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過去の礼拝説教

「何のための新会堂か」

2019年11月17日 聖書:イザヤ書56:7 ヨハネによる福音書4:23~24

茅ヶ崎恵泉教会の新会堂が、次第に形を整えてまいりました。これからひと月ほどの間に、外壁にタイルが張られ、入り口の上に十字架が立てられます。そうしますと、外側の姿は、ほぼ完成します。その後は、主として内装と、外構工事が進められていくことになります。

ところで、もし「会堂」という言葉を、違った言葉で表現するとしたら、どうなるでしょうか。

「チャペル」とか、「聖堂」というような、直接的な言い方ではなく、会堂の性質を表すような表現として、どのような言葉が思い浮かぶでしょうか。

私たちが直ぐに想い起すのは、「祈りの家」という言葉ではないかと思います。

主イエスご自身が、エルサレム神殿を、商売の場所としている人々を追い払われて、こう言われました。マルコによる福音書11章17節です。

「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちは、それを強盗の巣にしてしまった。」

ここで主イエスが引用されたのは、先程読んで頂いた、イザヤ書56章7節の御言葉です。

「わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」 ここからの引用です。

このイザヤ書の言葉は、バビロン捕囚から解放されて、エルサレムに戻ってきた、イスラエルの人たちに対して語られた、預言者の言葉です。

イスラエルの人たちは、バビロン捕囚を通して、自分たちを本当に救ってくれるのは、勇ましい王ではなくて、自分たちの苦難を、代わって負ってくれる、主の僕であると示されました。

