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過去の礼拝説教

「神が結び合わせた結婚を大切に」

2020年05月24日 聖書:マタイによる福音書 5:27~32

宗教改革者マルティン・ルターが、こんな言葉を残しています。
「あなたの頭の上を、鳥が飛ぶことは仕方がない。しかし、あなたの頭に、鳥が巣を作ることを、許してはならない。」
ルターは、何を言おうとしているのでしょうか。鳥とは、一体、何のことなのでしょうか。
この譬えで、ルターが言っている鳥とは、誘惑のことです。
あなたが誘惑に遭うことは避けられない。それは、鳥があなたの頭の上を飛ぶことが、避けられないのと同じである。だから、誘惑に遭うこと。それ自体は、罪ではない。
でも、その鳥が、あなたの頭の上に、巣を作るのを、許してはならない。つまり、その誘惑に、どっぷりとはまり込むことは許されない。ルターは、そう言っているのです。
私たちは、様々な誘惑に遭います。しかし、その中でも、最も厄介なものは、情欲との戦いではないでしょうか。
これは、どちらかというと、女性よりも男性、それも若い男性にとって、とても深刻な戦いだと思います。男性であれば誰でも、情欲との戦いに苦しみ、悩んだ経験があると思います。
今朝の御言葉は言っています。「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」
ここにある、「みだらな思いで他人の妻を見る者は」という言葉は、他の聖書では、「情欲をいだいて女を見る者は」、と訳されています。以前の口語訳聖書も、そう訳していました。
「他人の妻」と訳されている言葉は、一般的な婦人を意味する言葉です。ですから、単に「女」と訳しても良いのです。
「情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」。
私は、若い頃、この御言葉を読んで、絶望的な気持ちに覆われたことがあります。
私だけではありません。多くの男性が、そういう経験を持っていると思います。
ある青年が、牧師に言いました。「先生、この言葉を真剣に受け止めるなら、今日から僕は、目を閉じて道を歩かなければなりません。僕には、どの女性もとても美しく見えるのです」。この青年も、この御言葉に衝撃を受け、当惑してしまったのです。
私の神学校の先輩にも、ピアノをバンバン叩いて、「どうして僕は聖められないのだ」と叫んで、苦悶していた人がいました。
ヨハネによる福音書8章の始めに、姦淫の現場で捕えられた女性の話が書かれています。
律法学者や、ファリサイ派の人たちは、主イエスに問いました。「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」。
主イエスがいわれました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。
この御言葉を聞くと、一人去り、二人去り、やがて、みんな去って行ってしまったのです。
この人たちは、なぜ去って行ったのでしょうか。主イエスに、心の内を探られた時、自分たちも、心の奥底では、この女性と同じ思いを持っている。そのことに気づいたのだと思います。
自分たちも、心の中で、他人の妻を欲したことがある。そのことに気づかされて、石を投げられなくなったのだと思います。
古代教会の指導者であったアウグスティヌスや、オリゲネスという優れた神学者たちも、この情欲との戦いを、大変強調したことで知られています。
真偽の程は確かではありませんが、オリゲネスは、自ら去勢までしたと伝えられています。
トルストイも、この御言葉を文字通りに捉えて、晩年には結婚を否定しました。
ある人が、「それでは人類は絶滅してしまいますね」、といったところ、「絶滅しても構わない」、と答えたと伝えられています。
それ程に激しい真剣さで、この御言葉を聞いた人たちがいたのです。
しかし、それは、しばしば、性の営みそれ自体を罪と見做す、誤解と結びついていました。先程のオリゲネスもトルストイも、性の営みそれ自体を、罪悪視する誤解に取りつかれていたのかもしれません。
