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過去の礼拝説教

「救い主の受けた誘惑」

2020年01月19日 聖書:マタイによる福音書 4章1節~11節

「人はパンのみにて生きるにあらず」。これは、良く知られている、有名な言葉です。

多くの人は、これが、聖書に書かれた言葉とは知らずに、語っています。

人は、パンに代表される、物質のみで生きているのではない。精神的なものこそが大切なのだ。肉体的な要求を満たすよりも、心の空しさを満たす方が大切なのだ。

一般的には、この言葉は、そのように理解されています。それも一面の真理でしょう。

しかしこれは、主イエスが語られた言葉なのです。一般的な社会通念を、語っているのではありません。神の独り子である、主イエスしか、語り得ない言葉なのです。

しかも、悪魔との激しい戦いの最中で、主イエスが、心の底から絞り出して、語られた言葉なのです。そういう言葉であるなら、それは、一体何を意味しているのでしょうか。

これから、この言葉が語っている、まことの意味を、ご一緒に聴いていきたいと思います。

今朝の御言葉において、主イエスは、荒野で悪魔から、誘惑を受けられています。

神の御子ともあろうお方が、なぜ誘惑を受けなければ、ならなかったのでしょうか。

考えてみれば不思議なことです。しかし、この不思議な出来事にも、深い意味がある筈です。では、それは一体、何なのでしょうか。

この荒野の誘惑を通して、主イエスは、これからの、ご自身の宣教活動の目的を、はっきりと掴み取っていかれたのです。メシアとしての使命を、再確認していかれたのです。

言うまでもなく、その使命とは、罪の中にいる人間を、十字架の贖いによって救い出す、ということです。

主イエスは、その使命を、この荒野の誘惑を通して、改めて確認していかれたのです。

本来、誘惑とは無縁の筈の、神の御子が受けられた誘惑。その誘惑とは、一体どのようなものだったのでしょうか。

それは、十字架以外の方法によって、人を救済しようとする誘惑でした。

悪魔は、人間を、自分の領域である、罪の中に閉じ込めておきたいのです。人間を自分の支配のもとに、置いておきたいのです。

ですから、主エスが、十字架で死なれてしまっては、困るのです。十字架によって、人間の罪を贖ってしまっては、困るのです。

ですから、罪からの救いである、十字架の贖いを、何とか阻止したいのです。

悪魔は、主イエスの救いの御業を、その最初の所で、破壊してしまおうとしているのです。

この荒野の誘惑においては、主イエスの救いの本質が、問われています。

人間を救うために、神様は、何をされるのか。そのことが、問われているのです。

主イエスが荒野で受けられた誘惑は、「パンの誘惑」、「神殿での奇跡の誘惑」、「高い山での世界支配の誘惑」の三つでした。

伝統的な解釈では、これらは、「肉体的な誘惑」、「宗教的な誘惑」、「政治的な誘惑」、を代表している、と考えられてきました。

そして、主イエスが、これらの誘惑に勝たれたことは、そのような誘惑に遭う、私たちに対する、模範としての意味がある、と教えられてきました。

しかし、これらの誘惑は、神の御子と悪魔との、激しい戦いの中で、なされています。

そのことを考えると、それらは単なる肉体的、宗教的、政治的な誘惑ではないと示されます。私たちが出遭う誘惑とは、本質的に違うものだと、思わされます。

これから、福音書を読んでいきますと、これらの誘惑は、この箇所だけではなく、この後も、ずっと主イエスに対して、挑戦し続けた誘惑であったことが分かります。

主イエスの周りには、常にパンの奇跡を求める、多くの飢えた群衆がいました。

それらの人々の求めに応じて、石をパンに変えて与えたなら、人々は主イエスが神の子であることを、疑わずに信じたことでしょう。

そして、主イエスの宣教活動は、飛躍的な発展を、遂げたことでしょう。

この後、主イエスは、たった五つのパンと二匹の魚で、5千人の人々を、満腹にしました。

ヨハネによる福音書によれば、その時、その奇跡に驚いた群集が、主イエスの所に押し寄せてきて、主イエスを王にしようとした、と記されています。

石をパンに変えて、人々に与えたなら、主イエスは、王になることができたのです。

悪魔は、そこにつけ込んで言うのです。「あなたが神の子として、これらの石をパンに変えるなら、どんなに多くの者が、飢えの悲惨さから救われるだろうか。それこそが、最も明らかな人間救済の方法ではないか。それがあなたの、救い主としての使命ではないのか。」