その主の僕による救いが、イスラエル民族だけでなく、すべての民へと、広がっていく。

そして、隔ての壁が取り除かれて、すべての民は一つとされ、祈りの家へと招かれる。

そのようにして、主の家が、祈りの家としての、本来の意味を回復していく。

預言者は、自分に示された、この幻を、エルサレムに戻ってきた人たちに告げたのです。

主の救いに与った全ての人が、祈りにおいて一つとなる。それが、まことの祈りの家です。

もし、招かれていながら、尚も、お互いに反目し合ったり、非難し合ったりしているならば、そこは、まことの祈りの家とはなりません。

茅ヶ崎恵泉教会の新会堂が、そういう意味での、まことの祈りの家となる事を、教会の頭である主イエスご自身は、切に願っておられます。

「わたしの家は、すべての国の人の、祈りの家と呼ばれるべきである。」

この言葉は、主イエスが、今朝、ここにいる私たちに、語っておられる言葉なのです。

何故、祈りが、それ程大切なのでしょうか。

祈りが大切な理由。それは、祈りにおいて、私たちは、神様と出会うことができるからです。

祈りは、神様との交わりの手段です。私たちは、祈りの中で、神様と出会い、神様の御声を聞き、神様に応答します。

祈りが活き活きとしていなければ、信仰も活き活きとした力を失います。ですから、私たちは祈るのです。祈りを止めることは、信仰が死んでしまうことに繋がります。

よく祈りは呼吸であると言われます。神様の御心を吸い込み、自分の願いや思いを、吐き出して応答する。それが祈りの呼吸です。

私たちは、呼吸を止めれば、死んでしまいます。同じように、祈りを止めれば、霊的な命も死んでしまうのです。

祈りが、活き活きとしていれば、教会は活き活きとした群れになります。新会堂が、そのような祈りの家にならなければ、いくら立派な建物が完成しても、それは無意味です。

ある教会で目にした出来事です。誰もいない会堂で、よく一人で祈る婦人がいました。

その日も、いつものように、静かに会堂に入って、一人で祈っていました。

私は、会堂の直ぐ隣の牧師室にいましたが、その日は、いつまでたっても、その人が出て来ません。ご高齢の方なので、ちょっと心配になって、覗いてみました。

その人は、いつものように、椅子に腰かけて祈り出したのですが、私が覗いた時には、その椅子から滑り落ちるように、床にひざまずいて、祈っておられました。

ただ、ひたすらに、自分を低くして、本当に、心を注ぎ出すように、祈っておられました。

私は、その姿に、激しく感動したことを、覚えています。

今朝は、この会堂で、このパイプオルガンの伴奏を聞く、最後の礼拝です。今週中に、オルガンは解体され、25日には新会堂の二階に、移設されることになっています。

茅ヶ崎恵泉教会には、今、6人のオルガニストの方がおられます。私は、その方々に、たびたび次のようなことを、申し上げています。

オルガンの奏楽に、最も大切で、また最も必要なことは、オルガンを弾く技術ではなくて、祈りです。主は、祈りのない奏楽を、喜ばれません。

ですから、礼拝の時は勿論ですが、練習の時も、まず祈ってから、練習を始めてください。

オルガニストの方々は、そのことをよく理解されて、練習に励んでくださっています。

ある時、オルガニストの一人が、練習のために、会堂に入って行かれました。

しかし、なかなかオルガンの音が聞こえてきません。かなり時間が経っても、未だ練習が開始されません。そこで、心配になって、やはりちょっと覗いてみました。

するとその方は、手を組んで熱心に祈っておられました。随分長い間、祈っておられました。

それだけ、練習時間が短くなってしまいます。でも、それも構わずに祈っておられました。

私は、この時も、深い感動を覚えました。

このような祈りは、自分が祈りたいから、祈るのではないと思います。

祈りの中で神様と出会い、恵みに迫られて、思わず椅子から滑り落ちて、ひざまずいて祈る。オルガンの練習にきたのに、貴重な練習時間を犠牲にしても、祈らざるを得ない。

これは、恵みの迫りを受けているからです。祈りとは、恵みへの応答なのです。

新会堂が、恵みに満ち溢れているなら、そこは、自然に「祈りの家」となる筈です。

そして、その祈りは、自然に賛美へと変えられていきます。賛美も恵みへの応答だからです。

恵みの迫りがないのに、ただ美しく歌っても、それは賛美にはなりません。

茅ヶ崎恵泉教会は、力強く賛美する教会と言われています。しかし、そう言われる前に、先ず、茅ヶ崎恵泉教会は、恵みに満ちている教会と、言われなければならないと思います。

