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過去の礼拝説教

「おめでとう!幸いな人」

2020年02月16日 聖書:マタイによる福音書 5:1~12

昨年のアドベントから、マタイによる福音書を読み始めてきましたが、今朝から5章に入ります。この5章から7章にかけては、主イエスが、山の上で語られた、尊い宝石のような御言葉が、まとめられています。

私が子供の頃は、これらの御言葉は、「山上の垂訓」と呼ばれていました。しかし、いつしか、ここにまとめられた御言葉を、「山上の説教」と呼ぶようになりました。

「垂訓」という言葉が、古めかしい印象を与えるというこことが、変更した理由の一つかもしれません。

しかし、単に新しいとか、古いとかいう印象だけから、変えられたのではないと思います。

垂訓という言葉からは、ここに語られた御言葉が、道徳的な教訓、或いは、私たちが、この世を生きていく上で、の人生訓であるかのように、捉えられてしまう恐れがあります。

道徳の教科書に書かれていることと、同じ種類の言葉、或いは、その延長線上にあって、より高い目標を示した言葉であると、捉えられてしまう恐れがあります。

しかし、主イエスが、ここで、心を込めて語られた御言葉は、道徳訓でも人生訓でもありません。ここに収められた御言葉は、神様の救いの御業を、宣べ伝える説教なのです。

ここで、主イエスは、私たちに、道徳訓や人生訓を語られたのではありません。

神様の救いを、宣べ伝えられたのです。ここに、この生き方の中に、神様の救いがある、と宣言されたのです。

では、その宣言は、どのように語り始められたのでしょうか。どんな言葉で、始まったのでしょうか。多くの人が、この山上の説教の、最初の言葉を知っています。

「心の貧しい人々は、幸いである」。主イエスは、こう語り出されたのです。

この言葉は、新約聖書が書かれたギリシア語の原語では、いきなり「幸いである!」、という言葉で始まっています。

昔の文語訳聖書では、「幸いなるかな、心の貧しい者」、となっていました。この方が、言葉の順序としては、原文に近い訳し方です。

主イエスは、山に登られて、弟子たちに、そしてその背後にいる、大勢の群衆に向かって、いきなり「あぁ、何と幸いなことか」、と語り出されたのです。

皆さんの中には、旧約聖書のある言葉を、思い起こしている方が、おられるかもしれません。

多くの人に愛されている、旧約聖書の詩編。その最初の1編1節は、「いかに幸いなことか」、と語り始めています。

ここでも、原文をみますと、「幸いだ!」という言葉が、1節の冒頭に置かれています。

150編にも及ぶ膨大な詩編。その詩編は、「幸いだ、このような人は!」という言葉をもって始められているのです。

そして、主イエスも、ご自身の最初の説教である山上の説教を、「幸いだ、心の貧しい人」という言葉をもって、語り始められました。

旧約聖書の中で最も親しまれている詩編と、新約聖書で最も良く知られている山上の説教。そのどちらもが、「あぁ,何という幸い!」、という言葉から、語り始められているのです。

聖書は、私たちに、まことの幸いとは何か、ということを、教えている書物なのです。

主イエスは、この言葉を、ガリラヤ湖畔の山の上で、語られました。

その山とは、恐らくここだろう、と思われるところに、現在は、記念の教会が建っています。

私もそこを訪れたことがあります。それは山というよりは、なだらかな丘です。

私がそこを訪れたのは、ちょうど雨季が終わった直後の春先でしたので、その丘は、一面の緑に覆われ、美しい花が咲き乱れていました。見下ろすと、ガリラヤ湖が、キラキラと光っていました。のどかで、美しく、平和な丘でした。

