「主イエスの最初の言葉」
2020年01月26日 聖書:マタイによる福音書 4:12~17
私たちキリスト者は、イスラエルやパレスチナを、聖なる地、「聖地」と呼んでいます。
ところが、現在、国際社会で、最も戦争の危険をはらんでいるのが、この地域なのです。
しかし、これは現代だけではありません。主イエスの時代も、いえ、そのずっと前からも、この地域には紛争が絶えなかったのです。これは一体、どういうことでしょうか。
愛と平和の主であるイエス様が、お生まれになり、成長され、宣教活動をされた、その地が、昔も今も、憎しみと争いの地であるとは、どういうことなのでしょうか。
聖地と呼ばれる所が、理想郷ではなくて、むしろ絶え間ない紛争の地になっている。
そこには、憎しみや不信が、渦巻いている。このことを思う時に、心が痛みます。
では、目を転じて、今、私たちが生きている、この日本はどうでしょうか。日本は、イスラエルやパレスチナよりも、美しい世界になっているでしょうか。
確かに、戦争の危機は、イスラエルほどは、差し迫ってはいないかもしれません。
また、自然環境も、町の姿も、イスラエルよりも良いかもしれません。
しかし、だからと言って、イスラエルよりも、ずっと美しい世界である、と言えるでしょうか。
このことは、私たちに、一つの問を投げ掛けます。
主イエスは、争いや憎しみの渦巻く、パレスチナの地を歩まれ、そこに住む人々の、魂に触れられました。同じように、主イエスは、今、様々な問題が渦巻く、この日本の地をも、行き巡ってくださり、私たちの魂に、語り掛けられているのではないでしょうか。
一人でも多くの人を救いたいと、切に願われて、一人一人の魂に、聖霊の細き御声をもって、語り掛けられているのではないでしょうか。
カトリック作家の遠藤周作さんは、「信仰とは、主イエスが、私たちの魂をよぎって行かれることである。そして一度でも、その人の魂を、主イエスがよぎったなら、その足跡は決して消えない」、と言っていました。
この日本の国を歩いてくださっている、主イエスが、一人でも多くの人の魂を、よぎって下さり、その足跡が、消えることなく残されますようにと、切に祈ります。
さて、今朝の御言葉は、パレスチナの地における、主イエスのそうした歩みを、心を込めて書いています。12節、13節はこう言っています。
「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。」
ここに、「ヨハネが捕らえられた」、と書かれています。バプテスマのヨハネは、ガリラヤの領主、ヘロデ・アンテパスによって、捕らえられ、その後、殺されます。
ヘロデは、自分の兄の妻を強引に奪う、という大きな罪を犯しました。その罪を、ヨハネは大胆にも指摘し、追求しました。そして、ヘロデに「悔い改め」を迫りました。
ヘロデは、それを恨んで、ヨハネを捕らえ、遂には、殺してしまったのです。
主イエスも、律法をただ形式的に守るだけで、その内実である「神と人を愛すること」を忘れていた、ユダヤ教の指導者たちの罪を責め、悔い改めを迫りました。
そして、そのために、捕らえられ、殺されました。
ヨハネは、この意味でも、主イエスの先駆けであった、ということができます。
また、捕えられた、という言葉は、聖書の他の箇所では、引き渡された、と訳されています。
この言葉は、主イエスが、祭司長や律法学者たちに「引き渡された」、と書かれている言葉と同じ言葉です。これも、ヨハネが、既に、主イエスの先駆者であったことを、示しています。
「ヨハネが捕らえられた」。この短い言葉の中に、主イエスのこれからの歩みが、既に暗示されているのです。
ヨハネは、時の権力者ヘロデの罪を、勇気をもって大胆に責め、「悔い改め」を迫りました。
しかし、正しいことを、勇気を持って語った者を捕らえ、殺してしまう。当時は、そんな社会でした。光を憎み、闇を愛する。そんな世界であったのです。
そのような世界に向かって、主イエスは伝道を開始されたのです。
