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過去の礼拝説教

「新しい光に照らされて」

2019年12月22日 聖書:マタイによる福音書 2:9~12

クリスマスおめでとうございます。

皆様と共に、クリスマス礼拝を献げられる恵みを、神様に感謝いたします。

希望、平和、喜びのロウソクに続いて、アドベント・クランツの四本目のロウソク、愛のロウソクに火が灯されました。

ところで皆さんは、クリスマスと聞くと、どのようなイメージを思い浮かべられるでしょうか。

クリスマスのイメージ。その代表的なものは、美しいイルミネーション、クリスマスキャロル、クリスマスツリーやリース。そんなところでしょうか。その他にも、色々あると思います。

その中の一つに、プレゼントがあるのではないでしょうか。

クリスマスは、プレゼントを交換するとき。そんなイメージを持っておられる方も、おられるかもしれません。では、なぜクリスマスに、プレゼントを交換するのでしょうか。

それは、クリスマス自体が、大きな、大きなプレゼントの出来事だからです。

その大きなプレゼントのことを、天の使いが、羊飼いたちに告げました。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」。

ここに、その大きなプレゼントのことが、語られています。

主イエスの誕生は、私たちに対する、神様からの、最大のプレゼントなのです。

ですから、「救い主があなたがたのために生まれた」と、わざわざ、「あなたがたのために」という言葉が、入っているのです。

「あなたのために、救い主イエス様が生まれたのですよ」、と天使は告げたのです。

神の独り子が、この私のために生まれてくださった。この、とてつもなく大きなプレゼント。

それが、クリスマスの出来事なのです。

今朝の御言葉には、その神様からの、とてつもなく大きなプレゼントに対して、自分たちの持っている最上のものを、献げた人たちのことが、語られています。

その人たちとは、東の方から、はるばるやって来た、占星術の学者たちです。

この学者たちが、どのような身分の人たちであったか。聖書は何も語っていません。

しかし、後の時代になると、イザヤ書60章3節の御言葉と結び付けて、この学者たちは王であった、と言われるようになりました。

イザヤ書60章3節は、こう言っています。「国々はあなたを照らす光に向かい/王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。」

学者たちが、不思議な星の光に向かって、はるばる旅したことと、このイザヤ書の御言葉とを重ね合わせて、学者たちは、実は王であった、と言われるようになったのです。

また、贈り物の数が三つであったことから、三人だったと考えられるようになっていきました。

更に後になると、彼らには、ペルシャ王メルキオール、インド王キャスパー、そしてアラビア王バルタザールという、名前まで付けられました。

また、それぞれ老人、壮年、青年としても、描かれるようになりました。

それは、この学者たちが、世界中のあらゆる地域、あらゆる民族、あらゆる年齢層の代表である、という思いから出た推測です。

すべての民族、すべての年齢層の代表として、世界各地から、主イエスを礼拝しに来た。

だから、彼らは、私たちの代表なのだ。彼らは、私たちの代表として、幼子イエス様を、礼拝してくれたのだ。そういう思いから、このような推測が生まれたのです。

これらは、クリスマスのイメージを、豊かにするのには、大いに役立ちましたが、聖書の語っていることを遥かに超えた、人間の推測です。

しかし、いずれにしても、この学者たちが、遥かかなたの東の国から来た、異邦人であることは確かです。

彼らは、東の方で、今までに見たことのない、不思議な輝きをする星を、発見しました。

そしてそれが、旧約聖書で預言されている、救い主の誕生を知らせる徴である、と確信したのです。そこで、長い道のりを旅して、エルサレムにまでやって来ました。

彼らは、エルサレムの町の人々に、救い主のおられる場所を、尋ねて歩きました。

「救い主は、どこにおられるのですか。ご存知でしたら教えてください」と、尋ねて回りました。

「救い主は、どこにおられるのか」。この質問は、彼らにとって、人生最大の問いであったと思います。そして、それはまた、私たちにとっても、最大の問いです。

私たちを悩ます、人生の様々な問題。それに答えてくださるお方は、どこにおられるのだろうか?

