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過去の礼拝説教

「悔い改めよ、神が来られる」

2020年01月05日 聖書:マタイによる福音書 3:1~12

皆さん、明けましておめでとうございます。お正月になると、私たちは、「おめでとう」、と言い交わします。それが、最初にいう言葉です。

しかし音楽の父と言われるヨハン・ゼバスティアン・バッハは、カンタータ第190番の中で、「新しい年に、私が最初に口にする言葉は、イエスという御名である」と、歌っています。

カンタータ第190番は、バッハが、1724年に、ライプツィヒで初めて迎えた新年のために、作曲した曲です。その第4曲は、こう歌っています。

「今年も 御守りの うちに とどまり/主より 離れじ/この年も 御名もて 始めん」

そして、第6曲は、こう続きます。「おお 主イエスよ/新たな年に 御恵み給え/祝したまえ/なんじに 連なる 幹も 枝をも/主の 教会と 学校と/みちびく 教師らも/聞き従う ものらも」。

バッハは、「この年も、御名をもて始めん」、と歌っています。そして、新たな年に、主の教会に、御恵みと祝福を給え、と続けています。

私たちも、新しい年に、先ず口にする言葉が、「イエス様」という名でありたいと願います。

どんな言葉よりも、麗しく、慕わしい言葉である、「イエス様」という名を口にし、そのイエス様に、「どうか新しい年も、恵みと祝福を豊かに与え給え」と、祈る者でありたいと願います。

さて、新年最初の礼拝に与えられた御言葉は、主イエスの公生涯のスタートの箇所です。

そういう意味では、新年の礼拝に、相応しいと言えるかもしれません。

しかし、今朝の御言葉には、主イエスご自身は、未だ登場されません。ここに出て来るのは、洗礼者ヨハネという人です。

そのヨハネが、荒れ野に現われて、「悔い改めよ。天の国は近づいた」、と宣べた箇所です。

ヨハネは、主イエスの宣教に先立って、その道を整えるために、遣わされた預言者でした。

ということは、その時は主イエスのための道が、まだ整っていなかったという事になります。

神の独り子が遣わされて、いよいよその活動が、始まろうとしているのに、人々には、そのための備えが、未だ出来ていなかったのです。

その時、ヨハネが現われて、「主の道を整えよ」と、叫んだのです。

ある人が、このヨハネの役割は、コンサートが始まる前に、コンサートマスターが行う、音合わせのようなものだ、と言っています。

何とも言えぬ、緊迫感と臨場感が漂う中で、指揮者が来られるための準備をする。

ヨハネの姿は、そのコンサートマスターを、思わせると言っています。コンサートマスターが、指揮者を迎える準備をするように、ヨハネは、主イエスをお迎えする準備をしたのです。

ヨハネは荒れ野に現われました。この荒れ野は、当時の人々の心を象徴しています。

人々の心は荒れ野のようで、主イエスを受け入れる準備が、出来ていなかったのです。

しかし、それは、当時の人々だけではありません。今を生きる私たちも同じです。

主イエスに出会う前の、私たちの心も、荒れ野のような状態であったのではないでしょうか。

荒れ野とは、頼るものが何も無い所です。生きることの空しさを、突きつけてくる世界です。

そういう心の奥底を、真正面から見詰めるのが恐ろしいため、人々はそこから目を逸らし、他のものを見ようとします。他のものに目を向けて、現実の空しさを、紛らわそうとします。

しかし、それは、一時的なもので、根本的な解決ではありません。

一時的な楽しさや興奮が去った後には、より深い空しさと不安を感じることになります。

しかし、心の中の荒れ野を、恐れずに見詰め、誠実にそれと向き合う時、私たちは、呼び掛けてくださる、神様の御声を、聞くことができるのではないでしょうか。

ユダヤの人々は、荒れ野で、洗礼者ヨハネが語る、神様の声を聞きました。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」、という声です。

