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柏牧師:過去の礼拝説教

「神が見るように他人を見る」

2020年06月21日 聖書:マタイによる福音書 5:43~48

「汝の敵を愛せよ」。この言葉は、キリスト教のトレードマークのように、捉えられています。
多くの人が、この言葉を、キリスト教の特色であると捉えています。しかし、必ずしも、好意的に捉えている訳ではありません
「汝の敵を愛せよ」。「そんな事が出来たら、まことに結構だが、世の中はそんなに甘いものではない。クリスチャンとは、まことにおめでたい人種だ」。
このように、クリスチャンを揶揄するために、用いられることも、多いと思います。
では、私たちキリスト者は、この御言葉を、どうのように聴くべきなのでしょうか。
確かに、主イエスの教えは、私たちの常識を、超えています。
『敵を愛し、迫害する者のために祈る』。これは、私たち人間の世界では、例のないことです。
ですから、主イエスは、唯一の例として、天の父なる神様を、指し示しておられます。
45節の御言葉は、『天の父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである』、と語っています。
このように、神様にしか例がないこと。そういう「通常でない」生き方を、目指して生きるのが、天の父の子として生きることなのだ。そのように、御言葉は語っています。
そんなことは、とても不可能だ、非現実的だ。反射的に、私たちは、そう思ってしまいます。
ですから、この言葉をどう解釈するかが、昔から様々に議論されてきました。
ある人は、この御言葉は、到達不可能な努力目標である、と言っています。
或いは、これは、天国で初めてなし得ることだ、と言っている人もいます。
またこれは、終末が切迫している時だけに通用する、特殊な倫理だと言っている人もいます。
しかし、主イエスの御言葉を、そのようなものとして、片付けてしまって、良いのでしょうか。
もし、私たちが、主イエスの御言葉を、人間の常識の枠の中に、閉じ込めてしまうなら、人間社会の様々な問題も、決して解決しないのではないでしょか。
人間の常識が生み出す、様々な問題。それらを、本質的に解決するには、人間の常識の枠が、破られなければならないと思います。
そもそも主イエスは、「実行出来るかどうか、考えてみなさい」、とは言われていません。
とてもできないと、最初から諦めてしまっても良いとは、何処にも書かれていません。
何も条件をつけずに、「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」、と言われているのです。
主イエスが、そう言われるからには、そのようにすることが、私たちに許されている。
そのように信じて、小さな一歩を踏み出すしかありません。
そして、私たちが真剣に、真正面から、この御言葉を、生きていこうとする時、私たちは、自分がいかに罪深い者であるかを、思い知らされます。
そして、「十字架の赦しがなくては、決して救われることのない自分」、が示されるのです。
先週に続いて、キング牧師の言葉を紹介させて頂きます。キング牧師は言っています。
「主イエスは、汝の敵を愛せよ、と言ったのであって、汝の敵を好きになれ、と言ったのではない。これは、注意すべきことである。
好き、という言葉。英語の“like”という言葉は、似ている、という意味も持っている。
つまり、似た者同士が、お互いに親近感を覚える。それが好きということなのである。
これに対して、愛する、ということは、違うもの、異なるものとしての、他者を、敢えて受け入れ、それを認める。そういう決断であり、そういう行為である。」
キング牧師は、「好き」というような、単なる感情ではなく、「愛する」という、意志と決断の世界に立つことによって、人は、まことの人間性を保つことができる、と言っています。
43節の、「隣人を愛し、敵を憎め」、という御言葉にある「隣人愛」は、キング牧師の言葉を借りれば、似た者同士が、お互いに親近感を覚える、「好き“Like”」であると言えます。
この当時のユダヤ人にとって、隣人とは、同じユダヤ民族の同胞のことでした。それは、似た者同士の世界でした。そして、敵とは、異邦人のことでした。
彼らは、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」、という律法を、与えられていました。