先週の御言葉は、主イエスが、荒野において、悪魔の誘惑に勝利された出来事を、語っていました。主イエスは、自分に挑戦してきた悪魔を、退けられた後、今度は、人々の心に入り込んでいる悪魔を退けるために、宣教活動へと、歩みを進められたのです。
主イエスが、伝道を開始された場所。それは、政治、文化、宗教の中心地であった、エルサレムではなく、辺境の地ガリラヤでした。
かつて、ガリラヤ地方は、アッシリアによって侵略され、その圧制の下に苦しめられた土地です。異邦人との雑婚もあって、宗教的にも、絶えず試みに遭ってきた土地です。
エルサレムの人たちから見れば、田舎者が住んでいる所です。
メシアなど現れる筈がない、暗黒の地、死の陰の地と、思われていた所です。
主イエスは、敢えて、そこに行かれました。エルサレムのような、華やかな舞台を避けられたのです。権力を振るうことも、またその力を利用することも、拒否されたのです。
「暗闇に住む民」、「死の陰の地に住む者」の地に、救い主が現れ、神の福音が宣べ伝えられました。暗闇のような地に、光が差し込んだのです。
今、私たちが置かれている、この社会も、ガリラヤのように、暗闇に覆われています。
自己中心的な思いによって、様々な問題が惹き起こされ、人々は悩み苦しんでいます。
自分さえよければ、他の人がどうなろうと構わない。そういう醜い利己主義のために、多くの痛ましい出来事が起きています。そういう意味では、暗闇のような世界に生きています。
しかし、そういう状況の中でこそ、私たちは、そして教会は、主イエスの救いの光を、反射させていかなければ、ならないのではないかと思わされます。
今こそあなた方は、闇に輝く光となれ、と主イエスは言われているのではないでしょうか。
主イエスは、そのガリラヤで、宣教活動を始められて、こう言われました。「悔い改めよ。天の国は近づいた」。これが、主イエスの最初の言葉、第一声です。
選挙運動では、どこで、どういう第一声を上げるか、ということが大変重要だと言われます。
その言葉で、この候補者が、何を目指して、何をしようとしているかが、示されるからです。
ですから、なるべく注目される所で、大きな話題になるようなことを、語ろうとします。
しかし、主イエスの第一声は、人々から注目されるような場所ではなく、異邦人のガリラヤと呼ばれる、辺境の地でなされました。
そして、その内容は、「悔い改めよ。天の国は近づいた」、という言葉でした。これが、主イエスが、宣教活動において、最初に語られた言葉でした。
ここにある「天の国」、というのは、死んでから行く天国を言っているのではありません。
この「天の国」とは、「神の国」のことを意味しているのです。
マタイによる福音書は、ユダヤ人を対象として、書かれたものです。
ユダヤの人々は、十戒の第三の戒め、「あなたは主の名を、みだりに唱えてはならない」、という教えを重んじるあまり、神の名を口にすることを、極力避けました。
その人たちに対して書かれたので、「神」という言葉を使わずに、「天の国」と言ったのです。
ですから、これは「神の国」ということです。神の国と読み換えても、間違いではありません。
しかし、神の国、と言っても、それは、目に見える「国」のことではありません。
聖書が言っている「神の国」とは、「神様のご支配」のことです。神様のご支配が、行き渡っている領域のことです。
「天の国が近づいた」。言い換えれば、「神様のご支配が近づいた」。この言葉は完了形です。
ですから、「近づいて、もう来ている」、という意味を含んでいます。
神様が支配される世界が、もうすぐそこまで来ている。救いの御業が、始まろうとしている。
いや、実を言うと、もう既に始まっている。私が来たことによって、既に始まっているのだ。
主イエスは、このように言われているのです。
主イエスが来られた、ということは、この地上に、神様のご支配が、始まろうとしている。神様の救いのご計画が始まろうとしている。いや、もう既に、始まった、ということなのです。