茅ヶ崎恵泉教会に、恵みが満ちているなら、必ずそこで、活き活きとした祈りがささげられ、力強い賛美が溢れ流れます。

私たちは、会堂が「祈りの家」であることは、よく分かります。では会堂でなければ、祈れないのでしょうか。そんなことはありません。

私たちは、会堂でなくても、祈ることはできます。むしろ、何時でも、どこででも祈れることが、キリスト教信仰の優れた特色なのです。

しかし、会堂での祈り、とりわけ礼拝での祈りは、私たちの祈りの原点です。

私たちは、どこででも祈ることが、できます。しかし、どこで祈っても、祈りの原点である、礼拝での祈りを想い起しつつ祈るのです。

いえ、礼拝全体が祈りであるとも言えます、ですから、会堂での礼拝を想い起しつつ、祈るのです。

あのダニエルがそうでした。エルサレム神殿から遠く離れたバビロンにあって、ダニエルは、日に三度、自分の部屋の窓を開け、エルサレムの方向を向いて祈りました。

その時、エルサレム神殿は、既に崩壊していました。しかし、たとえ神殿は崩壊していても、祈りの家は、彼の心の内に、建ち続けていたのです。

神殿での祈りを中心とする生活が、ダニエルの心に、沁みついていたのです。

私たちも、どこにいても、会堂という「祈りの家」を、心の奥底に据えつつ、祈っていきたいと思います。

困難に出遭った時は、会堂での祈り、つまり礼拝に立ち帰り、そこから再出発したいと思います。

さて、会堂を、別の言葉で表現するとどうなるか。先ず、示されたのが、「祈りの家」でした。

そして、次に導かれたのは、会堂とは「礼拝の場」である、ということです。

先程、もう一ヶ所聖書を読んでいただきました。ヨハネによる福音書4:23~24です。

主イエスは、ここで、「まことの礼拝」について、語っておられます。

この時、主イエスと会話しているのは、サマリアの女性です。

この女性は、初対面の主イエスに、自分の過去を、すべて言い当てられてしまいました。

彼女は、主イエスが、神様から遣わされたお方であると知ります。自分は今、聖なるお方の前にいる。そのことが分かった時、彼女は、何と言ったでしょうか。

その時、彼女の口から、自分でも思ってもみなかった、問いが発せられたのです。

それは、どこで礼拝をすべきでしょうか、という問いでした。

人が、神様に、真実に出遭った時、真っ先に尋ねたくなるのは、礼拝のことです。神様、どのように、あなたを礼拝すべきでしょうか、ということです。彼女は、そのことを尋ねたのです。

彼女は、「自分の先祖は、この山で礼拝しましたが、あなた方は、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。それはどういうことですか」、と主イエスに問い掛けました。

もし、エルサレムで献げる礼拝が、唯一の、まことの礼拝なら、私たちが献げている礼拝は、一体何なのですか。

これは、真剣な問いです。ですから、主イエスも、真正面から、この人に向き合われました。

23節、24節には、礼拝についての、最も大切な教えが、凝縮された形で、語られています。

そこで主イエスが、最初に言われたことは、まことの礼拝は、場所には捕らわれない、ということです。

どこで礼拝を献げても、神様は、私たちを、訪ねてくださいます。どこであっても、まことの礼拝が献げられているなら、私たちは、神様と出会うことができるのです。

ある教会に、一人の女性が訪ねてきました。彼女は、牧師に、自分の悩みを長々と打ち明けた後、会堂に入って行きました。

そして、牧師の方を振り向いて、「ねぇ、神様はどこにいるの」、と尋ねたそうです。

意外な質問に、牧師が答えをためらっていると、その人は、説教壇の方を見て、「あぁ、あの辺ね」、と言って、両手を合わせて、暫く黙祷してから、帰って行ったそうです。

もし、皆さんが、その場におられたら、どう答えられるでしょうか。

今朝の御言葉にもある通り、神様は 霊ですから、目には見えません。ここにいる、あそこにいる、と指し示すことはできません。それでは、どこにおられるのでしょうか。

コリントの信徒への手紙一14章24節、25節に、その答えが、記されています。

「反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう。」

ここで御言葉は、もし、まことの礼拝が献げられているなら、未だ信仰を持っていない人や、初めて教会に来た人も、「ここに、神様は確かにおられる」と言う筈だ、と言っています。

まことの礼拝とは、そのように、その場に、神様がおられることを、証しする礼拝なのです。

私たちが、まことの礼拝を献げているなら、必ず、そこに神様はおられます。そこに、確かに、臨在されるのです。そして、そのことが、そこにいる人の心を、揺り動かすのです。

ですから、どこで礼拝を献げるべきか、が問題なのではありません。

どこで礼拝が献げられても、その礼拝に、神様がおられるかどうかが、問題なのです。

その礼拝が、神様の臨在を、証ししているかが、問題なのです。

もしその礼拝が、神様の臨在を、証ししていないなら、どんなに美しく整えられていても、それは礼拝とは言えません。

主イエスは、そのようなまことの礼拝とは、「霊と真理をもって父を礼拝する」礼拝である、と言われています。

私たちが、霊と真理をもって、礼拝を献げているなら、神様は、ここに、この場に、必ず臨在される、と言われているのです。

では、一体、「霊と真理」とは、具体的に、何を意味しているのでしょうか。

以前の口語訳聖書では、「霊とまこと」、と訳されていました。この「まこと」という言葉のために、誤解を招きやすかったところがあります。実は私も、長い間、この言葉を誤解していました。