しかし、主イエスは、性の営みや、性欲それ自体を、罪悪だと言われたことはありません。
美しい人を見て、美しいと感じてはいけない、などと言われたことはありません。女性に遭ったら目をつぶれ、とも言われていません。
主イエスは、自然に起こる感情までも、殺してしまいなさい、とは言われていないのです。
性は、本来、神様が与えてくださった、善き賜物であり、祝福なのです。
神様は、人を造られ、「産めよ、増えよ、地に満てよ」、と祝福してくださいました。
主イエスも、その最初の奇跡を、カナにおける婚礼の席で、行なわれました。
最初の奇跡であるなら、人々をあっと驚かすような、もっと劇的な場面で行った方が、良かったのかもしれません。
しかし主イエスは、最初の奇跡を、結婚を祝福するために、行われたのです。
これを見ても、主イエスが、正しい性の営みを、罪悪視してはおられないことが分ります。
主イエスが、戒められたのは、女性を、単に、性的な欲望を満たすだけの対象として見てしまって、その人の人格を否定してしまうことです。
それは、心の中で、既に、姦淫の罪を犯しているのと同じことだ、と言われているのです。
現代は、姦淫を「不倫」という言葉に置き換えて、軽く捉える風潮があります。
「不倫は文化だ」、などと公言する人も出て、世間からもてはやされています。
しかし姦淫は、配偶者の人格を否定し、家庭をも破壊する、大きな不幸をもたらします。
また、相手の人が既婚者であれば、その人の家庭をも破壊してしまいます。
結婚も家庭も、神様が定められた秩序です。それを破壊することは、大きな罪なのです。
かつて、お妾さんを持つことは、男の甲斐性だ、などと言われていた時代がありました。
私の高校時代の音楽の教師、越谷達之助先生が、ある時、学校の礼拝で涙ながらに話してくれた体験談が忘れられません。
先生がまだ小学生の頃、先生の父親は、お妾さんを作って、家に帰って来なくなりました。
クリスチャンであった先生のお母さんは、そんな夫をひたすらに待ちました。
毎日、夕方になると、達之助少年の手を引いて、駅に夫を迎えに来ました。
でも夫は帰って来ません。毎日、駅の前で、暫くの時を過ごし、また、達之助少年の手を引いて家に帰る。その繰り返しでした。
その駅からの帰り道で、お母さんが歌っていた讃美歌。それが、「山路越えて 一人行けど 主の手にすがれる 身は安けし」、という讃美歌でした。
越谷先生は、母が歌うその賛美歌の歌声が、今も忘れられない、と言っていました。
神様が与えて下さった伴侶の愛を踏みにじって、自分の情欲を満たすことに生きる。
それによって、神様が作り出して下さった家庭を破壊し、神様と家族を悲しませる。
それが姦淫の罪の恐ろしさです。
神様が、恵みとして与えてくださった配偶者です。ですから、その配偶者を、姦淫によって裏切る者は、神様を裏切ることになるのです。主イエスは、その罪を鋭く突かれたのです。
ですから、右の目がつまずきを与えるなら、それをえぐり出して、捨ててしまいなさい。
右の手がつまずきを与えるなら、切り取って捨ててしまいなさい、と言われたのです。
これも、先週と同じく、主イエスの誇張的な表現です。
もし、これをその通りに実行したなら、主イエスの弟子たちは、皆、片目、片腕となっていたと思いますが、実際には、そのようなことはありません。
この主イエスのお言葉は、姦淫の罪との戦いの厳しさ、壮絶さを表現しています。
そのような真剣な思いをもって、結婚生活を尊びなさい、と言われているのです。
私は、結婚講座の時、これから結婚しようとしている二人に、必ず聞く問いがあります。
それは、「あなた方は何のために結婚するのですか。結婚の目的は何ですか」、という問いです。この問いを、真っ先に聞きます。
たいていのカップルは、「愛しているからです」、と答えます。
「良いでしょう。でも、もし愛が薄れたらどうしますか。その時は、別れるのですか」。
これから結婚しようとしている人に、こんな質問をするのはどうかな、と思いつつ続けます。
