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過去の礼拝説教

「必要を満たされる主」

2020年07月26日 聖書:マタイによる福音書 6:11

今朝も、「主の祈り」から、ご一緒に御言葉に聴いてまいりたいと思います。
主の祈りは、前半と後半の、二つに分けられます。前半は、神様に関する願いです。
ただ神様の御名のみが、聖とされますように。この世全体が、神様の愛のご支配に覆われますように。私たちの思いではなく、神様、あなたの御心が、この世に実現しますように。
実に、崇高で、遠大な祈りです。私たちは、まず、この神様に関する願いを祈ります。
そして、続いて、私たちに関する願いを祈ります。
私たちに今日の糧を与えたまえ。私たちの罪を赦したまえ。私たちを誘惑に遭わせず、悪より救い出したまえ。これら三つの願いです。
その中で、罪の赦しと、悪よりの救いを求める祈り。この二つは、神様に関する祈りと、深く結びついていることが、直ぐに分かります。深い、霊的な祈りであることが分かります。
ところが、それらの祈りに先立って、人間に関する祈りの最初に、「今日の食べ物を与えたまえ」という、極めて日常的な祈りが、祈られています。
神様に関する、崇高で、遠大な祈り。その神様に、罪の赦しと、悪よりの救いを求めるという深い霊的な祈り。
それらに、挟まれるようにして、今日の食べ物を与えてくださいという、生活の匂いが、プンプンと漂うような、身近な祈りが入っているのです。
ある人が、この祈りの所に来ると、ほっとする、と言っていました。今日の食べ物を与えてくださいという祈りは、他の祈りよりも素直に祈れる。
肩を張って、背伸びしなければ、祈れないような祈りではなく、自然に祈れるというのです。
主の祈りは、父に対する子の祈りです。ですから、自然で正直な祈りであって良いのです。
しかし、それにしても、御名が崇められること、御国が来ること、御心が行われることを願った、崇高な祈りの直ぐ後に、なぜ、今日の食べ物を求める祈りが続いているのでしょうか。
それは、「我らの日用の糧を今日も与え給え」という祈りは、私たちの存在の根拠を、指し示す祈りであるからです。
この世の全てを、御心に従って支配されている、聖なるお方が、私たちを養っていて下さる。
私たちは、そのお方の愛のご配慮によって、生かされている。それなくしては、私たちは存在し得ない。この祈りは、そのことを想い起させてくれる祈りなのです。
私たちは主の祈りの前半で、限りない聖さと力と栄光に満ちておられる神様を仰ぎ見ます。
そして、その目を地上に転じる時、その神様が、このような貧しい、汚れに満ちた私を、愛のご配慮をもって、養っていてくださる、という恵みに気づかされるのです。
聖さと力と栄光に輝いておられるお方が、こんな私を、愛してくださり、養っていてくださる。
その計り知れない恵みが迫って来る時、「主よ、どうか今日も、この貧しい者を憐れみ、養ってください。私を見捨てることなく、あなたの恵みの中に置いてください」、と祈らざるを得ないのではないでしょうか。
「必要な糧」の「糧」という言葉は、原語では「パン」と書かれています。
ですから、英語でもドイツ語でも、「私たちの日々のパンを与えたまえ」と祈られています。
パンを神様に求めるのは、神様だけが、私たちを養ってくださることを信じているからです。
パン屋さんは、パンを作ってくれます。しかし、私たちは、パン屋さんに養われている、とは思いません。
パン屋さんに、「パンをください」と言うのと、神様に、「パンをください」というのでは、全く意味が違います。なぜなら、神様は、私たちを、養ってくださるお方だからです。
ここでのパンは、単に食べ物ということだけではなくて、私たちが、生きていくために必要な一切のものを、表しています。
神様は、私たちに、必要なすべてを与えてくださり、私たちを養っていてくださいます。
主の祈りは、そのことにまず感謝することを、私たちに教えてくれています。
5歳になった女の子が、両親と一緒に、誕生日のお祝いに、レストランに行きました。
その子は食事の前にお祈りをしました。両親は内心、「やめてほしい」と思っていました。
しかしその子は、「だって幼稚園では、いつも神様にお祈りしてから食べるんだよ」と言って、大きな声でお祈りをしました。
「神さま、おいしいお食事を感謝します」。彼女は、幼稚園で教えてもらった通りのお祈りをし、最後に大きな声で「アーメン」と言いました。
