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過去の礼拝説教

「網を捨てて従う」

2020年02月02日 聖書:マタイによる福音書 4:18~22

「出世」という言葉があります。「あの人は、出世して、偉くなった」、という時の「出世」です。

成功して、地位が高くなる。一般には、そういう意味で、用いられています。

しかし、この言葉は、もともとは仏教用語なのです。もともとは、この世の悩みや迷いから離れること、或いは、僧となって、仏の道に入ること、を意味する言葉なのです。

キリスト教で言えば、「献身」という言葉に、近いかもしれません。しかし、「献身」と「出世」では、根本的な相違があります。

出世は、自分が決心して、俗世界を離れて、仏の道に入ることです。イニシアティブは自分にあります。しかし、献身は、その人の意志によって、なされるものではありません。

確かに、最終的な決断は、その人によってなされるのですが、まず、神様からの召しがあるのです。神様の召しが先行し、それに応えて、献身するのです。

つまり、イニシアティブは、神様が握っておられるのです。

神様の召しの声を、確かに聞いていなければ、それは献身ではなく、自分の思い込みによる決断となってしまいます。

この神様からの召しのことを、「召命」といいます。神様が、ご自身の使命のために、私たちを召してくださる。そういう意味の言葉です。

牧師や、伝道者になるには、この召命を受けていることが、不可欠です。どんなに深く神学的な研究を極めても、召命を受けていなければ、牧師や伝道者にはなれません。

ある神学校での入学試験の時のことです。その神学校では、入試の前に、先ず礼拝をします。その礼拝での説教で、ある教授がこう言いました。

「皆さんは、この礼拝が終わってから、いよいよ試験が始まると思っているでしょう。

しかし試験は、実は、この礼拝から、既に始まっているのです。

今、この礼拝において、皆さんは、神様と向き合っています。ここで、今一度、神様からの召命の声を、確かめてください。もし、それを確かに聞くことが出来ないならば、この試験を受ける資格はありません。いえ、そもそも、この試験を受けることは、無意味なのです。

ですから、ここで今一度、神様からの召命を、確かに受けているかを、確かめてください。

そして、もし確かめることが出来ないなら、試験を受けずに、このままお帰りください。」

厳しい言葉ですが、牧師になるために、一番必要なことを、最初に言い渡したのです。

このように、牧師や伝道者になるには、召命の声を確かに聴くことが不可欠です。

しかし、召命とは、牧師や伝道者だけが、受けるものではありません。

ある人は、一般のクリスチャンには、召命などはない、と思っています。

しかし、そうではありません。私たちは、どんな職業に就いていても、或いは主婦であっても、学生であっても、そこに主の召しを感じ取り、それに応えていくことが、求められているのです。

なぜなら、私たちは、すべて、神様の栄光を顕わすために、造られた者だからです。

ですから、どのような職業に就こうとも、神様によって、その仕事に召し出されたのだ、と信じる。それがクリスチャンの生き方なのです。

その意味では、すべてのクリスチャンは、召命を受けた献身者なのです。クリスチャンは、どのような職業に就こうとも、最終的には、召してくださった神様のために働くのです。

会社においても、直接的には上司に仕えています。しかし、最終的には主に仕えている、と信じて働くのです。そのように生きるなら、誰もが献身者なのです。

信仰に生きる者は、牧師であろうが誰であろうが、献身者なのです。

どのような立場にあろうとも、神様に身を献げ、主イエスに従って歩いていることには、変わりはないのです。その重みは同じなのです。

皆さんの中には、いや、私は、神様の召しなど感じていない、という方もおられるでしょう。

神様の召しというと、何か重たく感じますので、もう少し砕けて、神様の招きと言い換えても良いかもしれません。

そう言い換えたとしても、それでも尚、私は、神様の招きさえも聴いていない、という方もおられると思います。しかし、神様の招きとは、決して特別な事ではありません。

今、私たちは、礼拝に来て、神様の言葉を聴いています。これは、神様の招きを受けている、ということです。私たちは、主イエスの招きの言葉を、日曜日ごとに聴いているのです。

「さぁここから、主に呼ばれた者として出て行きなさい」、という御言葉を聴いているのです。

そして、ここからまた、日常の生活に戻ります。家庭や職場に戻っていきます。表面的には、何の変化もないように見えます。

しかし私たちは、まさにそこで、その日常生活の只中で、主イエスに召されているのです。

「信仰に生きるということは、遣わされて生きることである」、と言った人がいます。

これは、牧師だけのことを、言ったのではありません。すべての者が、遣わされるのです。

復活の主は、こう言われました。「全世界に行って、福音を宣べ伝えなさい。」

主は、私たち一人一人を、世界へと遣わそうとしておられます。

では、私たちにとって、世界とはどこでしょうか。それは、遠い外国のことではありません。

私たちが遣わされるべき世界。それは、それぞれの職場であり、家庭であり、学校であり、或いは地域社会なのです。

会社において、難しい上司に仕えている。しかし、私は、この人のところに、神様によって、遣わされている。「ここで生きよ」と、神様によって、遣わされていると信じる。

主婦として、夫と共に生きている。夫婦といえども、時に、行き違いがあるかも知れません。そんな時にも、私は、この人のところに、神様によって遣わされているのだ、と信じる。

