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過去の礼拝説教

「ここで癒されなさい」

2020年02月09日 聖書:マタイによる福音書 4:23~25

今朝、私たちは、測り知ることのできない、主の恵みと慈しみによって、与えられたこの新会堂で、大いなる喜びをもって、初めての礼拝をささげています。

今、私たちは、主の大きな愛の御手の中に、すっぽりと包まれているようなぬくもりを感じつつ、主を見上げています。

弱く、至らない私たちを、ここまで導き、私たちの思いを遙かに超えるご計画をもって、御業を顕わしてくださった主に、何と言って感謝をささげたら良いか、言葉も見つかりません。

この会堂を与えて下さった主が、私たちに期待されていること。それは、何よりも、ここで、主の御言葉が、正しく、大胆に語られ、霊とまことによる礼拝がささげられることです。

この朝、私たちは、この素晴らしい会堂に相応しい礼拝を、心を尽くして献げていきたいと思います。

さて先週は、主イエスが、ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネという、二組の兄弟に、熱い眼差しを注がれて、弟子として召し出された御言葉を聴きました。

主イエスの召しを受けて、この二組の兄弟は、直ぐに主イエスに従って行きました。

それに続く今朝の御言葉には、主イエスの許に、様々な病に苦しむ人々が連れて来られ、主イエスが、それらの人々を癒された出来事が、語られています。

そして、その癒しの奇跡を見た大勢の群衆が、主イエスに従った、と語られています。

二つの出来事の、どちらにも、主イエスに従ったことが、書かれています。この二つの出来事が、私たちに教えていることは、従うことの大切さです。

勿論、弟子として従うことと、群衆の一人として従うこととでは、動機も、従い方も違います。

この時、群衆は、現世的なご利益を、求めていただけかもしれません。 しかし、そのような群衆を、主イエスは否定されなかったのです。退けることをされなかったのです。

いずれにしても、主に従う者の姿が、ここに描かれているのです。

この後、5章からは、有名な「山上の説教」が始まります。

多くの聖書学者が、弟子の召命と、病人への癒しという、これら二つの出来事を、山上の説教の導入、或いは序説として、捉えています。

山上の説教を、正しく理解するためには、ここから読み始めなくてはならない、と言っているのです。それは、どういうことでしょうか。

山上の説教を、単なる道徳の教えであるとか、処世訓である、と理解する人がいます。

しかし、それは大きな間違いです。

この時、弟子たちが従い、そして群衆も、主イエスに従いました。それを受けて、山上の説教が、語られているのです。

ですから、山上の説教は、主イエスに従って生きる者の、生き方を説いているのです。

確かに、山上の説教は、形としては、弟子たちに対して、語られています。弟子としての心得が語られている、とも言えます。

それでは、ここに従ってきた群衆は、主イエスと弟子の様子を、ただ遠巻きに見ているだけの、存在だったのでしょうか。外野にいる傍観者であったのでしょうか。

5章1節、2節は、こう語っています。「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。」

この時、主イエスは、直接には、弟子たちに対して、語られました。しかし、その背後には、大勢の群集がいたのです、

では、主イエスは、背後にいる群衆を無視されて、弟子たちだけに語られたのでしょうか。群衆の存在は、問題にはならなかったのでしょうか。

そんなことはないと思います。主イエスが山の上で、弟子たちを教えられた時、その背後にいた群衆を、無視されたとは思われません。

「イエスはこの群衆を見て、山に登られた」とあるように、主イエスの目には、しっかりと群衆が見えていたのです。主イエスは、十分に群衆を、配慮されているのです。

主イエスは、群衆をも招く御言葉を、語られたのです。なぜなら、動機が異なっても、或いは、従って行く姿勢が異なっても、主に従う生活に、根本的な相違はないからです。

主に従うということは、私たちすべてにとって、同じこと、一つのことなのです。

山上の説教は、7章まで続いていますが、7章の終わりには、「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた」、とあります。

このように、山上の説教の、最初と最後に、群衆の姿が描かれているのです。

主イエスは、どのような者であっても、ご自分に従って来た者に、丁寧に語って下さいます。

ですから私たちは、主イエスの御言葉を、一言も漏らさずに、聞きたいと願うのです。

しかし、そう願いつつも、様々なことで心が塞がれて、御言葉が心に入って来ない。礼拝に来て聖書を開いているのに、心が御言葉に開かれない。

そんな時もあると思います。それでも、この時の群衆のように、たとえ直ぐ近くではなくても、御声の聞こえる距離にいる。それが大切なのです。

群衆が主イエスの御言葉を聴いたガリラヤの山。それを、今の私たちに当てはめるならば、この会堂です。この会堂は、私たちが、主イエスの御言葉を聴くために備えられた場です。

