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過去の礼拝説教

「悲しみが喜びに変わる奇跡」

2020年03月01日 聖書:マタイによる福音書 5:4

『受難節  鏡のおくに ユダの顔』

これは5年前に、102歳で天に帰られた、私たちの信仰の大先輩、武信正子さんが詠まれた句です。 『受難節  鏡のおくに ユダの顔』

受難節のある日、鏡に映った自分の顔の奥に、主を裏切ったユダの顔を見た。

あぁ、主を裏切って、十字架の苦しみを負わせたのは、ユダではなく、実は、この私だったのだ。そのような思いに導かれて、詠まれた句だと思います。

主イエスに十字架の苦しみを負わせた、ご自身の罪の深さを悲しまれて詠まれたのです。

先週の水曜日、2月26日から、受難節(レント)に入りました。

この日からイースターの前日まで、日曜日を除く40日間は、主の御苦しみに思いを馳せ、それが私たちの罪の故であることを、心に留めつつ、悔い改めの日々を過ごす時です。

武信さんのように、自らの罪を悲しむ日々を送るのです。

罪を悲しむ。今朝の御言葉は、まさにそのことを語っています。

「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」

今朝は、この御言葉に込められた深い意味を、ご一緒に、探って行きたいと思います。

「聖書の常識は、この世の非常識。この世の常識は、聖書の非常識」、と良く言われます。

確かに聖書には、この世の非常識と思われるような御言葉が、多くあります。

その中でも「悲しむ人は幸いである」という御言葉は、その最たるものではないでしょうか。

悲しみの中にうずくまって、立ち上がることも出来ない人に向かって、「おめでとう、悲しんでいる人は幸いなのですよ」と言ったら、一体、どんな事が起こるでしょうか。

「悲しむ人々は、幸いである」。これは、私たち人間には、語ることが出来ない言葉です。

この言葉を語ることが出来るのは、ただお一人、主イエスのみです。このような言葉を語られること自体が奇跡です。そして、そのような奇跡は、主イエスしか、なし得ないのです。

もっとも、ちょっと違った意味で、悲しみを受け入れている人が、いない訳ではありません。

時々、「悲劇のヒロイン」を演じている、と言われている人に出会います。悲劇のヒロインになって、人々の同情を買う。或いは、「あんな不幸を耐えていて立派だ」、と褒めてもらう。

