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過去の礼拝説教

「主が共におられるのに」

2020年11月29日 聖書:マタイによる福音書 8:23~27

戦後、荒廃した世の中にあって、世界の教会が、教派を超えて、世界教会協議会(WCC)という、大きな教会の交わりを作りました。
そのシンボルマークにしたのが、この世の荒海の中を、十字架のマストを立てて進んでいく、小さな舟の姿です。今朝の週報の左の下に、そのシンボルマークが記されています。
この時に限らず、教会は、その初めから、自らを舟に譬えてきました。
向こう岸の神の国に向けて、十字架のマストをしっかりと立てて、この世の荒海を航海していく舟。その姿に、自らを見立ててきたのです。
そのように、教会を舟に見立てる考え方の、根拠となっているのが、今朝の御言葉です。
教会が舟であるなら、私たち教会員は、その舟の乗組員である、ということになります。
では、乗組員である私たちは、どのように、教会という舟を漕いで行けば良いのでしょうか。
今朝は、そのことを、御言葉から、ご一緒に聴いてまいりたいと思います。
今朝の御言葉は、先週ご一緒に聴きました8章18節からの続きです。
18節にあるように、主イエスは、ご自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに、向こう岸に行くように、命じられました。
主イエスが、舟に乗り込まれると、弟子たちがその後に従いました。何でもないことのようですが、この順序は大切です。
まず主イエスが乗られ、その後に弟子たちが従う。これが教会という舟に乗る順序です。
私たちは、空っぽの舟に、乗り込むのではありません。主イエスが、先に乗っておられ、私たちを待っていてくださる。先に乗られた主イエスが、私たちを招いてくださっている。
その舟に、乗り込むのです。それが、教会という舟なのです。
今朝、私たちは、この教会に来て、礼拝を献げています。しかし、私たちが来るよりもずっと前に、主イエスは、既にここにいてくださり、私たちを招かれ、待っていてくださいました。
私たちは、その主の招きに応えて、主が待っておられる教会に来たのです。
主は、教会に来られた皆様方を見られて、どれほど喜んでおられるでしょうか。「よく来てくれましたね」、と喜んでくださっています。
礼拝は、その主の、大いなる喜びで、満ち溢れている場です。
私たちは、今、主の喜びの衣に、すっぽりと覆われつつ、礼拝を献げているのです。
さて、主イエスは、向こう岸を、目指して、船出されました。その途中、きっと、お疲れになられたのだと思います。うとうととしている内に、深く寝入って、しまわれました。
舟を漕ぐのは、先生の仕事ではない、私たちの仕事だ。弟子たちは、そう思って、張り切って、舟を漕いだと思います。ところが、その舟が、突然、激しい嵐に襲われたのです。
弟子たちの中の何人かは、ガリラヤ湖の漁師でした。彼らは、ガリラヤ湖特有の、この突然の嵐のことを、よく知っていました。何度も経験していました。
ですから、また、いつものことが始まった、と初めの内は、思っていたのです。
しかし段々と、どうもこれは、いつもの嵐とは違うようだ。今までに、経験したことがないような、激しい嵐だと分かって来ました。
こんな嵐には、今まで、出会ったことがない。このままでは、舟が水浸しになって、沈んでしまうのではないか。そんな恐怖と不安に襲われました。
ところが、そんな中で、主イエスは、ぐっすりと眠っておられます。
眠っておられるということは、そこにおられないということではありません。主イエスは、確かに、舟の中におられるのです。
私たちも、人生においても、大きな危機や困難に出会います。しかし、それは、そこに主がおられない、ということではないのです。どんな時も、主は私たちと共におられるのです。
しかし、恐怖と不安で目が曇ってしまうと、共におられる主が、見えなくなってしまうのです。
そして、主に見捨てられたのではないか、とさえ思ってしまうのです。それが私たちです。
弟子たちは、主イエスを起こして、「主よ、助けてください。おぼれそうです」、と叫びました。
それを聞いて、主イエスは、「なぜ怖がるのか、信仰の薄い者たちよ」、と言われました。
そして、「起き上がって、風と湖をお叱りになると、すっかり凪になった」のです。
この出来事に驚いた弟子たちは、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」、と互いに言い合いました。