今、主イエスは、この会堂におられます。そして、私たちに、語り掛けてくださっています。

私たちは、弟子たちのように、御傍近くで、主の御声を、しっかりと聞ける時もあるでしょう。

でも、群衆のように、少し離れて、遠巻きにして御言葉を聴きたい、と思う時もあるかもしれません。

季節に、春夏秋冬があり、暑い時もあれば、寒い時もあるように、私たちの信仰生活にも、温度の差が生じます。熱く燃える時もあれば、北風が心に忍び込んでくる時もあります。

でも大切なことは、どんな時にも、主の御許に来て、御声を聴き続けることです。主の山に登って、御言葉を聴き続けることです。

この会堂に来て,主の御言葉を聴くことです。ここで主は、私たちを待っておられるのです。

せっかく新しい会堂が与えられたのに、主に会いに来る者がいなくなってしまっては、会堂を与えて下さった主は、どれほど悲しまれるでしょうか。

会堂を与えて下さった、主の愛に応える一番のことは、ここで様々なイベントを行うことではありません。ここで、御言葉の礼拝が、感謝と喜びをもって、ささげられることなのです。

私たちは、会堂を与えて下さった主を、悲しませることがないようにしたいと思います。

この時、主イエスに従ってきた群衆は、どのような人たちであったのでしょうか。

それは、様々な病や患いに苦しみ、悩んでいる人たちです。そして、それらの人たちを、連れて来た人たちです。

主イエスは、癒しを求めて来た人たちの病を、すべて癒されました。それで、主イエスの評判が、その地方一帯に、広く伝えられ、大勢の群集が、主イエスの後に従ったのです。

しかし、主イエスが、ガリラヤでなされた宣教活動は、癒しの御業だけではありません。

23節は、こう言っています。「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。」

ここには、主イエスがなされた、三つの御業が記されています。

主イエスは、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、そして民衆の病を癒されたのです。

これら三つのことは、また、この会堂でなされるべきことでもあります。

この会堂は、何よりも、福音の真理が教えられ、その福音が宣ベ伝えられ、そして傷ついた魂が、癒される場でなければならないのです。

主イエスは、招かれた群衆を、丁寧に、愛をもって、教えられました。一人一人に、分かり易く、その人にとって、受け入れ易い言葉をもって、教えられました。

それは、瓶を並べておいて、ひとまとめにして、ホースで水をジャーと掛けるような方法ではありませんでした。一本一本、瓶に水を注いで、満たしていくような、やり方でした。

本当の意味で、相手を教えるとは、一般論を振りかざして、説得するのではなく、まず相手を知り、その相手に寄り添い、相手と共に成長していくことなのです。

ですから、それは、きめ細かな愛の業なのです。教会における教育、或いは、言葉を変えて、伝道と言っても良いと思いますが、それは、徹頭徹尾、愛の業なのです。

以前にもお話しましたが、名古屋で長い間働かれた、アメリカ人の婦人宣教師がいました。

彼女は、何とかして、一人でも多くの日本人を救いたいと、必死に努力しました。

しかし、ある時、一人の求道者からこう言われました。

「あなたは、私のことを、伝道の対象としてしか、見てくれていないじゃないですか。一生懸命に教えようとしているけれども、私のことを、ちっとも愛してくれないじゃないですか。

