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過去の礼拝説教

「もう泣かなくともよい」

2020年10月25日 聖書:ルカによる福音書 7:11~17

今朝は、ご一緒に、召天者記念礼拝を献げています。信仰の旅路を歩み通され、今は天に移られた、懐かしい方々を偲びつつ、この時を過ごしたいと思います。
先程読んでいただいた御言葉は、一人の若者の死体を埋葬するために、墓地に向かう人々と、主イエスに従う群衆とが、町の門のところで、鉢合わせをした場面を伝えています。
ナインという町に住む、ある母親の一人息子が、若くして死にました。
この母親は、やもめでした。既に、夫を亡くしています。女手一つで、息子を育ててきました。
ですから、一人息子の成長を、人一倍楽しみにし、頼りともしていた筈です。
この母親にとっては、現在の楽しみと、将来の希望の全てが、この息子に託されていました。
その息子が死んでしまったのです。全てを奪われたような、深い悲しみが母親を覆いました。
彼女は、泣くことしかできませんでした。それは当然であったと思います。
「町の人が大勢そばに付き添っていた」とありますが、彼女に付き添っていた人々も、どんな慰めの言葉を掛けたら良いのか、分からなかったと思います。
深い悲しみ中で、ただ泣き続ける、母親の声だけが、虚しく響いていました。
愛する人を失った悲しみは、どんな言葉をもっても、慰めることはできません。このような時、私たちは、言葉を失います。
死の力を跳ね除けるような言葉など、私たちには語れません。
大勢の人々も、この母親の傍らで、ただ黙々として歩くよりほかなかったのです。
絶望の涙に暮れる母親を見た主イエスは、「もう泣かなくともよい」、と言われました。
泣き続ける母親に対して、「もう泣かないで」と言いたい思いは、誰もが持っていたでしょう。
でも、誰もその言葉を、口に出しては言えませんでした。
誰も、この母親の涙を、留めることができないことが、分かっていたからです。
私たちは、自分の言葉の無力さを、良く知っています。私たちの言葉は、本当に深い悲しみに対しては無力です。
安易に、「泣かないで」、などとは言えません。そんなことを言ったなら、「あなたに何が分かるのか。何を根拠にして、泣くなと言うのか」、と反発されてしまうかもしれません。
10年ほど前に、「千の風になって」という歌が、盛んに歌われたことがありました。
「私のお墓の前で 泣かないでください。 私はそこにいません。 死んでなんかいません。
千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています」。そう歌っていました。
でもこの歌が、愛する人を失って、深い悲しみに沈んでいる人の、まことの慰めになるでしょうか。そう歌われても、愛する人がいなくなった悲しみは、癒されることはないと思います。
愛する人の死を認めたくない。だから、死んでなんかいないと、思いたい。
その気持ちは、痛いほど分かります。でも、いくらそう思い込もうと思っても、愛する人がもういない、という悲しい現実は変わらないのです。
仮に、この歌によって、一時的な慰めを得たとしても、現実に引き戻された時、その悲しみは、却っていや増すのではないでしょうか。
「もう泣かなくともよい」。この言葉を言えるのは、まことの慰めを与えられるお方だけです。
宮沢賢治は、「雨にも負けず」の詩の中で、死を怖がらなくてもよい、と言っています。
しかし、賢治は何の根拠があって、そんなことを言えたのでしょうか、
それを言うことが出来るのは、死の悲しみをも超える、慰めを与えられるお方だけの筈です。
この時、この母親は、自分の方から、主イエスに、悲しみを訴えてはいません。
涙に曇った母親の目には、近づいてくる主イエスのお姿さえ、見えなかったのだと思います。
御言葉はただ、主イエスが、「この母親を見て、憐れに思った」、と書いているだけです。
この「憐れに思い」、と訳されている言葉は、神様と主イエスだけにしか、用いられていない言葉です。人間には、用いられていません。
この言葉の原語は、「内臓」とか「はらわた」を表す言葉です。元々は、はらわたが痛む、という意味の言葉なのです。
主イエスは、この母親を見て、はらわたの痛む思いを、抱かれたのです。
私たちは、よく胸が痛むと言います。しかし、胸が痛むどころではないのです。
おなかが痛くなって、苦しむのです。他人の痛みが、自分の痛みとなって、苦しむのです。
聖書は、それが本当にできたのは、父なる神様と、主イエスだけである、と言っています。
