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柏牧師:過去の礼拝説教

「神の報いか 人の称賛か」

2020年06月28日 聖書:マタイによる福音書 6:1~4

新型コロナウイルス流行のために、プロ野球や大相撲が、無観客で行われています。
観客がいない中での試合で、選手や力士たちが一番苦労すること。それは、どうやってモチベーションを高めるか、ということではないかと思います。
人が見ている。人に見られている。そのことが、励みになり、やる気を高めていきます。
逆に、誰も見ていないと、士気がそがれます。自分で自分を、鼓舞しなければなりません。
この会堂に、皆さんが来られなくなった時、私は、空席の座席に、皆さんが座っておられるお姿を想像し、お一人お一人のお顔を思い浮かべながら、お話をさせていただきました。
皆さんがここにおられる。ご一緒に礼拝を守っている。そう信じて自分を励ましてきました。
人が見守ってくれている。確かにそれは、大きな励みになります。
しかし一方では、人に見られることによって、見栄を張るという危険に、繋がることがあります。人が見ている。だから、良い格好をしたい。高い評価を得たい。
そういう思いに捕らわれて、本来の目的を見失ってしまう、ということがあります。
人の目にどう映るか。そればかりが気になって、自分本来の生き方ができなくなってしまう。そういうこともあります。
クリスチャン作家の三浦綾子さんは、「自分の中から、世間体を捨て去ると、人生のほとんどの問題は解決する」、と言っています。これは、まさに名言だと思います。それ程、私たちは、人の目を気にして生きているのです。
今朝の御言葉で、主イエスは、人の目によく見られようとして、そればかり気にしていると、神様の祝福を得られなくなってしまう、と注意されています。
6章の1節から18節において、主イエスは、当時のユダヤ社会で、最も尊ばれていた三つの宗教行為を取り上げておられます。その三つとは、施し、祈り、断食です。
施し、祈り、断食。これら三つの行為は、当時のユダヤの人々が、信仰生活をしていく上で、最も大切な善行と考えていたものです。
あの人は信心深いということが、どのようにして分かるか。それは、これら三つの善行を、どれ程大切にしているかで分かる、とされていたのです。
主イエスは、そういう行為を、否定されてはいません。施し、祈り、断食は、大切なことだと、重んじておられます。
重んじておられるからこそ、その行為に潜む危険性を、問題にしておられるのです。
その危険性とは、そのような行為を、本来の目的のためにではなくて、人の称賛を得るために行うということです。
善行の本来の目的は、神様の栄光を顕わす、ということです。そのためなら、人の前における善行は、少しも差し支えありません。主イエスは、5章16節で、こう言われていました。
「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
天の父が崇められる。これが、善行の本来の目的である筈です。
しかし、人からほめられることが、その目的となってしまい、人の目ばかりを意識するようになってしてしまう。人からの称賛という報いを受けて、それで満ち足りてしまって、神様からの報いを求めなくなってしまう。主イエスは、そのことを問題としておられるのです。
2節で、主イエスは、こう言っておられます。「彼らは既に報いを受けている。」
この言葉は、「領収証を出してしまっている」、という意味を含んでいるそうです。もう勘定が済んでしまっている。受けるべきものを、受けてしまっている、というのです。
ですから、もはや、受けるべきものは、残っていないのです。
人からの称賛を得ることで満足してしまって、もう帳簿が閉じられてしまっている。
だから、神様からの報いを、受けられなくなってしまっている。そんな勿体ないことはないではないか、と言われているのです。
困っている人に、助けの手を差し伸べる施し。それは、素晴らしいことです。神様の御心に沿うことです。神様は、そのような施しを、喜ばれます。
しかし、人の目を気にしながら施しをすると、そこに偽善が入って来てしまいます。
