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過去の礼拝説教

「塩の役目、光の使命」

2020年05月03日 聖書:マタイによる福音書 5:13~16

50年ほど前に、大ヒットした「風」というフォークソングがあります。
「人は誰もただ一人旅に出て、人は誰も故郷を振り返る。ちょっぴりさびしくて、振り返っても、そこにはただ風が吹いているだけ」。
皆さんの中にも、覚えておられる方が、おられるのではないでしょうか。
この曲を作曲し、自らも歌ったのは、「はしだのりひこ」さんという人です。この人は、高校生の時に洗礼を受けて、教会に通っていたことがありました。彼に洗礼を授けたのは、「チイロバ牧師」として親しまれていた、榎本保郎牧師でした。
大ヒットを飛ばして超多忙の筈のはしださんが、ある日、榎本牧師に電話をしてきました。そして、「先生、今度の日曜日教会に行きます。一度だけですけど…」、と言いました。
その言葉の通り、次の日曜日に礼拝に来て、帰り際に榎本牧師にこう言ったそうです。「先生、僕は世の光には、とてもなれないけれど、地の塩にはなりたいと思っているんです」。
彼が言った言葉は、何となく分かるような気がします。光のように、高く掲げられて、世を照らす存在には、とてもなれそうもない。
でも塩のように、目立たないけれど、秘かに人の役に立つ。そういう役目なら、果たせるような気がする。
この気持ちは分かります。多くの人が、そう思っていると思います。
でも、果たして、光の使命と、塩の役目とは、違うものなのでしょうか。一方は、積極的な生き方で、他方は、消極的な生き方なのでしょうか。
主イエスは、ここで、そのような、二つの対照的な生き方を、示されたのでしょうか。
そのことを、これからご一緒に、尋ねて行ってみたいと思います。
先ず、塩の役目についてです。塩は、様々な役割を果たします。
第一に、塩は味をつけます。少しの塩を加えることによって、料理全体の味が引き締まります。
では、この塩の役目を、私たちに置き換えると、どういう意味になるのでしょうか。
パウロは、コロサイの信徒への手紙4章6節でこう言っています。「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。」
ここにある「快い言葉」とは、「恵みの言葉」という意味を含んでいます。そうであるなら、言葉に塩味を付けるということは、恵みを加えるということになります。
主イエスは、この御言葉を、御許に集まってきた、弟子たちに語られました。つまり、私たち信仰者に語られたのです。私たちに向かって、あなた方は地の塩なのだよ、と言われたのです。
そして、地の塩の役割を果たすとは、恵みの言葉を語ることなのだよ。神様の救いを、宣べ伝えることなのだよ、と言われたのです。
主イエスは、あなた方は「鍋の中の」塩ではなく、「地の」塩である、と言われました。
罪と汚れに満ちている、この世の只中にあって、人々に救いの言葉を宣べ伝える。それが、地の塩としての、あなた方の役割なのだ、と言われたのです。
そうであれば、これは消極的な生き方などではなくて、とても積極的な生き方だと思います。
塩の第二の役割。それは、腐敗を防ぐことです。この世の腐敗を防ぐ塩。それがあなた方なのだ、と主イエスは言われたのです。
しかし、ここで言われている、この世の腐敗を防ぐとは、道徳的な意味で、世の中の浄化運動をする、ということではありません。それは、信仰者でなくてもできます。
もっと深い根源的な働きです。世の腐敗の根本原因。それは人の心に巣くっている罪です。人が、神様のもとを離れ、自分を神とし、自分中心の生き方をしている。自分さえ良ければよいと思っている。その罪が、全ての腐敗の、根本原因なのです。
主イエスは、その罪による腐敗を浄めることを、信仰者に求めておられるのです。
どういうことでしょうか。一体どうすればよいのでしょうか。それは、罪から人々を解き放つ、主イエスの十字架の恵みを、伝えるということです。ですから、これも、神様の救いを宣べ伝える、ということなのです。
つまり、主イエスが言われた、塩としての生き方とは、この世に神様を証ししていく、ということなのです。
この世の只中で、神様を証ししていく。それは、容易いことではありません。辛くなって、途中で止めてしまいたくなるかもしれません。