「あなた方が結婚する目的。それは、『共に生きるため』であるべきです。
結婚式では、「病める時も、健やかなる時も」愛を貫きます、と誓約して頂きます。
それは、夫や妻が、今自分に与えてくれているものを、与えることができなくなったとしても、尚も、変わらぬ愛をもって愛し通します、という誓約なのです。
もし将来、他人の配偶者を羨ましがることがあったなら。自分の配偶者と比べて、もし、この人が、自分の妻であったら、或いは、自分の夫であったら、どんなに良かっただろうか。そのような思いを抱くならば、それは結婚の時の誓約を、破ることになるのです。
他人の配偶者を羨んだり、欲しがったりすることは、姦淫の延長線上にある心なのですよ」。
結婚講座の最初に、私は、この厳しい言葉を、婚約者二人に語ることにしています。
「病める時も、健やかなる時も愛を貫く」ということは、決して容易いことではありません。
ポーランドのヴァーサ公爵とカタリーナ夫人の愛は、今も多くの人々に語り継がれています。
ヴァーサ公爵は、反逆罪の寃罪を被って、終身刑を宣告されます。
するとカタリーナが王のもとを訪ね、「私も夫と一緒に服役させてください」と嘆願しました。
王は驚いてカタリーナに聞きました。「あなたは何の罪も犯していないのに、なぜ獄中で一生をふいにするのか。」
カタリーナは手から指輪を外して王に見せました。
「私たちは結婚する時に、神の御前でこの指輪を交換しました。これは死が二人を分かつまで、一緒であるという誓いのしるしです。ですから、私も夫と一緒に監獄に入れてください」。
こうしてカタリーナは、夫と同じ監獄で、共に服役しました。
そして17年後、新しく即位した王が、その愛に感動し、二人は釈放されたのです。
まことの愛とは何でしょうか。まことの愛とは、苦しみの時、その苦しみを、共に分かち合うことではないでしょうかす。カタリーナ夫人の犠牲は、私たちにそのことを教えています。
しかし、どうすれば、カタリーナのような愛に、生きることが出来るのでしょうか。
「星の王子様」の著者の、サンテグジュペリは、こう言っています。「愛する―それはお互いに見つめ合うことではなくて、いっしょに同じ方向を見つめることである。」
お互いが、同じ方向を見つめている。それが愛である、というのです。
でも見つめるべき同じ方向が、何かおかしなものであったなら、愛を全うすることが出来ないばかりか、二人は破滅に向かって進んで行ってしまいます。
見つめるべき同じ方向。それは、真実で変わることのないものではければならないと思います。それは、主イエスでなければならないのです。
夫婦の愛。それは、二等辺三角形のようなものだと思います。
主イエスを頂点とし、左右の二辺に夫と妻がいる。二人が揃って、主イエスに近づいて行けば行く程、二人もお互いに近づいていくのです。
そして、二人が、お互いに違う存在であればあるほど、一つとされていくことの実りは大きいのです。
ある心理学者は、夫婦関係をスタートする時に、目に前に横たわる深い溝は、大きな川のようなものだと言いました。
その溝が深ければ深いほど、そして広ければ広いほど、そこに網を張った時に、得られる魚の量は、それだけ豊かなものになると言いました。
大切なことは、横たわっている川の広さや深さではなく、その川の流れが、同じ方向を向いているかどうかなのです。
夫婦という流れが、一方はこちらに、もう一方はあちらに、流れて行こうとしたなら、川の流れは乱れて、渦を巻いてしまいます。
夫婦の流れが、同じ方向に向かって流れていく。主イエスという、同じ方向に向かって流れていくなら、その川が、どれほど広くて、どれほど深くても、豊かな実りに至ることができます。
考えてみれば、それまでお互いに、別々に暮らしていた男女が、夫婦となり、一生涯苦楽を共にして生きていく。それは、一つの神秘であると言えます。
なぜ、今、私が、この人と共に、生きているのか。それは、神様が、それを欲しておられるからなのです。与えられた伴侶は、神様からの、最も尊い、最高の贈り物なのです。
