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過去の礼拝説教

「大いに喜びなさい」

2020年04月26日 聖書:マタイによる福音書 5:10~12

「義のために迫害される人々は、幸いである」。主イエスの御言葉です。
でも、私たちは、この御言葉に、戸惑いを覚えるのではないでしょうか。なぜなら、迫害されて幸せだ、などと思う人はいないからです。
私たちは、迫害など経験せずに、楽しく暮らしていきたいと願っています。
では、私たちは、この主イエスの御言葉を、どのように捉えればよいのでしょうか。
聖書を読みますと、神様に従った人々が、迫害された出来事が、たくさん出て来ます。
預言者エリヤも、エレミヤも、そしてダニエルも、神様に従ったために迫害され、命の危険にさらされました。
主イエスの使徒たちも、ほとんどが、殉教の死を遂げた、と伝えられています。
ギリシア語の「証し」という言葉と、「殉教」という言葉は、同じ言葉です。
その当時、主イエスを証しするということは、殉教を覚悟することであったのです。
「殉教者の血は教会の種である」、という言葉があります。まさに教会は、殉教者の血を種として、成長してきました。
スミルナの司教であったポリュカルポスという人は、86歳で殉教しました。
彼を裁かなければならなかったローマの総督は、ポリュカルポスの高潔な人柄を知っていました。ですから、何とかして、彼を助けたいと思いました。
総督はこう言いました。「ここでキリストを呪え。一言で良いからキリストを呪え。そうしたらお前を釈放してあげよう」。
ポリュカルポスは答えました。「私は86年間キリストに仕えてきました。その間、キリストは、一度たりとも、私の信頼を裏切ったことがありませんでした。そのキリストを、どうして裏切ったり、罵ったりすることができましょうか」。
総督が言いました。「もしお前が、キリストを呪わなければ、お前を焼き殺すことになるぞ。」
ポリュカルポスが答えます。「総督は暫くの間しか燃えない火で、私を脅かそうとしています。しかしあなたは、永遠に消えない、地獄の火のことを忘れています。」
ポリュカルポスは、火あぶりの刑に処せられましたが、死に臨んでこう祈ったそうです。
「全能の神様、キリストの苦しみにあずかって、殉教者の列に加えて頂き感謝します。あなたの聖名を褒め称えます。」
私たちは、教会の歴史の中で、このような殉教者の例を、いくつも挙げることが出来ます。
「義のために迫害される人々は、幸いである」。この御言葉を聞く時、私たちは、そのような殉教者たちのことを、想い起します。
そして、この御言葉は、そういう信仰の英雄たちのことを、言っているのだと、勝手に思い込んでしまいます。この自分には、当てはまらない御言葉だと、決め付けてしまいます。
そのように、この御言葉を理解する。それも、一つの読み方かもしれません。
しかし、それで、主イエスが語られたことを、本当に聴いたことになるのでしょうか。
もしそうであれば、この御言葉は、私たちとは、直接関係のない言葉となってしまいます。
11節、12節を見ますと、私たちは、大切な事に気付きます。
それは、これまで、「こういう人たちは幸いである」、と三人称で語られていたのに、11節、12節では、「あなたがたは幸いである」と、二人称に変わっている、ということです。
「彼ら」ではなく、「あなたがた」と、呼び掛けられているのです。
ですから、この言葉は、他人の話ではないのです。私たちに対して、語られている言葉なのです。主イエスは「あなた方は、私のために迫害を受ける」と言われているのです。
そして、更に、「だから、あなた方は幸いなのだ」、と言われているのです。
それなら、私たちは、この御言葉を、どのように捉えればよいのでしょうか。
今、日本においては、キリストの故に迫害に遭う、ということはありません。
しかし、キリスト者として生きていく時に、様々な困難を経験することはあります。
なぜなら、この世は、全体として、神様の御心とは、反対の方向に流れているからです。
その流れに逆らって、御心に従って生きようとすれば、様々な抵抗に遭います。
「主よ、なぜですか」と、訴えたくなるような困難も経験します。損をすることもあります。
使徒パウロは、弟子のテモテに宛てた手紙の中で、こう言っています。
「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。」主イエスに、本気になって従って行こうとすれば、皆、迫害を受けると言っているのです。
これは、初代教会だけに、当てはまる言葉でしょうか。そうではないと思います。
現代でも、御言葉を、真正面から受け止めて、まともに御言葉に従って、生きていこうとすれば、広い意味で、迫害を受けます。困難を引受けたり、損をしたりすることもあります。
私が香港駐在時代に、信仰の交わりを持ったK兄弟は、建築関係の会社の香港支店長でした。ある時、地場の中国系の顧客から、大きな商談を持ちかけられました。
またとないビジネスチャンスでした。うまく話が進んで、いよいよ契約調印の運びに至りました。その時、先方の社長から、裏金作りに協力するように求められました。
契約金を上乗せして、差額をその社長の個人口座に振り込むようにと、言われたのです。
当時、香港では、時々行われていた、悪い商慣習でした。
K兄弟は悩みました。皆で一生懸命頑張って、やっと獲れた大切な契約です。
先方の要求を断って、契約を逃がせば、本社から叱られ、自分だけでなく、部下の評価も下がってしまいます。それは、損な生き方です。
でも、要求された裏金作りは、聖書の教えに背きます。彼は、聖書を貪るように読み、必死に祈りました。そして、悩みに悩んだ末に、先方の要求を断りました。