しかし、主イエスは、人々が望んでいたパンではなく、まことに人を生かす、命のパンを与えられました。命のパンである、ご自身の命を、十字架の上で、与えられたのです。

空腹を一時しのぐだけのパンではなく、永遠の命の救いを、与えられたのです。

手っ取り早く宣教活動を進めるためなら、パンの奇跡を、毎日繰り返せば、あっという間に、人々の支持を得ることができます。でも、主イエスは、そうすることを、拒否されました。

また、主イエスの周りには、神の子のしるしとしての、奇跡を求める多くの人々が、常にいました。主イエスに敵対する、ファリサイ派や律法学者たちも、執拗にしるしを求めました。

もし、彼らの要求に応えて、彼らの目の前で、神殿の屋根から飛び降りるような、偉大な奇跡を行ったなら、彼らは間違いなく、主イエスを神の子と、認めることになったと思います。

その結果、福音は、ユダヤの国の隅々にまで、瞬く間に伝えられていったことでしょう。

これは、私たちも受ける誘惑です。

この茅ヶ崎の人が、いや日本中の人々が、驚くような、大イベントを出来ないだろうか。

そうしたら、あぁここに、神の力が働いている、ということを、はっきりと示すことが出来るのではないか。私たちは、時々、そのような考えを持つことがあります。

世間から注目されるような、大きな事をして、神の力がここにある、と示したいと考えます。

しかし、主イエスは、そのような仕方で、人々の心を奪うようなことは、されませんでした。

むしろ、じっと忍んで、十字架を担い続けられたのです。

神様が、最愛の独り子を、この世に賜ったのは、神殿の屋根の上で、サーカスを演じるためではありません。御子を、十字架にかけて、贖いの死を遂げさせるためです。

なぜ、そんな道を選ばれたのでしょうか。それだけが、人間を救う「愛のしるし」であったからです。私たちの主は、神殿の屋根でサーカスを演じて、人を驚かす神ではないのです。

そうではなくて、十字架という、苦しみや痛みのどん底まで、降られたお方なのです。

だからこそ、このお方は、どんな時にも、私たちの神でいてくださるのです。

どんなに深い苦しみ、悩みの中にあっても、主イエスは共にいてくださる。そのことを、信じることができるのです。

私たちの救いは、十字架を担われたキリストにあるのです。このお方を見上げ、このお方を信じて、歩んで行きたいと思います。

また、人々は、政治的指導者としての、メシアを待ち望んでいました。弟子たちでさえ、彼らが勝手に作り上げた、政治的指導者としてのメシア像を掲げて、主イエスを誘惑しました。

弟子たちが望んだように、主イエスが天から軍勢を送って、ローマの支配からイスラエルを解放したなら、すべてのユダヤ人は、主イエスを、救い主として崇めたことでしょう。

このように、荒野での三つの誘惑は、その時だけではなく、その後も、十字架に至るまで、ずっと主イエスに、挑戦し続けていったのです。

ですから、ルカによる福音書には、「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」、と書かれています。

この「時が来るまで」、という言葉は、新改訳聖書では、「暫くの間」と訳されています。

暫くの間、ほんの一時、悪魔は離れただけなのです。

でも、直ぐに、主イエスに、あの手、この手で、執拗に迫っていきました。

これら三つの誘惑は、究極的には、一つの誘惑である、ということができます。

突き詰めて言えば、これら三つの誘惑は、一つに纏められるのです。

それは、「十字架における、呪いの死」、以外の方法によって、人類を救済しようとする、誘惑です。そして、これこそが、主イエスにとっての、唯一の誘惑でした。

愛する父なる神様から、引き離され、見捨てられ、父なる神様に敵対する者として、全人類の罪を、ご自身の身に負って、呪いの死を遂げること。

これは、主イエスにとって、耐え難い痛みでした。主イエスは、ご自身の、肉体的な飢え乾きや、痛みや苦しみ、或いは、政治的、金銭的、社会的な誘惑には、敢然として立ち向かわれました。そして、いささかも動揺することなく、それらを退けられました。