子育てで悩んでいる時にも、この子どものところに、私は、神様によって、遣わされている。この子を育てることを通して、主イエスに従っているのだ、と信じる。

そういう生き方が、できるかどうか。それが、問われているのです。

何気ない日常の生活の中でも、神様によって、ここに召されて、ここに遣わされている。

だから、遣わしてくださった、神様のために、ここで生きていく。

主イエスの召しを受けて、主イエスに従うとは、そういうことなのです。

今朝の御言葉には、そのように主イエスの召しを受けて、主イエスに従った人たちのことが、記されています。

主イエスは、シモンとアンデレが、網を打っているのを、ご覧になりました。

弟子たちが、主イエスを見たのではなく、主イエスが、彼らを見たのです。

出会いのイニシアティブは、いつも主イエスの方にあるのです。

「ご覧になった」と書かれています。これは、ただ、ふと見かけた、というようなことではなく、じーとご覧になる、鋭く見つめられる、という意味の言葉です。

主イエスは、漁をしている二人に、深い眼差しを注がれて、彼らを招かれました。

そして、次に、船の中で、網の手入れをしている、ヤコブとヨハネも、ご覧になりました。

この二人にも、深い眼差しを注がれて、招かれました。

この主の深い眼差しは、今、私たちに注がれています。2千年前、ガリラヤ湖のほとりで、主が、4人の漁師に注がれた眼差し。その同じ眼差しが、今、私たちに、注がれているのです。

私たちは、自分の意志で、教会に来て、自分で聖書を読んで、自分で決心して、信仰に入った、と思っているかもしれません。

でもそれ以前に、主イエスが、私たちに深い眼差しを注がれて、私たちを招かれたのです。

私たちは、どんな時も、この主の眼差しの中に置かれている、ということを、忘れないようにしたいと思います。

教会は、私たちが、自分の思いで、集まったことによって、生まれるのではありません。

そうではなくて、主イエスの召しによって、生まれるのです。

この召しなしに、自分たちの思いだけで、従う人たちが、いくら大勢いたとしても、まことの教会は、生まれません。教会は、主によって、召し出された者たちの群れなのです。

私たちは、主によって召し出されて、主に導かれて、主の恵みによって、洗礼へと導かれたのです。イニシアティブは、いつも、主イエスにあるのです。

主イエスは、4人の漁師が、働いているところに、やって来られて、彼らに深い眼差しを注がれ、彼らを招かれました。主イエスの方から、彼らの所に、やって来られたのです。

4人の方に、十分な動機が、あった訳ではありません。主イエスの方に、十分な動機があったのです。もし、私たち、人間の動機が、大切であるなら、信仰は怪しくなります。

主イエスに従っていくのに、これだけの十分な動機や理由がある。そうなった時に、初めてキリスト者になる。もし、そうであれば、その信仰は、危ういと思います。

そういう信仰であるなら、もし、私たちの考えが、ぐらついたら、どうなるでしょうか。

これが十分な動機だと思っていた。しかし、そうではないかも知れないと、疑い出したら、どうなるでしょうか。

簡単に、主イエスを、捨てることになります。簡単に、教会から離れて行ってしまいます。

でも、私たちではなく、主イエスの方に、十分な動機があったのです。私たちを救ってくださり、ご自身の弟子にしたいという、十分な動機があったのです。

その主によって、捕らえられたのが、私たちなのです。私たちはぐらつきます。でも主は、決して揺らぐことはないのです。

ですから、ペトロたちは、離れなかったのです。信仰を捨てなかったのです。

ペトロは、最後には、逆さ十字架につけられて殉教した、と伝えられています。しかし、それでも信仰を捨てませんでした。

それは、主イエスによって、捕らえられていたからです。「ペトロよ、あなたは、もう私のものだ。私は決してあなたを見捨てない」、と握り締められていたからです。

もう一度、この光景を、思い浮かべて頂きたいと思います。

朝早くに、主イエスが、ガリラヤ湖のほとりを、静かに歩いておられます。湖では、シモンとアンデレが漁をしています。その彼らのところに、主イエスの方から近づかれました。

主イエスというお方は、私たちの、そういう場面に、入り込んで来られるお方なのです。

主イエスの方から、近づいて来られ、私たちの心の中に、入り込んで来られるのです。

そしてあなたと一緒にいたい、あなたと一緒にいさせて欲しい、と語り掛けて下さるのです。

この時も、ペトロたちの、日常生活の只中に、主イエスが踏み込んでこられ、彼らの人生を変えてしまわれました。

この時、ペトロは、神殿で祈っていた訳ではありません。ただ、ひたすら働いていたのです。

そのペトロをご覧になりながら、「わたしについて来なさい、人間をとる漁師にしよう」、と言われたのです。

主イエスは、同じように、私たちの日常生活の只中に、飛び込んで来られて、「さあ、私についておいで」、と招かれるのです。

しかし、私たちは、様々な理由を並べて、主のお招きを拒もうとします。

若い時には、こう言います。「ちょっと待ってください。私はまだ若いのです。決心するには早すぎます。もう少し人生経験を積んでからにします。」

中年になると、こう言うのです。「今、私は一番忙しい時なのです。会社も、家庭も、問題が山積みです。でも、間もなく、この忙しさから解放されると思います。ですから、その時になったら考えます。」