私は、伝道されるよりも、愛してほしいのです。」

この言葉は、婦人宣教師の頭を、金槌で打ち付けるような衝撃を与えました。

これを聞いて、この婦人宣教師は、本当に悔い改めて、それからは、先ず、相手に寄り添い、相手を知り、相手を愛することを,心掛けたそうです。

この会堂においては、何よりも、愛の業が為されますように、切に祈ります。

二つ目の、御国の福音を宣べ伝えることも、同じ愛の業です。御国、つまり神の国とは、神様が共におられる所です。神様の愛のご支配の及ぶところです。

あなたは、その神様の愛の御手の中にいるのですよ、と宣言することが、神の国の福音を宣べ伝える、ということなのです。

私たちは、この会堂において、神様の愛のご支配を、宣べ伝えていきたいと思います。

三つ目が癒しの御業です。主イエスは「ありとあらゆる病気や患いを癒された」とあります。

主イエスは、癒しの御業をなされるとき、一人一人と向き合い、その人の心の内を、ご覧になられました。

その人の病気の状態だけでなく、その人の病気に関わる悩みや、病気であるために味わっている様々な苦しみや、或いは、病気のために、断念せざるを得なかった残念な思い。

そのような、心の内の様々な思いを、しっかりと御覧になりました。

主イエスは、一人一人と向き合われ、その人が抱える問題を御覧になって、癒しをお与えになったのです。ですから、一人一人違う方法で、癒されたのです。

その癒しの業を通して、主イエスは、一人一人と、人格的に交わられたのです。

とにかく癒されたいと、藁にもすがる思いで、主イエスのところへやって来た、おびただしい人たちを、主イエスは、一人一人丁寧に癒されました。

この主イエスのお姿を、五百年以上も前に、既に預言した人がいます。

イザヤです。イザヤ書53章3節、4節は、こう言っています。

「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。」

私たちは、イザヤがここで預言しているのは、主イエスのお姿であると信じています。

その主イエスのお姿。それは私たちの病を担い、私たちの痛みを負ってくださるお姿です。

主イエスは、単に病を治すだけでなく、その病を担い、痛みを負ってくださるお方である、とイザヤは言っているのです。

病気は、身体だけでなく、心も痛めます。身体的な痛みだけではなく、病気によって、社会的にも、精神的にも、霊的にも痛んでいきます。

主イエスは、そのような、患いや、痛みや、悩みを、その人と共に、担われました。

いえ、実は、その人に代わって、担い、背負うことによって、その人を癒されたのです。

私たちは、主イエスが病を癒された記事を読むと、単純に「あー、良かったな」と思います。

主イエスのお力で、病がどこかに、すーと消えてなくなったのだと思います。

しかし、聖書は、そうではないと言っているのです。

病が、霧のように、どこかに消えてなくなったのではなく、実は、主イエスが、それを担ってくださった。それを、代わって負ってくださったのだ、と言っているのです。

病の人を癒す度に、主イエスが、その病を代って負ってくださっているのです。

私たちは、深く考えもせずに、「主よ、どうか癒してください」と祈ります。

しかし、本当は、「主よ、まことに申し訳ありませんが、私に代わって、この病を負ってください」、と祈るべきなのかもしれません。

主イエスは、身体の病だけでなく、精神的な悩みや、霊的な痛みをも、癒してくださいます。

最近は、医学でも、ようやく心の痛みを、問題にする様になりました。心の痛みに注目することが、医学でも大切になっています。

10数年前に、当時23歳のある医大生が、新聞にこのような投書をしました。

抜粋を紹介します。「誰もが、その存在を知っていながら、手に取ることが出来ないもの。最も大切で、不思議で、雄大で、微妙なもの。心こそが人間の中心部分であると言っても過言ではないでしょう。ところが、私たち医学生が、学内で心について学ぶことは、極めて少ないのです。心は、脳の機能に決まっている、という空気を、授業のあちこちで感じます。

心を証明する機械がない現在、そして、臨死体験などの不思議な現象が数多くある現在、心に関しては慎重であって欲しいと思います。

日本は、死にゆく人の心をも、優しく包み込む国であって欲しいのです。」

この医大生が、望んでいるような、目に見えないけれども、最も大切な心の奥深くに、主イエスは関わり、宿り、そして癒されるのです。

身体だけでなく、その心も含めた、全人格的な癒しを、施されるのです。

では、主イエスは、どのように関わり、どのように癒されるのでしょうか。

それは、「あなたは一人ではない」、と語り掛けることによってです。主イエスは、「あなたは一人ではない」、という愛のメッセージによって、病む人に関わり、心を癒されるのです。

マタイによる福音書は、インマヌエルの恵みを一貫して語っています。どんな時も、あなたは決して一人ではない。私はいつも共にいる、という主イエスの語り掛けを伝えています。

「あなたは一人ではない」。これこそが、究極の癒しの言葉ではないでしょうか。

病によって、肉体的な苦しみだけでなく、精神的な痛みにも悩んでいる時、「あなたは決して一人ではない。どんな時も私は共にいる」という言葉は、病める人を根底から癒すのです。

しかし、この言葉を語れるのは、十字架で死んで、復活された、主イエスお一人だけです。

24節にある「癒された」という言葉の原語は、「セラピュオー」というギリシア語です。これから、セラピーという言葉が生まれました。

この「セラピュオー」という言葉には、二つの意味があります。

辞書を引くと、先ず出て来るのは、「仕える」とか「奉仕する」という意味です。その次に、「癒す」という意味が書かれています。

「仕える」、「奉仕する」、ということが、「癒すことに」優先しているのです。

主イエスは、眞のそして究極のセラピストです。しかしそれは、主イエスが、私たちの救いのために仕えてくださったからです。では、どのようにして仕えてくださったのでしょうか。

それは、十字架についてくださり、私たちの罪を、代わって負ってくださることによってです。

先程のイザヤ書53章5節は、更にこう言っています。

「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」

主イエスは、私たちの心の痛みをも癒し、私たちの心に平安を与えるために、十字架についてくださったのです。そこまでして、仕えてくださったのです。

主イエスは、私たちの肉体の病だけでなく、最も根本的な病である、私たちの罪をも癒すために、私たちに代わって、十字架について、血を流してくださったのです。

罪のないお方が、私たちの罪を担って、その刑罰を代って負ってくださったのです。

その打たれた傷によって、私たちは癒されたのです。

まことに、健やかなる時も、病める時も、そして、生きている時も、死ぬ時も、主イエスが、私たちの癒し主、救い主でいてくださることを心から感謝したいと思います。

この会堂は、その主イエスの癒しの御業が、実現する場です。ですから、私たちは、様々な痛みに苦しんでいる人に、こういうのです。

「ここに来てください。ここで癒されてください。どんな時も、共にいてくださる主イエスによって、ここで癒されてください。」