「いったい、この方はどういう方なのだろう」。信仰者として生きていく時、私たちは、この問い掛けを、驚きと喜びをもって、繰り返していくことになります。
私たちは、主イエスの恵みの大きさに、繰り返して驚かされつつ、「いったい、この方はどういう方なのだろう」と問いつつ、信仰の道を歩んでいくのです。
何度も、挫折し、迷い、「主よ、助けてください」、と叫ぶような私たちです。
でもその都度、主は、私たちの思いを遥かに超える、恵みの御業によって、私たちを救い出して下さいます。
そして、私たちは、その都度、「いったい、この方はどういう方なのだろう」と、驚きと喜びの言葉を、口にするのです。私たちの、信仰生活は、その繰り返しなのです。
今朝も、私たちは問われています。あなたにとって、主イエスとは、どのようなお方ですか。果たして、私たちは、どのように答えるのでしょうか。
「主は、どんな時にも共にいて、私を救ってくださるお方です。このお方の他に、私の救いはありません」。このように、はっきりと答えたいと思います。
さて、ここで、ご一緒に考えてみたいと思います。なぜ、弟子たちは、主イエスに、信仰が薄い、と叱られて、しまったのでしょうか。弟子たちは、どうすれば良かったのでしょうか。
厳しい言い方をすれば、弟子たちは、嵐に驚くべきではなかったのです。
弟子たちが、本当に驚かなくてはいけなかったのは、こんな嵐の中でも眠っておられる、主イエスのお姿であったのです。
父なる神様に対する、圧倒的な信頼の中で、平安に眠っておられる、主イエスのお姿こそを、驚かなくてはいけなかったのです。
弟子たちは、見るべきものが違っていたのです。荒れ狂う波風を見て、動揺するのではなく、主イエスの全き平安を見て、心を静めるべきであったのです。
信仰が与える最も尊い賜物は、魂の平安です。しかし、神様が与えてくださる平安とは、争いや困難や不幸が、何一つないという平安ではありません。
信仰を持っていても、激しい嵐や、大きな困難に出会います。しかし、その時でも、神様が共にいてくださることによって、与えられる平安です。
「主が共におられる」。このことを、聖書は、「インマヌエル」という言葉で、言い表しています。
どんな時にも、主は共にいてくださいます。
インマヌエルの平安。それは、どんなものでも崩すことができない、まことの平安です。
18世紀に、メソジスト教会を創立した、ジョン・ウェスレーは、オックスフォード大学の神学部を、優秀な成績で卒業し、若くして英国国教会の司祭となり、将来を期待された秀才でした。
彼は、その若き日に、アメリカ伝道を志し、イギリスからアメリカに向かう船に乗り込みました。
ところが、その船が、途中で大嵐に遭いました。
荒波にもまれて、船が沈みそうになり、船内はパニック状態に陥りました。
ウェスレーも、命の危険にさらされて、恐怖に脅え、うろたえました。
しかし、ふと見ると、船室の片隅で、讃美歌を歌っている、一握りの人々がいます。
彼らは、沈みそうな舟の中で、平安に満ちた顔で、讃美歌を歌っています。
ウェスレーは、彼らのところに、近づきました。彼らは、ドイツのヘルンフートに本部をおく、モラビア兄弟団という、敬虔派のクリスチャンたちでした。
なぜ彼らは、こんな時に、讃美歌を歌っていられるのだろうか。不思議に思ったウェスレーは、彼らに尋ねました。「あなた方は、命の危険が迫っているのに、怖くはないのですか」。
そのウェスレーに、グループのリーダー格の人が、逆に尋ねました。
「あなたは、本当に救われていますか」。この質問は、彼の心に、鋭く突き刺さりました。
アメリカに伝道に行こうと、意気込んでいたウェスレーでした。
しかし、「あなたは本当に救われていますか」と問われて、彼は力なく、小さな声で答えました。「そう思っています。I hope so.」
この体験が、後にウェスレーを、大きく変えるきっかけとなりました。
弟子たちは、主イエスに、「信仰が薄い」と、叱られてしまいました。
それでは、あの嵐の中で、主イエスに叱られない信仰とは、どのようなものであったのでしょうか。いったい弟子たちは、どのようにすればよかったのでしょうか。
それについて、多くの人が、様々な考えを述べています。
ある人たちは、こう言っています。
弟子たちは、主イエスを起こさずに、主イエスと一緒に寝るべきであったのだ。
主イエスは、眠っておられる。神様に信頼して、寝ておられる。
そうだ、神様が、助けてくださるに違いないのだ。そうであれば、私たちも寝よう。
そう言って、主イエスと一緒に、横になって寝て、後は神様にお任せしよう。
それが、主イエスに、褒めて頂ける信仰ではないのか。そう考える人たちがいます。