しかし、最愛の父なる神様から引き離され、父なる神様の敵とされ、父なる神様から呪われ、打ち捨てられることは、主イエスにとって、耐え難い痛みであったのです。

主イエスと、父なる神様とは、一つであったからです。一つのものが、引き裂かれる痛み。それは、何物にも勝る、大きな痛みであったのです。

何とか、あなたから引き裂かれることなく、人々を救えないでしょうか、と主イエスは、父なる神様に叫ばれました。

ゲツセマネにおいて、「父よ、出来ることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」、と叫ばれた、主イエスの必死の祈りは、このような叫びであったのです。

荒野においても、40日の断食を通して、主イエスは父なる神様に対して、このように叫び、その祈りを通して、父なる神様の御心を、今一度、はっきりと確認していかれたのです。

神様から引き離され、神様に敵対するものとして、呪いの死を遂げる。

これ以外に、人間を罪から救う方法はない。そのことを、今一度確認されたのです。

それに対して悪魔は、この聖なるご計画を、何とかして崩そうと、挑戦してきたのです。

何も、「十字架の死」など、選ばなくても、パンの奇跡を、頻繁に行えば、よいではないか。

そうすれば、民衆も喜ぶし、あなたも苦しまなくて済むではないか。

偉大な奇跡を、ユダヤ人の指導者たちに見せつけて、神の子としての力を示せば、よいではないか。或いは、天から軍勢を送って、ローマに勝利すれば、よいではないか。

そうすれば、誰もが、一瞬にして、お前のことを、救い主だと信じるよ。その方が、効果的だし、お前も苦しまなくて済むではないか。

悪魔は、この荒野においても、そしてその後も、主イエスの働きの、あらゆる場を捉えて、十字架への道を阻止しようと、必死の抵抗を続けました。

悪魔は、その後も、様々な人を用いて、主イエスを誘惑しています。

マタイによる福音書16章を見ると、主イエスが、ご自身の受難と十字架の死を予告された時、ペトロは、「イエスをわきへお連れしていさめ始めた」、と書かれています。

「主よ、とんでもない事です。そんな事があってはなりません」、とペトロは言ったのです。

しかし、主イエスは。厳しい言葉で答えられました。「サタン、引き下がれ。神のことを思わず、人間のことを思っている」。 この言葉から、誘惑の正体が見えてきます。

誘惑の正体。それは、「神のことを思わず、人のことを思う」ように、誘い込むことです。

悪魔の狙いとは、「神のことを思わせず、人のことを思わせる」ことなのです。

誘惑とは、人のことを取るか、神のことを取るか、という選択を迫るものなのです。

そして、主イエスは、神のことである、十字架の道を、選び取られたのです。

十字架に掛かられた主イエスに、そこを通りかかった人が、「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」、と言いました。これも、荒野の誘惑と同じ誘惑です。

しかし主イエスは、神の子であることを、ご自分の救いのためには、用いられませんでした。主イエスは、十字架に留まることを、選ばれたのです。そして、それによって、私たちに救いを与えてくださったのです。それが、誘惑する者に対する、主イエスの答えでした。

主イエスを、十字架の上に留めたもの、それは、手足に打ち込まれた、太い釘ではなく、何としてでも、人間を救おうとされる、主の愛、主の熱情であったのです。

十字架は、最後まで、人のことを思わず、神のことを思うことに、徹していかれた、主イエスの決断の出来事でした。

「父よ、御心をなしたまえ」という祈りをもって、主イエスは、荒野においても、ゲツセマネにおいても、そしてカルバリの十字架の上においても、悪魔の誘惑に勝利されたのです。