そういうことに、秘かな快感を覚える人が、いない訳ではありません。

しかし、そのようなことによっては、本当の悲しみを、乗り越えることはできません。そこに、まことの慰めはありません。

今朝の御言葉で、主イエスが言われている幸いは、まことの慰めに至る幸いです。

主イエスは、「信仰を持てば、悲しみが無くなる」、などとは言っておられません。

では、主イエスが言われている幸いとは、一体どういうものなのでしょうか。

それは、悲しみを、悲しみとして、真正面から受け入れることが出来る幸いです。

悲しみを、表面に出さずに、じっとこらえて、一人秘かに苦しむのではなくて、その悲しみを、素直に表すのです。やせ我慢をしないのです。それができる幸いです。

泣きたければ、泣けばよい。叫びたければ、叫べばよい、と主は言われているのです。

悲しみを、無理に抑えて、沈黙することはない、と言われているのです。

カトリック教会の司祭の、晴佐久昌英神父が、「病気になったら」、という詩を書いています。

『病気になったら どんどん泣こう/痛くて眠れないといって泣き/手術がこわいといって涙ぐみ/死にたくないよといって めそめそしよう

恥も外聞もいらない/いつものやせ我慢や見えっぱりを捨て/かっこわるく涙をこぼそう

またとないチャンスをもらったのだ/自分の弱さをそのまま受け入れるチャンスを…』

晴佐久神父は、悲しみは悲しみとして、素直に表わそう。涙が自然に流れるのにまかせよう、と言っています。なぜそんなことを、言うのでしょうか。

それは、信仰者にとって、悲しみは無意味でないからです。悲しみは空しくないからです。

人知れずに、たった一人で流す涙でも、神様の御前に、意味を持つからです。

悲しみを、しっかりと受け止めてくださるお方に対して、泣くことは、空しくないのです。

愛する兄弟のラザロが死んだとき、マルタとマリアの姉妹は、激しく泣きました。

主イエスの前で、涙を流しました。主の前なのだから、泣くのは恥ずかしいと、涙を無理に抑えて、取り繕うようなことはしませんでした。

そして、主イエスご自身も、二人の涙を、受け止められて、激しく泣かれました。

そのように、主の前で、泣くことが出来る者は幸いだ、と言えるのではないでしょうか。

悲しみは、飽く迄も、悲しみでしかありません。それ自体に価値がある訳ではありません。

大切なことは、「悲しむ人は幸いだ」、と誰が言ってくださるか、ということです。

そのお方が、どのようにして、悲しみを受け止めてくださるか。それが、問題なのです。

私たちの涙を受け止めてくださる主イエスは、悲しみに生きられたお方です。「父よ、なぜ、私を見捨てられたのですか」という、悲しみの祈りの中で死なれたお方です。

そのお方が、私たちの悲しみを受け止め、涙を拭ってくださるのです。

詩編56編8節で、旧約の詩人はこう詠っています。

「神よ、あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。…あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください」。

私の嘆きも悲しみも、神様はすべてご存知なのだ。私が流す涙の一滴一滴は、神様が持っておられる革袋の中に、蓄えられているのだ、と詠っているのです。

革袋は、砂漠を旅する人が、飲み物を蓄えるものです。命を支える大切なものです。

神様は、私たちの涙を、ご自身の皮袋に蓄えて、大切な飲み物として、飲み尽くしてくださる、というのです。その時、神様の目にも、涙が溢れていることでしょう。

なんという慰めでしょうか。

冒頭で、武信正子姉妹の俳句を紹介しましたが、武信姉妹が詠まれた俳句に、同じような意味の句があります。 『流れ星 神持ち給う 涙壺』。

夜空の、流れ星を見た時、武信姉妹は、私たちの涙が、流れ星となって、神様が持っておられる涙壺の中に、確かに受け止められていることを、示されたのです。

『流れ星 神持ち給う 涙壺』。私たちの流す涙が、神様によって、しっかりと受け止められ、理解されている。何という、大きな慰めでしょうか。

そればかりでは、ありません。神様も、一緒になって、泣いてくださる、と御言葉は言っているのです。これに優る、慰めはありません。

主は、「悲しむ人々は、幸いである」、と言われました。どうして、悲しむ人々が、幸いなのでしょうか。それは、慰められるからです。

誰によって、慰められるのでしょうか。他ならぬ、主イエスによって、慰められるのです。

主イエスが共にいてくださり、私たちの涙を拭ってくださり、立ち上がらせてくださるのです。

誰も、深い闇のような、私のこの悲しみを、分かってくれない。そう思っている時も、神様は、私たちの流す涙の意味を、すべて知っていてくださるのです。

ゴードン・ジェンソンという人が書いた、「涙は神のおわかりになる言葉です」、という詩があります。このような詩です。

『なぜ涙が出てくるのか不思議に思いました/物事はあてにしていたような結果になりませんでした/しかし神はそばにお立ちくださり/落ちる涙をご覧になっています/涙は神のおわかりになる言葉です

神はうちひしがれた魂の涙をごらんになっています/神はあなたの涙を御覧になり、その落ちる涙の音を聞いておられます/神は人と一緒に泣いてくださり、手を取ってくださいます/涙は神のおわかりになる言葉です