理不尽なことに満ちている、この世にあって、生きていく本当の意味を、与えてくださるお方は、どこにおられるのだろうか?私たちも、そのような問いを、抱えています。

私たちが、人生の行き詰まりを感じた時、或いは、人生の重荷に、押し潰されそうになった時、これほど重要な問いはないと思います。「救い主は、どこにおられるのか」。

私たちは、そのような問いを抱きつつ、教会の門をたたいたのではないでしょうか。

エルサレムの人々は、誰も、この学者たちの問いに,応えることができませんでした。

彼らに、その答えを与えたのは、ヘロデ王でした。ヘロデは、祭司長や律法学者たちに、聖書を調べさせました。そして、ミカ書5章1節の御言葉から、救い主は、ユダヤのベツレヘムで生まれることを知りました。

ヘロデは、そのことを学者たちに伝えたのです。学者たちは、その御言葉に従って、ベツレヘムへと歩みだしました。

彼らが、御言葉に従って歩み出した時、東の方で見た、あの不思議な星が、また現れて、彼らを導きました。彼らは、その星を見て、喜びに溢れた、と書かれています。

この箇所は、原語では、「大きな喜びを非常に喜んだ」、という表現になっています。

同じ様な言葉が続いていて、文章としては、たどたどしい表現です。

しかし学者たちの喜びが、どんなに大きなものであったかが、ストレートに伝わってきます。

「神様は、聖書の御言葉によって、救い主は、ベツレヘムにお生まれになることを、教えてくださった。その神様が、再び、星の光によって、行くべき道を示してくださる。

神様は、私たちのことを、忘れてはおられなかった。私たちのことを、覚えていてくださり、こうして導いてくださる。何と憐みに満ちたお方だろうか。何と愛に満ちたお方だろうか。」

学者たちは、その大きな喜びを、非常に喜んだのです。このような、たどたどしい言葉でしか、言い表せないほどの、喜びに溢れたのです。

果たして私たちは、この学者たちのように、クリスマスを本当に喜び、祝っているでしょうか。

「大きな喜びを非常に喜んだ」としか、言いようのない程に、喜んでいるでしょうか。

この私のために、神様が、最愛の独り子を、贈ってくださった。こんな私のために、天の高みにおられたお方が、貧しく小さな赤子となって、来てくださった。

そのことを、何ものにも優る喜びとして、喜んでいるでしょうか。今一度、自分自身を振り返ってみたいと思います。

彼らは、その大きな喜びのうちに、幼な子イエス様にお会いしました。

星は、ベツレヘムのある家を、指し示しました。「ここですよ、あなたが訪ねるべき所はここですよ」、とはっきりと示してくれたのです。

しかし、星に導かれて、辿り着いた先は、立派な家ではありませんでした。

小さな、粗末な家でした。彼らは、その粗末な家に入って、母マリヤと共におられる幼子イエス様を見たのです。それは、本当に弱く、貧しく、小さな幼子の姿でした。

今、彼らの目の前にいる、幼な子イエス様には、メシアであることを示すような姿は、全く見られません。圧倒するような、威厳に満ちたメシアの姿は、どこにも見られません。

彼らの目の前にいる、幼な子イエス様は、全く何もしていません。何も語っていません。

ただ粗末な布に包まれて、貧しい母親に抱かれているだけです。彼らが、目にしたのは、貧しさと、弱さと、無力さの象徴のような、一人の赤子でした。

遠い国からはるばる旅をしてきた彼らに、その苦労をねぎらう言葉の一つさえも、掛けることが出来ない、無力で弱い存在であったのです。

普通なら、こんな時、人はこう言うと思います。「これは一体なんだ!これが救い主だというのか。馬鹿馬鹿しい。私たちは、こんなものを拝むために、はるばるやって来たのではない。まことの救い主は、どこか他の場所にいる筈だ。そのお方を探しに行こう。」

