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「自分の言葉に責任を持とう」

2020年06月07日 聖書:マタイによる福音書 5:33~37

多くの人に愛されている、「走れメロス」という、太宰治の短編小説があります。
純朴な青年メロスは、シラクスの町を訪れましたが、町はひどく暗く、落ち込んでいます。
その原因は、暴君ディオニス王が、人間不信に陥ったために、多くの人を、手当たり次第に、処刑していたためでした。それを知って、メロスは激しい憤りを覚えます。
メロスは王の暗殺を決意して、城に侵入しましたが、あえなく衛兵に捕らえられ、王のもとに引き出されてしまいます。
死刑を宣告されたメロスは、妹の結婚式を行なうため、3日後の日没まで、刑の執行を猶予して欲しいと願います。
そして、逃亡しないことの保証として、親友のセリヌンティウスを、人質として差し出すと申し出ます。
王は、メロスが、死刑になるために、わざわざ戻って来る筈はない、と思いました。
しかし、人を信じることの馬鹿らしさを証明する、良い機会だと思って、それを許しました。
城に召し出されたセリヌンティウスは、メロスの願いを快く引き受け、メロスに代わって、死刑囚として投獄されます。メロスを信じていたからです。
妹の結婚式を終えたメロスは、セリヌンティウスの元へ、急いで走って帰ります。
難なく夕刻までに到着するつもりでしたが、川の氾濫による橋の流失や、山賊の襲来など、度重なる不運に出遭います。
メロスは、濁流の川を懸命に泳ぎ切り、山賊を打ち倒して、必死に走り続けました。
体力の限界まで、全力で走り続け、日没直前、まさにセリヌンティウスが、磔にされようとしているところに到着し、約束を果たしました。
メロスは、セリヌンティウスに、ただ一度だけ、裏切ろうとしたことを告げて、詫びました。
セリヌンティウスも、一度だけメロスを疑ったことを告げて、詫びました。
二人は一度ずつ、お互いの頬を殴り合い、そして熱い抱擁を交わします。
二人の姿に感動した王は、メロスを無罪にし、自分も仲間に入れてくれ、と頼んだのでした。
なぜこの話は、多くの人に愛されているのでしょうか。
メロスのように、人の信頼を裏切らない人は、実際には、なかなかいないからです。
セリヌンティウスのように、人のことを信じ切れる人が、なかなかいないからです。
私たちは、なかなか人を信じません。また、人の信頼に応えることもできません。
ですから、メロスヤセリヌンティウスのように、純粋に人を信じる姿に魅かれるのです。
自分たちが持っていないものを、この二人は持っている。その姿を見て、感動するのです。
人を信頼できず、また、人の信頼にも、応えられない。それが、私たちなのです。
しかし、信じることは、私たちの生活の基盤です。これが崩れたら、社会は成り立ちません。
私たちは、生きている限り、常に言葉を交わさなくてはなりません。
でも、その交わし合う言葉が、信用できないものであったら、私たちは生きていかれません。
患者は、医者の言葉を信じて、手術を受けたり、薬を飲んだりします。
乗客は、運転手が、「このバスは、どこどこに行きます」、という言葉を信じて、乗車します。
生徒は、学校の先生の言葉を信じて、勉強します。
私たちは、そういう、たくさんの言葉を信じて、生きています。
しかし、私たちは、「ここぞ」という大切な場面では、なかなか人を信じることが出来ません。
自分の生き方を左右するような、大事な場面では、容易に人を信じることをしません。
なぜ私たちは、メロスやセリヌンティウスのように、人を信じることが出来ないのでしょうか。
ある人が、「それは、人間は、生まれながらに噓つきだからだ」、と言っています。
「噓つき」という言葉に、抵抗を覚えるなら、こう言い換えても良いと思います。
人間は、時と場所によって、言うことが違う。相手によって、言うことが違ってくる。だから信じられない。
それが私たちなのではないでしょうか。国会の答弁などを聞いても、嫌になる程、そのことを思わされます。
メロスのような人は、実際にはいないのです。
人を信用することなど、愚かなことだと、ディオニス王は言いましたが、その通りだと、言わざるを得ないような現実なのです。
ですから、自分の言葉は真実であると、信じてもらうために、私たちは誓いをするのです。
誓いの言葉を、保証書のように付け加えて、自分の言葉の信用度を、高めようとするのです。
しかし、今朝の御言葉で、主イエスは、誓うことを禁じられました。「一切、誓ってはならない」と言われました。
なぜ、主イエスは、誓いを禁じられたのでしょうか。
どうせ、すぐ破るような誓いなら、しない方が良い、と言われたのでしょうか。
どうもそうではないようです。これからご一緒に、そのことを、尋ねていきたいと思います。
教会では、よく誓約をします。
洗礼の時にも、転入会の時にも、役員就任式の時や、奏楽者任職式の時にも、結婚式の時にも、そして牧師を迎えた時にも、誓約がなされます。
これらすべての誓約に対して、私たちが、本当に誠実であったなら、教会の姿は、ずっと違ったものに、なっているのではないかと思います。
教会は、誓いを基にして成り立っています。誓いによる共同体である、とも言えます。