すると、レストランにいたお客さんたちから、一斉に拍手が起こったのです。
その女の子の祈りは、なぜ、レストランにいた人々の心を打ったのでしょうか。
それは、食べ物が与えられていることが、決して当たり前のことではなく、感謝すべきことであることを、思い起こさせてくれたからではないでしょうか。
今、私たちは、お金さえ払えば、いつでも、どこでも、食べ物は得られる、と思っています。
別に神様に求めなくても、お金を払って人に求めれば、いつでも手に入ると考えています。
しかし、少し立ち止まって考えてみますと、雨が降らず、太陽の光がなくなれば、どんなにお金を持っていても、食べ物は得られなくなります。
私たちは、普段、そのことを、忘れています。女の子の素直な祈りは、そのことを思い起こさせてくれたのです。
コリントの信徒への手紙一4章7節で、使徒パウロはこう言っています。
「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。」
この御言葉にあるように私たちが、生きていく上で必要なものは、皆、神様から頂いたものなのです。
「私たちに必要な糧を与えたまえ」と祈る時、私たちは、そのことを想い起すのです。
しかし主イエスは、この先の25節で、「何を食べようかと、思い悩むな」とも言われました。
でも、これは、「日毎の糧を与えたまえ」、と祈る必要はない、ということではありません。
神様が私たちを養ってくださる。そのことを信じて、神様に委ねなさい、ということなのです。
主は、私たちを必ず養ってくださる。だから、このお方を信じて、思い悩むことなく、このお方に委ねて、「日毎の糧を与えたまえ」と祈りなさい、と言われているのです。
私たちが、礼拝において共に献げている「主の祈り」は、「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」と祈っています。
「今日も」と言っています。「今日も」という言葉は、「きのうも、今日も、あしたも」という、日々の繋がりの中での、「今日」というメージです。
必要な糧を与えてください。きのうのように、今日も、あしたも。そういうイメージです。
しかし、マタイによる福音書の御言葉は、「私たちに必要な糧を今日与えてください」、と祈っています。今日も、明日も、あさっても、というのではないのです。
今日、今、この時に、与えてください、と祈っているのです。これは、極めて切実な祈りです。
この祈りは、その日の食べ物を、切実に求めている人の祈りなのです。
主イエスの周りには、その日一日の食べ物を、切実に求める民衆が、大勢いたのです。
では、主の祈りは、そういう人たちの祈りであって、豊かな日本に生きる、今の私たちの祈りではないのでしょうか。私たちには無縁の祈りで、祈る必要がないのでしょうか。
そうではありません。今、豊かに恵まれている人こそが、「私たちに必要な糧を今日与えてください」、と祈らなければいけないのです。
そう祈ることによって、与えられている食事が、決して当たり前のことではなく、すべて神様の恵みによるのだ、ということを想い起して、感謝するのです。
5歳の女の子の素直な祈りに、人々が気づかされたように、この祈りによって、私たちは、神様の限りない恵みの中に、生かされていることを、改めて想い起すのです。
また、今日の糧を真剣に求める祈りは、私たちに、もう一つの大切なことを教えてくれます。
この世のものを神とするのではなく、神を神とすることの大切さを、教えてくれるのです。
もし、明日の糧が与えられたなら、私たちは、どうするでしょうか。
恐らく、それでは満足せずに、更に、あさっての糧を、一週間分の糧を、一か月分の糧を、一年分の糧を、蓄えておきたくなると思います。富に対する私たちの欲望は、止まるところを知りません。
そして、私たちは、多く蓄えると安心し、あたかも神様なしで生きていけるような、思いに陥ってしまうのです。神様は、私たちが、そのような者であることをご存知でした。
ですから、あり余る糧ではなくて、その日一日の糧を、切に求めなさいと言われたのです。
そして、「明日のことは明日自らが思い悩む」から、明日に任せなさいと言われたのです。
明日のことは明日、切に祈りなさい。日々、新たな恵みを祈り、日々新たな恵みに生かされなさい、と言われたのです。
イスラエルの民が、エジプトを脱出して、荒野を旅していた時、神様は「マナ」という、天からのパンを与えて、民を養われました。但し、一日分だけを集める様にとお命じになりました。