もし彼が、キリスト者でなかったなら、先方の要求を了承し、すんなりと契約したでしょう。
しかし、彼は、苦しみ悩んだ末に、損と思われる道を選んだのです。
現代でも、信仰者に対する、このような、広い意味での、迫害は存在します。
主イエスの御言葉は、決して、歴史上の信仰の英雄だけに、当てはまるものではありません。今の私たちに対する言葉でもあるのです。
主イエスは言われています。この世にあって、私に従う時に、困難を伴うことがある。損をすることもある。
それでも尚、あなた方は、私に従ってきなさい。私に従って、私の歩んだ道を、あなた方も歩みなさい。主イエスは、そう言われているのです。
では、主イエスの歩まれた道とは、どのような道であったでしょうか。
主イエスは、寝る間も惜しまれて、救いの御言葉を語られ、病人を癒してくださいました。
それなのに、人々から、罵られ、鞭うたれ、唾を掛けられ、最後は、極悪人を処刑するための十字架によって、殺されてしまいました。
殉教者の例を挙げるまでもなく、主イエスご自身が、迫害されるとはどういうことかを、身をもって実証されています。
その主イエスに従って行くということは、主イエスのように、困難を引き受けて、損な生き方を選び取っていくということです。そんなこと、私たちに出来るでしょうか。
でも、主イエスは、それでも、私に従って来なさいと、私たちを招かれているのです。
そして言われます。「大丈夫だ。あなた方は、幸いを得られる。あなた方は、私のために、罵られ、身に覚えのないことで、あらゆる悪口を浴びせられる。でも、そのような迫害を受ける時、あなた方は、実は幸いなのだ」と言われるのです。これは、どういうことでしょうか。
一体、主イエスの言われている幸いとは、どういうものなのでしょうか。
主エスは、続けて言われています。「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」 
あなた方には大きな報いが約束されている。だから幸いなのだ、と言われているのです。
では、主イエスが言われる「報い」とは、何なのでしょうか。皆さんは何だと思われますか。
それは、主イエスご自身のことです。主イエスご自身が、報いとして与えられるのです。
主イエスの歩まれた道を、主イエスに従って歩んで行く時に、主イエスご自身が共にいてくださるのです。その共にいてくださる主イエスを、私たちは、喜ぶことが出来るのです。
主イエスが共にいてくださる。その主イエスの愛の内を、歩むことが出来る。それが私たちに約束されている、報いなのです。私たちは、そのことを喜ぶのです。大いに喜ぶのです。
主イエスと共に、主イエスの愛の内を歩む。それ以上に大きな喜びはありません。
主イエスと共に歩む時、主イエスの愛が、私たちの内に注がれます。それが私たちに与えられる報いです。私たちは、その報いを大いに喜ぶのです。
今から100年以上も前に、外国人など一人も訪れたことのない、中国の奥地に、若い宣教師の夫妻が赴任しました。言葉の壁、外国人に対する激しい偏見の中で、厳しい伝道生活が続きました。14年掛かって、やっと一人の信者が与えられました。
更に14年掛かって、やっと信者が10人となり、粗末な会堂を建てました。
さぁ、いよいよこれからという時に、何と一人娘が、ハンセン病に罹ってしまったのです。
三日掛けて親子3人で上海の港まで辿り着き、奥さんと娘さんをアメリカに帰国させました。
その宣教師は、その夜、上海のホテルのベッドで、ひたすら泣き続けました。
丁度、同じ部屋に、その宣教師が所属する教団の、中国全体の総監督が居合わせました。
総監督は、この宣教師が、あまりにも長く泣いているので、思わず声を掛けました。
そして、その事情を聞いて、総監督は言いました。「兄弟、それはいけない。後のことは、私が、一切の責任を取るから、あなたは、次の船で、直ぐにアメリカにお帰りなさい」。
すると、その宣教師はこう答えたそうです。「いいえ、先生、そうではないのです。誤解なさらないで下さい。私は、一人中国に残ることになったことが、悲しくて泣いているのではないのです。私は、たった一人の信者を得るのに、14年も掛かった駄目な宣教師です。
28年掛かっても、やっと10人の信者を得られたに過ぎない、駄目な宣教師です。神様のために何も出来ない者です。
けれども、そんな、私に、先ほどイエス様が、『兄弟、さぁ、これからまた、私と一緒に、あの村に行ってくれますか。たった10人だけれども、生まれたばかりの信仰の赤子が、待っているあの村に、私と一緒に行ってくれますか』と、言ってくださったのです。
私は、そのイエス様のお言葉が、嬉しくて泣いていたのです。」
この宣教師は、悲しみと嘆きの祈りの中で、共にいてくださるイエス様と出会い、そのイエス様を喜ぶ喜びに、満たされていたのです。皆さん、これが信仰者に与えられる報いです。
先程お話しした、香港のK兄弟は、裏金作りに協力することを断りました。これで契約はご破算になったと思いました。ところが、先方の社長は、何と契約をしてくれたのです。
K兄弟は、その時のことを想い起こして言っています。
諦めていた契約が獲れたことは、勿論、感謝でした。でも、もっと大きな喜びは、先方の要求を断ろうと決心した時に、今までで一番、主イエスを身近に感じられたことです。
あの時ほど、主イエスが共にいてくださることを、確信できたことはありませんでした。そしてそれは、何物にも代え難い喜びでした。
主イエスの名のために、辛い思いをする。損な生き方を引き受ける。しかし、その時、私たちは、大きな報いを受けます。
それは、主イエスが共にいてくださり、私たちを愛して下さっている。そのことを、身をもって確信できる、という報いです。そして、それこそが、まことの幸いな生き方なのです。
この幸いを大いに喜ぶ人生を、生きていきたいと願わされます。