でも、主イエスは、ここでは、誓ってはならないと言われました。なぜでしょうか。
主イエスの御言葉を見てみましょう。5章34節から36節までです。
「しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。」
この当時、実際に、天、地、エルサレム、自分の頭、というようなものを指して、誓うことがなされていたようです。
モーセの十戒に、「主の名をみだりに唱えてはならない」、という戒めがあります。
誓いに主の名を出すと、この戒めに背くことになる。そう考えた人々は、それに代わって、天、地、エルサレム、自分の頭を指して、誓ったのです。
自分の頭と言うのは、面白い表現ですが、分かり易く言うならば、「自分の命にかけて誓う」、或いは「良心にかけて誓う」という言葉に、置き替えても良いと思います。
十戒の戒めを守ろうとして、神の御名以外のものによって、誓いを立てていたのです。
しかし、そうしている内に、だんだん当初の意図から、ずれていってしまいました。
そして、神の御名ではなく、天や地やエルサレムや自分の頭を、指して誓うなら、そんなに厳格に守らなくても良いのではないか、と思うようになっていったのです。
初めから逃げ道を作って、偽りの誓いが、公然と行われるようになっていったのです。
しかし、主イエスは、神の御名を用いる、用いないに拘らず、すべての誓いは、神の御前でなされる厳粛なものである、と言われました。
天を指そうが、地を指そうが、エルサレムや自分の頭を指そうが、それは、神に誓うのと、同じことなのだ、と言われたのです。
天も地もエルサレムも、そして自分自身もすべて、創造主である神様によって造られたものではないか。だから、それらを指して誓うのは、それらを造られた神様を指して誓うのと、同じことなのだ、と言われたのです。
だから、誠実に守る気もないのに、天や地や自分自身を指して誓っても、それは、勝手に創造主なる神様を持ち出して、神様に責任を転嫁していることなのだ、と言われたのです。
あなた方は、天にかけて、地にかけて、つまり、それらすべてを創造された、神にかけて誓う、と言っているけれども、肝心の神様には、何の了解も得ていないではないか。
保証人を依頼して、保証書に判を押して貰うにも、先ず、保証人の同意が必要な筈だ。
でも、あなた方は、保証人の同意も得ずに、保証書に勝手に判を押している。
神様に、ちゃんとお願いもせずに、自分の都合のために、勝手に神様を引き合いに出している。
これ程、神様を、ないがしろにしていることはないではないか。
主イエスは、そう言われているのです。
言葉の上では、如何にも神様と親しいように見えるが、その実は、全く神様を無視している。
それは、神を神としていることではない、と言われているのです。
申命記23章22節は、こう言っています。「あなたの神、主に誓願を立てる場合は、遅らせることなく、それを果たしなさい。あなたの神、主は必ずそれをあなたに求め、あなたの罪とされるからである。」
この御言葉のように、神に誓ったことは、必ず行わなければならないのです。
ですから、そんなに簡単に、神様を引き合いに出すことは、出来ない筈なのです。
しかし、ここで、私たちは、立ち止まって、はたと考え込んでしまいます。戸惑ってしまいます。
なぜなら、教会では、よく誓うからです。私たちは、よく誓うのです。
この後、讃美歌510番を賛美します。この讃美歌の4節は、「私はここに、誓いを立て、主よ、終わりまで、したがいます」、と歌っています。
皆さんは、これまで、この讃美歌を、それほど重く受け止めずに歌っていたのではないでしょうか。
でも、これは、非常に強い誓いの言葉です。
どうしたら私たちは、この讃美歌を、自分の言葉として、力強く歌うことが出来るでしょうか。
どうしたら、私たちは、主イエスに受け入れられるような、誓いをなすことが出来るのでしょうか。
神様を、自分に都合よく使うような誓いではなく、どうしたら真実の誓いができるのでしょうか。
それは、祈ることによってのみ、初めてなすことが出来るのだと思います。
神の御名にかけての誓い。それは、真剣な祈り無しには、決して成し得ません。
誓っても、守れないのが、私たちなのです。でも、その私たちが、神の御名によって誓うのです。
しかも、教会において誓うのです。一体、どうすれば、そんな恐ろしいことが出来るのでしょうか。
祈りによる他ありません。「主よ、私には、この誓いを守る力も、誓いを成し遂げる信仰もありません。主よ、どうか、私を助け、誓いを守るための力を与えて下さい。もし、誓いを果たせずに、あなたの聖名を汚すようなことがあったなら、どうか、十字架の血潮をもって、お赦しください。」
私たちが、神の御名によって誓う時には、この祈りが、どうしても必要なのです。
そして、その祈りの中で、私たちは、十字架につかれた、主の御声を聞くのです。
「私は、あなたのその弱さを、良く知っている。だから、その弱さを持ったままで、誓うがよい。
そのために、私は、今も、ここに、この十字架の上にいるのだ。」
私たちは、祈りの中で、この御声を聞くのです。その時、初めて、誓うことが出来るのです。
そして、誓いを守ることが出来ない、弱い自分である事を自覚し、主に赦しを乞い、主の赦しを信じつつ歩んで行くのです。