ところが、歳を取りますと、こう言うのです。「今からあなたに従うには、あまりにも歳を取り過ぎました。今更、この人生を変えることは、しんどいです。」

主が招いて下さっても、それを断る言い訳は、いつでも用意できるのです。

主は、そのことを良く知っておられます。その上で、私たちの日常の生活の中に、踏み込んで来られるのです。そして言われるのです。「私について来なさい」と。

主イエスに、「ついてきなさい」と言われて、4人は、網を捨てて、つまり職業を捨てて、そして、家族をも捨てて、主の後に従いました。

ヤコブとヨハネは、父親のゼベダイを残して、主イエスに従った、と書かれています。

これは、考えようによっては、随分と不人情な話に、聞こえるかも知れません。

ヤコブとヨハネの父のゼベダイは、二人の息子に、期待していたと思います。ですから、この二人を手放すことになって、どれほど寂しかったかと思います。

ゼベダイも、そして、その妻も、本当に寂しく、辛い思いをしたと思います。

では、その寂しさを、どのように克服していったのでしょうか。

私は、この二人の両親も、実は、主イエスに従って行ったのだと思います。

直接、主イエスに従ったのは、ヤコブとヨハネです。しかし、実は、主イエスに従っていったのは、二人の息子たちだけではなく、父も母も、主イエスに、ついて行ったのだと思います。

息子たちを送り出すという仕方で、従って行ったのだと思います。

ですから、息子を手放す寂しさを、克服できたのではないかと思うのです。

私たちが、本気になって、主に従っていく時、私たちの家族も、主についていくということが起きるのです。私たちは、そのことを信じ、期待して、歩んで行きたいと思います。

信仰を持つということは、主イエスに従う、ということです。ある人が、面白い表現で、このことを言い表しました。

キリスト者になる、ということは、名詞になることではなくて、動詞になることである、というのです。どういうことでしょうか。

「キリスト者」という、名詞になろうとしても、キリスト者にはなれない。そうではなくて、主イエスに従う、という動詞に生きていく時に、キリスト者への道が開かれる、というのです。

デンマークの哲学者キルケゴールという人が、こう言っています。「賛美する者は、まだキリスト者ではない。従う者こそが、キリスト者なのである。」

この言葉は、主イエスが言われた御言葉と重なります。主イエスは、こう言われました。

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」

主よ、主よ、と賛美する者が、救われるのではなく、主イエスに真実に従って、神様の御心を行う者が、救われるのだ、と言われたのです。

これは大変厳しい言葉に聞こえます。果たして、主イエスに、真実に従っていくことが、私にはできるだろうか、と不安になります。

しかし、主イエスは、召された4人に対して、「人間をとる漁師にしよう」と言われました。

4人が頑張って、人間を取る漁師になるのではなく、主イエスがされる、と言われたのです。

彼らに、その資格や能力があるかは、問題ではないのです。主が「そうしよう」と言って、実現して下さるのです。

私たちも、主から使命を与えられた時、主が、「あなたを用いよう」、と言って下さっていることを覚えたいと思います。主がしてくださるのであって、自分がなるのではないのです。

そうであれば、召してくださった主が、必要なものを、備えてくださる筈です。

私たちが歩けない、と思うような時には、主が私たちを担ってくださいます。

主イエスは、「私の後についてきなさい」と言われて、私たちの先に立って、歩んでくださいます。私たちは、先立って歩んでくださる、その主イエスの後に、ただついて行くのです。

頑張って、歯を食いしばって従う、というのではなくて、先立って行かれる主に信頼して、その後に従って行くのです。

「わたしについて来なさい。人間をとる猟師にしよう」。この御言葉は、私にとって、忘れることのできない言葉です。

今から18年前、軽井沢でアシュラムに参加していた時、この御言葉が、私に対する、主からの命令として、迫って来ました。「わたしについて来なさい。人間をとる猟師にしよう」。

しかし、私は、この御言葉に、直ぐに従うことをためらって、言い訳の祈りを繰り返しました。

そんな私に、主は、士師記6章14節の御言葉をもって、教えてくださいました。

「あなたのその力を持って行け。私があなたを遣わすのではないか。」

お前の力の足りなさなど、私は全て知っている。元々、お前の力などには期待していない。

それを知った上で、お前を遣わすのだ。私が遣わす限り、私はお前と共にいて、必要な助けをすべて与える。だから、お前のその貧しい力を携えて行くがよい。」

私は、この言葉に押し出されて、神学校に入学することになったのです。

私たちの信仰の歩みは、一人旅ではありません。いつも、主が共にいてくださるのです。

主が先立ってくださり、疲れたときには、背負ってくださるのです。そのことを信じて、感謝して、歩み続けたいと思います。