MENU

柏牧師:過去の礼拝説教

「感謝しかできない幸い」

2020年02月23日 聖書:マタイによる福音書 5:3

チャニング・ムーア・ウィリアムズという人がいました。この人については、以前にもお話ししたことがありますので、覚えておられる方もおられると思います。

ウィリアムズは、日本聖公会の初代主教で、日本各地にいくつかの教会を立て、また立教大学など複数の学校を設立するなど、日本の伝道と教育の発展に、力を尽くした人です。

ウィリアムズの故郷である、ヴァージニア州リッチモンドにある、彼の墓標には、「日本在任五十年、道を伝えて己を伝えず」、という言葉が、日本語と英語で刻まれています。

 

日本で伝道した50年間、彼は、ただキリストのみを伝えて、自分を伝えることを、一切しなかった、と言っているのです。

この言葉の通り、ウィリアムズは、自分について知られることを、極端に嫌いました。

それは、日本から帰国する際に、自分に関する資料を、全部燃やしてしまい、誰にも告げずに、こっそりと帰国したことにも表れています。

ウィリアムズの謙遜と、清貧の生活については、いくつかのエピソードが残されています。

当時、米国聖公会の主教の月給は、現在の価値で約150万円だったそうです。しかし、彼は、約6万円で生活し、残りは全部、教会や学校を立てるために、献金したそうです。

また、神戸から船で横浜に向かっている時、ウィリアムズが、あまりにもみすぼらしい服を着ているので、知人の船長が、服は裏返すと新しく見えますよ、と教えました。するとウィリアムズは、この服は、既に裏返した後で、また古くなったのです、と答えたそうです。

また、ある時、ウィリアムズが汽車に乗ってやってくるというので、信者が駅に出迎えに行きました。主教なので、当然二等車に乗って来るだろうと、待っていましたが、なかなか出て来ません。暫くすると、三等車の降り口の方から、ウィリアムズがやって来ました。

信者たちが、「なぜ三等車で来られたのですか」、と聞いたところ、「四等車がないものですから」、と答えたそうです。

このような謙遜と清貧の生き方は、百万の言葉よりも、人々の心に深い感銘を与えます。

そして、信仰者のこのような生き方に感動して、キリスト者になった人も多くいます。

その中の一人に、作家の井上ひさしさんがいます。井上ひさしさんは、幼少期、義理の父親から虐待を受けたり、母親の会社が倒産したりして、大変困難な生活を送りました。

彼の母親は、生活苦から、彼をカトリックの児童養護施設に入れました。

その施設ではカナダ人の修道士たちが、児童に対して、献身的な態度で接していました。

修道会の本部から、修道服を新調するようにと、送られてきた羅紗の布地も、子供たちの学生服に回し、自分たちは、依然として、ぼろぼろの修道服を着続けました。

そして、毎日額に汗して、子供たちに食べさせる、野菜などを栽培していました。

井上ひさしさんは、「自分は神様を信じるというよりも、神様を信じる修道士たちを信じて、キリストの弟子となったのだ」、と言っています。

アッシジのフランシスコの清貧の生涯が、人々に感銘を与えてきたように、キリスト教会の歴史において、この貧しさに生きる生き方は、常に重んじられてきました。

そして、山上の説教も、貧しさの祝福を語ることから、始まっています。

「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」

これが、山上の説教の始まりです。では、主イエスがここで、「このような人は幸いだ」、と語られた、その「貧しさ」とは、一体どのようなものなのでしょうか。

今朝は、そのことを、ご一緒に、探って行きたいと思います。

マタイによる福音書では、「心の貧しさ」が、問題とされています。

しかし、主イエスが、同じように、幸いについて語られた、ルカによる福音書の6章20節は、「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなた方のものである」、となっています。

