ではありません。私たちは、神様にしか、礼拝をささげません。

また、召天者記念礼拝とは、亡くなった方々を、ただ偲ぶだけの時でもありません。

故人を偲ぶだけなら、何も、教会に来て、礼拝をささげなくて、よいのです。

召天者記念礼拝とは、いくつもの悲しみや苦しみを越えてきた者が、苦難の時にも答えてくださり、人生の旅の間、いつも共にいてくださった神様を、想い起こす時なのです。

そして、その神様に、感謝し、信仰を新たにする時なのです。

長く介護を続けた方は、「ああ、あの時、あんなに辛い介護の中でも、振り返ってみれば、神様は、いつも私と共にいてくださった」、と想い起す。

愛する人が、病院で息を引き取った。あの大きな悲しみを、神様が慰めて下さった。

そして、悲しみの中での、葬儀の準備を、神様が整えて下さり、すべてを導いて下さった。

愛する人を失った喪失感で、心の中にぽっかりと空いてしまった穴を、神様が、時間をかけて埋めて下さった。

その神様に支えられて、それからの日々を、ここまで歩むことが出来た。

ああ、振り返ってみれば、神様は、私の歩んだ道に、いつも共におられ、支え続けて下さっていた。それらのことを想い起こして、神様に感謝の礼拝をささげる。

それが召天者記念礼拝の意味なのです。

神様を礼拝することで、ヤコブは、「ベン・オニ」、「苦しみの子」を、「ベニヤミン」、「幸いの子」と、呼ぶことができる者とされました。

辛く、苦しい思い出を、幸いの思い出に、変えることができたのです。

勿論、そんな力は、ヤコブの内にはありません。ヤコブが、頑張って、苦しみの思い出を、幸いの思い出に、変えたのではありません。

それは、「苦難の時わたしに答え、旅の間わたしと共にいてくださった神様」から、与えられたのです。

その神様を礼拝した時に、苦しみの思い出が、幸いの思い出に、変えられたのです。

これを、私たちに当てはめれば、私たちが、十字架と復活の主を、見上げる時に、私たちの、苦しみの思い出は、幸いの思い出に、変えられていく、ということだと思います。

十字架と復活の主を、見上げる時に、私たちは、示されるのです。

私たちの愛する人は、死に飲み込まれたのではない。主イエスによって罪赦され、永遠の命に与り、天国から私たちのために、祈ってくれている。そのことに、気づかされるのです。

ですから、私たちも、今、ここで、礼拝をささげているのです。「苦難の時わたしに答え、旅の間わたしと共にいてくださった神様」に、礼拝をささげているのです。

そして、礼拝の中で、私たちに語り掛けられる、神様の御声を聞いているのです。

しかし、今朝、私たちが聞いているのは、神様の御声だけではありません。神様の御声と共に、先に召された、愛する人たちの、語り掛けをも聞いているのです。

そのことを、ヘブライ人への手紙11章4節が、こう言っています。

「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。」

「彼は死んだが、信仰によって、尚も語っている」。この言葉は、大変有名で、良く知られています。教会墓地の墓石などにも、しばしば刻まれています。

私たちに置き換えれば、「召天された方が、今もなお、私たちに語っている」という事です。

そうであるなら、今朝、皆さんは、召された方から、どんな声を聞かれているのでしょうか。

信仰によって、まだ語っている、とありますが、何を語っているのでしょうか。

4節の御言葉は、「アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました」、と言っています。

ここに出て来る、カインとアベルというのは、人類最初の兄弟で、アダムとエバの息子たちです。このカインとアベルが、神様にささげ物をしたのです。創世記4章の出来事です。

弟のアベルは、羊を飼っていましたので、雌の羊が最初に産む初子の中で、一番肥えた小羊を、神様の所へ持っていきました。

聖書には、神様は、アベルのささげ物を受け入れた、と書かれています。

一方、兄のカインは、農夫でしたので、穀物の実りをささげました。でも神様は、それを受け入れられませんでした。カインは、それに激しく怒って、顔を伏せた、と書かれています。

どうして神様は、弟のささげ物は受け入れたのに、兄のささげ物を拒まれたのでしょうか。

昔から、様々な解釈がなされてきました。最も良く見られる解釈は、「弟は、群れの中から、選びに選んで、最良の小羊をささげたのに、兄はそれほど心を込めなかった」、という見方です。そうなのかもしれません。

しかし、聖書は、どうして神様が、弟のささげ物を好まれたかについては、明確な理由を記していません。ですから、具体的に、兄の何がいけなかったのか。それは、分かりません。

しかし、創世記4章を見ると、神様は、カインにこう言っています。

「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。」

カインは、真っ直ぐに、神様のことを見ることが出来なかったのです。何故なのかは、分かりませんが、神様を直視できずに、顔を伏せていたのです。

恐らく、カインの心には、何かしら、やましいことがあったのです。ですから、面と向かって、神様に文句を言うことが出来ずに、顔を伏せていたのです。

兄は、怒りの矛先を、神様に向けることが出来ないために、弟を逆恨みしてしまいます。

そして、弟のアベルを、野原に呼び出して、殺してしまったのです。

そのアベルが、今なお語っていることがあるとしたら、一体何を語っているのでしょうか。

兄弟一緒に仲良く生きていきなさい、と語っているのでしょうか。それとも、逆に、兄に対する恨みを語っているのでしょうか。

或いは、何も悪くないのに、逆恨みされて殺された。その無念さを語っているのでしょうか。

理解できない不幸が起きる。そういう人生の理不尽さを、語っているのでしょうか。

或いは、また、この世は、テロや、残虐な行為に満ちているから、よくよく気を付けなさい、と警告しているのでしょうか。

アベルは、尚も語っている、とありますが、一体、何を語っているのでしょうか。

このヘブライ人への手紙11章は、ある言葉によって、特徴づけられています。それは、「信仰によって」、という言葉です。「信仰によって」、という言葉が、繰り返して出てきています。