悲しみがあなたをみじめにする時、涙を流させるのです/その重荷にとうていたえきれないように思うでしょう/しかし神はあなたをお忘れではありません

神の約束は変りません/涙は神がおわかりになる言葉です』

私たちが、誰もこの悲しみを分かってくれないと、人知れず涙を流している時。そんな時も、神様は傍にいてくださり、落ちる涙を、ご覧になってくださっている。

私たちが、担いきれない重荷に、押しつぶされ、惨めに涙する時も、神様は、私たちのことを、決して忘れてはおられない。

私たちの流す涙は、神様が、お分かりになる言葉なのだ。この詩は、そう詠っています。

私たちは、時として、意味が分からない苦難に、遭うことがあります。何故、私が、このような苦しみに遭わなければならないのか、と呟かざるを得ない時があります。

そういう時は、徹底的に、神様と対話をしたら良いのです。本当に苦しいならば、模範解答をするのではなくて、自分の胸の内を、そのまま神様にぶつけたら良いのです。

生半可なところで、「これは御心なのだ」と言って、無理に納得するのではなくて、本当の自分の気持ちを、神様にぶつけていった方が良いのです。

そうしていく中で、暗闇の中にも、道が見えてくるのです。

なぜなら、私たちの主は、そのような私たちの思いを、決して逃げたり、はぐらかしたりせずに、真正面から、受け止めてくださるお方だからです。

そして、共に苦しみ、共に泣き、私たちの目の涙を、拭ってくださるお方だからです。

使徒ヨハネは、その晩年、主イエスの愛に、ますます強く迫られ、「神は愛です。神は愛です」と、ただ繰り返すだけになっていった、と伝えられています。

そのヨハネが、流刑となったパトモス島で、神様から幻を示されました。それが、ヨハネの黙示録です。その21章3節、4節は、こう言っています。

『神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。』

皆さん、私たちには、この約束が与えられているのです。

主イエスは、「悲しむ人々は幸いである」、と言われました。では、この悲しみとは、どのようなものなのでしょうか。悲しむ人々とは、何を悲しんでいる人たちなのでしょうか。

使徒パウロは、コリントの信徒への手紙二7章10節で、こう言っています。

『神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。』

ここで、パウロは、悲しみには、二種類あると言っています。一つは、「神様の御心に適った悲しみ」です。そして、もう一つは、「世の悲しみ」です。

この二つの悲しみの違いは、大きな差をもたらす、と言っているのです。

神様の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じますが、世の悲しみは、死をもたらすというのです。

この悲しみの違いが、一番はっきりと表れたのは、ペトロとユダでした。

二人とも、主イエスを裏切ったのです。ペトロも、主イエスの裁判の場で、三度も、主イエスのことを、「あんな人知らない」と言って、拒みました。大きな裏切りの罪を、犯したのです。