こう言って、早々に立ち去るのが普通です。常識的には、殆どの人がそうすると思います。

ところが、ここで、驚くようなことが起きました。何と、学者たちは、「ひれ伏して幼な子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」のです。

これは、常識では、考えられません。あり得ないことです。

こんな貧しい、無力な赤子を、ひれ伏して拝み、その上、掛け替えのない贈り物を、ささげるなど、きちがい沙汰だと言われても、仕方がないと思います。

しかし、彼らは、喜んでそれをしたのです。あり得ないようなことをしたのです。

何故、彼らは、このような、他人から見れば、常識外れのようなことを、したのでしょうか。

いえ、どうして、こんなことが出来たのでしょか。何が、彼らを、そうさせたのでしょうか。

学者たちの頭の中にも、初めの内は、「本当に、ここで良いのだろうか」、という思いがあったかもしれません。

ここに来たのは、時間の無駄だった、という思いがあったかもしれません。

しかし、そんな彼らに、神様が、働かれたのです。あの遠く離れた東の国で、彼らに不思議な星を見させ、彼らの心を揺り動かし、困難な旅へと歩み出す決断を、与えてくださった神様。

エルサレムまでの長い旅の間、ずっと守り続けて下さった神様。また、聖書の御言葉によって、救い主はベツレヘムにお生まれになると、教えてくださった神様。

そして、再び、あの星を輝かせてくださり、この家まで導いてくださった神様。

大きな喜びを、非常に喜ぶという、表現し難いような思いに、満たしてくださった神様。

その神様が働かれて、彼らの心を開いてくださったのです。「この幼子なのだ。私が、あなた方に、救い主として与えたのは、この幼子なのだ」、と示してくださったのです。

ですから、彼らは、貧しい、無力な幼子を、ひれ伏して拝み、宝の箱を開けて、ささげ物をささげることが出来たのです。

ここでいいのだ。この方こそが救い主なのだ。この方こそが、ささげ物をささげるのに、相応しいお方なのだ。この方こそが、私たちに与えられた、神様からの大きな贈り物なのだ。

彼らは、神様から、そう示され、そう信じたのです。これは、不思議なことです。常識では考えられないことです。でも、これこそが、神様が働かれる、ということなのです。

神様が働かなければ、私たちは、救い主に会うことはできないのです。

パウロが、コリントの教会の信徒に言っているように、聖霊によらなければ、だれも、「イエスは主である」、と言うことはできないのです。

私たちのことを考えても、そうではないでしょうか。私たちも、不思議な聖霊の導きによって、教会に来て、聖霊の導きによって、会ったことも、見たこともない、主イエスのことを知り、救い主として受け入れ、信じさせて頂いています。

自分の知恵や知識によって、信仰に入った訳ではありません。自分の力で、救いを掴み取ったのではありません。不思議な力によって導かれ、信じさせていただいたのです。

学者たちは、星に導かれて、王宮ではなく、粗末な家に入り、救い主と出会いました。

私たちも、聖霊に導かれて、決して豪華とは言えない、ごく普通の茅ヶ崎恵泉教会に入り、救い主と出会わせて頂きました。

これは、すべて、神様のなせる御業です。神様が働かれたから、起こった出来事なのです。

導いてくださった神様に、心から感謝したいと思います。

学者たちは、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬をささげました。

これらの贈り物は、その贈り物の受け取り手である主イエスが、どのようなお方であるかをよく表わしています。

黄金。それは、この贈り物の受け取り手が、王の王であることを示しています。

乳香は、祭司の持ち物とされていました。祭司は、私たちと神様とを結び付ける、仲保者の働きをする人です。主エスは、私たちと神様との間の、道を開くお方なのです。

そして、没薬というのは、死体を葬るために使われるものです。クリスマスの献げ物の中に、没薬があった。それは、主イエスの誕生の中に、既に十字架の死の準備があった、ということを示しています。このような見方が、三つの贈り物に対する、伝統的な解釈です。

