「神様の愛のおすそ分け」
2020年03月29日 聖書:マタイによる福音書 5:7
戦国武将の武田信玄は、「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」、という有名な言葉を残しています。
「情けを与えれば、情けが帰って来る」。それが、いざという時に、強い味方になる、と言っているのです。「情け」を、憐みと置き換えても通じる言葉です。
今朝の御言葉は、「憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。」と言っています。
これは、人に憐みを与えれば、いつか、それが帰って来る。そして、幸いな人生を送れる、ということなのでしょうか。
もし、そうであれば、これは、聖書が言わなくても、世間一般で良く言われていることです。
日本の昔話にも、そのことをテーマにした物語が、いくつかあります。
例えば、「鶴の恩返し」とか、「舌切り雀」のようなおとぎ話は、動物でさえ、憐みを受ければ、それを返そうとする、というストーリーになっています。
憐みを与えれば、やがて、それが自分に返ってくる。そういう幸いに与れる。
もし、何時でもそうであれば、私たちの人生は、明るい希望に満ちたものとなるでしょう。
しかし、現実は、それほど甘くないことを、私たちは知っています。
私たちの方から、憐みを投げ掛けたとしても、いつも、同じような憐みが、帰ってくるわけではありません。
優しさや憐みを投げ掛けても、何故か、敵意や不信感が帰って来ることも多くあります。
恩を仇で返される、ということもあります。
その時、私たちは、相手の敵意や不信感を飲み込んで、更にそれを、優しさや憐みに造り替えて、再び投げ返す、というようなことは、なかなかできません。
しかし聖書は、そうしてごらんなさい。それこそが、幸せになる秘訣である、と言っています。
「憐みを与える人は、憐れみを受ける幸いに必ず与れる」、と約束しているのです。
でも、今申し上げたように、実際には、憐れみを与えても、憐れみが帰って来ないことがあります。
憐れみを投げ掛けても、敵意や不信感が帰って来ることが、実際にはあるのです。
それなら私たちは、どういう意味で、幸いなのでしょうか。
私たちが、主イエスの御言葉に従って、憐れみの愛に生きようとします。
しかし、そこで直ぐに、呟いてしまいます。「イエス様、あなたの言われるように、憐れみの愛に生きてみました。でも、誰もその愛に報いてくれません。誰も愛を返してくれません。
私は、ますます損をするばかりです。私は、惨めで不幸です。」
そのように嘆かざるを得ない、現実があることを、私たちは知っています。
しかし、そこで、主イエスは、言われるのです。「いや、そうではない。あなたは、憐みを受けているのだ。あなたは、幸いを得ているのだ。」
御言葉は、憐れみを与える相手が、どのような人であっても、私たちは、必ず憐れみを受ける、と約束しています。
そうしますと、私たちに憐れみを返してくれる人は、私たちが憐れみを与えた相手であるとは限らない、ということになります。別の人である、ということになります。
そうでなければ、主の約束は実現しません。主の御言葉は、無責任になってしまいます。
では、私たちに、必ず憐れみを返してくれる人とは、一体誰なのでしょうか。
それは神様です。いえ、実を言いますと、私たちは、憐れみを返していただくのではなくて、憐れみを先に頂いているのです。
私たちは、神様に背いてばかりいます。罪を犯し続けています。しかし、神様は、その罪という大きな負い目、膨大な借金を、全部帳消しにしてくださったのです。
主イエスは、そのために、私たちの罪の身代わりとなって、十字架に死んで下さいました。一生掛かっても、決して返済できないような借金を、全部帳消しにしてくださったのです。
私たちは、そのような、とてつもなく大きな憐れみを、既に受けているのです。
ですから、主は言われているのです。「あなたは、もう既に憐れみを受けたのだ。だから、憐れみを与えることが出来る筈だ。是非そうして欲しい。あなたが、私の憐れみに生きる時、私は、あなたと共にいることになる。」
これが、私たちが、憐れみに生きることが出来る根拠です。
共にいてくださる主イエスの、憐れみの中を生きること。それが、私たちの幸せの根拠です。
もともと私たちの心には、他人を憐れむ愛は、ありません。
でも、私たちは、その愛の出所を知っています。それは、主イエスの十字架です。
主イエスの十字架から滴り落ちる愛の血潮。それを心に注いで頂くことによって、私たちも少しずつ他人を愛することができるように変えられていきます。
そして、私たちが変えられる時、周囲の人たちも変えられていきます。
皆様は、「ダルク」という団体のことを、お聞きになられたことがあるでしょうか。
「ダルク」という団体は、薬物依存症の方々をお世話して、回復に導くことを目的としているNPO法人です。そこで働く人たちの多くが、クリスチャンです。
全国に、いくつかのダルクの支部がありますが、甲府にある山梨ダルクの代表をしている佐々木広さんが、このような話を機関誌に書いておられます。
山梨ダルクに、通称「シノ」と呼ばれている青年がやってきました。この人は薬物使用のため、7回も逮捕され、刑務所に送られた人です。
7回目の服役を終えて、山梨ダルクに来たのですが、当初は、「薬をやめる気はない。仮釈放が終わったら、出て行く」と、野良犬のような眼をして、うそぶいていました。
聞くと、シノの誕生日は、彼の母の命日と、同じ年の同じ日だというのです。つまり、母親は、シノを産んで、直ぐに亡くなったのです。
父親は、それ以来酒におぼれ、「お前のせいで母親は死んだんだ」と罵っては、シノを虐待したそうです。
