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過去の礼拝説教

「主の愛の中で義に生きる」

2020年05月10日 聖書:マタイによる福音書 5:17~20

ある所に、とても勤勉な看護師さんがいました。決められたことはきちんと守る。その規則正しい勤務振りが高く評価され、自分でもそのことを誇りに思っていました。
その看護師さんが、ある患者さんの病室を訪れました。その患者さんは、気持ちよさそうに、ぐっすりと眠っていました。
勤勉な看護師さんは、慣れた手つきで、この患者さんの頬を軽くたたいて言いました。「さあ、起きて下さい。睡眠薬を飲む時間ですよ。」
これはジョークですが、聖書の中には、ジョークではなく、事実として、そのようなことがあったと書かれています。
主イエスの時代、ユダヤの人たちは、律法を守ることを、とても大切にしていました。律法は神様から与えられた尊いもので、そこには、神様の御心が記されている。
だから、救われるためには、律法をすべて、完全に守らなくてはいけない。そのように信じて、律法を守ることを第一とする生活をしていました。
しかし、旧約聖書に書かれた律法は、どう守ったらいいのか、分からないことが多かったのです。基本的なことは書かれていても、細かいことは、書かれていなかったからです。
例えば、安息日には仕事をしてはいけない、と書かれています。けれども、全く何もしないでは生きていかれません。そこで細かい規則が、次々に付け加えられていきました。
安息日には料理をしてはいけない。けれども、前の日に作ったものを、盛り付けることは許される。安息日に歩いても良い距離はここまでである。命に係わるのであれば、治療をしても良いが、それ以外の治療は施してはならない。まだまだ、たくさんあります。
このような細かい規則が、全部で数千もあって、人々は、それらに、がんじがらめに縛られていました。
そうする内に、規則を守ることが目的となって、その規則が何のためにあるのかを、見失ってしまったのです。
先程の看護師さんのように、熟睡している患者さんを起こしてまで、決められた通りに、睡眠薬を与えるようなことをしていたのです。
確かに規則を守ることは、共同生活をする上で大切な事です。しかし、規則は何のためにあるのでしょうか。人々の生活を守り、暮らしを豊かにし、幸せを保証するためにある筈です。
それなのに、その規則が足かせになって、自由で活き活きとした生活が、出来なくなっていたのです。そういうことは、現代でもあります。
今、新型コロナウイルスが蔓延する中で、こういう検査が、もっと迅速に行われれば良い。こういう薬が、もっと早く使えるようになれば良い。
でも規則があるため、それができない。何とももどかしい。そういう声が良く聞かれます。
私の40年来の信仰の友に、古井さんという兄弟がいますが、この方のご親戚に、古井喜実さんという政治家がいました。第二次池田内閣の時の厚生大臣であった人です。
1960年から61年にかけて、ポリオという病気が大流行しました。その時も、日本中が、恐怖のどん底にたたき落とされました。ワクチンが日本にはなかったのです。あったのは、当時のソビエトでした。
しかも、そのワクチンは、国内では未承認でした。使っても良いのか、という議論が湧き起こって、市民運動さえ起きました。
その時、古井喜実厚生大臣が、「平時には、そんなことはやってはならない。しかし、今は、平時ではしてはいけないようなことを、しなければならない。ソビエトからワクチンを輸入する。その責任は、全て私が取る」。そう断言をしました。
そして、医師会や厚生省の反対を押し切って、ワクチンを輸入し、子供たちに投与しました。その結果、ポリオはほとんど根絶しました。規則を超えた決断でした。
古井喜実さんは、厚生大臣としての職権を活用して、人々をポリオから救いました。
しかし主イエスは、職権ではなく、愛の教えによって、人々を規則の縄目から救いました。
この福音書の22章に、ファリサイ派の人と、主イエスとの対話が書かれています。
ファリサイ派の人が、主イエスを試そうとして、尋ねました。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」。
主イエスは、それに答えて言われました。
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
主イエスは、旧約聖書全体は、結局のところ、心から神様を愛し、自分のように隣人を愛する。この二つに尽きるのだ、と言われたのです。