ヨハネは、荒れ野のような世に向かって、叫んだのです。

天の国は近づいている。もうすぐ、救い主が来られて、神様のご支配が始まる。

だから、そのための道を整えなさい。その道筋をまっすぐにしなさい。

このヨハネの姿は、古の預言者エリヤを、想い起させるものでした。

旧約聖書マラキ書には、救い主が来られて、この世を裁かれる前に、あの大預言者エリヤが、もう一度遣わされる、と預言されていました。

このエリヤは、毛衣を着て、腰に革の帯を締めていました。洗礼者ヨハネは、そのエリヤと、まさに同じ格好をして、登場してきたのです。

また、この姿は、エデンの園を追放された、アダムの姿をも、想い起させるものでした。

罪を犯して、楽園から追放されたアダムも、神様から与えられた、毛衣を着ていたのです。

ですから、ヨハネの姿は、神様による裁きを、人々に想い起させたのです。

もうすぐ救い主が来られて、この世を裁かれる。もし、そうであれば、私はこのままでいて良いのだろうか。ヨハネの姿を見て、人々は、そのような不安と恐れに、覆われました。

そんな人々に、ヨハネがしたこと。それは、悔い改めの洗礼を、授けることでした。

皆さん、悔い改めとは何でしょうか。悔い改めは、後悔とは違います。

後悔は、何かをした後で、あんなことしなければ良かった、と悔やむことです。それは、消極的な考えです。

しかし、悔い改めは、新しい方向に向かって生きていくという、積極的な考えです。

悔い改めとは、神様の方に向き直ること。つまり方向転換をすることなのです。

自分中心から、神様中心へと方向転換をする。私あっての神から、神様あっての私へと、方向転換をすることです。

ヨハネが、人々に授けた洗礼は、この「悔い改め」の洗礼でした。

では、それは、今、教会において授けられている洗礼とは、どう違うのでしょうか。

教会で授けられている、主イエスの名による洗礼。それは、罪の自分が死んで、新しく生まれ変わるための洗礼です。「神の子として」生まれ変わるための、洗礼なのです。

ヨハネの洗礼は、罪の悔い改めに、止まっていました。

罪を知って、その罪を悔い改めることは、大切なことです。しかし、もっと大切なことは、罪を知った者が、赦されるということです。赦されて、新しい命に生かされる、ということです。

悔い改めは、人間が為す行為です。でも人間の行為は、罪を帳消しにはできません。

罪を犯した張本人が、自分で自分の罪を、赦すことなど、できる筈がありません。

罪を赦して下さるのは、飽く迄も神様です。私たちの努力や行いによって、罪が赦されるのではありません。

罪が赦されるためには、その罪を、誰かが、代わって負ってくれなければなりません。

そのために、神様は、全く罪のない、最愛の独り子を、十字架につけてくださったのです。

罪の赦しは、十字架の贖いという、神様の一方的な恵みによってのみ、なされるのです。

ですから、ヨハネの洗礼だけでは、罪赦されて、新しい命に生きることはできないのです。

7節以下には、洗礼を授けてもらおうとして来た人々に対して、ヨハネが語った大変厳しい言葉が記されています。

彼は、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」、と語りました。

せっかく洗礼を、受けに来たのに、その人たちに対して、「お前たちは神の怒りを、免れることができない」、と言ったのです。これはどういうことでしょうか。

ここでヨハネが言っているのは、まことの悔い改めなしに、ただ洗礼を、形式的に受けさえすれば、それで神の怒りを免れることができる、という安易な考えを抱くな、ということです。

洗礼という儀式によって、罪の赦しを、自動的に得られる訳ではない、ということです。

ここでヨハネは、罪の赦しは、罪を悔い改めるだけでなく、悔い改めに相応しい実を結ぶことによって、初めて与えられるのだ、と言っています。

この言葉は、私たちの心に、鋭く迫ってきます。私たちは、この言葉の前に、大きな不安を覚えて、たじろいでしまいます。

果たして、自分は、悔い改めに相応しい、実を結んでいるか。自分自身を省みる時、この言葉に、とても耐えられない、という思いに覆われます。

しかもヨハネは、更に続けて、悔い改めに相応しい実を、結ばない者に対する、厳しい裁きの言葉を語っています。

10節です。「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」

そして12節。「手に箕をもって、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて蔵に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