両親の愛を全く受けずに成長したシノは、やがて薬物に手を染め、地獄のような世界に落ちていきました。
そんなシノが、ダルクに来て、初めて人の優しさ、人の憐れみに触れたのです。
徐々に、シノに変化が現れました。ある日、シノは、佐々木さんに尋ねました。
「ヒロシはなぜ優しいのか。教会の人たちは、なぜ温かいのか。何か、裏があるんだろう。見返りを求めているんだろう。でなければ、見ず知らずの俺に、親切にしてくれるはずがない。本当のことを教えてくれ」。
佐々木さんは、そんなシノに、昔の自分を重ねて見ていました。実は、佐々木さんも、かつて薬物依存症で、ダルクに入所した人であったのです。
そこで、人々の優しさ、人々の憐れみに触れて、立ち直り、今度は、自分が薬物依存症の人たちを世話する仕事に就いたのです。
こうした中で、シノは徐々に変えられていきました。そして、ある日こう言いました。
「今までは、自分のことを、粗末にしてきた。これからは、もっと自分のことを大事にしたい」。
自分が愛されている存在だと分かったとき、それまで「自分なんてどうなってもいい」、と思っていた気持ちが変ったのです。自分を、愛してくれる人に応えたい、という思いが生まれたのです。
今、シノは、富士五湖ダルクの施設長となって、かつての自分のように、薬物の悪魔に捕らわれている人を解放するために、必死に取り組んでいます。
佐々木さんも、シノさんも、人の憐みに出会って、変えられました。そして、今は、自分が、小さな憐みに生きる道を歩んでいるのです。
憐れみ深い資質を持った人が、幸いになるのではありません。もともと、生まれながらに憐れみ深い人などいません。
私たちが、神様の憐れみを知り、その憐れみを受ける時に、私たちも、小さな憐みに生きるようにされていくのです。
神様からの憐れみなしには、私たちは、まことの憐みに生きることはできません。
ですから、憐み深い人とは、神様の憐れみを、良く知っている人です。
神様の憐みの中に、招き入れられている人です。神様の憐れみを、感謝して受け入れ、その憐みを、自分の中に、ほんの少しでも、映し出そうとしている人です。
聖書には、神様の憐れみについて、語られている箇所がたくさんあります。
「憐れに思って」、という言葉で、神様の御心を言い表している譬え話も、いくつか思い浮かびます。例えば、善きサマリア人の譬えです。
サマリア人は、傷ついて虫の息になっていた旅人を見て、憐れに思って、近寄って介抱し、宿に運んで、費用の支払いまで、申し出ています。
また、放蕩息子の譬えでも、父親は、ぼろぼろになって帰って来た息子を見て、憐れに思って、走り寄って抱き締め、最上の着物を着せ、盛大な宴会を開いています。
神様の憐れみの大きさを表す譬えでは、マタイによる福音書18章の「仲間を赦さない家来」の譬えがあります。
王様から一万タラントン、今の日本円で約6千億円という、途方もない金額の借金している家来が、王様から返済を迫られました。勿論返済など不可能です。
王様は、自分も妻も子も、また持ち物も、全部売って、返済するように命じました。
家来はひれ伏して、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」と、苦し紛れに願いました。しかし、返す当てなどありません。どう転んでも、返せる金額ではありません。
これを見た王様は、憐れに思って、何と、その借金を全部帳消しにしてやったのです。
ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオン、約百万円の、借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、「借金を返せ」と迫りました。
仲間はひれ伏して、「どうか待ってくれ。返すから」、としきりに頼みました。しかし、家来は承知せず、その仲間を牢に入れてしまいました。
そのことが王様の耳に入りました。王様は深く悲しんで、その家来を呼びつけて言いました。
「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」
そして、王様は怒って、その家来を牢に入れてしまった、という話です。
この譬えの中で、家来は、ただ王様の憐れみを求めています。それしかできません。
この時、家来が持っていたのは、王様に対する膨大な負債だけです。それ以外に何も持っていなかったのです。ですから、ただ憐れみにすがる他ありませんでした。
この譬えの中の王様とは、神様のことです。家来は、私たち一人一人です。そして、帳消しにされた膨大な借金とは、私たちの罪を表しています。
私たちは約6千億円という、とうてい返済不能な罪を、主イエスの十字架の贖いによって、帳消しにして頂いたのです。それなのに、百万円の他人の借金を赦すことが出来ないのです。百万円は6千億円の、60万分の1です。
主イエスは言われています。あなたは、6千億円を帳消しにして貰うという、膨大な憐れみを頂いたのだ。そうであるなら、その60万分の1の憐れみに、生きることが出来る筈ではないか。
あなたは、この膨大な憐れみを、既に得ているのだ。その憐みの中に招かれ、その憐みの中に生かされているのだ。
だから、その憐みの60万分の1の、小さな憐みに、生きてご覧なさい。
その時、あなたは、私の憐みの中で、私と共に生きる者となる。それが憐み深い者が味わう幸いなのだ、
「憐み深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受ける。」
愛する兄弟姉妹、私たちは、与えられている膨大な憐みの、60万分の1でも良い、いや、もっと小さい、ほんの一かけらの憐みを、映し出していく生き方を目指して、共に歩んで行こうではありませんか。そのような生き方に導かれていきたいと、心から願います。