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過去の礼拝説教

「天の父の聖さを賛美します」

2020年07月12日 聖書:マタイによる福音書 6:9

「主の祈り」を、ゆっくりと、一語一語噛みしめるようにして祈る。これは、最近、この茅ヶ崎恵泉教会の特色の一つになっています。
発端は、幼稚園児の雪ちゃんが、お父さんと一緒に礼拝に出るようになられて、主の祈りを元気な声で、ゆっくりと祈り出したことに始まります。
雪ちゃんのお祈りの言葉を聞いて、誰が言い出すともなく、皆が自然に、雪ちゃんに合わせてゆっくりと、一語一語を噛みしめるようにして祈り出したのです。
しかし、私たちは、そのことを通して、新たに教えられたことがあったのではないでしょうか。
今まで、私たちは、主の祈りを、その意味を深く思うこともなく、ただ習慣的に祈っていた。
しかし、ゆっくりと祈ると、改めて、一語一語の意味を、深く尋ねるようになった。そして、その意味を、新しく発見した。そういう経験をされた方も、おられたのではないでしょうか。
私たちは、教会に通っているうちに、いつの間にか、主の祈りを暗記して、すらすらと祈れるようになりました。まるで念仏でも唱えているように、自然に口から出るようになりました。
でも、初めの内は、なかなか覚えられずに、苦労された方もおられると思います。
隣で祈っている人の声に、ほんの少し遅れて、自分の声を重ねるようにして祈る。そのようなことを、繰り返しながら、この祈りを、次第に覚えていかれた方が多いと思います。
ルカによる福音書によれば、主イエスが祈っておられるのを見た弟子たちが、主イエスに、「主よ、私たちにも、祈りを教えてください」、とお願いしたと書かれています。
主イエスが、この願いに応えられて、「祈る時には、こう言いなさい」と言われて、教えられたのが、主の祈りである、と書かれています。
皆さん、主イエスが、弟子たちに、主の祈りを教えられ、弟子たちが、それを、一生懸命に覚えようとしている場面を、ちょっと想像してみてください。
ガリラヤの風薫る丘で、主イエスが座られ、その周りを、弟子たちが取り囲んで座っています。そこで、主イエスが、主の祈りを、教えられます。
ゆっくりと、丁寧に、この礼拝における主の祈りのように、一語一語噛みしめるように、教えられます。弟子たちが、その主イエスの御声をなぞって、続いて祈っていきます。
一度だけでは、とても覚えられなかったでしょうから、何度も何度も、繰り返して、教えられたと思います。主イエスの御声に、重ねるようにして、弟子たちが祈る。
私たちもまた、主イエスに、お願いします。「主よ、私たちにも、祈りを教えてください」。
そして、主イエスが、「あなた方は、こう祈りなさい」と、主の祈りを教えてくださいます。
私たちは、主が教えて下さった主の祈りを、礼拝において、声を合わせて共に祈ります。
その時、耳を澄ますと、会衆一人一人の声の向こうから、もう一つの声が聞こえてきます。
弟子たちに、そして私たちに、主の祈りを教えて下さる、主イエスの御声が聞こえてきます。
その主の御声を、なぞるようにして、私たちが祈っていく。これが、主の祈りなのではないでしょうか。そのように、主が教えてくださった祈りだから、「主の祈り」と言われているのです。
主の祈りを祈る時、私たちは、周りの人の声ではなく、「このように祈りなさい」と言って、祈りを導いて下さる、主イエスの御声を聴いていきたいと思います。
古代教会の指導者の一人、テルトゥリアヌスという人は、「主の祈りは、福音の要約である」、と言いました。福音とは、喜びの知らせです。救いの真理の事です。
もし私たちが、主の祈りを、本当に理解することが出来たなら、救いの真理が分かるというのです。それ程、主の祈りとは、恵みに満ちた祈りなのです。
その主の祈りは、「天におられるわたしたちの父よ」、という呼び掛けで始まります。
ある人が、この呼び掛けは、「福音の要約の要約だ」、と言っています。
ということは、この呼びかけの意味が分かったら、福音の真理が分かる、ということです。
「福音の要約の要約」という程に、この呼び掛けの意味は深い。
そう言われると、私も含めて、皆さんの中には、当惑される方もおられるかも知れません。
私は、そんなに深く考えないで、普段の祈りを「天のお父様」とか、「天の父なる神様」、と言って、祈り始めている。なぜなら、これを言わないと、次が続かないから。
この呼びかけは、祈りの入り口であって、大切なのは、この後に続く言葉ではないか。
そう思われている方が多いと思います。でも、果たしてそうなのでしょうか。
私たちは、そんなに軽々しく、天にいます我らの父よ、と呼び掛けて良いのでしょうか。
天地を造られた全能の神様を、父と呼ぶ時、私たちは、自分を神の子としています。
子が親に、甘えるように「お父さん」と呼ぶ。そのような親しい交わりが、神様と、この私との間にあるのだ、としているのです。
