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過去の礼拝説教

「魂の渇きに気付いていますか」

2020年05月31日 聖書:ヨハネによる福音書 7:37~39

今朝は、ペンテコステ、聖霊降臨日礼拝をささげています。
ペンテコステとは、ギリシア語で「50番目」という意味です。それはこの日が、過越の祭の日から、五十日目であったからです。
この日に、エルサレムのある家の、2階に集まって熱心に祈っていた、120人の弟子たちに、聖霊が降りました。
それまでは、ユダヤ人の迫害を恐れて、ひっそりと隠れていた弟子たちでした。
しかしこの日に、聖霊を受けて力強く立ち上がり、世界各地に福音を宣べ伝えて行きました。
失望と不安の中に、うずくまっていた弟子たちが、別人のように変えられて、この日から、キリストの復活の証人として、力強く働くようになっていったのです。
一体どうして、そんな劇的な変化が起きたのでしょうか。何が弟子たちを変えたのでしょうか。
この聖霊降臨の出来事は、本当に不思議な出来事です。人間の理解を超えています。
しかし、弟子たちに起きた劇的な変化。これは確かなことです。動かしがたい歴史的な事実なのです。これは、否定することはできません。
聖霊を受けることによって、人は大きく変えらます。なぜなら、聖霊を受けることによってのみ、人は本当の意味で、主イエスに出会うことができるからです。
そして、人が本当に主イエスに出会って、主イエスが、この自分にとっての救い主であることを知ったなら、その人は間違いなく変えられます。主イエスとの出会いとは、それほど衝撃的な出来事なのです。
主イエスを知る。それは、私たちが、多くの知識を得て、認識することではありません。
聖霊によって導かれ、聖霊によって分からせて頂かなければ、主イエスを本当に知ることはできません。
使徒パウロは、コリントの信徒への手紙12章3節で、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」、と言っています。この言葉は、とても大切です。
いくら本を読んでも、いくら知識を深めても、聖霊によらなければ、「イエスは、この私の救い主、この私の神だ」、とは言えないというのです。
イエスという人物は、こういう人であった。イエスは、このようなことを言い、このようなことを行った。そして、世界中の人に大きな影響を与え、多くの人の人生を変えてきた。
私は、そのことを、良く知っている。そういうことを言える人はたくさんいます。
しかし、それは、「イエスを主として生きている」ということではありません。
「イエスについての知識を持っている」ということと、「イエスを主としている」ということとは、全く違うことなのです。では、「イエスを主とする」ということは、どういうことなのでしょうか。
それは、イエスを私の主人とし、私はその僕となる、ということです。
僕は、主人の言葉に従って歩みます。僕にとっては、主人はすべてです。僕が、生きるも死ぬのも、主人次第なのです。
私にとって、主イエスとは、そのようなお方である、と告白する。それが、「イエスは主である」、ということなのです。
主イエスが、多くの人に影響を与え、多くの人の生き方を変えた。そのことを知識として語るのではなく、主イエスが、この私の主である、と告白することなのです。
しかし、考えてみれば、これはおかしなことです。2千年も前に死んでしまった、一人の人を、自分の主人とし、自分はその僕として生きる。その人に、自分のすべを委ねて生きていく。
社会の常識から見れば、これは変です。非常識です。
万物を支配されている全能の神が、ナザレのイエスという、ただの人となってこの世に来られ、背き続ける人間のために、十字架にかかって命を献げられた。二千年前に起きたその救いの出来事に、今、私が与っている。
そんなことは、私たちの小さな頭で、いくら考えても、とても信じられません。
福音の真理は、私たちの努力で、理解できるようなものではないのです。聖霊なる神様の働きによって、信じさせていただくものなのです。
私たちが、主イエスの十字架の贖いを、自分の救いの出来事として、信じることができるのは、聖霊なる神様が、私たちの内に、働きかけてくださるからです。
頭の中の知識だけに留まっていたら、主イエスを、自分の主人として、受け入れることはできません。主イエスの僕として、生きることはできません。
しかし聖霊が注がれる時、私たちは、「イエスこそ我が主なり」と告白する者とされるのです。
鈍い私たちに忍耐強く働いてくださり、そのことを分からせてくださるお方。それが、聖霊なのです。
そして、聖霊を受けたなら、私たちは、間違いなく変えられます。
大切なことは、この聖霊の働きが、自分自身の身に起きるようにと、祈り求めていくことです。
私たち自身に、聖霊の風が吹き寄せ、聖霊の炎が降るようにと、祈り求めていくことです。