そして、二人とも、そのことを、悲しみました。ペトロは、振り向かれた主イエスの眼差しに触れて、暗闇の中で、身をよじるように号泣して、悲しみました。

神様を裏切った、その自分の罪の深さを、はらわたが痛むほどに、悲しんだのです。

しかしユダは、主イエスが、まさか殺される、とまでは思っていなかったので、自分の計画の甘さを悲しんだのです。自分の失敗を、悲しんだのです。

神様に対して、自分の罪の深さを悲しんだペトロと、自分の失敗を悲しんだユダ。

この差が、神様の御心に適った悲しみと、世の悲しみの違いです。

そして、その結果、ペトロは救いへと入れられ、ユダは、自ら命を絶つことになったのです。

ですから、神様の御心に適った悲しみとは、自分の罪に対する悲しみです。

そして、自分の罪を悲しむ者は、慰められるのです。主ご自身の慰めを体験するのです。

罪を悲しむ者は、その罪を代って負って下さり、十字架で死んで下さった、主イエスの愛に触れるからです。

自らの罪の深さに打ちのめされる時、「あなたの罪は赦された」と言う、十字架からの御声を、聞くことが出来るのです。

ある姉妹が、洗礼を受け、喜びと感謝の日々を送っていました。

しかし、やがて、生まれ変わった喜びに、満たされている筈なのに、友人に対する嫉妬や、妬みが起きてきて、これを鎮めることが出来ないことに気づき、愕然としました。

そして、自分の罪の深さに苦しみました。思いあまって、教会の牧師に手紙を書きました。

返事がきました。その返事の冒頭は、「幸いなるかな、悲しむ者」でした。

その牧師は、続けてこう書きました。「あなたの手紙を読み、そのような悲しみを抱く者とさせられたことを、先ず感謝しなさい」。

その牧師は、自分の罪を、そのように悲しむあなたは、幸いなのですよ。

なぜなら、神様は、そんなあなたを喜び、そんなあなたを慰め、そんなあなたを造り変えてくださるからです、と言ったのです。

今日、教会の弱体化が叫ばれています。

その最大の原因は、心から神様と、隣人を愛することが出来ないという、自分自身の罪を、痛みを覚えるほどに悲しむ。その悲しみが、欠けていることではないかと思います。

私たち一人一人が、自らの罪に対する、深い悲しみに立って、真剣に神様の赦しと、慰めを求めることなしには、教会の再生はなし得ないと思います。

神様の赦しと、慰めとを受け、その恵みに押し出されて歩み出す時、私たちは、神様を愛し、隣人を愛する、まことの愛に生きる道へと、導かれていきます。

これこそが、教会を立ち直らせて、活き活きとした歩みへと導く、唯一の道筋ではないかと思うのです。

「その人たちは慰められる」、と主イエスは言われました。この「慰められる」の原語は、「パラカレイン」というギリシア語で、「自分の傍に呼び寄せる」,という意味の言葉です。

主イエスは、罪を悲しむ私たちを、御許へと呼び寄せてくださり、御手に握り締めてくださいます。そして、「もう、あなたは、私のものだ」、と言ってくださいます。

主イエスが、私たちに与えてくださる慰めとは、私たちを、ご自身の傍らに呼び寄せてくださり、「あなたは私のものだ。どんなことがあっても、あなたを見捨てることはない」、と言ってくださることなのです。

世界中の教会において、広く読まれている、「ハイデルベルク信仰問答」の、第一問は、こう問い掛けています。『問1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。』

この問いに対して、こう答えています。『答、わたしがわたし自身のものではなく、身も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。』

教会はこの信仰に生きてきました。私たちが生きている時も、そして死ぬ時も、私たちのただ一つの慰め。それは私たちが、真実な救い主である、主イエスのものであるということ。

私たちの身も魂も、全存在がキリストのものになっていることだ、と言い表しているのです。

真実な救い主である主イエスは、罪に悲しむ私たちを、ご自分のものとしてくださいます。

でも、聖なるお方が、罪に汚れた私たちを、どのようにして、ご自分のものとしてくださるのでしょうか。

それは、私たちの罪を、代わって負ってくださることによってです。私たちを、ご自身のものとするために、主イエスが、十字架において、その命を注ぎ出してくださったのです。

自分の罪に悲しむ者は、主イエスの十字架の愛に触れるのです。それこそが、まことの慰めなのです。

今朝は、詩や俳句を、たくさん紹介させて頂きました。もうたくさんだ、と思われている方には申し訳ありませんが、最後に、もう一つ詩を紹介させて頂きます。

多くの人に愛されている、星野富弘さんの詩です。

『よろこびが集まったよりも/悲しみが集まった方が/しあわせが近いような気がする

強いものが集まったよりも/弱いものが集まった方が/真実に近いような気がする

しあわせが集まったよりも/ふしあわせが集まった方が/愛に近いような気がする』

この詩の最初の部分、「よろこびが集まったよりも/悲しみが集まった方が/しあわせが近いような気がする」。これは、今朝の御言葉と重なり、響き合っています。

自分の罪を悲しむ、悲しみが集まった方が、幸せに近い。

それは、真実なお方、愛のお方である、主イエスに近づくことが出来るから。

そして、その主イエスから、慰めを与えられるから。「あなたは私のものだ」と言って、抱き締めていただけるから。

私たちは、この幸いの中を、共に歩んで行きたいと思います。

主は言われています。「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」