このことは、使徒パウロも、ローマの信徒への手紙の13章で言っています。
「人を愛する者は、律法を全うしているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。」
愛は律法を全うする。これは、今朝の主イエスの御言葉を、凝縮したような言葉です。
パウロは、他の箇所でも言っています。たとえどんなに立派な信仰を持っていても、どんなに素晴らしい行いをしても、また、どんなに正しいことを言っても、もし愛がなければ、一切は無益である。もし愛がなければ、それらはすべて無に等しい。
立派な規則を作っても、そこに愛がなければ、その規則は、人を幸せにはしません。ただ人を縛り付け、辛い思いを強いるだけになります。
第一次世界大戦の時のことです。フランスとドイツの国境近くの激戦区で一人のイギリス兵が戦死しました。
彼の死を悼んだ戦友たちは、彼を静かな場所に埋葬したいと願って、近くのカトリック教会に遺体を運びました。そして、その教会の墓地に埋葬させて欲しいと頼みました。
その教会の神父が尋ねました。「亡くなった方は、カトリック教徒でしたか」。
戦友たちは答えました。「はっきりとは聞いていませんが、たぶん違うと思います。」
するとその神父はこう言いました。「残念ですが、カトリック教徒でない人は、この教会の墓地には埋葬できません。それが規則なのです。」
戦友たちは悲しい思いで、彼の遺体を、教会の塀の直ぐ脇に埋葬しました。
翌朝、戦友たちは、祈りをささげるために、再びその場所を訪れました。しかし、確かにこの塀の脇に埋葬した筈なのに、どこにもその跡が見当たりません。
一体どうしたのかと不審に思っているところに、昨日会った神父がやって来ました。
実は、この神父は、あることをしたのです。皆さんは、一体何をしたと思われますか。
亡くなった兵士の遺体を掘り起こして、教会の墓地に、埋葬し直したのでしょうか。もしそうなら、塀の外には、土を掘り起こした跡が残っている筈です。でも、そのような痕跡は見当たりません。では一体、何をしたのでしょうか。
この神父は、埋葬を断った後、深い自責の念に駆られました。
規則だからと言って、戦友たちの願いを断ってしまった。しかし、それは、主イエスの語られた愛の教えに、反する行為であったのではないか。そういう思いに迫られたのです。
そして、彼は、教会の塀を移動させたのです。塀を広げて、兵士が埋葬された場所を、教会の中へと招き入れたのです。
規則は、隔ての壁を作ります。しかし、愛は、隔ての壁を広げるのです。
主イエスは、律法の表面的な字面ではなく、そこに込められた、神様の御心を大切にするように、と教えられました。神様の御心、それは愛です。
安息日を聖別して、神様にささげる。それは、もちろん大切な事です。主イエスは、そのことを否定されたのではありません。
しかし、安息日には何もしてはいけない、という掟が独り歩きしてしまって、神様の御心である、愛の業を行うことさえも禁じることは、間違っていると言われたのです。ですから、主イエスは、安息日にも病人を癒されました。
しかし、この主イエスの御業は、先祖伝来の言い伝えを、何よりも大切にしていた、ユダヤ人たちの、激しい反発を招きました。
安息日に病気を治すことは、律法を無視する、許し難い行為だと映ったのです。
それに対して、主イエスは、こう言われました。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」
原文では、「思ってはならない」という言葉が、最初に書かれています。これは、大変強い、強調の表現です。主イエスは、「絶対に思ってはならない」、と言われているのです。
誤解しないで欲しい、私は、律法を廃止するために来たのではない。そうではなくて、完成するために来たのだ。そのことを、是非分かって欲しい。主イエスは、そう言われたのです。
ここにある「完成する」という言葉は、「いっぱいに満たす」という意味の言葉です。
主イエスは、律法に込められた神様の御心を、いっぱいに満たすために、私は来たのだと言われたのです。
ユダヤの人たち、あなた方は、細かい規則を守ることだけに、心を捕らわれて、神様との活き活きとした交わりに生きていない。神様との豊かな関係が、失われている。
私は、それを回復し、それをいっぱいに満たすために来たのだ、と言われたのです。
この17節の御言葉を、更に深めているのが20節です。
「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」