駅のホームで、「電車が来ますから、白線の内側に下がってください」、というアナウンスが流れます。ある人が、あの日本語は、間違っている。「電車が来ますから」、ではなく、「電車が来ましたから」、というべきだ、と指摘しています。
電車が来た、ということは、私たちと、電車との間に、関係が生まれた、ということです。
ですから、下がらないと危険だというのです。関係が生まれたので、私たちに、応答することを、求める言葉です。神の国は近づいた、という言葉も同じです。
神の国が近づき、もう来ている。もう、あなた方と、関係が生じている。だから、悔い改めなさい、と言うのです。私たちに、応答を求めているのです。
電車が来ると知ると、私たちはそれに応答して、準備します。それなのに、神の子、救い主が来られるというのに、私たちは何の応答もしようとはしません。
ですから、御言葉は言っているのです。神様が、今、あなたと、新しい関係を、持ち始めようとされている。その神様のご支配を、受け入れなさい。
そして、その時、なすべきことがある。それは、向きを変えること、悔い改めることだ、と言っているのです。悔い改める、ということは、向きを変えて、新しく出発するということです。
では、どこに向かってでしょうか。神様のご支配の方に、向かってです。光に向かってです。
あなた方の心は、闇に向かっているではないか。今こそ光に向き直りなさい。この呼び掛けが、主イエスの第一声であったのです。
パレスチナが、今もなお、聖地の名に値するのは、そこが戦争のない理想郷だから、ということではありません。現実は、全くその逆なのです。
そこが、今もなお、聖地であり続けるのは、そこに、主イエスが住まわれ、そこで救いの御業がなされた。その恵みの事実は、今も変わらない、ということなのです。
そこで始まった、神様の愛の光が、私たちに向かって、今も輝き続けている、ということなのです。その光は、今もなお、私たちの方に、ずっと向き続けているのです。
神様は、いつも、私たちの方を、向いていてくださいます。でも私たちは、逆を向いています。その向きを変えて、私の方に向き直りなさい、と神様は招き続けておられるのです。
ある人が、神様と私たちとの距離は、「たった一歩の距離」である、と言いました。
それは、向きを変えていない時は、最も遠い、ということです。地球を一周しなければ、神様に出会うことは出来ません。しかし向きを変えれば、すぐ目の前に神様はおられるのです。
そのように向きを変えるのです。今までの生き方、今までの考え方を、もう捨てるのです。
闇の方に向いていた顔を、光の方に、向きを変えるのです。
マルティン・ルターは、悔い改めよ、という言葉によって、宗教改革をなしました。
ルターはこう言っています。「私たちの主であり師であるイエス・キリストが、「悔い改めよ」と言われたとき、彼は信ずる者の全生涯が、悔い改めであることを、欲したもうたのである。」
これは、宗教改革の発端となった、95か条の論題の最初に出て来る言葉です。
このように、日々悔い改めることから、プロテスタント教会はスタートしたのです。
明治から大正にかけて、日本のプロテスタント教会のリーダーとして、多くの働きをなした、植村正久という牧師がいます。
ある時、福沢諭吉が、この植村を自宅に招きました。その時、福沢はこう言ったそうです。
「私は他力本願の宗教は信じない。私は、誰にも恥じない生活をしてきた。植村さん、あなたも、誰にも恥じない生活をしていると思う。では、あなたと私の違いは何なのか。」
それに対して、植村正久はこう答えました。
「あなたと私の違い。それは、私は日々悔い改めをなす、ということです。
私は、神の教えに背き続けている。それ故、主イエス・キリストの御名を通して、私は日々、悔い改める生活をなしている。福沢さん、あなたと私の違いは、そこにあると思う。」
福沢は、自分は、人に恥じない生活をしている、と言ったのに対して、植村は、神の御前に自らを恥じ、日々悔い改めている、と言ったのです。