普通「まこと」と言えば、「まごころ」のことだと、考えます。ですから、「まことを尽くす」ということは、「まごころを込める」、という意味だと思うのです。

「まごころ」を込めなければ、礼拝にならない。私は、ずっと、そう捉えていました。

しかし、ここで語られているのは、私たちの「まごころ」のことではありません。

私たちのまごころを、一生懸命にささげれば、礼拝が成り立つ、ということではないのです。

私たちは、本当に罪深い者です。そのままでは、どんなにまごころを込めても、聖なる神様を、礼拝することなど、とても許されない者なのです。

聖なる神様の前では、それこそ、椅子から滑り落ちて、床にひざまずいて、祈らざるを得ないような者です。いえ、それすらも、許されないような者です。

そのような、汚れに満ちた私たちが、聖なる神様を礼拝できるのは、御子イエス・キリストの、十字架の血潮によって、聖められているからです。

十字架の贖いによって、罪あるままで、礼拝することを、許されているからです。

それどころではありません。そのような私たちを、神様が招いてくださっているのです。

「さぁ、ためらわずに、私の家に、祈りの家に、いらっしゃい。あなたの席は、ちゃんと用意されていますよ。既に、私が、整えておきましたよ。」

私たちは、一生懸命頑張って、礼拝に来たと思っているかもしれません。しかし、それは、とんでもない傲慢です。私たちが、行きたいから、努力して、礼拝に行くのではありません。

主の招きが、先ずあるのです。主の恵みが、先行しているのです。私たちは、ただそれに応えて、礼拝へと導かれているのです。

英語で、礼拝のことを、サービスと言います。「あぁ、私たちが、神様にサービスするのが礼拝なんだ」、と思っておられる方が、いるかもしれません。しかし、そうではありません。

私たちではなく、神様が、私たちにサービスしてくださる。それが、礼拝なのです。

神様が、相応しくないままに、私たちを招いて下さり、御言葉を語って下さり、祝福を与えて下さるのです。神様による、私たちへのサービスが、先行しているのです。それが礼拝なのです。

私たちは、神様の、その愛の招きによって、初めて神様の御前に、近づくことができるのです。

そして、そのような救いの奥義を、私たちに示してくださり、分からせてくださっているのは、聖霊なる神様です。

ですから、私たちが、神様を礼拝できるのは、主イエスのお蔭です。そして、そのことを、分からせてくださっている、聖霊のお蔭なのです。

ですから、ここにある「霊と真理」とは、聖霊と主イエスのことです。

主イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である」、と言われました。

真理である主イエスと、今も生きて、働いていてくださる聖霊の助けによって、初めて私たちは、神様を礼拝できるのです。

私たちのささげる礼拝を、まことの礼拝とならしめるもの。それは、私たちの努力や、私たちのまごころではありません。

それは、主イエスの救いの真理です。そして、それを信じさせてくださる、聖霊の働きなのです。

私たちが、聖霊の導きによって、主イエスの真理の御言葉を聞くところに、まことの礼拝が成立します。そして、このまことの礼拝によって、私たちは変えられていくのです。

今、私たちは、礼拝をささげています。でも、私たちは、御言葉が示しているような、まことの礼拝をささげているでしょうか。礼拝において、神様の臨在を、証ししているでしょうか。

そのことを自らに問い、今一度、主の御前に、お互いを、顧みたいと思います。

今、主の憐みによって、新会堂という新しい革袋が、私たちに与えられようとしています。

そうであれば、新しい葡萄酒をもって、その新しい革袋を満たしたいと思います。

では、新しい葡萄酒とは何でしょうか。今朝の御言葉は、それは、まことの祈りであり、霊と真理による礼拝である、と教えています。

新会堂という新しい革袋を、まことの祈りと、まことの礼拝という、新しい葡萄酒によって満たしていきたいと、心から願います。

そして、その新しい葡萄酒を作るのは、私たち一人ひとりなのです。そのことを、今朝は、しっかりと心に刻みたいと思います。