主イエスは、このような丘に登られて、あの素晴らしい御言葉を語られたのかと、言い知れぬ感動に満たされたことを覚えています。

主イエスは、その丘で、開口一番「幸いだ!」と言われました。「幸いだ!」。この言葉を聞いた時、人々は思わず身を乗り出して、主イエスの言葉に、耳を傾けたと思います。

なぜなら、この当時、ユダヤの人々の多くが、貧しく、ローマの圧政に苦しみ、重税に泣いていたからです。誰もが、幸せを、切に求めていたからです。

主イエスは、この群衆を見て、心を揺り動かされて、「幸いだ!」と語り出されたのです。

では、主イエスは、どういう意味で、「幸いだ」と言われたのでしょうか。

あなた方は、今は、苦しみや悩みに満ちた、この世の現実の中で、喘いでいる。

でも、やがて、死んで天国に行ったら、幸いを得るのだ。そう言われたのでしょうか。

或いは、あなた方は、実は幸いなんだ。そのように思い込みなさい、と無理に言って聞かせたのでしょうか。勿論、そうではありません。心からの祝福を、述べておられるのです。

「おめでとう!幸いな人。あなたはなんと幸せな人だろうか。それは、心が貧しいから。心が貧しくて、本当に良かったね」、と呼びかけておられるのです。

このことから分かることは、どうやら、主イエスが語られている幸いとは、私たちが、一般に思っている幸いとは、違うようだということです。では、どのような幸いなのでしょうか。

ここに「幸い」と訳されている言葉は、もともとは、ギリシアの神々のことを語る時に、用いられた言葉だそうです。地上の様々な苦しみとは、無縁の世界に生きている、天上の神々が味わっている幸い。そういう幸いを、言い表した言葉だそうです。

そのような言葉を、主イエスは、ここで使われているのです。但し、天上の神々に対してではなく、この地上で苦しみや悩みに喘いでいる、群衆に対して使われているのです。

「幸いだ」と言われても、それを直ぐには、実感できないよう人々に対して、語られているのです。

私たちも、様々な不幸や、悲惨な出来事や、不条理に満ちている、この世の只中で生きています。その私たちに、主イエスは、「幸いだ!」と呼び掛けられているのです。

一体、私たちは、この言葉を、どのように受け止めたら、良いのでしょうか。

主イスは、天上の世界のみで見られるような、理想の世界を示されて、この世の現実から目を逸らし、理想社会を見つめて生きることを、つまり現実逃避を、勧められたのでしょうか。

勿論、そんなことはありません。主イエスの「幸いだ!」という呼び掛けは、今、この悲しみや悩みが渦巻く、私たちの世界に、飛び込んで来る御言葉である筈です。

私たちが置かれている現実を、私たちよりも良く知っておられ、私たちよりも悲しんでいてくださる主イエスが、「私についてくる者は幸いだ」、と叫ばれているのです。

今も、主イエスは、私たちの真ん中に立っておられます。私たち一人一人を、見ていてくださいます。私たちの痛みや、悩みや、苦しみを、すべて見ていてくださいます。

そのお方が、「私についてくる、あなたは幸いだ」、と言われているのです。

大切なことは、この地上の、様々な悩みや苦しみの只中で、私たちのことを、「幸いだ!」と呼んでくださる、主イエスの御言葉を、確かに聞き取ることなのです。

どこか遠くの、天上に於いて語られた言葉ではなくて、今ここに生きる、私たちに対して、語られた言葉として、聞いていくことなのです。

私たちが、本当に幸いな人として、生きることが出来るかどうか。それは、この主イエスの御言葉を、しっかりと聞きとることが出来るかどうかに、かかっているのです。

しかし、そう言われて、この山上の説教に書かれた教えを、自分に対して語られた言葉として読んでいく時、私たちは、直ぐに、大きな壁に突き当たります。

なぜなら、ここに書かれている言葉は、あまりに厳しいからです。

この「山上の説教」を、単なる倫理規定として捉えるなら、誰もが、その基準の高さに打ちのめされ、絶望感に覆われてしまいます。

『汝の敵を愛せよ』。『右の頬を打たれたら、左の頬を向けなさい』。『下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい』。『兄弟に「ばか」と言う者は人殺しと同じ裁きを受けなければならない』。『地上に富を積んではならない』、など。