私たち一人一人が、それを願い求めて、祈りを合わせていくところに、生き生きとした、教会の交わりが実現します。
聖霊による教会の一致。それは、祈っている群れに与えられます。
祈りのある所に聖霊が降り、教会の一致が実現するのです。祈りなくして、教会が一つとなることはありません。
よく、教会が一つとなれない。教会が一つとなっていない、という嘆きや、批判を聞きます。
それは、真剣に祈っていないからだろうと思います。
「教会が一つになりますように」と、他人事のように、祈ることはあるでしょう。
しかし、それを、自分自身の課題として、真剣に祈っているでしょうか。誰かが変えてくれるのではなく、自分が何をすべきかを、祈りの中で、真剣に尋ねているでしょうか。
そのような、真剣な祈りなしに、教会が自然に一つになる、などということはありません。
茅ケ崎恵泉教会が、主の前に、一つの群れとして立てるかどうか。それは、実に、私たち、一人一人の祈りに、かかっているのです。
さて、今朝の御言葉は、「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に」、と語り始めています。
ここで言われている祭りとは、「仮庵の祭り」です。なぜ、この朝、ペンテコステには直接関係がない、「仮庵の祭り」での出来事を、敢えて読んだのでしょうか。
それは、この箇所が、聖霊が与えられることの意味を、私たちに教えてくれているからです。
仮庵の祭りの期間中、祭司は神殿の丘を降りて、シロアムの池に行って、聖なる水を黄金の桶で汲みます。そして、その水を神殿に運び、祭壇に注ぎます。
これは、その昔、ユダヤの民が、エジプトを脱出して、荒野を旅していた時、神様が水を与えて下さったことを想い起こして、感謝の思いを新たにするための儀式です。
しかし、祭司が、いくら立派な黄金の桶で水を汲んで、祭壇に注いだとしても、それは、命の水ではない。ただの水に過ぎない。人々は心の底で、秘かにそう思っていました。
祭りの興奮で、気持ちを覆い隠していましたが、実は人々は、心の奥底で、渇いていたのです。本当に自分を生かす、命の水に渇いていたのです。
金の桶に入った水は、魂の渇きを、真実に癒すことはできない。人々が、本当に求めていたのは、魂の渇きを癒す、命の水であったのです。
主イエスは、そのことを、よくご存知でした。人々の心の奥底にある、魂の渇きを知っておられました。ですから、この祭りの騒ぎの只中で、主イエスは、大声で言われたのです。
「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」
主イエスは、「あなた方は、魂の渇きに気づいているのか。もし、それに気づいたなら、だれでも、わたしのところに来て、命の水を飲みなさい」、と叫ばれました。
主イエスが言われた、生きた命の水とは、聖霊のことです。主イエスは、魂の渇きを癒すために、聖霊を受けなさい、と言われたのです。
私たちはどうでしょうか。魂の奥底にある渇きに、気付いているでしょうか。命の水である聖霊を、切なる渇きをもって、慕い求めているでしょうか。
魂の渇きに気付かずに、自分は立派な信仰に生きていると、思っていた司祭がいました。
茅ケ崎恵泉教会の源流でもある、メシジスト教会を創立した、ジョン・ウェスレーという人です。
彼は、英国国教会の司祭として、アメリカのジョージアに、宣教師として渡って行きます。
そして、そこで決定的な問題と直面します。自分は本当に、聖霊に満たされているか。
聖霊の活き活きとした息吹きを、本当に感じているか。この根本的な問題に直面したのです。
ウェスレーにそのことを気づかせたのは、モラビア派の指導者であったシュパンゲンベルクという人です。
シュパンゲンベルクはウェスレーに大胆に尋ねます。
「兄弟、それでは質問させていただきます。あなたは、イエス・キリストを知っていますか」。
ウェスレーは驚きました。英国国教会の司祭に、何という質問をするのかと思いました。
ウェスレーは、「主が、この世界の救い主であるということを、知っています」と答えました。
すると彼は、「確かにそうです。しかし主が『あなたを』救われたということを知っていますか」、と更に尋ねたのです。
ウェスレーは答えました。「主が、私をも救うために死なれた、ということを望んでいます」。
それに対して、彼はさらに尋ねました。「あなたは本当に自分自身を知っていますか」。
「はい。知っています」と答えたものの、それが空しい言葉であることを、ウェスレーは分かっていた、と日記に記しています。
「あなたは自分自身を知っていますか。イエス・キリストの救いが、本当にあなたのものになっていますか。イエス・キリストとの、活き活きとした交わりを、喜んでいますか。」
このシュパンゲンベルクの問いによって、メソジスト運動と言われる、世界を揺るがす信仰復興運動が始まった、と言っても良いと思います。