ここで、主イエスが語り掛けられている、「あなたがた」とは、山上の説教を聞いている弟子たちです。ということは、主の弟子とされている、私たちのことでもあります。
私たちの義が、ファリサイ派の人たちの義に、まさるようにならなければならない。そのために、私は来たのだ、と主イエスは言われたのです。
私たちの義が、ファリサイ派の人たちや律法学者たちの義に、まさらなければならない。
この言葉に、私たちは、途方に暮れてしまいます。一体誰が、このような御言葉に耐えられるでしょうか、
しかし主イエスは、ファリサイ派の人たちと、行いを競い合って、優劣を付けなさいと、言われているのではありません。
そうではなくて、彼らよりも、神様に喜ばれる者となりなさい、と言われているのです。
私たちの方が、もっと活き活きとした、神様との交わりに、生きていなければならない。神様との関係が、より豊かに保たれていなければならない、と言われているのです。
では、そのためには、一体どうすれば良いのでしょうか。
実は、あなたの義は、ファリサイ派の人の義よりも、まさっている、と言われた人がいます。
一体、誰でしょうか。それは、当時、罪人の代表のように言われていた、徴税人でした。
ルカによる福音書18章に、主イエスが語られた譬え話が出て来ます。「ファリサイ派の人と徴税人が、祈るために神殿に上った」、という譬えです。
この二人の祈りが対照的でした。
ファリサイ派の人は、自分は徴税人のように、不正な者でないことを感謝します、と祈りました。そして、週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています、と報告しています。
つまり、自分は律法を完全に守っています、と誇らし気に語っているのです。
一方の徴税人は、不正に税を取り立てているという、罪の悲しみに、胸を打ちながら、頭を上げようともせず、たった一言、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈っています。
そして、主イエスは、「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」、と言われました。
ファリサイ派の人は、勝手に、自分で自分を、義としていました。しかし、徴税人の方は、神様によって、義と認められたのです。
徴税人は、罪によって失われている、神様との関係が、回復されることを、ひたすらに願いました。神様に、ありのままの自分をぶつけて、心からの叫びを上げました。
ところが、ファリサイ派の人は、自分の正しさや立派さを、勝手に確認して、一人で喜び、独り言を語っていたに過ぎないのです。そこには、神様との交わりはありませんでした。
この二人の違いは、神様との、活き活きとした交わりをしているかどうかでした。神様との関係が、豊かに保たれているかどうかでした。
私たちも、徴税人と同じように、神様の前では、頭を上げることも出来ないような罪人です。
でも、この徴税人のように、そのことを心から悲しみ、神様の憐れみにすがることが出来れば、神様によって義とされ、ファリサイ派の人にまさる義を、得ることが出来るのです。
徴税人は、この祈りの後も、悲しみながらも、不正な行為を続けたかも知れません。しかし、主イエスは、そのような人のために、来てくださったのです。そんな私たちを、救い出すために、神の独り子が、私たちの所に来てくださったのです。
そして、律法の戒めを守れない私たちのために、代って十字架についてくださったのです。
しかし、私たちは、その計り知れない愛にさえも、応えることが出来ないのです。
そんな自分を嘆き、胸を打ちながら、「神様、罪人の私を憐れんでください」と祈る。このような私たちのために、主イエスの救いの御業はなされたのです。
神様は、私たちを、どこまでも愛してくださっています。私たちの罪を、無条件で、無制限に赦してくださろうとしておられます。それが神様の御心なのです。
でもそのためには、私たちの罪が、贖われなければなりません。その贖いを、主イエスが成し遂げてくださいました。そうすることで、神様の御心を、実現してくださいました。
主イエスが、神様の御心である、律法を完成するために来られたとは、このことなのです。
主イエスが来られたのは、この愛の業を、実現するためであったのです。この主イエスの愛の中で、私たちは、神様との活き活きとした交わりに、生きることが出来るのです。神様との豊かな関係を喜ぶことが出来るのです。
それが、ファリサイ派の人にまさる義を生きる、ということなのです。その恵みを感謝しつつ、今、この時を、共に歩んでいきたいと思います。