神様の御心である、「隣人を愛する」、という思いから離れて、どうすれば人からもっと称賛されるか。どうすれば、もっとよく見られるか。それが最も大切なことになってしまいます。
そのように、神様を見ずに、人だけを見ている時には、神様からの祝福は得られません。
それでは、せっかく施しをしたのに、何とももったいないではないか、と主は言われているのです。
ですから、主イエスは、隠れたところで、誰にも見られないところで、施しをしなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられる神様から、祝福を得られると言われました。
更に主イエスは、「右の手のすることを、左の手に知らせてはいけない」、と言われました。
私たちは、たとえ人に知らせなくても、自分の善行を、自分の記憶に、密かに刻み付けていることがあります。そして、自分もまんざら捨てたものではないと、ひそかに自慢する。
主イエスは、それも、自分で自分を称賛する偽善である、と言われているのです。
ですから、自分の善行を、自分にも隠しなさい、と言われているのです。
しかし、自分の事を自分に隠す、というのは不可能です。ですから、これは、記憶から消し去ってしまいなさい、と言われているのです。それが、本当の施しだと言われているのです。
たとえ人に見られなくても、神様は、見ていてくださいます。神様は、知っていてくださいます。それが、施しをする者の、本来の喜びなのです。
自分と神様しか知らない秘密がある。考えてみれば、それって、物凄く親密な関係ではないでしょうか。
神様と自分。二人だけの秘密を持っている。これ以上親密な関係があるでしょうか。
皆さんは、神様ともっと仲良くなりたい、もっと親密になりたい、と思っておられるでしょうか。
もしそう思っておられるなら、このような神様と二人だけの秘密を、できるだけたくさん作ってください。
神学者であり詩人でもあった松田明三郎という人の、「星を動かした少女」という詩があります。
「クリスマスのページェントで、日曜学校の上級性たちは、三人の博士や、牧羊者の群や、マリヤなど、それぞれ人の眼につく役を ふりあてられたが、一人の少女は誰も見ていない舞台の背後にかくれて星を動かす役があたった。
 「お母さん、私は今夜星を動かすの。見ていて頂戴ねー」
その夜、堂に満ちた会衆はベツレヘムの星を動かしたものが誰であるか気づかなかったけれど、彼女の母だけは知っていた。 そこに少女のよろこびがあった。」 こういう詩です。
この「詩」は、少女と母親との愛を、ほのぼのと詠っています。誰も知らなくても、愛する母親は知っていてくれる。それが少女の喜びでした。
神様は、この母親のように、「隠れたことを見ておられる」お方です。隠れた行いを知っていてくださるお方です。私たちは、そのことを喜びとしたいと思います。
20年ほど前に出版された、「天国への凱旋門」という本があります。
国際基督教大学(ICU)の一期生の学生数人と、九州の刑務所に服役している死刑囚との、手紙のやり取りを、記録した本です。
学生たちは、死刑囚たちに毎週の様に手紙を書きました。その週の聖日に聴いた、礼拝説教の要約を送り続けたのです。
やがて、その中から主イエスを信じる者が出て来ました。学生たちは、貧しい中にも拘らず、何度か九州の刑務所を訪れて、死刑囚たちを励ましました。
面会した時、その中の一人が、こう言ったそうです。「あそこにあるのが、死刑台のある建物です。入所した頃は、怖くてあの建物をちゃんと見られませんでした。しかし、キリストに救われてからは、どこからでも直視することが出来ます。あれは天国への凱旋門ですから。」
このような、尊い働きをしたのですが、学生たちは、その働きを一切吹聴することなく、この美談は、誰にも知られずに、40年以上が過ぎました。
40年後に、そのことを聞きつけた人が本にして、初めて知られるようになったのです。
その学生の一人に、後に東京神学大学の学長を務められた、松永希久夫先生がいました。
松永先生は、「あの出来事は、青春の大切な思い出として、心の奥深くに沈めていました」、と言っています。神様と、自分たちだけの秘密として、しまっておいたというのです。
主イエスが勧めておられるのは、このような善行です。
しかし、皆さん、私たちは、果たして、そのような、隠れた施しを、することが出来るのでしょうか。