「あなたは自分の魂が渇いているのを知っていますか」。ウェスレーは、この問いかけによって、実は自分は渇いているのだ、と気付きました。
そして、それから、その渇きを癒すための、三年に亘る苦闘の日々が始まりました。
そして三年後、彼は、ロンドンのアルダスゲートという通りで持たれていた集会で、その渇きが満たされる体験をします。
その集会で、司会者が、ルターのロマ書講解の序文を読んでいた時に、十字架の救いが、この自分に対するものなのだ、という信仰が、ウェスレーの心にすーっと入って来たのです。
これは聖霊の働きでした。その時、ウェスレーは、心が不思議に熱くなるのを覚えました。
聖霊が、渇いていた彼の魂に、神の愛を注いでくださったのです。
私たちは、同じ聖霊が、同じことを、今も私たちにしてくださることを、信じています。
二千年前のペンテコステの恵みが、今この時も、私の魂に注がれることを、信じています。
主イエスの御言葉に戻ります。「渇いている人はだれでも、私のところに来て飲みなさい」。
この御言葉の「飲みなさい」という言葉は、原語では命令形で書かれています。
ギリシア語の現在形の命令文は、一回限りのことではなく、「いつもそうしていなさい」、という意味を含んでいます。
「渇いているなら、いつも、私のところに来て飲みなさい」、と主イエスは言われたのです。
主イエスは、「仮庵の祭り」に集まって来た、群衆の心をご覧になりました。
人々は、魂の渇きを覚えながら、神殿の祭壇に注がれる水を、見つめています。
それは、シロアムの池から汲んで来た水です。単なる水にしか過ぎません。
人々は、そのことをよく知っています。その水によっては、自分の魂の渇きは癒されない、ということを、実はよく知っているのです。
そこへ、主イエスの招きの声が響きます。「わたしのところに来て飲みなさい。いつも飲んでいなさい。
だれでも、小さな子どもでも、高齢の者でも、いつでもわたしのところに来て飲みなさい。
渇いていることに気付いたなら、今日わたしのところに来て、生ける水を飲みなさい」。
この主イエスの招きの言葉は、今も、私たちに語り掛けられています。
実は私も、ウェスレーのように、自分の魂の渇きに気が付かず、傲慢にも、自分は信仰者として、そこそこやっている、と思い込んでいた時期がありました。
私は、13歳の時に洗礼を受けてから、ずっと休まずに、教会生活を続けていました。
長く教会学校の教師を務め、若くして役員にも選ばれ、教会では大きく用いられていると、秘かな誇りと、自信を持っていました。
社会に出てからは、職場において主を証するために、プロとしても評価され、尊敬されなければならないと思い、仕事に没頭していきました。
しかし、そうしている内に、いつしか出世主義にどっぷりと浸って、段々と信仰が形だけになっていきました。そして、救われたことへの、活き活きとした喜びを、忘れていきました。
それでも、表面上は、信仰者として、また教会員として、模範的な生き方を続けていました。
ですから、自分でも信仰が死んでいることに、気がつかないでいました。
しかし、心の奥底では、激しい魂の渇きを感じていたのです。
模範的な信者を演じながらも、祈りを忘れ、御言葉の恵みから遠ざかり、活き活きとした救いの喜びに生かさることなく、過ごしていました。
しかし、自分でも気付いていませんでしたが、実は、魂はカラカラに渇いていたのです。
そんな時、生涯の師となる島隆三牧師に出会いました。島先生の純粋で、ひたむきな信仰。何をするにも、まず祈り、御言葉に聴き、御言葉に導かれて行動する姿勢。
まさに、主イエスを主人として、自分は僕に徹しながらも、尚も愛と喜びに満ちた生き方をされている。
その姿を示され、信仰の原点に、立ち帰らされました。忘れていた祈りを、思い起こさせて頂きました。そして、御言葉に聴くことの大切さを、改めて教えられました。
聖霊が、私の心に語り掛けて下さったのです。乾いていた砂漠に、水が沁み込むように、聖霊の恵みが魂に沁み込んできました。その時が、私にとってのペンテコステの時でした。
聖霊によって与えられる命の水。それは飲めば飲む程、益々渇きを覚える程に豊かでした。
長い間、気付きませんでした。あー私は、知らない間に、こんなにも渇いていたんだ、と知らされました。祈ることが、こんなにも楽しい恵みであったことが、初めて分かりました。
今まで、何度も読んだことのある御言葉が、全く新しい響きをもって、迫ってきました。
主イエスは仰いました。だれでも、渇いていると思うなら、わたしのところに来て飲みなさい。今日飲みなさい。そして、いつも飲み続けていなさい。
今朝、私たちは、ペンテコステ礼拝を、献げています。
復活の主イエスは、弟子たちに、「聖霊を受けよ」、と呼び掛けられました。
「聖霊を受けよ、そして生きよ」。今朝、私たちは、この主の呼び掛けを、聞きたいと思います。
ペンテコステの出来事は、今の私たちを、生かす出来事なのです。今の私たちにとって、意味のある出来事なのです。その恵みの内を、共に歩んでまいりたいと願います。