ですから、主イエスは、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」、と言われました。
結婚に対して、このような深い驚きを持ち、神様の御心と恵みを、感謝することによって、私たちは、祝福された結婚生活を、送ることができるのだと思います。
しかし、一方で、主イエスは、特殊な状況における、正当な離婚を、排除することはなさいませんでした。
結婚の意義が、全く否定されるような、困難な状況にある時。しかも、そのような状況が、正される見込みが、全くないような時には、離婚もあり得る、と言われたのです。
結婚生活においては、思いがけないことが、起こります。いくら努力しても、互いに愛し合い、敬い合い、助け合うことが、全く見込めないのなら、それは、祝福された結婚生活とは言えません。
そのような、どうしようもない状況に陥って、離婚が唯一の解決策である、というような状況に置かれることもあるのです。
私たちは、結婚の危機に遭遇した時、主イエスの十字架を、結婚生活の中に、もうー回立てる、ということが大切です。
しかし、それでも尚、離婚せざるを得ないような、辛い、苦しい現実である場合、キリストの十字架は、意味を持たなくなるのでしょうか。そんなことはない筈です。
その時こそ、私たちの心は、主の赦しへと、向かわざるを得ないのではないでしょうか。
その赦しの中で、離婚した者が、或いは、再婚した者が、もう一度、主イエスの、十字架の恵みの中で、やり直そうとすることも、また許される筈です。
ですから、離婚した人を、安易に裁くことを、してはいけないのです。
主イエスの教えは、決して、人を安易に裁く、律法になってはならないのです。
私たちは、人を裁くのではなく、その前に、自分自身を、もっと正しく見つめたいと思います。
今朝、私たちは、右の目、右の手が、罪を犯させるなら、それを捨ててしまいなさい、という厳しい言葉を聞きました。なぜ、主イエスは、このような厳しい言葉を語られたのでしょうか。
それは、私たち一人一人が、姦淫の誘惑から、完全に自由にされていないからです。
他人の配偶者を欲するような気持が、心の片隅に隠れている。それを完全に消し去らなければ、伴侶を真実に愛し得ないのです。でも、私たちには、なかなかそれが出来ない。
姦淫の現場で捕らえられた女性に、誰も石を投げることが出来なかった。それは、誰もが、姦淫の誘惑から、完全に自由にされていなかったからです。
誰もが、情欲を抑えることの難しさ、その戦いの辛さや、苦しさを経験していたからです。
私たちは、情欲との戦いに苦しみ、悩みます。しかし、主イエスは、私たちのその苦しみを、私たち以上に知っていてくださいます。
そして、私たちを、その苦しみから救い出すために、十字架について、死んでくださいました。
情欲に苦しみ、情欲に負け、自己嫌悪に陥り、苦しみ悩む私たちを、丸ごと赦し、丸ごと救い出すために、主イエスは十字架についてくださったのです。
私たちが、情欲に負けて、御心を悲しませるたびに、主イエスは、私たちを赦すために、十字架において、新たな血を流し続けてくださっているのです。
主イエスは、姦淫の現場で捕らえられた女性に、言われました。
「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
主イエスは、この女性の罪を赦すと言われました。どうやって赦すと言われたのでしょうか。
「私が、あなたに代って、十字架につくことによって赦そう。行きなさい、私の赦しの中を。歩みなさい、私の愛の中を。」 主イエスは、そう言ってくださったのです。何という大きな赦し、何という大きな愛でしょうか。
この主イエスの赦しの中に留まり続ける。この主イエスの愛から離れずに、歩み続ける。
その時、主イエスの赦しの恵み、主イエスの愛で、私たちの心は一杯になっている筈です。
そこには、もう他のものが入り込む余地がない筈です。;
そして、その時、私たちは、姦淫の罪から、情欲の誘惑から、初めて自由にされるのです。
これこそが、祝福された結婚生活を支える基礎となるのだと思います。