どうすれば、偽善的な思いから、抜け切ることが出来るのでしょうか
それには先ず、神様が私たちに、施しをしてくださったという事を知り、そこにしっかりと立つことだと思います。
神様は、私たちの救いのために、最愛の独り子の命を、惜しみなく施してくださいました。
また、私たちが生きていくために必要な、あらゆる善い物を、施してくださっています。
太陽の光や、水や、空気や、作物など、生きるに必要なすべてを、私たちのために、施し尽くしてくださいました。その恵みによって、私たちは、生かされています。そうであれば、その恵み応えるのは、自然な事となる筈です。
エリコの町の徴税人の頭、ザアカイのことを想い起こしてください。
主イエスに出会って救われたザアカイは言いました。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、誰かから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」。
ある人が、こういう想像をしています。翌朝、主イエスは、エルサレムにお発ちになる。
ザアカイは、晴れ晴れした顔で、主イエスを見送る。それからザアカイは家を出る。
家から家を訪ねて、不正に取り立てた分を返して歩く。すまなかったと言って謝って歩く。
受け取る人は、一体何が起こったのであろうかと思う。ザアカイの変わり様に、驚いたり、怪しんだりしながら、金を受け取ったかもしれない。
こんな想像を巡らせています。そうであったかもしれません。
では、その時、彼は得意になったでしょうか。自分の善行を誇る思いを持ったでしょうか。
そんなことはないと思います。むしろ、当然のこととして、これをしたと思います。
ここで注意しておきたいのは、ザアカイは、これらのことをしたから、救いを得たのではないということです。
主イエスから、愛の施しを与えられた結果、施しの行為が、自然に生まれてきたのです。
救われ、新しくされ、新しい命を生き始めた結果、このようにすることができたのです。
私たちも、主イエスに出会って、救いの恵みを受けました。そうであれば、ザアカイのように、感謝と喜びをもって、愛の業をさせて頂く者へと、変えられたいと思います。
しかし、そこで私たちは、またしても呟きます。
そうは言っても、偽善的な思いは、本当に嫌という程、私たちの心に沁み込んでいる。
悲しいことに、私たちは、どうしても人の目を気にしてしまう。人に良く見られたいという、偽善的な思いから、完全に解き放たれることができない。そう呟かざるを得ないのです。
確かにそうかもしれません。では、諦めるのでしょうか。諦めるしかないのでしょうか。
そうではありません。私たちは、そういう偽善的な自分を、主に差し出していくのです。
主よ、このような偽善者ですが、どうか御業のために、用いてくださいと、ありのままの自分を、主に差し出していくのです。
そして、たとえ偽善的ではあっても、諦めずに善行を続けるのです。
ある神学者が、「教会は偽善者を生み出す所だ。でも私は、それを歓迎する」と言いました。
そして続けてこう言っています。「人間は何かを習得する時、先ず形から入るものだ。形を真似している内に、段々とその意味が分かってくるのだ。」
そうなのです。初めは、偽善者で良いのです。いえ、偽善者でしかあり得ないのです。
施しをするにしても、人の目を気にしてしまうのが、私たちなのです。
施しをしていると、損をしたような気になってしまうのです。それでも、続けていくのです。
そうしている内に、施しの本当の意味が分かって来ます。
施しとは、神様の恵みに対する応答なのだ、ということが分かって来るのです。
そして、その時、私たちは、主の御声を聞くのです。「私の祝福を伝えるために、私の愛を伝えるために、お前が必要なのだ。お前が、私の真似をして、施しをしてくれる時、お前は、私の子となるのだ」。
父なる神の子とされる。これが、私たちの受ける報いです。
その時、私たちは、父と子の親密な関係を喜ぶ者とされるのです。
あの「星を動かした少女」のように、誰も知らなくても、父なる神様は知っていてくれる。
それが私の喜びだ、と言える者とされるのです。
そのような、神様との二人だけの秘密を、できるだけたくさん作る者と、ならせて頂きたいと思います。