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過去の礼拝説教

「勇気を出しなさい」

2019年11月10日 聖書:ヨハネによる福音書16:33 フィリピの信徒への手紙4:13

今朝は、小さなお友だちと一緒に、子ども祝福礼拝をささげています。

それで、小さなお子さんたちにも分かるように、なるべく分かり易くお話をさせて頂きます。

大人の人たちも、幼かった頃の心を、想い起こしながら、聞いて頂きたいと思います。

さて、今朝のお話しの題は、「勇気を出しなさい」です。

皆さん、勇気って分かりますか。怖いものや、危険なものに出会っても、それから逃げずに、立ち向かっていく。そういう、いさましい心のことを、勇気と言いますね。

私たちは、勇気のある人に憧れますね。スポーツの選手でも、探検家でも、勇気のある、いさましい人に憧れます。そういう人をみると、カッコいいと思います。

この間まで、ラグビーのワールドカップをやっていました。大きな男の人たちが、怪我も恐れずに、真正面からぶつかり合う姿を見て、たくさんの人が、感動していました。

実は、私も、若いころ、ラグビーをやっていました。

ラグビーで、タックルするときは、やはり怖いです。特に自分よりも大きな人に、タックルするときは、大きな恐れを感じます。そのタックルで、今でも不思議に思うことがあります。

試合で最初のタックルを、うまく決められると、その試合中ずっとタックルがうまくいきます。

でも、最初のタックルを、一瞬ひるんで、うまく決められないと、その試合中、ずっとタックルがうまくできませんでした。

ですから、最初のタックルをするとき、勇気をもって飛び込んでいくことが、大切でした。

私たちは、大きな人にも、ひるまずにタックルしに行くような、勇気ある行動に憧れます。

何故でしょうか。それは、私たちみんなが、勇気を必要としているからです。

若い人には、色々なことに、チャレンジしていく、勇気が必要です。でも、お年寄りの方にも、勇気は必要なのです。

歳を取って、昔のように、思うように体が動かない。そのことを、受け入れる勇気。

病気をして、手術を受ける勇気。独り暮らしをする勇気。お年寄りの方にも勇気が必要です。

家族のことで悩んでいる人、仕事に行き詰まっている人、受験をする人、就職活動をしている人、新しい所に引っ越す人、みんな勇気が必要です。誰もが、勇気を必要としています。

イエス様は、十字架にかけられて殺される前の晩に、お弟子さんたちに、こう言いました。

「しかし、勇気を出しなさい」。「しかし」というのは、「でもね」という意味です。

イエス様は、お弟子さんたちに、「あなたたちには、これから、辛いことや、悲しいことが、いっぱい起きます。でもね、勇気を出しなさい。私が、いつもあなたたちと一緒にいるから」、と言われたのです。

イエス様は、この言葉を語った次の日に、捕らえられて、ムチで打たれて、十字架につけられて、殺されてしまいました。

その時、お弟子さんたちは、みんな怖くなって、逃げて行ってしまいました。イエス様についていく、勇気がなかったんですね。

お弟子さんたちが、みんな逃げて行ってしまったので、イエス様は、たった一人で、十字架への道を、歩んで行かれました。

イエス様は、たった一人で十字架を背負って、歩いて行かれたのです。

でも、実は、イエス様は、一人ではありませんでした。

イエス様は、神様の独り子です。イエス様には、お父さんである、神様が、いつも一緒にいてくださったのです。

お弟子さんたちは、みんな逃げて行ってしまって、自分一人が残されました。でも、父なる神様が、私と一緒にいてくださるから、私一人ではない、とイエス様は仰っています。

そして、逃げて行ったお弟子さんたちにも、イエス様は仰っています。

あなたたちも、決して一人ではありませんよ。私が、あなたたちと一緒にいます。

父なる神様が、私と一緒にいてくださるように、私は、あなたたちといつも一緒にいます。

だから勇気を出しなさい。イエス様はそう言っておられます。

私たちも、たった一人で、歩いて行かなければ、ならないことがあります、

一年生になったお友だちが、ランドセルを背負って、学校にいきます。お母さんは、心配してずっと後姿を見ています。

でも学校に行くのは、やっぱり自分一人です。お母さんが、ついて行ってあげたいと思っても、それはできません。

病気をして、手術室に入るのも一人ですね。入院して、ベッドに横たわるのも一人です。

そして、死んで天国にいく時には、もう完全に一人です。

私たちは、たった一人で、目の前のことに、挑戦していかなければならないことがあります。

でも、イエス様は、言っておられます。あなたが、たった一人だと思う時も、実は、あなたは一人ではないのですよ。父なる神様が、そして私が、いつもあなたと一緒にいるのです。