この世界の全てを創造された、全能の神様が、たった一人のやもめの悲しみを、共に悲しみ、苦しんでくださったのです。
この女性の苦しみを、ご自身の苦しみとしてくださり、はらわたを痛めてくださったのです。
私たちの神様は、そのようなお方なのです。
多くの人々は、神様は人間の気持ちなど分かってくれないから、祈っても無駄だと言います。
神様が、私たちのために心を動かすなどあり得ない。そう思っている人たちが多いのです。
神様は、自分のことなど見ていてくださらない。だから、こんなに、悲しい目に遭うのだ、と思ってしまうのです。でも、皆さん、そうではありません。
作家、北村薫さんの『詩歌の待ち伏せ』という本に、当時、小学校4年生の岡山孝介君が書いた、「いたそうね」という詩が引用されています。このような詩です。
『いたそうね 
 ぼくが くりのいがを/手でもったら とても/いたかったよって/ママに話したら
 ママが/いたそうねって/顔をしかめた
 ママってかわいそうだね/おはなしをきいただけで/いたくなるなんて』
孝介君は、自分が痛かったと言ったら、その話を聞いただけで、「いたそうね」と言って、顔をしかめたママのことを、かわいそうだと言っています。
孝介君のママは、孝介君の痛みを、自分の痛みとして受け入れ、顔をしかめたのです。
でも、私たちの救い主、イエス様は、それ所ではありません。全世界の人の苦しみを、ご自身の苦しみとして、一手に引き受けてくださり、はらわたを痛められるお方なのです。
それを「かわいそう」と言うのであれば、これ程かわいそうなお方はおられません。
この時も、泣き続ける母親の悲しみを、敏感に感じ取られ、ご自分の内臓をえぐられるような思いを、抱かれたのです。そこまで、一緒に苦しまれたのです。
その主イエスは、「もう泣かなくともよい」と言われました。
「あなたは今、絶望の中で泣いている。しかしもう泣くのは止めなさい。泣くのはこれで終わりにしなさい」。そのように語りかけられたのです。
でも、なぜ主イエスは、そんなことを言うことができたのでしょうか。泣くのは止めなさい、というお言葉の根拠は、一体何なのでしょうか。
15節に、「イエスは息子をその母親にお返しになった」、という言葉があります。
この「お返しになった」という言葉は、原語では、「与えた」という言葉です。
息子の命は、もともと主イエスのものであったのです。それを再び与えたのです。
新しい贈り物として、与えたのです。
これは、私たちに、復活の希望を、教えてくれる言葉です。私たちも、愛する人を、天に送った体験をしています。愛する人を失った悲しみを、味わっています。
しかし、主は、「もう泣かなくともよい」。私は、あなたに、愛する人を、再び与える。
新しい贈り物として、与える。やがて、あなたは、愛する人と、再会することができる。
主イエスは、そう約束してくださっているのです。
主は、既に、あなたの愛する人の棺に、御手を触れてくださっておられます。
そして、やがて時が来ると、「あなたに言う。さぁ、起きなさい」、と呼び掛けてくださるのです。
「さぁ、起きなさい。甦りの朝だよ」。私はそう言って、あなたの愛する人を起こしてあげよう。
主は、そう言われているのです。これが、私たちに与えられている、希望の約束なのです。
かつて鎌倉雪ノ下教会の牧師をされていた加藤常昭先生は、2015年8月に最愛の奥様、さゆり牧師を天に送られました。
言いようのない喪失感と、深い悲しみの中で、加藤牧師は、ドイツにいる親しい友人にメールを打ちました。「あなたもよく知っている妻は、とうとう眠るように息を引き取りました。」
すると、すぐに返事が来ました。「加藤さん、あなたは、あなたの妻が、眠るように息を引き取った、と書いているけど、それは神様が、あなたの手から引き取ってくださったからです。
今は神様の慈しみの御手の中で、安らかに眠っているのです。
やがて、神様がお定めになったご自身の時に、その御手の中にあるさゆりさんに、神様はこう呼びかけられるのです。
『さゆりよ、起きなさい。甦りの朝だよ』。そう言ってくださるのです。
本当に辛いだろうけれど、聖霊の慰めがあるように」。
加藤牧師はそのメールを読みながら、そこで一時間くらい泣いたそうです。しかし、それで涙を払うことができたそうです。
私たちは、愛する人を、神様から与えられました。そして、この地上の人生のひと時を、共に歩みました。その愛する人は召されて、今は、異なる場所に置かれています。
しかし、私たちは、愛する人を、再び与えられるのです。主イエスが、憐れんでくださり、その棺に、御手を置いてくださるからです。ですから、「もう泣かなくてもよい」のです。