これらの言葉は、恐ろしい響きをもって、私たちに迫ってきます。なぜなら私たちは、実際の生活において、悔い改めに相応しい実を、結べていないことが、分かっているからです。

悔い改めに相応しい実を結ぶとは、自分中心の生き方を止めて、神様中心の生き方を、していくことです。私あっての神ではなく、神様あっての私としての生き方に、徹していくことです。

私たちは、そのことをよく知っています。しかし、実際には、それが、できないのです。

力を尽くし、思いを尽くして、神様を愛する。隣人を、自分のように愛する。自分の欲望に支配されている生活を止めて、与えられているものに、感謝して生きる。

そういう生き方をすべきだと解っていても、なかなか実行できません。

それでは、私たちには、救いはないのでしょうか。良い実を結ばない木として、切り倒されて、火に投げ込まれてしまうのでしょうか。

実のないもみ殻として、消えることのない地獄の火で、焼き払われてしまうのでしょうか。

ヨハネの語ったメッセージは、神様の怒りを、強調しています。神様の裁きの恐ろしさを、強調しています。このままでは、あなたは、滅ぼされて、地獄の火で焼かれてしまいますよ。

だから、悔い改めなさい。ヨハネが勧めたのは、そのような、悔い改めの洗礼でした。

確かに、悔い改めは、救いに関して、私たち人間にできる、最善の行為です。

でも、ここまでが、私たちにできる限界です。ということは、その先にまでは、行くことはできないのです。つまり、ここが、私たち人間ができる、限界点なのです。

その限界を突き破って、私たちを罪から解放し、救ってくださるのが、主イエスの御業です。

ヨハネは、神様の怒りと裁きを語りました。しかし、それだけにとどまっているなら、私たちには、まことの救いはありません。そこにあるのは、恐れと不安だけです。

でも、私たちには、もう一つのメッセージが与えられています。

それが、主イエスが語られた、喜びの知らせです。赦しの愛の知らせです。その赦しの愛がもたらす、天の御国のメッセージです。

ですから、ヨハネは、自分の後から来られるお方は、自分よりも優れた方であって、自分は、その履物を脱がせる値打ちもない、と言ったのです。

この当時、履物を脱がせるのは、奴隷の務めでした。しかもユダヤ人の奴隷には、この務めが課されなかった、と言われています。

それは、異邦人の奴隷のみが行った、最も卑しい仕事であったのです。

それをする値打ちもない、ということは、これから来られるお方は、自分とは、比較にならないお方である、ということなのです。勿論、そのお方とは、主イエスのことです。

主イエスは、ヨハネが言うような、有無を言わさずに、裁きを行われる方ではありません。

良い実のならない木を切り倒し、実のないもみ殻を焼いてしまうお方ではないのです。

このお方は、良い実を結ばない木は、みな切り倒されてしまうことを、知っておられました。

しかし、その木を、尚も愛しておられたのです。切り倒されることを、悲しまれたのです。

ですから、木が切り倒されないために、ご自分が、代わって切り倒されたのです。もみ殻が焼かれないために、ご自分が、代わって焼かれたのです。

確かに、主イエスは、私たちを、裁かれるお方です。でも、それだけではないのです。

主イエスは、ただ裁くだけのお方ではなくて、同時に、ご自身も裁かれたのです。

ご自身が、裁きの結果である刑罰を、代わって負ってくださったのです。

実際に切り倒されたのは、十字架の主イエスであったのです。本来は、私たちが、切り倒されるべきであったのに、主イエスが、代わって切り倒されてくださったのです。

ですから、私たちは、切り倒されずに済んだのです。

実際に、火に焼かれたのは、私たちではなくて、主イエスご自身であったのです。

これは、本当に不思議なことです。しかし、そこで、まさにそこでこそ、主イエスは、まことの救い主であられるのです。これが、私たちの信じている神様なのです。