ルカでは、心の貧しさではなく、「貧しさ」そのものが幸いであると、語られています。

このルカとの比較において、よく語られることがあります。

それは、主イエスが、元々お語りになったのは、ルカにあるように、「貧しい人々は幸いである」、という言葉であった。

主イエスは、経済的に貧しい人々、その日の暮らしにも、困っているような人々のことを、「幸いだ」と言われたのだ。

しかし、そうすると、幸せになるためには、貧しくならなければいけない、と捉えられてしまうかも知れない。それは、多くの人にとって、躓きとなる恐れがある。

そこでマタイは、「心の」という一言を、付け加えることによって、この教えを内面化したのだ。

この教えを精神化して、富んでいる人であっても、心が貧しいならば、その人は幸いなのだ、という教えに変えたのだ。そういう解釈です。

この解釈に立つならば、ルカによる福音書の教えこそが、主イエスご自身の元々の教えであって、マタイは、それに変更を加えた、ということになります。

果してそうなのでしょうか。そのように、単純に説明して、事が解決するのでしょうか。

そもそも、聖書が語る幸いとは何でしょうか。

ある人が、「幸い」という漢字は、土という漢字の下に、アルファベットの大文字のYに二本の横棒を引いた、所謂Yenマーク(¥)が組み合わされて出来ている。

だから、今の日本における「幸い」は、土地とお金からなっているのだ、と言っていました。

なかなか面白い指摘だと思います。しかし、主イエスが言われた幸いとは、土地とお金があれば、得られるものなのでしょうか。勿論、そうではありません。

一方では、こんな話があります。ある所に、一人の王様がいました。立派な宮殿に住んで、何不自由ない生活をしていました。しかし、王様の心は、満たされていませんでした。

そこで、国中の学者を集めて、どうしたら幸せになれるかを問い、言われた通りのことを試してみましたが、一向に幸せになりませんでした。

ある時、外国から来た一人の老人がこう言いました。「王様、幸せいっぱいの人を見つけて、その人のシャツを着たなら、きっと幸せになりますよ。」

そこで王様は、幸せいっぱいの人を見つけるために、旅に出ました。

ある日、野原を歩いていた時、本当に幸せいっぱいそうな、一人の牧童を見つけました。

王様は、その牧童に、「お前は幸せか」と尋ねました。するとその牧童は答えました。

「はい、王様。私は、幸せです。お日様は、温かく照っていますし、羊はおとなしく草を食べてくれますし、村の人たちは、みんな親切です。私は、本当に幸せいっぱいです」。

そこで王様は、「お金はいくらでも出すから、お前の着ているシャツを私にくれないか」、と頼みました。するとその牧童は困った顔をして、「すみません、王様。私はシャツを着ていないんです」、と答えたそうです。

この牧童は、物質的には、貧しいのです。でも、豊かな心で、幸せに生きています。

ではルカが言っている、「貧しい人々の幸い」とは、この牧童のような生き方なのでしょうか。

もしそうであれば、幸いとは、私たちの心の持ち様によって、決まることになります。

主イエスは、そのように心を整えることを、教えられたのでしょうか。そうは思えません。

それでは、マタイが語る、「心の貧しい人の幸い」とは、どういうことなのでしょうか。

マタイは、たとえ経済的に富んでいても、その心が傲り高ぶっておらず、謙遜であるならば、幸いなのだ、と言っているのでしょうか。

マタイとルカの違い。それは、幸せになるためには、物質的に貧しくなくてはいけないのか、それとも、富んでいても、心がへりくだっていればよい、ということなのでしょうか。

私は、しかし、このような議論では、主イエスの御心を、正しく捉えることはできないと思います。そこで、暫し立ち止まって、主イエスの御心を、真剣に尋ねてみたいと思います。