勿論、天国に行く時も、私は一緒ですよ。

聖書の、マタイによる福音書という本の終わりに、イエス様が、最後に語ったお言葉が書かれています。イエス様は、最後に何と言ったのでしょうか。イエス様は、こう言ったのです。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」

イエス様は、「いつも、あなたと一緒にいるよ」、と言ってくれました。この「いつも」という言葉は。「すべての日にわたって」、という言葉なんです。

「すべての日」ですから、私たちが、行き詰まった時も、病気の時も、死んで天国に行く時も、イエス様は、一緒にいてくれる、と約束してくれているのです。

イエス様は、私たちが、苦しいことや、辛いことに対して、強くないということを、良く知っておられます。いいえ、強くないどころか、とても弱いということを、よく知っておられます。

私たちには、色々な苦しみや、辛いことがあります。大人の人たちだけでなく、幼稚園や、小学校のお友だちにも、辛くて、悲しいことがあります。

私には、3人の子どもがいます。みんな今は、成長して大人になっています。

一番上の女の子の真菜は、幼稚園から、小学校2年生までを、アメリカのシアトルで過ごしました。そしてシアトルから帰ってきて、茅ケ崎の小学校の3年生のクラスに入りました。

でも、日本の小学校に慣れていなかったので、ちょっといじめられました。

でも、やっと慣れて、いじめられることもなくなって、学校が楽しくなってきた時、また、お父さんが転勤になりました。今度は、香港という所に行くことになったのです。また転校です。

それを聞いた真菜ちゃんは、涙を流して、お父さんにお願いしました。

「お父さん、社長さんに転勤しないようにお願いしてください。また転校するのは嫌です。」

お父さんも、それを聞いて、とても心を痛めました。でも、行かなくてはなりません。

真菜ちゃんは、悲しんだ末に、勇気を出して、転校することを決心しました。

でも、神様が一緒にいてくれたので、新しい香港の学校で、沢山のお友達が出来て、楽しく過ごすことが出来ました。

小さな子が、知らない学校に転校するにも、勇気が要ります。そして、子どもに、それを受け入れてもらう親にも、勇気が必要です。

イエス様は、そういう辛いことがあるけれども、勇気を出しなさい、と言っています。

どんな時も、私は、あなたと一緒にいて、あなたを守ってあげるから、勇気を出しなさいと言っています。

そのイエス様は、「私は、既に世に勝っている」と言っています。「私は、この世のどんな事にも、決して負けないよ」、と言っているのです。

そのイエス様が、一緒にいてくださるのだから、勇気を出しなさい、と言っているのです。

こんなことがありました。ある時、イエス様のお弟子さんたちが、ガリラヤ湖を、船で渡っている時、突然、激し嵐に遭ったのです。強い風と、高い波を受けて、船が沈みそうになって、お弟子さんたちは、「もうダメだ。死ぬかもしれない」、と恐れました。

その時、主イエスが、波の上を歩いて、弟子たちの船に近づき、「安心しなさい、わたしだ。恐れることはない」と仰って、船に乗り込まれました。すると、嵐が静かになったのです。

この物語の中にも、同じ言葉が出てきます。「安心しなさい」、という言葉は、「勇気を出しなさい」、という言葉と、同じ言葉です。

私たちは、人生の戦いの中で、しばしば不安になります。勇気を失います。

しかし、そんな時も、私たちは、決して一人ではありません。嵐の中を来てくださるお方が、共にいてくださいます。嵐の只中で、私たちに、近づいてきてくださる、お方がいるのです。

そのお方が、私たちの船に、乗り込んでくださり、嵐を鎮めてくださいます。

私たちは、人生の嵐の中で、主イエスが、必ず、私たちの船に、乗り込んでくださることを、信じて、勇気をもって、人生の航路を、進んで行きたいと思います。

70年位前、あっちゃんという男の子が、アデノイドを取る手術をすることになりました。

アデノイドというのは、扁桃腺よりも喉の奥にある、リンパ組織です。今は、アデノイドを切除する手術は、あまり行われませんが、その当時は、良く行われていました。

手術室の前のベンチに、あっちゃんとお母さんが、座って待っています。手術室には、先に手術をする男の子が入っています。その子が、怖がって、大きな声で泣いています。

その泣き声が、外で待っている、あっちゃんにも聞こえてきました。

お母さんは、あっちゃんが、その泣き声を聞いて、怖がるんじゃないかと心配して、あっちゃんの手を握って、「あっちゃん、怖がらないで、大丈夫だからね」、と言いました。

すると、あっちゃんは、「ぼくちっとも怖くないよ。だって、神様が守ってくれるもん」、と言って手術室に入って行きました。そして、泣き声一つ立てずに、手術を受けたそうです。