その悔い改めの根拠は、背き続けている自分が、神の愛によって、赦されている、ということだ、と言ったのです。愛されているが故に、悔い改めに導かれるのだ、と言ったのです。
17節の御言葉は、「悔い改めよ。天の国は近づいた」、と述べています。
この言葉は、「天の国は近づいた。だから、悔い改めよ」、と言い換えることができます。
神様のご支配が近づいた。だから、悔い改めに向かって生きなさい、と言っているのです。
主イエスが来られたことによって、神様のご支配が始まった。それは、愛の支配です。
十字架の贖いによって、私たちの罪を、無条件で、無制限に赦す、恵みの支配です。
その主イエスの愛を知った時に、私たちは、自分自身を、その愛を受けるに相応しく、整えたい。その恵みに相応しく生きていきたい。そういう思いに導かれる筈です。
それが、悔い改めに生きる、ということなのです。
ローマの信徒への手紙2章4節は、「神の憐れみがあなたを悔い改めに導く」、と言っています。ともすると私たちは、神様の裁きの恐ろしさが、私たちを悔い改めに導くと考えます。
しかし、そうではないというのです。神様の愛が、私たちに迫る時に、私たちは、まことの悔い改めに導かれる、と言っているのです。悔い改めざるを得なくなる、と言っているのです。
ここに、バプテスマのヨハネと、主イエスとの、決定的な違いがあります。
ヨハネは、神様の裁きの恐ろしさを前面に出し、神様の怒りから逃れるために、悔い改めを迫りました。
これに対して、主イエスは、「天の国は近づいた」、と語ったのです。神様の恵みの支配、愛に支配が、始まろうとしている。だから、その恵みの中に、その愛の中に入るために、悔い改めなさい、と言われたのです。
私たちは、人からどれほど激しく責められても、なかなか悔い改めようとはしません。色々と言い訳をしたり、屁理屈を並べて反論したりします。
しかし、命を懸けた真実の愛、無条件の赦しに出会った時、人は悔い改めに導かれます。
十字架のキリストの血によって、悔い改めさせられるのです。
ルターは、またこうも言っています。「悔い改めは、私たちの努力によってなされるのではない。悔い改めは、神の光が入って来て、私たちを照らす時に、初めてなされるのである。
背き続ける私たちのために、十字架にかかってくださった主イエスの愛。
このような神の恵み、神の愛に背いてきたのだという、燃えるような申し訳なさからなされるのである。」
燃えるような申し訳なさ、という言葉は、私たちの胸に迫ります。
今朝は、この言葉だけでも、握り締めて帰って頂きたいと思います。果たして、私たちは、主イエスの愛に対する、燃えるような申し訳なさを、感じているでしょうか。
同じ様なことを言った日本の牧師がいます。
本郷中央教会の牧師で、教団の総会議長を務められた、武藤健先生はこう言っています。
「自分の人生を信仰の目をもって振り返れば、全ては神様の奇跡的な恵みです。
自分の人生にあるのは、できれば隠しておきたいような自分の姿ばかりです。
『ああ、私は何という惨めな人間なのだろう。誰がこの死の体から、わたしを救ってくれるのだろう』、というパウロの告白と同じように、自分の絶望的な姿が浮かび上がります。
しかし、そのすべてを知っておられる神様が、私たちを愛し、祝福の御手を置いていて下さる。私よりも、私のすべてを知りながらも、尚も、愛の御手で覆い包んでくださる神様に、ただただ、かたじけない思いに満たされます。」
「ただただ、かたじけない思いに満たされる」。これも、燃えるような申し訳なさを、言い換えた言葉です。
私たちは、なかなか、心からの悔い改めが、できない者です。
しかし、主の愛に迫られて、燃えるような申し訳なさを感じ、ただただ、かたじけない思いに満たされて、真実の悔い改めに、導かれたいと願います。
そして、既に到来している、神様の恵みのご支配の中に、愛のご支配の中に、入れて頂きたいと願います。