主イエスは、幸せになるために必要なことは、精神的な貧しさか、物質的な貧しさか、ということを、問題にされているのではありません。

マタイによる福音書が語っている「心の貧しさ」は、もっと深い意味を含んでいるのです。

ここで言われている、「心の貧しい人」の「心」という言葉は、聖書の他の箇所では、「霊」と訳されている言葉です。神様の「霊」を、言い表す時に使う言葉です。

一方、8節に、「心の清い人」と書かれていますが、ここにある心は、神様の「霊」ではなく、人間の「心」を表す別の言葉です。

ですから、3節の「心の貧しい人」とは、「霊において貧しい人」、という意味なのです。

もう少し掘り下げていえば、「神様との霊の関りにおいて貧しい人」、という意味なのです。

神様との霊の関係において、貧しさに生きている、ということなのです。

更に、「貧しい」という言葉にも、注目したいと思います。

ギリシア語には、貧しさを言い表す言葉が、いくつかありました。貧しさの程度に応じて、それを表す言葉が、違っていたのです。

例えば、多くの奴隷を抱えている貴族に比べて、奴隷の数が少ない中産階級は貧しかった。

また、奴隷を持っていないため、自ら働く必要がある人は、更に貧しかった。

そういう貧しさを言い表す言葉が、いくつもあったのです。

そういう中で、今朝の御言葉が用いている貧しさ。それは、最も徹底した貧しさです。

物乞いをするほどの貧しさ、全くの欠乏を意味する貧しさです。

他者の情けにすがって生きる貧しさ。つまり乞食のような貧しさを、意味する言葉なのです。

ですから、「心の貧しい人」とは、「神様との霊の関係における乞食」、という意味なのです。

単に、謙遜な人、という意味ではないのです。

傲り高ぶらない、へりくだった心を持つということは、とても尊く、大切なことです。

でも、ここでは、そのことが語られているのではありません。

そのような、謙遜の美徳が、ここで勧められているのではありません。

神様の前で、何も持たず、神様の前に、ただ物乞いをする者。ただ受けるだけで、感謝することしかできない人。そういう人のことを言っているのです。

そのような人は、ただ神様の憐れみを乞い願って、生きていくより他に道がないのです。

そうであれば、この御言葉の意味は、「神様に救われて、ただ神様の恵みによってのみ、生きている人々は幸いである。なぜなら、もう既に、神様は、彼らの間に生きておられるから。天の国は、その人たちのものだから」、ということになります。

神様との関りにおいては、自分は何もできない。何も持っていない。ただ神様の恵みのみを、ひたすらに乞い願う。それしかできない。

そのような時、私たちの心には、他のものが、入り込む隙など、無くなります。他のものに、心を奪われるようなことが、出来なくなります。

富や権力に、心を奪われることを、拒むようになります。そして、自分の心の貧しさを、素直に受け入れるようになります。

これが、霊における物乞いの生き方です。ですから、この生き方は、霊の世界から出発していますが、自然に、物質世界の貧しさに繋がっていくのです。

神様との関わりにおいて、何も持っていない、霊において物乞いである人は、他のものを求めなくなるのです。物質的な豊かさに、心を奪われることがなくなるのです。

神様との霊の交わりを妨げるものを、避けるようになって行くのです。そうしていく時、自然に、貧しい生き方を、するようにされていくのです。

富や名誉に心を奪われると、神様との霊の交わりが、妨げられてしまいます。ですから、結果的に、貧しい生き方、謙遜な生き方を、するようにされていくのです。

この様に見ていくと、「貧しい人々」に、「心の」がついていても、ついてなくても、あまり大きな違いはないことが、分かってきます。

宗教改革者マルティン・ルターは、召される直前に、短い最後の言葉を、書き残しました。

その文章の結びは、「われわれは物乞いにすぎない、それは本当だ」、という言葉でした。

これは、ルターが、生涯を通して、主イエスから賜った、恵みへの賛美の言葉です。

決して、哀れっぽい言葉ではありません。ルターは、その一生を通して、神様との霊の交わりにおいて、貧しさの中にあったのです。霊的な欠乏の中にあったのです。

そして、ただ感謝しかできない幸せの中を、生きたのです。

神様との霊の交わりを深め、その恵みを深く知れば知る程、自分の貧しさを、いよいよ深く知って行ったのです。

自分は、ただ神様の憐れみを乞う、物乞いに過ぎないことを、真実に知って行ったのです。

そして、主は、それを祝福されて、「心の貧しい人は、幸いだ」、と言われたのです。

仮に、私たちも、そのような信仰の偉人たちの生き方を知って、それでは、自分も貧しくなってみようと、貧しい生き方を、試みたとします。そして、何らかの報いを求めてみます。