しかし、主イエスは言われます。「もし、塩味が無くなってしまったなら、塩は塩ではなくなってしまうよ。
同じ様に、もし、神様を証しする役割を止めてしまうなら、クリスチャンとしてのあなた方は、あなた方ではなくなってしまうのだよ。
その時は、もはや、何の役にも立たずに、外に投げ捨てられて、人々に踏みつけられてしまうのだよ。」 主イエスは、そう言われているのです。
ある本に、昔の教会に起きた、こんなエピソードが書かれていました。
一度信仰を捨てた人が、その過ちに気付いて、信仰に立ち返った時、なんと会堂の入り口に、身を横たえたそうです。そして会堂に入る人々に、「私を踏んでください」と頼んだそうです。
「私は、地の塩だと、主イエスに呼ばれたのに、その味を失ってしまいました。だから、主が言われるように、踏みつけられる他ない者なのです」。そう言ったそうです。
このような真剣な思いで、主イエスの御言葉を聴くなら、世の光になるのは、とても無理だけれども、地の塩くらいにはなれる、などと安易に言えなくなると思います。
地の塩として生きることは、世の光として生きることと同じ様に、積極的な生き方なのです。
では、光として生きるとはどういうことでしょうか。
神様が、一番初めに創造されたもの、それは光でした。神様は、混沌とした闇に向かって、「光あれ」と言われました。そして、この世を光のもとに置かれたのです。しかし、その光は、やがて失われてしまいました。
人が犯した罪の故に、せっかく神様が、光の中に置いてくださった世界が、闇に覆われてしまったのです。その光を回復してくださったのが、主イエスでした。
ですから、主イエスは、ご自身のことを、「私は世の光である」、と言われたのです。
それと全く同じ言葉を、主イエスは、私たちに向かって、「あなた方は世の光である」、と言われています。これは一体どういうことでしょうか。
私たちが、主イエスと同じように、光を放つ存在なのでしょうか。そんなことはありません。私たちの中には、光の源などはありません。
私たちが光であるとは、主イエスの光を反射して光る、ということです。
創世記には、神様が人間を造られた時、ご自身に似せて造られた、と書かれています。
似せて造られたとは、姿かたちが似ているということではありません。そうではなくて、ご自身を映し出す者として、造られたということです。
人間は、もともと、神様の光を映し出す存在として、造られた者なのです。
しかし、そのためには、神様の方を向いていなければなりません。神様に背を向けていては、神様の光を映し出すことはできません。
私たちが、神様の方に、正しく向いている時、私たちは、神様の光を、知らず知らずの内に、映し出しているのです。そして、その時、神様を証ししています。
塩と同じです。私たちが、光とされて生きるのも、主を証しするためなのです。
自分を照らしている、光の源。その光の出所を、見てもらいたいと、指し示すためなのです。人々が、神様を崇めるようになることが、私たちが光とされていることの目的なのです。
ある人が、クリスチャンを見て、その人がそんなに立派な人とは思えないが、その人の持っているものは素晴らしいと思う、と言ったそうです。
私たちが光となるということは、自分が立派になることではありません。
16節に、「人々が、あなた方の立派な行いを見て」、と書かれていますが、それは、私たちが立派な聖人君子になることではありません。
神様の恵みによって、自分が生かされている。そのことを、分かって貰うような生き方をすることです。こんな自分をも、用いてくださっている、神様の恵みを、示していくことなのです。
私たちは、欠けた器で良いのです。むしろ、欠けている方が良いのです。その欠けた所から、主イエスの光が、漏れて出ることが出来るからです。
「私は世の光である」と、主イエスは言われました。これは、ヨハネによる福音書8章12節の御言葉です。
この御言葉の直前には、姦淫の現場で捕らえられた女性の話が出て来ます。
石打の刑で殺されて当然の女性に対して、主イエスは言われました。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
この出来事に続いて、主イエスは「私は世の光である。私に従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」、と言われたのです。