このような厳しい教えに接した時、私たちの心には、「とてもついていけない」という思いが、生じるのではないでしょうか。

有名なトルストイは、この山上の説教をこよなく愛して、全生活をもってこれを実行しようと思い、遂に家出をしてしまった、と言われています。それでも、これを完全に守ることはできなかった、というのです。この山上の説教を実行できた人は、一人もいません。

ですから、これらすべてを守らなければ、救われないというのなら、一体誰が救われるのだろうか?そのような疑問が生じます。

この疑問に答えるため、ここで語られた主イエスの教えを、どのように解釈するかについて、昔から様々に議論されてきました。

「アフリカの聖者」と言われたシュヴァイツァーは、聖書学者としても有名ですが、彼はこれらの教えは、あまりに常識を逸脱している、と考えました。

そこで、「山上の説教」全体を、「中間倫理」と呼びました。

シュヴァイツァーによれば、主イエスは、終末が非常に間近であると考えていた。

従って、終末までの短い期間は、一種の「非常時」であって、そのような緊急事態にあっては、常識を超えた生き方が要求されたのだ、と解釈しました。

ですから、これらの厳しい教えを、日常生活に、そのまま当てはめることは適切ではない、との立場に立ちました。

また、ある学者は、主イエスの教えは、我々人間にとっての努力目標であって、現実には実行不可能なものである、と言っています。

しかし私たちは、主イエスの教えを、そのように片付けてしまって、良いのでしょうか?

もし私たちが、主イエスの教えを、人間の常識の枠の中に、閉じ込めてしまうなら、人間社会の様々な問題も、決して解決しないのでないでしょか。

人間の常識が生み出す様々な問題を、本質的に解決するには、人間の常識の枠が破られなければならないのではないでしょうか。

主イエスは、私たちに、「実行出来るかどうか考えなさい」、とは言われていません。

人間にはできないことだと、最初から諦めてしまって、御言葉を真剣に受け取らなくても良い、等とは何処にも書かれていません。

自分には、到底そんな生き方はできないと、最初から結論付けてしまっては、この山上の説教を、本当に自分のこととして、読むことはできません。

自分のこととして、本当に読む。それは、この主イエスの教えが、私たちの生き方に、くさびのように打ち込まれ、くい込むまで読む、ということです。

主イエスは、何の条件をつけずに、これらの教えを、ストレートに語られました。

主がそう言われるからには、そのようにすることが、私たちに許されていると信じて、小さな一歩を踏み出すしかありません。

そして、私たちが真剣に、これらの御言葉を、一切割り引くことなく、真正面から生きていこうとする時、私たちは、自分がいかに罪深い者であるかを、改めて思い知らされます。

主イエスの教えに従って、生きることができない者であることを、思い知らされます。

今まで、自分でも気付かなかった、罪や、弱さや、欠けを、知らされます。

そして、その時初めて、「十字架なくしては、決して救われることのない自分」、が示されます。

これらの御言葉に、まともに取り組まない限り、「主イエスの十字架、我がためなり」、との告白を、本当の意味で、自分のものとすることはできないのです。

ここで、「幸いである」と語られている人々は、「心の貧しい人」、「悲しむ人」、「柔和な人」、「義に飢え渇く人」、「憐れみ深い人」、「心の清い人」、「平和を実現する人」、「義のために迫害される」人々です。

この中で、柔和な人、憐れみ深い人、心の清い人、平和を実現する人は、一見すると、幸いと結びつくかのように聞こえます。

しかし、自分が故なく非難されたり、中傷されたりしても、尚も柔和な態度を保ち続ける。損をしてでも憐みに生きる。この世の汚れに逆らって、清さを保ち続ける。争って勝ちたいところでも、敢えて平和に生きる。そのような生き方は、この世の常識では、幸いとは言えないと思います。