これは、いかにも、信仰深い態度のように聞こえます。でも、何か違うような気がします。
主に委ねるということは、何もしない、ということではないと思います。
では、何かをすべきだというのなら、弟子たちは、何をすればよかったのでしょうか。
このように言う人もいます。このような時こそ、弟子たちは、もっと頑張って、舟を漕ぎ、水をかい出すべきであった。それが、弟子としての務めであった筈だ。
この時も、弟子としての、本来の使命を、最後まで、忠実に、果たしていくべきであったのだ。
これは正論です。確かに、もし、それができれば、本当に立派です。模範的な弟子の在り方です。
私たちも、そういう信仰に、生きていきたいと願います。
しかし、弟子たちは、そういう力がなくなってしまったから、主イエスに「助けてください」、と叫んでいるのではないでしょうか。
弟子たちは、そして、もちろん私たちも、そんなに強い信仰の持ち主ではないのです。
もちろん、私たちは、主が共にいてくださることを、信じています。主の全能の御力を、信じています。
でも、そのことを直ぐに忘れて、目の前の困難に脅えて、慌てふためいてしまいます。
そして、寝ておられる主を揺り動かして、「助けてください」、と叫んでしまうような者なのです。
ですから、私たちは、この弟子たちの姿を見て、むしろホッとするのではないでしょうか。
この弟子たちの姿は、私たちの姿です。
私たちは、嵐の湖で、命の危険に晒されても、毅然として働くことなど、とてもできないのではないでしょうか。私たちは、そんなに強い者ではないのです。
主は、そんな私たちを、慈しみの眼差しで、ご覧になられて、「信仰の薄い人たちだなぁ」、と仰りつつ、試練の嵐をから、私たちを救い出してくださいます。
この「信仰が薄い」、という言葉は、もともとは「小さい」という言葉です。
私たちの信仰は小さいのです。ですから、主イエスに、助けを求めざるを得ないのです。
主イエスを、呼び起こさざるを得ないのです。しかし、主イエスを呼び起こしたお陰で、主イエスは嵐を静めてくださいました。
ですから、私たちは、「主よ、助けてください」、と祈って良いのです。いえ、祈るべきなのです。
大切なことは、他のものに縋るのではなく、いつも主イエスに、呼びかけることなのです。
私たちは、嵐に遭った時、慌てふためき、恐れに駆られて、「助けてください」と祈ります。
主イエスは、そんな私たちの祈りを、温かく受け入れてくださり、微笑みつつ「あなたの信仰は小さいね」と仰って、救い出してくださるのです。主イエスとは、そういうお方なのです。
それでよいのではないでしょうか。それしか、私たちには、できないのではないでしょうか。
先ほど、ウェスレーの話をしました。私たちは、沈みそうな船の中でも、賛美歌を歌っていたモラビア兄弟団の信仰に憧れます。そんな信仰に生きていきたいと願います。
しかし、一方で、死の恐怖におののくウェスレーの姿に、自分を見出します。
「あなたは、本当に救われていますか」と問われ、「そう思っています。I hope so.」と力なく答えるウェスレー。彼の姿に、自分を見出すのです。
しかし、神様は、そんなウェスレーを、愛してくださり、その信仰を丁寧に養ってくださり、やがて、大きな働きをなす伝道者として、用いてくださいました。
私たちは、この主の愛と忍耐と導きに、期待したいと思います。
嵐の中で、我を忘れて、慌てふためき、「主よ、助けてください」、と叫ぶ私たち。
そんな私たちの手を、主は、しっかりと握りしめ、「あなたの信仰は小さいね」、と仰りつつ、救い出してくださいます。
そのようなことを何度も繰り返しながら、私たちは、少しずつ信仰の高嶺へと、引き揚げられていくのです。
その度に、「いったい、この方はどういう方なのだろう」、という驚きの声を上げていくのです。
主イエスは、私たちの、小さな信仰を、受け入れてくださるお方です。
そして、信仰の小さなあなたと、いつも共にいるよ、と言ってくださいます。
インマヌエル。主われらと共にいたもう。この信仰に生きることによって、私たちは、激しい嵐の中でも、舟に乗り続けることができるのです。
嵐に巻き込まれることによっては、教会という舟は沈みません。しかし、主イエスと共に歩まない時、教会という舟は沈没してしまいます。
今朝は、アドベント第一主日の礼拝を、ご一緒に守っています。
クリスマスは、このインマヌエルの恵みを改めて感謝する時です。インマヌエルの恵みに生かされる時です。
これからの4週間、共に、この恵みを感謝し、この恵みに生かされながら、クリスマスに備えてまいりましょう。