明日はどうなるかと心配して、二日分を拾い集めると、腐ってしまったと書かれています。
毎日必ず与えて下さるという約束だったのです。それなのに、二日分集めるということは、必ず養って下さるという、神様の約束を信じていない、ということになります。
神様は、日々新たな恵みを求め、日々新たな恵みに生かされなさい、と言われたのです。
箴言30章8節、9節に、大変心に沁みる御言葉が記されています。こういう御言葉です。
「むなしいもの、偽りの言葉を/わたしから遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせず/わたしのために定められたパンで/わたしを養ってください。
飽き足りれば、裏切り/主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き/わたしの神の御名を汚しかねません。」
人間はあまりにも貧しいと、分別を失って、神様の御名を汚すことをしかねません。
しかしまた、満ち足りてしまうと、傲慢になって、パンを与えてくださった、神様のことを忘れてしまいます。
ですから、この箴言の著者は、「わたしのために定められたパンで/わたしを養ってください」、と祈っているのです。
実は、この御言葉は、会堂建築の期間中、私が、度々読んでは、祈っていた御言葉です。
資金が足らないために焦って、神様の御名を汚すようなことをしませんように。
十分に与えられたために、つい傲慢になって、主に感謝することを、忘れるようなことがありませんように。
余りもせず、不足することもなく、定められた資金をお与えください、と祈って来ました。
そして主は、その祈りに応えて下さり、必要な資金ピッタリを、与えて下さいました。
この主の慈しみに、どのように感謝したら良いのか、言葉も見つかりません。
もう一つ、「主の祈り」は、私の祈りではなくて、私たちの祈りです。「我らの日用の糧を与えたまえ」と祈っているのです。私だけの糧ではありません。我らの糧なのです。
これは、教会を包み、世界を包み込む祈りなのです。主は、「私たちに」という言葉に、重きを置いて祈ることを、教えられました。
私たちは、世界に目を向ける時、どれだけ多くの人が、今日一日の食べ物を、切実に求めているかを示されます。
今、世界では9億2500万人が、飢餓で苦しんでいる、と言われています。実に7人に1人が飢えているのです。
これは、食べ物が足りないからではありません。毎年世界では、約26億トンもの穀物が生産されているのです。
もしこれが、世界に住む77億人に平等に分配されていれば、1人当たり年間340キログラム以上食べられることになります。
日本人が、実際に食べている穀物は、年間154キログラムです。ですから、すべての人たちが、十分に食べられるだけの食べ物は、生産されているのです。
ただ、それが、適切に分配されていないため、飢えで死ぬ人が絶えないのです。
ある人が、こんなことを言っています。「私一人の前にパンが置かれている時、そのパンは単なる物質である。しかし、私の向こうに、そのパンを欲している、もう一人の人が座る時、パンは物質ではなく、愛の手段となる。」
私のパンから、私たちのパンとなる時、物質の問題が、愛の問題となる、というのです。
マザーテレサは、「世界はパンに飢えているのではなく、愛にこそ飢えているのです。愛に対する飢えの方が、パンに対する飢えを取り除くことよりも、はるかに難しいのです」、と言っています。
今、日本では、ベストセラーのNo.1は料理に関する本で、No.2はダイエットに関する本だと言われています。
そのような日本の現状を見る時、私たちは、パンを物質の問題ではなく、愛の問題として、捉えることの大切さを思わされます。
そのような思いをもって、「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」、と祈りたいと思います。
主よ、どうか、私たちを用いてください。今日一日の糧を、切実に求めている人たちと、パンを分かち合える者とならせてください、と願いつつ、この「主の祈り」を祈りたいと思います。
三度の食事が与えられていることが、決して当たり前のことではなくて、私たちは、主に養われていることを、想い起しつつ、感謝を込めて、祈って行きたいと思います。
「主よ、我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」。