それが信仰者の歩みなのです。そして、その時、真実の教会が、生まれるのです。
ですから、教会は、誓いを守れない弱さを抱えつつも、尚も誓うのです。
私たちの弱さをご存知の上で、尚も、私たちを受け入れ、命懸けで愛して下さる、主がおられるから、誓うのです。
そして、この主の愛の中を歩む時、私たちは初めて、真実なる生き方を、生きることが出来るのです。真実なる生き方。
それは一体、どのような生き方なのでしょうか。
それは、「然り」を「然り」とし、「否」を「否」とする生き方です。
本当のことに対して、心から「Yes、はい」と言い、誤りに対しては、きっぱりと「No、いいえ」と言い切る生き方です。
これは、一番単純ですが、また一番難しい生き方でもあります。
祈りの中で、主の御心を確かに示された時、私たちは初めて、「はい」を「はい」と言い切り、「いいえ」を「いいえ」と、きっぱりと言うことが出来る者とされるのです。
しかし、この単純で、明快な言葉を、言い切ることには、戦いが伴います。
しばしば、周りの人々から理解されず、孤独の中を歩むことになります。「然り」を「然りとし、「否」を「否」と言い切る。
それは、決して容易いことではありません。難しいことなのです。
パウロも、この難しさを、涙ながらに語っています。コリントの信徒への手紙二1章17節、18節でパウロは、こう言っています。
「このような計画を立てたのは、軽はずみだったでしょうか。それとも、わたしが計画するのは、人間的な考えによることで、わたしにとって「然り、然り」が同時に「否、否」となるのでしょうか。神は真実な方です。だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、「然り」であると同時に「否」であるというものではありません。」 
パウロは、ここで、何を言おうとしているのでしょうか。
この時、パウロとコリントの教会との関係は、上手く行っていませんでした。様々な誤解によって、コリントの教会の中には、パウロに対する不信感が、積りに積もっていました。
その誤解を解くため、パウロは、コリントを訪問する、と約束したのです。
ところが、思わぬことが重なって、肝心のコリント訪問が、出来なくなってしまいました。
メロスは、ぎりぎりのところで間に合いましたが、パウロは、コリントに行けなかったのです。
コリントの教会の中には、「やはり、パウロの言うことは、信用できない。然りが、いつの間にか、否となる。パウロは二枚舌だ」、という人たちさえも出てきたのです。
パウロは、自分が設立した、コリントの教会の人々から、不真実な人間だと言われたのです。
これは、伝道者として、耐えられないことであったと思います。
ですからパウロは、必死になって、自分は不真実ではない、と弁明しています。
私にとって、「然り」が同時に「否」となるようなことは、決してないのだ、と断言しています。
どうして、パウロは、そんなにはっきりと、断言できたのでしょうか。
それは、「自分の真実にかけて」ではなくて、「神の真実にかけて」、語っているからです。
パウロは、どこまでも、「然り」を「然り」として貫き通した、十字架の主イエスを仰ぎ見て、その主イエスの真実の中に、その主イエスの「然り」の中に、自分を置いたのです。
主イエスにおいては、ただ「然り」だけが実現した。そのお方に、すべてを捨てて従っている自分の姿を示して、コリントの人たちに向き合ったのです。
主イエスは、私たちに対する、神様の救いの約束を、「然り」としてくださいました。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」 
これが、私たちに対する、神様の救いの約束です。
主イエスは、この神様の救いの約束を、「否」とせず「然り」としてくださいました。
どういうことでしょうか。それは、十字架の贖いを、引き受けて下さったということです。
この救いの約束を、然りとするために、ゲツセマネで血の汗を流して苦悩され、十字架で絶望の苦しみを、引き受けて下さったのです。
この十字架こそが、神様が、私たちに、「然り」を「然り」としてくださった出来事なのです。
神様は、この大いなる「然り」の中で、私たちを受け入れ、私たちを捕らえて下さったのです。
私たちは、不真実です。「然り」を「否」としてしまうような者です。しかし、主は真実なお方です。「然り」は、どこまでも、「然り」とされるお方です。
私たちは弱い者です。「然り」に生き抜きたいと思っても、直ぐに挫折して、「否」としてしまう者です。しかし、主は強いお方です。「然り」をもって、「否」に打ち勝たれるお方です。
私たちは、自分の不真実に失望してしまいます。自分の弱さに愛想をつかしてしまいます。
でも、神様の真実は、決して変わりません。神様の強さは、何物にも打ち勝ちます。
神様は、弱い、不真実な私たちを、愛の眼差しで見詰めて下さり、ご自身の救の約束を、どこまでも貫いてくださいます。
私たちは、この神様の真実の中を、歩ませて頂きたいと思います。
十字架に至るまで、「然り」を貫き通された主を見上げつつ、「然り」を「然り」、「否」を「否」と言わせて頂く力を、祈り求めていきたいと思います。