ましてや、心の貧しい者が、どうして幸いなのでしょうか。悲しんでいる人が、なぜ幸いなのでしょうか。迫害されている人が幸いなどと、どうして言えるのでしょうか。

これは、常識では分かりません。この世の常識では、貧しさに苦しむこともなく、悲しみも知らず、権力によって痛めつけられるようなこともない人が、幸せであると考えます。

しかし、もし、主イエスが勧める生き方を、生きてみようと試みた時、どうなるでしょうか。

憐みに生きようとします。しかし、そのように生きた時に、直ぐに、呟き出します。悲鳴を上げてしまいます。

イエス様、あなたの仰る通り、憐れみの愛に生きてみました。でも、誰も私に感謝しません。誰も、私に報いてくれません。私は、何も報われずに、損をするばかりです。

私は、自分が惨めで、不幸な人間に思えます。そのように言い始めるのです。

しかし、主は、そこで、こう言われます。いや、そうではない。あなたは幸いを得ているのだ。

主イエスは、責任をもってそう言われるのです。私たちの主は、決して、無責任なお方ではりません。きちんと責任を取って下さるお方なのです。

では、どこで、どのようにして、責任を取って下さるというのでしょうか。

それは、十字架においてです。主イエスは、やがて十字架に死なれます。

主イエスが語られた幸いを、信じることが出来ずに、この世の幸いを求める人々によって、十字架につけられて殺されたのです。

弟子たちも、この人のもとには幸いなどないと、皆、逃げて行ってしまったのです。

しかし、主は、そこで、まさにそこで、私たちの幸いを、成し遂げてくださったのです。

十字架の上で、ご自身を嘲り、罵る人々のために、「父よ、彼らをお赦しください」と、必死の執り成しの祈りを、ささげてくださいました。この祈りによって、私たちの幸いを、成し遂げてくださったのです。

神が、命がけで、私たちのことを愛して下さった。この幸いにまさる、幸いがあるでしょうか。

この幸いによって、天国が私たちのものとなるのです。悲しむ人が慰められるのです。

柔和な人が地を受け継ぐのです。飢え渇く人が、飽き足りるようになるのです。

これらの幸いは、すべて、私たちが、自分の力で、造り出すものではありません。

十字架の主が、命がけで与えてくださるものです。私たちを愛するが故に、十字架に死なれて、そして復活して下さった主が、私たちのために、なしてくださることなのです。

私たちは、その主の愛の中で、貧しく、悲しく、柔和で、憐れみ深く、義に飢え渇く思いで、生きることが出来るのです。心清く、平和な生き方を、望んで生きるように、されていくのです。

なぜなら、先立って行かれる十字架の主が、既に、その貧しさを、その悲しみを、その飢え渇きを、その憐みを、味わい尽くしてくださったからです。

その主が、共にいてくださいます。私たちが、どこにいても、どんな時も、必ず共にいてくださいます。

そして、十字架で傷ついた手を差し伸べて、私たちを、導いてくださいます。

「さぁ、私と共に行こう。ここに幸いな道がある。あなたのために、私が命がけで造った幸いの道がある。どうか、この道を共に歩んでおくれ」、と御手を差し伸べて下さっているのです。

私たちは、この十字架の主の貧しさによって、貧しさを生きていかれるのです。この十字架の主の憐れみによって、憐れみに生きられるのです。

勿論、その歩みは、たどたどしく、直ぐに躓き、倒れてしまいます。いつまでたっても、遅々として進まないような歩みです。しかし、主は、決して、私たちを見捨てたりしません。

どこまでも共にいて、倒れた私たちの手をとって起こして下さり、支えてくださいます。

そして、あなた方は、必ず慰められる、飽き足りるようになる、神を見ることになる、天の国で生きるようになる、と責任をもって宣言し、約束してくださるのです。

この主と共に歩む生き方こそが、幸いな生き方なのです。

来週からは、「幸いなるかな」で始められる祝福の御言葉を、一つ一つ聴いていきます。

通常、八つの祝福、「八福」と言われています。八つの面を持ったダイヤモンドのように、八つの異なった角度から見た、一つの祝福です。

その光は、それぞれ、独自の光を放ちつつ、一つに溶け合っています。

来週から、その輝きの中で、一つ一つの祝福を、ご一緒に味わっていきたいと思います。