でも、そこに、報いはありません。なぜなら、貧しさそのものに、何か価値がある、ということではないからです。

アッシジのフランシスコや、ムーア・ウィリアムズの生きた貧しさは、神様との霊の交わりを喜び、それを第一として生きていった時に、他の物を求めなくなった結果であったのです。

決して、貧しさが、救いをもたらした訳ではないのです。

それにも拘らず、昔から、自己犠牲的な生き方への憧れから、貧しさに生きようとする人がいます。貧しく生きることによって、自己充足を得ようとする人がいます。

しかし、それは、所詮やせ我慢です。聖書は、そのような自己満足的な、或いは、自己犠牲的な貧しさを、語ってはいません。

聖書が教えているのは、神様の前に立った時に、私たちに示される、霊的な貧しさです。

私の敬愛するある牧師は、若い時、とても貧しい教会に遣わされました。僅かな謝儀しか与えられませんでした。しかし、その牧師は、これこそが、以前から憧れていた、清貧の生活、自己犠牲の生き方だと、喜んで歩み出しました。

しかし、毎日、ご飯と納豆とキムチだけの食事を、1週間続けている内に、無性に寂しくなって、持っているお金を全部はたいて、豪華な食事をしてしまいました。

食べ終わって、急に現実に引き戻され、明日からどうしようと、途方に暮れていた時、書留郵便が届きました。遠方の信徒からの便りでした。「先生のためにお祈りしています」、という手紙に沿えて、献金が同封されていました。

この書留を手にした時、この若い牧師は、恐れにも似た衝撃を受けました。

自分の力で、貧しさをも、喜んで耐え忍ぶことが出来ると、思っていたのです。しかし、自分は弱かった。貧しさに打ちのめされてしまったのです。

そして、神様への信頼も愛も、失いかけていた。しかし、神様は、そんな自分を、限りない愛で覆って下さり、思いがけない恵みをもって、応えてくださった。

この牧師が貧しさの中で知ったのは、自分の弱さ、自分の欠けでした。それは、また、自分自身の信仰の弱さであり、神様への愛の欠けでした。

私たちは、神様への信頼に生きようとします。神様への愛に生きようとします。しかし、その時、私たちが思い知らされるのは、自分の信仰の貧しさです。愛の貧しさです。

しかし、主イエスは、その私たちの貧しさを、じっと見つめられて、その上で、「あなた方は幸いだ」、と祝福してくださるのです。

そして、この祝福の言葉を、語って下さるために、主イエスは、命を懸けてくださいました。

霊における貧しさ故に、神様の憐れみを、ただ乞い願うしかない私たちに、「天の国はあなた方のものである」、と約束して下さったのです。

信仰にも、愛にも欠ける、あなた方だが、既に、あなた方は、神様の愛の中に、神様の救いの中に、置かれているのだ、と約束してくださったのです。

そして、その約束を果たすために、主イエスは、ご自身の命を、注ぎ出してくださったのです。

私たちの、霊的な貧しさを覆ってくださるために、主イエスは、十字架にかかってくださったのです。

私たちの貧しさとは、主イエスが、命を懸けて覆って下さらなければ、満たされない程の、貧しさなのです。

そして、私たちが、その貧しさに立ち、その貧しさを嘆き、その貧しさに徹していく時、私たちは、そのような者をも、尚も、命懸けで愛して下さる、主の愛の豊かさの中に、招き入れられるのです。

主イエスは、約束して下さっています。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」。

私たちは、この約束に立って、霊における貧しさを、生きていきたいと思います。