しかし、汚れに満ちた罪人であって、とても神様の前に出ることなど、出来ないような私たちが、どうして聖さの極みであるお方に、「お父さん」と呼び掛けることが出来るのでしょうか。
主イエスは、「あなた方は、天地を造られた神様に対して、『天のお父様』と呼び掛けても良いのだ」、と言われました。どうして、そんなことが許されるのでしょうか。
そもそも「天」とは、どこの事でしょうか。天とは、得体の知れない、抽象的な場所ではありません。だからと言って、具体的に「ここです」と、地図で示せる場所でもありません。
天とは、神様がおられる場所のことです。その神様の傍らには、主イエスがおられます。
復活の主イエスは、弟子たちを、祝福しながら、天に昇って行かれました。
天とは、主イエスが、十字架で傷ついた手を広げて、私たちを祝福しておられる所です。
そして、その天は、私たちが祈る時に、いつも開かれます。
あの処女マリアの上に天が開かれ、天使が降ったように。野宿していた羊飼いの上で、天が開かれ、御使いの賛美が響き渡ったように。殉教者ステファノの目の前に、天が開かれ、人の子のお姿が見えたように、天は開かれます。
私たちが、「天にまします我らの父よ」、と呼び掛ける時、そこに天が開かれるのです。
私たちは厳しい困難に出遭うと、四方が塞がれてしまって、どうすることも出来ないような思いに覆われることがあります。しかし、四方が塞がれていても、いつも上は開いています。
父なる神様と、主イエスのおられる天は、いつも私たちのために、開かれているのです。
天とは、父なる神様と復活の主イエスが、私たちを、いつも見ていて下さる場所なのです。
私たちは、その天を、仰ぎ見ながら祈るのです。「我らの父よ」、と祈るのです。
天という、限りない高みにおられるお方が、父という、最も近しい存在となって、私たちの所に来てくださり、私たちの祈りを聴いて下さるのです。これは、驚くべき恵みです、
私たちは、「我らの父よ」と祈ります。「私の父」ではなく、「私たちの父」と祈ります。
主の祈りは、孤独な祈りではありません。それは、教会という、神の家族の祈りです。
祈りの仲間がいるのです。勿論、一人で祈っても良いのです。でも、一人で祈っていても、祈りの仲間が、同じ祈りを祈っていることを信じ、その祈りの声に、合わせて祈るのです。
そのことを通して、教会は一つとされるのです。
教会には、様々な人がいます。様々な意見があります。様々な考え方があります。
しかし、それらの違いを超えて、最後には理解し合うことが出来るのは、それぞれの心の奥底に、「天にまします我らの父よ」、という同じ祈りがあるからです。
同じ父によって救われ、同じ父に愛され、同じ父を信じている者たちが「我らの父よ」と祈る。
そこに、教会の一致の根拠があるのです。
この祈りを祈る時、私たちは、孤独ではありません。主は、この祈りを教えることで、教会に生きる私たちを、お互いに結び合わせてくださっているのです。
この祈りを教えてくださった主イエスは、神様のことを、「父よ」と呼びなさいと言われました。
主イエスご自身は、祈られる時、いつも「父よ」という呼び掛けをもって、祈られました。
主イエスが呼び掛けられた「父よ」という言葉は、「アッバ」という言葉です。
これは、当時のユダヤで、小さな子どもが、父親を呼ぶ時の言葉でした。
「パパ」とか「お父ちゃん」というような言葉です。主イエスは、「私の真似をして、あなたがたもそう祈ってごらん。大好きなお父さん、という思いで、祈ってごらん」、と言われたのです。
これは、私たちをたじろがせます。私たちは、それ程に親しい思いで、神様に祈っていただろうか。改めて、そう問わざるを得ません。
私たちは、今まで、「天にまします我らの父よ」、と何回祈ったでしょうか。数え切れません。
しかし、幼な子のような思いで、「大好きなお父さん」、と呼び掛けていたでしょうか。
それよりも、そもそも本当に神様を、自分の父としていたでしょうか。
主イエスは、神の独り子です。ですから、「アッバ、お父さん」、と呼ぶのは当然です。
しかし私たちは、罪に汚れた者です。その私たちが、どうして、主イエスと同じように、神様を「お父さん」、と呼ぶことが出来るのでしょうか。
それは、主イエスが、招いてくださったからです。主イエスは、私たちのことを、ご自身の兄弟、姉妹としてくださいました。
マタイによる福音書12章50節で、主イエスはこう言われています。
「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」
本来なら、神様に向かって、「お父さん」と呼び掛けることが出来るのは、主イエスお一人です。でもその主イエスが、私たちのことを、兄弟、姉妹である、と言って下さっているのです。
ですから、私たちも、神様を、「お父さん」と呼ぶことが出来るのです。
主イエスが、私たちを招いて、ご自身と同じ所に、立たせてくださったのです。