あっちゃんは、教会付属の幼稚園に通っていて、毎日、神様のことを聞いていました。

そして、神様が、いつも守っていてくれることを、幼な心で、信じていたのです。

クリスチャンでなかったお母さんは、その姿に、深い感動を覚えて、その夜、帰宅したお父さんにも話しました。お父さんとお母さんは、小さな子どもに、このような信頼を与える、キリスト教とは、一体どのようなものなのだろうか、と思ったそうです。

そして、それから8年後に、このお父さんとお母さんは、洗礼を受けて、神様を信じる人になりました。この話は、そのお父さん、お母さんから聞いた話です。

あっちゃんは、小さかったので、自分がそんなことを言ったことを、全く覚えていません。

このあっちゃんの本名は、柏 明史。私です。でも私は、そんなことがあったことを、全く覚えていないのです。ただ、小さいなりに、神様が守ってくださることを、信じていて、夜寝る前に、必ずお祈りしていたことは、うっすらと覚えています。

あの時から、70年も経っていますが、自分の信仰は、あの時から、果たしてどれ程成長したのか、自分自身に問い掛けて、反省させられています。

先程、聖書の御言葉を、もう一つ読んで頂きました。フィリピの信徒への手該4:13です。

「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」

これは、イエス様の弟子の、パウロさんの言葉です。パウロさんも、たくさんの辛いことや、苦しいことに出会った人です。

イエス様のことを、伝えたために、イエス様に反対する人たちから、石をぶつけられたり、ムチで打たれたり、牢屋に入れられたことが、何度もありました。

この言葉を書いた時も、パウロさんは牢屋に入れられえいたのです。

でも、イエス様のことを伝えることを、決して止めませんでした。

「私にはすべてが可能です」という言葉は、「私はどんなこともできます」と意味です。

でも、パウロさんは、魔法使いではありませんから、どんなこともできる訳はありません。

特にこの時は、牢屋に入れられていたのですから、どんなことでもできる筈はありません。

「私はどんなことでもできる」。この言葉は、強い心をもって、努力すれば、何でもできる、ということを、教えている言葉ではありません。

パウロさんは、牢獄にいて、何もできない状態でした。努力しようにも、努力の仕様がないような状態にいたのです。でも、パウロさんは、「何でもできる」と言っています。

何もできないような状況にあっても、私は何でもできる、と言っているのです。

逆に、できる環境にあっても、直ぐに「できない、できない」と言ってしまうのが、私たちです。

やろうと思えば、やれるのに、あれがないからできません、これが邪魔してできません、と私たちは言います。できない事ばかりを考えて、駄目だ、駄目だと、言ってしまいます。

でも、パウロさんは、何もできないような環境の中で、尚も、私はできると言っているのです。

「何でもできる」、と強調しているのです。どうして、そんなことが言えるのでしょうか。

これは、文字通り、「どんなことでもできる」、という意味ではありません。「神様が願っておられることなら、神様が、どんなことも成し遂げて下さる」、という意味です。

「私を強くしてくださる方によって、神様が願っておられることなら、何でもできる」のです。

これが大切です。「神様が、望んでいることを、成し遂げるために、私を強くしてくださる。だから、私は、どんなこともできる」のです。

小さな子どもでも、年を取った大人でも、「神様が強くしてくださるから、私はどんなこともできる」。そのことを正面から信じていくのが、信仰です。

16世紀のスペインの修道女、聖テレサは、生涯に、15の男子修道院と、17の女子修道院をたてました。ある時、人々を集めて、とても大きな修道院を、建設する計画を発表しました。

その時、会衆の一人から「今、手元にどれくらいの資金があるのですか」、と尋ねられました。

彼女は、「ここに二つのコインがあります」、と言いながら、そのコインを皆に見せました。

それを見て、皆が、思わず笑いました。その時、彼女は、彼らに向ってこう言いました。

「皆さんは、掛け算を知っていますか。この二つのコインに、神様の恵みを掛ければ、いくらになると思いますか」。

そして、実際に、彼女は、その二つのコインに、神様の恵みを掛けて、見事に一大事業を成し遂げたのです。

このテレサのように、神様によって、強くして頂いて、目の前の目標に向かって歩んで行く。

これが、私たちの勇気の根拠です。ですから、私たちの勇気は、決して、空威張りの勇気ではないのです。神様によって与えられる勇気です。

今、会堂建築を進めている私たちにも、この勇気が求められています。

そういう勇気を、神様からいただくために、私たちは、教会に来ているのです。そのことを、忘れないようにしたいと思います。