しかし、彼らは、その「隣人を」、似た者同士の仲間である、イスラエル人に限定してしまいました。そして、「隣人を愛せよ」が、「隣人だけを愛せよ」、になっていってしまったのです。
異邦人は、我々とは、違う。我々とは、異なった神を信じ、異なった律法を持ち、異なった言葉を話し、異なった文化を持っている。
だから、異邦人は敵として排除し、同じ仲間、似ている者同士だけで、仲良くしよう。
でも、これは、キング牧師が指摘しているように、「愛」ではなく、「好き」の世界です。
主イエスが教えられたのは、そのような「好き」の世界に立つことではなくて、違いを受け入れ、違いを認めていく、愛の世界に立つことであったのです。
「善きサマリア人」の譬えを、想い起してください。傷ついたユダヤ人に対して、サマリア人が抱いた感情は、「好き」というものではなかったと思います。
彼の中には、敵対するユダヤ人を助けることに、少なからぬ葛藤があったと思います。
しかし、彼は、傷ついたユダヤ人を助けました。
主イエスは、このサマリア人こそが、隣人としての愛を示している、と言われました。
自分を愛してくれる者だけを愛する。「好きだ」と思うものだけを愛する。それが私たちのありのままの姿です。主イエスは、私たちが、そのような者であることを、ご存じなのです。
その上で、尚も、問われておられるのです。それでまことの愛と言えるのか。それがまことの愛なのかと。
私たちは、この主イエスの問いの前に、立ちすくんでしまいます。
更に主イエスは、まるで追い打ちをかけるように言われます。「あなた方の天の父が完全であられるように、あなた方も完全な者となりなさい。」
このような言葉に出会うと、私たちは、心の中で呟いてしまいます。「天の父のように完全になれなど、とても無理だ。何故主イエスは、このような困難なことを、言われるのだろうか。」
こんな言葉がなければ、聖書はもっと、親しみ易いものになるのに、と思ってしまいます。
しかし、これは、私たちを愛し、私たちのために命を献げてくださった、主イエスの言葉です。
ですから、私たちを問い詰め、苦しめるための、言葉である筈はありません。
私たちが、昇ることができない階段を、無理やり昇らせようとしておられる筈はありません。
ある人が、「山上の説教は、祝福の言葉であって、厳しい戒めではない」、と言っています。
この5章は、その初めから、「幸いである」、という言葉が、繰り返して語られていました。
この「幸いである」という、祝福の呼びかけは、山上の説教の全体に亘って、響いています。
では、「あなた方の天の父が完全であられるように、あなた方も完全な者となりなさい」、という言葉が、なぜ祝福の言葉なのでしょうか。どこに祝福が隠されているのでしょうか。
そもそも、天の父の完全とは、どのような完全なのでしょうか。
天の父の完全とは、「悪人にも、善人にも、太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」という完全だ、と主イエスは言われています。
さて皆さん、皆さんは、この御言葉を読むとき、ご自分を、どこに置いているでしょうか。
無意識の内に、善人の側に、正しい者の側に、自分を置いているのではないでしょうか。
天の父は、まことに慈悲深いお方だ。私たち善人だけでなく、悪人にも太陽を昇らせ、私たち正しい者だけでなく、正しくない者にも、雨を降らせてくださる。何という愛だろうか。
そのように読んでいるのではないでしょうか。しかし、そのように読んでいる限り、山上の説教は、私たちにとって、祝福の言葉とはなりません。
ここで一つ、思い起こしていただきたいことがあります。それは、私たち自身が、実は、神様の「敵」であったということです。
ローマの信徒への手紙5章で、パウロは、こう言っています。
「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。…敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」
神様は、私たちを、愛の対象として、祝福してくださるために、造られたのです。
それなのに、私たちは、神様の愛を裏切り、神様に背いて、自分勝手に生きてしまいました。
しかし、そのような「敵」であった私たちを、神様は尚も愛して下さり、救って下さったのです。
どのようにして、救ってくださったのでしょうか。十字架についてくださり、身代わりとなって、私たちの罪を贖ってくださることによって、救ってくださったのです。それが、神様の愛です。
ですから、正しくない者、悪い者、それは、他ならない、この私たちなのです。