アベルは、この信仰の素晴らしさを、語っているのです。信仰に生きることの素晴らしさ。

それは、言い換えるならば、神様が共にいてくれることを信じ、神様の導きに信頼し、神様を礼拝できることの素晴らしさを、語っているのです。

そして、それは、ヤコブが言った、「苦難の時わたしに答え、旅の間わたしと共にいてくださった神様」に、礼拝をささげることの素晴らしさに繋がります。

アベルが、今も尚、私たちに語っていること。それは、自分は神様を信じて、自分の最善を神様にささげた。そして神様が、それを喜んでくださり、受け入れてくださった。

この喜び、この素晴らしさは、決して失われることはない、ということだと思います。

たとえ、そのために、神様に従わない人たちから、理不尽な誹謗・中傷を受けたとしても、この信仰のすばらしさは、それらのことによって、失われることは決してない。

アベルは、そのことを、語っているのではないでしょうか。

この世には、様々な理不尽なことが起きます。どうしてこんなことが起きるのか、と思うようなことが起きます。

伝道困難な地で、長い間、苦労に苦労を重ねて、やっと教会堂が与えられ、信徒もようやく集まった。「さあ、これから」という時に、病に倒れて、召されてしまった牧師がいます。

まだまだ、やり残したことがたくさんあるのに、交通事故で召されてしまう人もいます。

様々な迫害を受けて、志半ばで亡くなった伝道者もいます。

しかし、そのような不幸な出来事によっても、その人が持っている、信仰の素晴らしさが、消えてしまうことはありません。

その人の、真実な信仰の歩みは、確かに神様に受け入れられ、喜ばれているのです。

たとえ、地上に於いては、理不尽な出来事によって、挫折したように見えたとしても、神様は、その人の信仰を受け入れ、喜んでくださり、すばらしい世界へと、招き入れてくださっているのです。

ですから、アベルは、今なお、私たちに、こう語っているのです。「信仰を持って、本当に良かった、天国に迎え入れられて良かった」。

アベルが語っていることは、このことです。信仰をもって良かった、神様と共に生きてきて良かった。天国に迎え入れられて、本当に良かった。

アベルは、このことを、今なお語っているのです。そして、今朝、私たちが、聞くべき言葉も、このことなのです。

召天された信仰の先達たちが、今、この礼拝で、私たちに語っていることも、同じです。

先達たちは、こう言っています。「私たちは、神様を信じ、神様に導かれ、神様と共に生きてきました。そして、それは、素晴らしい人生でした。

たとえ、他の人の目にどのように映ろうとも、私は、信仰をもって、本当に良かった。

そのお蔭で、今、こうして、天国に迎え入れられている。これは、素晴らしいことです。」

私たちが、召天者記念礼拝で聞くべき言葉は、この言葉です。

今朝の御言葉の少し先の、ヘブライ人への手紙11章13節には、こう書かれています。

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。」

この言葉も、アベルや、天に召された先達が、今もなお、私たちに語っている言葉です。

ここに「よそ者」とありますが、これは「旅人」、という意味の言葉です。

地上では、旅人でも良いではないか。仮住まいの者でも、良いではないか。

しかし、どんな時も、どこにあっても、天の故郷への憧れを、失わない人になって欲しい。

私たちは、目に前にある問題で、頭が一杯になってしまって、天国への憧れなどは、どこかに消えていってしまうことがあります。

でも、アベルや、天に召された先達たちは言うのです。

「あなた方は、この地上にあっては、旅人であり、仮住まいの者なのです。やがて皆が、天国に移されるのです。だから、たとえ今、この地上にあっても、いつも、天の御国に憧れる人になってほしいのです。」 彼らは、私たちに、そう言っているのです。

ここまで聞かれて、皆さんは、どう感じられたでしょうか。何か、ヤコブや、アベルや、先輩たちから、ずっと叱られ続けてきた。「そんなことではだめだ、私たちを見習え」、と叱られ続けてきた。そんな風に、感じられた方もおられるかもしれません。

しかし、私たちの信仰の先達は、私たちを、ただ叱ったり、注意したり、しているだけではありません。彼らは、私たちを、励まし、応援してくれているのです。

もう1箇所、ヘブライ人への手紙から、御言葉に聴きたいと思います。12章1節です。

「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか」。

御言葉は、私たちが、おびただしい証人の群れに囲まれている、と言っています。

私たちは、おびただしい証人の群れという、力強い応援団に囲まれているのです。

私たちの信仰の先達は、今、天にあって、私たちを応援してくれているのです。

私たちが、信仰の旅路を、走る切ることが出来るように、私たちを取り囲んで、応援してくれているのです。

駅伝では、先に走り終えた選手が、ゴールに先回りして、そこで走ってくる選手を、皆で応援しています。それと同じように、先にゴールに行っている先達たちは、今、私たちを応援してくれています。「がんばれ、諦めるな、忍耐をもって走り続けなさい」、と応援してくれているのです。

信仰の旅路において、私たちは、決して一人ではありません。先に天に召された先達たちが、今、信仰の旅路を走っている、私たちを応援してくれているのです。

このことを忘れずに、素晴らしいゴールに向かって、共に歩んでいきたいと思います。

「信仰を持って本当に良かったね」と、お互いに喜び合える群れと、ならせて頂きたいと思います。