では甦りの時まで、愛する人は、そして私たちも、どこでどのように、しているのでしょうか。
詩編139編8節は、こう言っています。「天に登ろうとも、あなたはそこにいまし/陰府に身を横たえようとも/見よ、あなたはそこにいます。」
私たちは、いずれ死にます。そして死の世界、陰府の世界に行きます。
誰もいないところ、虚無の世界。そう思っていると、実は、そこに、主が先回りして、既におられるのです。
使徒信条にあるように、主は、陰府の世界にいかれ、そこにもいてくださるのです。
我々の、手の届かない、暗い所だと思っている、死の世界。
しかし、そこにも、既に、主はおられるのです。神の御子がおられるのです。
はらわたが痛む思いをもって、泣き続ける母親を見詰められた、慈愛の主がおられるのです。
そして、私たち一人一人に手を置いて下さり、「さぁ起きなさい。甦りの朝だよ」、と言ってくださるのです。今朝の御言葉は、そのことの前触れなのです。
ここに、主イエスが、「棺」に手を掛けられた、と書かれています。
しかし、外国語の聖書を見ますと、必ずしも「お棺」という言葉に、訳されてはいません。
お棺という、木の箱を意味する言葉ではなくて、むしろ「担架」を意味する言葉に、訳されていることが多いのです。
そうであるなら、主イエスはその若者に、直接、手を触れられた、ということになります。
当時、ユダヤでは、死人は汚れている、と考えられていました。
そして、死人に触れたなら、その人も汚れる、と見做されていました。ですから、死人に直接触れる人はいませんでした。
けれども、主イエスは、その汚れていると考えられていた死体に、手を触れられたのです。
誰も、触れようとしない死体に、その尊い御手を、置いてくださったのです。
その主イエスが、陰府の世界にもいてくださり、私たちに手を触れてくださるのです。
ですから、陰府の世界とは、決して、暗く、孤独な世界ではありません。そこには、既に、主イエスがおられ、そこで、甦りの御手が、置かれるのです。
そこで私たちは、「さぁ起きなさい。甦りの朝だよ」、という主の御声を聞くのです。
この若者を復活させた主イエスは、この後、十字架につけられて、殺されてしまいました。
死んだ人を復活させたのに、ご自分は殺されてしまったのです。
私たちの誰もが、体験することになる、死の支配を、主イエスも体験して下さったのです。
しかし、父なる神様は、その主イエスを、三日目に復活させて下さいました。
父なる神様が、死を打ち滅ぼしてくださり、新しい命を与えてくださったのです。
そのことによって、私たちを最終的に支配するのは、死の力ではなくて、死から解放し、新しい命を与えて下さる、神様の恵みなのだ、ということが示されたのです。
主イエスは、今も、そして死んだ後も、共にいてくださっています。そして、私たちに、直接手を触れて下さいます。「さぁ、起きなさい」と言ってくださいます。
私は甦ったではないか。あなた方も、この甦りの命の約束から、漏れる者は誰もいない。
主イエスはそう言われて、葬儀の列の前に立ちはだかり、それを押し止めてしまわれるお方なのです。
あなた方が向かうのは、死の力が支配する死者の国ではない。私を復活させ、新しい命を与えて下さった、父なる神様の恵みの世界へと、私はあなたがたを導く。
あなた方の歩みは、神様が与えてくださる、新しい命へと向かっているのだ。
あなた方は、日没に向かっているのではなく、日の出に向かっているのだ。
主イエスは、そのように語りかけておられるのです。
「もう泣かなくともよい」、と主イエスは言われました。そう言われた主イエスは、私たちと一緒に泣いてくださるお方です。
高い所に立って、ご自分は涙を一滴も流さずに、「もう泣くな」と、冷ややかに言われているお方ではありません。主イエスご自身も、共に涙を流してくださるお方なのです。
涙を流されながら、「あなたは、もう十分に悲しんだ。もう十分に泣いた。だからもう、涙を拭いなさい。そして、私と共に、父なる神様が用意されている、新しい命へと目を向けなさい。」
主イエスは、そう言われているのです。
そして、はらわたの痛みを覚えつつ、悲しむ者の涙を、その御手で拭ってくださるのです。
私たちはやがて、「さぁ、起きなさい。甦りの朝だよ」、という主イエスの御言葉によって、新しい命を与えられます。
そして、同じように新しい命に生かされた、愛する人と再会するのです。
この約束は確かです。この主イエスの約束を信じ、主イエスと共に、どんな時も、どこまでも、歩んで行ける幸いを、心から感謝したいと思います。