姦淫の女性は赦されました。もはや闇の中を歩まず、命の光を持つ者とされたのです。主イエスの光を映し出す者とされたのです。
処刑される寸前であった姦淫の女性が、光となったのです。皆さん、これが主イエスの光の力です。
この女性は、それから後、主を崇めて、主を証しして、生きていったと思います。
これが、私たちが、光とされる目的です。塩になるのと同じように、主を証しする生き方を生きるのです。
主イエスは、あなた方は、地の塩だ、世の光だ、と言われました。原文では、あなた方が、強調されています。「あなた方こそ地の塩だ。あなた方こそ世の光だ」と言われたのです。
あなた方は、地の塩になれ、世の光になれ、と言われたのではありません。或いは、あなた方は、地の塩になって欲しい、世の光になって欲しい、と言われたのでもありません。
あなた方こそ地の塩なのだ。あなた方こそ世の光なのだ。だから、塩として生きなさい。光として生きていきなさい、と言われたのです。
ここで、またもや、私たちは尻込みをしてしまいます。いや、私には、とてもそんな生き方はできません。無理です。そう言ってしまうのです。
しかし、ここで大切な事は、私たちが、自分のことを、どう見ているかではありません。主イエスが、私たちのことを、このように見ていてくださる、ということなのです。
そして、主イエスが、私たちのことを、そのように見ていてくださるのであるなら、私たちも、自分自身についての見方を、変えなければならないのです。
私たちは、自分の力で、何か成果をあげなくてはいけない、と思い込んでいます。
そして、自分には、そんな力はないから無理だ。私は駄目な者だ、と決め付けています。
でも、主イエスは、そんな私たちを、違った目で見ていてくださいます。私たちが考えているよりも、ずっと素晴らしい存在として、私たちのことを見ていてくださるのです。私の目には。あなたは高価で尊い、と言ってくださっているのです。
私たちの救い主である主イエスは、決して無責任なお方ではありません。
私たちのことを、世の光だ、地の塩だ、と言われた以上、そのような生き方へと、責任をもって導いてくださいます。
そのように生きる力を、私たち一人一人に、与えてくださいます。
ですから、私たちは、失望せずに、主に期待して歩んで行って良いのです。
塩の働きを想い起こしてください。塩は、自分を見せようとしてはいません。料理の中に入れられた塩は、溶けてなくなっていきます。
光もそうです。部屋を照らす電球は、自己主張をしてはいません。部屋の中にいる人は、普段は電球のことを意識せずに、その光の中で生きています。
もし、塩が目立とうとして、最後まで頑張って、その姿を見せていたら、恐らくその料理は塩辛くて、とても食べられないでしょう。もし、電球が、自分の存在に気づかせようと、強烈な光を放ったなら、目がくらんで、何も見えなくなってしまうでしょう。
塩も、光も、自分は死んで、他者を生かす働きをしています。私たちは、自分の力を示そうと、あくせくしなくて良いのです。主イエスが、私たちの価値を知っていてくださるからです。
塩として生きる、光として生きる。それは自分に死ぬということです。でも、死んでおしまいで、後に何も残らないということではありません。
もし、私たちが、本当に塩の効き目を信じて、その役目に徹したなら、もし光の使命を、本当に果たしたなら、たとえどんなに小さな存在でも、私たちは、この世を変えていきます。
ほんの僅かであっても、この世を、少しずつ変えていきます。主の御言葉は、それだけの力を持っているのです。
日本におけるクリスチャンは、人口の1%にも満たない、小さな群れです。しかし、塩は、ほんの少々振り掛けるだけで、味を大きく変えます。
電球一個は、部屋全体の容積からすれば、1%くらいの小さな存在です。でも、その小さな存在が、部屋全体を明るくします。
私たちは、僅か1%だから、何もできないと諦めるのではなく、主の御言葉の力を信じて、地の塩の役目を、世の光の使命を、果たしていきたいと思います。
あなた方は、地の塩なのだよ、地の塩として生きてごらん。あなた方は、世の光なのだよ。世の光として生きてごらん。私が、あなたを用いてあげよう。
そう言ってくださる主の御言葉を信じて、従って行きたいと思います。小さな一歩を踏み出したいと思います。
その時、主は、必ず、ご自身の栄光を顕わしてくださると信じます。