神様は、その正しくない者、悪い者である、私たちを愛してくださり、その私たちにも、太陽を昇らせ、雨を降らせてくださったのです。神様が完全であるとは、そういうことなのです。
ここにある「完全」という言葉は、深く辿っていくと、割れたり、欠けたりしていない、ということを意味しているそうです。
割れたり、欠けたりした部分がない完全。つまり、全体に行き渡る完全。言い換えれば、分け隔てのない完全です。
すべての者に、太陽の光を注ぎ、すべての者に、雨を降らせる。天の父の完全とは、そのような分け隔てのない完全なのです。
主イエスの十字架の愛も同じです。私はこの人は救うが、あの人は救わない、などとは言われていません。主イエスは、分け隔てすることなく、すべての人を救うために、十字架につかれたのです。
ですから、ここで言っている完全な者とは、完全無欠で完璧な者、のことではありません。
分け隔てがない者のことを、意味しているのです。天の父が、分け隔てがないように、あなた方も分け隔てがない者となりなさい、と言っているのです。
そして更に、ここにある「なりなさい」という言葉も、未来形なので、「なりなさい」という命令ではなくて、「なるだろう」という意味の言葉です。
「天の父が、分け隔てがないように、あなた方も、分け隔てがない者となるだろう」。
これが、主イエスが、言われたことなのです。ですからこれは、祝福の言葉なのです。
もう一つ、ここで注目して頂きたいのは、「神が完全であるように」、とは言わずに、「あなた方の天の父が完全であるように」、と言われていることです。
神というような、よそよそしい言い方ではなくて、「あなた方の父」と言っているのです。
父と子の親密な関係の中で、父の全き愛を受けなさい、と言っているのです。
敵対していた私たちを、受け入れ、尚も愛し、命さえも与えるような愛。
この恵み、この救い、この祝福を受けなさい。この祝福に応えて、父の完全な愛の中を、生きて行くことを、主イエスは、望まれているのです。
この父の愛の方向に、向きを完全に合わせて生きて行く。それが、私たちの完全なのです。
私たちの完全とは、父の完全な愛を受け入れ、父の完全な愛に応えて、父の完全な愛の中を生かされて歩むことです。
その時、私たちも、分け隔てをしない生き方へと、完全な生き方へと、導かれていきます。
そして、そのように生きる時、私たちは、天の父の子とされます。
私たちは、父の御心に沿わない、不肖の息子です。不肖の娘です。しかし、それでも尚、私たちは、天のお父様の子どもとされているのです。
子である以上、天のお父様の遺伝子を受け継いでいる筈です。たとえ、ほんの僅かではあっても、受け継いでいる筈です。ですから、私たちは、天のお父様に倣って生きようとします。
愛というものは、教えることができません。また講義を聴いて、学ぶことも出来ません。
それは、ただ、愛されるという体験を得なければ、知ることができないのです。
父が、背き続ける子である自分を、尚も愛し続けてくださる。この完全なる愛を体験したからには、子である私たちは、天の父の愛に倣って、生きていきたいと思わされます。
皆さんは、「旅人の木」と言われている木をご存知でしょうか。別名を「扇芭蕉」という木です。
この木は、葉の根元に傷をつけると、その傷口から2リットルもの、冷たく甘い水を注ぎ出すそうです。そして旅人の乾いた喉を潤すのです。この木は、主イエスのお姿を示しています。
自分が傷つくことによって、相手を癒し、相手を生かす。主イエスは、ご自分を苦しめ、傷つける者のために、十字架の上から、「父よ、彼らをお赦しください」、と祈られました。
私たちは、この主の愛に捕らえられ、この主の愛に生かされ、この主の愛に応えて、分け隔てしない、主の完全の中を、歩んで行きたいと思います。
この後、ご一緒に讃美歌280番を歌いますが、その3節はこう言っています。
「すべてのものを あたえしすえ 死のほかなにもむくいられで 十字架の上に 上げられつつ 敵を赦しし この人を見よ」。 どんな敵も、この愛の前には、無力です。
すべての者に太陽を昇らせ、すべての者に雨を降り注がれる、分け隔てなき完全な愛。
主イエスは言われます。ここに生きなさい。この恵みの中を生きなさい。この愛の中を生きなさい。その時、あなたも、分け隔てなき愛に生きる道へと、一歩踏み出すことができる。
出来る、出来ない、と議論ばかりして、ためらっているのではなく、敵を愛し、迫害する者のために祈る生き方へと、小さな一歩を踏み出しなさい。
この主の招きに応えて、今、小さな一歩を踏み出していく、お互いでありたいと願います。