しかし最近、これら三つの贈り物に関して、大変興味深い解釈が出されています。

これらの贈り物は、学者たちが、仕事に用いていた商売道具であった、という説です。

もしそうであれば、学者たちは、彼らの仕事を献げた、ということになります。

つまり彼らは、仕事を変えたのです。では、彼らがしていた仕事とは、何であったでしょうか。

それは、星占いです。彼らは、これらの商売道具を用いて、星占いをしていたのです。

しかし、その商売道具を、差し出してしまったのです。ということは、もう、星占いはしない、ということです。

人々から、「占ってください」と頼まれても、「いや、私はもうしない」、と言って断るのです。

どうしてでしょうか。星占いよりも、もっと確かなものと出会ったからです。聖書の御言葉と出会い、その聖書が証ししている、救い主と出会ったからです。

私たちも、救い主と、本当に出会ったときには、生き方が変わります。

実際に、仕事まで変える人は、それほど多くないかもしれません。しかし、仕事そのものは変えなくても、仕事の意味が変わってきます。

自分のためにする仕事から、キリストのためにする仕事へと、変えられていきます。

職場の上司が、自分の主人であったのが、イエス様を主人とする生き方に、変わるのです。

そのように、変えられた学者たちは、夢での中で、「ヘロデのところへ帰るな」、という御声を聞いたので、別の道を通って、自分の国へと帰って行きました。

「別の道を通って」。それは、地理的な別の道ばかりでなく、たとえ同じ道を通ったとしても、その心は、「他の道を歩んでいる」、という思いをもって、歩むことをも含んでいます。

彼らは、新しい光に照らされて、別の道を通って、帰って行ったのです。

ここでの出会いは、わずか一晩でした。しかし彼らは、その夜、自分が求めていた救い主と、まさに出会ったのです。そして、精一杯の礼拝をささげました。

常識で考えれば、こんなに貧しい、無力な赤子に、掛け替えのない商売道具をささげて、自分の生き方さえも変えてしまう。そんなことは、あり得ないことです。

しかし、そもそもクリスマスとは、あり得ない、非常識なことが起きた出来事なのです。

神様が、最も大切な独り子を、十字架で死ぬために、私たちに与えてくださった。このあり得ないような出来事。それがクリスマスなのです。

ですから、非常識とも見える、彼らの贈り物こそが、実はクリスマスに最も相応しいのです。

神様に背き、その御心を悲しませてばかりいる、私たちのために、神様が、最も大切な独り子を、十字架に献げてくださった。これは、常識ではあり得ないことです。

人間同士のことを考えてみてください。自分に逆らい、自分に敵対し、恩を仇で返すような相手に、わざわざ自分の一番大切な物を与える人がいるでしょうか。

そんなことは考えられません。しかし神様は、そのようなことを、敢えてしてくださったのです。

なぜ、そこまでされたのでしょうか。それほどまでに、私たちを愛してくださっているからです。その愛の故なのです。ただそれだけなのです。

クリスマスの出来事。それは、神様の、あり得ないような、非常識な愛が、実現した出来事なのです。そして、私たちは、その神様の愛によって、救われたのです。

ですから、学者たちが、最も大切なものを、あり得ないような仕方で献げたことは、正しいのです。それは、クリスマスに相応しい、尊い贈り物なのです。

クリスマスは、独り子を与えてくださった神様の恵みに、どう応えていくかを、私たちに問い掛けます。神様は、そこまでして、あなたを愛してくださったのです。あなたは、その神様の愛に、どのように応えますか、と問われる時なのです。

今日、このクリスマス礼拝の恵みの中で、私たちは、新たな献身の思いへと、押し出されていきたいと願います。新しい光に照らされて、今までとは別の道に向かって、この礼拝から、歩み出していきたいと思います。