私たちに対する、まことの救いが、選び取られたのです。

もしここで、主イエスが、他の手段によって、人間を救済する道を選ばれたなら、私たちの罪の赦しという、まことの救いは成し遂げられなかったのです。

主が、誘惑に打ち勝ってくださったことに、心から感謝したいと思います。

悪魔の誘惑は、主イエスを、父なる神様の御心から、引き離すことでした。

その悪魔は、私たちにも、同じように迫ってきます。私たちに対する悪魔の狙いも同じです。

それは、私たちを、神様から引き離そうすることです。

私たちの心に忍び込んでくる悪魔は、事ある毎に、私たちに囁きます。

「あなたの信じる神は、まことの神なのか。もし、まことの神なら、石をパンに変えることぐらい、容易いことではないか。でも世の中には、飢えに苦しむ人が絶えないではないか。

そんなことをしてくれない神を、なぜまことの神と言えるのか。」

私たちは心の中で、このように主イエスを試みたことは、今まで一度もなかったでしょうか。

予期せぬ苦しみや悲しみ、或いは、不幸な出来事に出会った時、私たちは、こう呟いたことはなかったでしょうか。

「神様、あなたが本当におられ、本当に生きておられるなら、しるしを見せてください」。

私たちは、しばしばそういう思いに、陥ることがあるのではないでしょうか。

ですから、突然病気になったり、不幸に襲われたりすると、簡単に信仰をなくしてしまうことが、現実には起こり得るのです。

今は、神様どころではない、信仰どころではない、と言い出すのです。「苦しい時の神頼み」ではなく、「苦しい時の神離れ」、をしてしまうのです。

苦しい時にこそ、恵みのしるしを、具体的に見せて欲しいのに、それが見えてこない。

そういう時に、「私の信じる神は、まことの神なのか。なぜ、石をパンに変えてくれないのか。もしあなたが、本当の神なら、私に対して、こんな扱いをする筈がないではないか」、と呟きだすのです。

私たちがそう思う時に、悪魔と同じ思いが、私たちの心に忍び込んできているのです。

主イエスが、ここで、本当に苦しんで、闘われているのは、実が悪魔ではなく、こういう悪魔に、直ぐに取りつかれてしまう、私たちの罪であったのかもしれません。

主イエスを試みた悪魔とは、実は、私たちであったのではないか、と思わされます。

主イエスは、本当は私たちのために、ここで闘われたのではないでしょうか。

悪魔は、第三の誘惑で、主イエスに、恐ろしいほど無遠慮に、「私にひれ伏して仕えろ」、と言いました。

私たちも、主イエスに、そういうことを言ったことはないでしょうか。

「あなたが本当に神の子なら、私の幸いを約束してくださっても良い筈だ」。そういう思いを持ったことはないでしょうか。それは神様に、「私の願いに仕えろ」と言っていることなのです。

あのパウロもそうでした。自分にある、肉体のとげを取り去ってください、と何度も願ったのです。しかし、それに対する、答えは何であったでしょうか。

「パウロよ、私の恵みはあなたに十分である。私の力は、あなたの弱さを通して、発揮されるのだ」。主イエスは、そう言われたのです。

言い換えれば、「パウロよ、あなたには私がいるではないか。どんな時も、離れずに共にいるではないか。その恵みで十分ではないか」、と言われたのです。

主イエスは、私たちの心の中にある、悪魔に支配されている思いとも闘ってくださり、私たちを、悪魔の支配から解放するために、十字架への道を、選び取って下さいました。

この朝、私たちは、そのことを、感謝をもって、想い起したいと思います。

そして、十字架の上で、私たちのために、命懸けで、執り成しの祈りを、ささげてくださった主イエスを見上げつつ、私たちも誘惑との闘いを、闘い抜いていきたいと思います。

私たちは、どんなことでも、主に願って良いのです。しかし、最後には、「私の願いではなく、御心がなりますように」、と祈る者とならせていただきたいと思います。