私たちは、洗礼を受けた時に、裁かれたのです。一度、死んだのです。

しかし、実は、死んだのは、私たちではなくて、私たちの身代わりとなってくださった、主イエスであったのです。私たちは、この信仰に、堅く立つことが大切です。

ヨハネは、人々が自力で、良い実を結ぶようにと求めました。しかし、主イエスは、私たちが、良い実を結べないことを、ご存知だったのです。

ですから、代わって切り倒されてくださったのです。代わって、焼かれてくださったのです。

そして、私たちが、その恵みに押し出されて、まことの悔い改めに至るようにと、道を拓いてくださったのです。

私たちは、悔い改めるから、赦されると思っているかもしれません。しかし、実は、そうではないのです。実際は、私たちは、赦されたから、本当の悔い改めに、導かれるのです。

神様の怒りや裁きの、恐ろしさが、私たちを、まことの悔い改めに、導くのではないのです。

神様の、無償の愛によって、赦される筈のない私たちが赦された。その大きな恵みに押し出された時に、初めて、まことの悔い改めに導かれるのです。本当の意味での、方向転換をすることができるのです。

私たちは、自己中心的な生き方を、そう簡単に変えることなどできません。

私たちの身と心に、沁みついてしまっている、自分本位の生き方。それを、そんなに簡単に、方向転換することなどできないのです。

それをするには、大きなエネルギーが、必要とされます。大きなエネルギーによって、押し出されなければ、とても自力では出来ないのです。

その大きなエネルギーこそが、主イエスの愛です。私たちに代わって、切り倒され、燃やされてくださった,主イエスの愛です。これによってのみ、私たちは、まことの悔い改め、まことの方向転換へと、歩み出すことができるのです。

万引きの常習犯の少年がいました。何度も捕まり、厳しく注意されても、止められません。

悪いことだと分かっていても、つい手を出してしまうのです。

学校の先生や、警察の人に叱られても、「他の奴らも、みんなやってるよ」、と言って止めようとはしませんでした。そんな少年が、ある日を境にして、ぴたりと万引きを止めました。

それは、その子の両親が、土下座して、平謝りに謝っているところを見たからです。自分のせいで、両親が、厳しい批判を、一身に受けているのを見たからです。

この自分のために、両親が、こんなにも苦しめられている。その姿を見て、漸く止めることができたのです。

「こんなことをしていては、将来ダメになってしまうぞ。その内に、牢屋に入れられて、一生前科者として、暮らすことになるぞ」、といくら脅されても、止められなかったのです。

でも、自分のために、自分に代わって、土下座して謝り、厳しい非難を一身に受けている両親の姿を見た時、その愛に押し出されて、止めることができたのです。

これが、洗礼者ヨハネと、救い主イエス様の違いです。

ヨハネは、私たちの罪に対する、神様の裁きの厳しさと、その刑罰の恐ろしさを語りました。

しかし、主イエスは、その刑罰を、ご自身が代わって引き受けてくださるという、驚くべき愛を示してくださったのです。

私たちは、本来は、切り倒されるべき木でした。火で燃やされてしまうもみ殻でした。

しかし、主イエスは、言われています。いや、あなた方は、切り倒されてはいけない。

立ち続けていて良いのだ。なぜなら私が、あなた方に代わって、切り倒されたから。

あなた方は、火で焼かれてはいけない。蔵に入れられるのだ。なぜなら、私が、あなた方に代わって、焼かれたからだ。

教会は、この主イエスの、愛の招きを聞いた人が、訪ねて来るところです。教会は、この主イエスの愛の大きさに、気づくところです。

裁きの恐ろしさに、震えるところではなく、救いの喜びに、満たされるところです。

この主の恵みに生かされ、この恵みに押し出されて、新しく与えられたこの年も、共に歩んでまいりたいと思います。