しかし、罪に汚れた私たちを、聖なる神様の御前に立たせて、「お父さん」と呼ばせて下さるために、主イエスは、考えられないようなことを、してくださったのです。
私たちの罪を、全部肩代わりして下さり、罪人となって、私たちに代って十字架について下さったのです。
そうして、私たちを、罪あるままに、罪なき者と認めて下さり、ご自身の兄弟・姉妹としてくださったのです。それによって、私たちを、神の子としてくださったのです。
十字架の上から、主イエスが、父なる神様に、祈られたのです。「父よ、この者たちは、私が兄弟・姉妹とした者たちです。どうか、彼らを、子として受け入れてください」。
こんな場面をイメージしてみてください。全世界を支配している偉大な王様がいます。
その王様の一人息子が、汚れた貧しい私を、きらびやかな宮殿に招いてくれました。
恐る恐る宮殿に行くと、王子が喜んで迎え入れてくれました。そして、光り輝く自分の服を脱いで私に着せ、自分は私のボロボロの服を着て、王様にこう言いました。
「お父さん、私が、この者の汚れを、全部肩代わりしましたから、この者を、あなたの子として、受け入れてください。」
王様が、微笑んで答えます。「いいだろう、今から、この者は私の子だ」。
私たちが、自分の力で、神様を父としたのではありません。私たちには、そんな力は全くありません。主イエスの十字架の贖いによって、神様が、私たちを、子として下さったのです。
そのようにして、子として頂いた私たちが、父を見失って、自分勝手な生き方をしたとしても、この父は尚も、「愛しのわが子よ」、と言って待っていてくださるのです。
主イエスが、父ということをお話しになったことの中に、放蕩息子の譬えがあります。
まだ父親が健在なのに、遺産の分け前を要求して、それを受け取ると、遠くに行って、放蕩の限りを尽くし、財産をすべて失って、どん底まで落ちてしまった息子。
そこでやっと、父の許に帰ろうとするのです。「もうお前など息子ではない」、と追い返されるかもしれないと、不安でいっぱいだったと思います。
ところが、父親は、ボロボロになって帰ってきた息子を見ると、走り寄って抱き締めて、最上の着物を着せ、跡取りの徴である指輪をはめさせ、喜びの宴会を盛大に開いたのです。
私たちの天の父は、このようなお方なのです。汚れに満ちた私たちが、神様に向かって、「お父さん」と呼びかける時、神様は、私たちをめがけて、走り寄って来られて、抱き締めてくださるのです。
でも、そのお方の子として頂くために、主イエスの十字架の苦しみがあったことを、私たちは、いつも、心に刻み付けておかなければならないと思います。
このような、神様の愛を思う時、私たちは、「御名をあがめさせたまえ」、と祈らずにはおれなくなります。
「あがめる」という言葉の原語の意味は、「聖なるものとされますように」、ということです。
しかし、神様は、既に、聖なるお方です。全き聖さに満ちておられるお方です。
ですから、私たちが、祈りによって、神様の聖さを、増して差し上げる必要などありません。
また、そんなことができる筈もありません。
この祈りは、「私たちが、あなたの御名を、聖なるものとすることが、出来ますように」、という祈りではありません。私たちには、神様を聖なるものとすることなどできないのです。
私たちにできることは、神様を、聖なるお方として、受け入れることだけです。
正確に言うならば、「聖なるものとする」というのは、「聖別する」ということです。全く別扱いにすることです。
神様と人間を混同しない。神様と他のものとを混同しない、ということです。
つまり、神様を、神様として、きちんと聖別するということです。
なんだ、そんな単純なことか、と思われるでしょうか。でも、全ての罪は、神様を神様として、聖別せずに、他のものを神としていることから、生まれてきています。
他のものを神とせず、神様を神として、聖別することは、決して簡単なことではありません。
神様の御名が、本当にあがめられ、神様が神様として、きちんと聖別されているなら、そこでは御心が行われ、御心の通りにすべてが進められていく筈です。
そうなっていないのは、本当の意味で、神様の御名があがめられていないからです。
ですから、この祈りは、どこまでも神様の御心に従っていくという、確かな思いをもって、祈らなければ、ささげられない祈りなのです。
御名があがめられますように、という祈りは、主イエスが、ゲツセマネで祈られた祈り。
「私の思いではなく、御心のままになさってください」という祈りと、同じ祈りなのです。
この祈りは、自分を高めたいと願う、自分のための祈りから、神様のための祈りへと、私たちを引き上げてくれます。
私たちは、主イエスの祈りの御声を耳にしながら、心を天に向けて、主イエスの後に続いてこの祈りを祈っていきたいと思います。
私たちのことを、命懸けで愛してくださっている、天のお父様の、その素晴らしい御名が、限りなく聖なるものとされますように、と共に祈ってまいりたいと思います。