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過去の礼拝説教

「御言葉と祈りによる戦い」

2020年08月02日 聖書:ローマの信徒への手紙 12:9~20

日本キリスト教団の教会暦では、今日、8月2日は「平和聖日」とされています。
今朝、私たちは、平和への祈りを込めて、ご一緒に、礼拝を守りたいと思います。
平和聖日のこの朝、私たちに与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙12章9節~20です。この箇所には、「キリスト教的生活の規範」、という小見出しが付けられています。
この手紙を書いたのは使徒パウロです。パウロは、今朝の箇所で、あなた方は、キリスト者として、このように生きなさいという、勧めの言葉を、様々な切り口から、語っています。
その中の一つが、18節にある、すべての人と平和に暮らすことです。
今朝は、この18節以下を中心にして、御言葉に聴いていきたいと思います。
全ての人と平和に暮らしたい。これは神様に言われなくとも、誰もが望む願いだと思います。
しかし、気の合った仲間たちだけでなく、全ての人と平和に暮らすということは、本当に難しいことです。全ての人と争うことなく、仲良くし、助け合って暮らす。これは至難のことです。
ですから、パウロは言っているのです。「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」。「できれば、せめて」。この言い方は、矛盾した表現です。
一方では、「できないかも知れないが、できれば、その努力をしてほしい」、と願っています。
しかし、もう一方では、「他のことはできなくても、せめてこれだけは、是非とも実現してほしい」、と願っているのです。
出来ないかも知れないが、せめて、これだけは、実行して欲しい、というのです。
つまり、すべての人と平和に暮らす、ということは、たとえ実行不可能であったとしても、是非とも実行して欲しいという、矛盾した願いなのです。
それ程難しく、それ程切実な願いなのです。
なぜ難しいのでしょうか。それは平和とは、片方だけで実現できるものでは無いからです。こちらが、悪に対して悪を返すことをしなくても、相手が、相変わらず、悪意をもって攻撃して来ることがあるのです。そこで、遂に怒って、仕返しをしまう。そういうことがあるのです。
しかし、パウロは、「せめてあなたがたは」、と言っています。
せめて、あなた方は、憎しみが憎しみを生む悪循環を断ち切りなさい。報復が報復を呼ぶ連鎖を断ち切りなさいと言っているのです。
これは私たちに与えられた、大きなチャレンジです。
19節はこう言っています。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」。
「神の怒りに任せなさい」。これは、「自分の怒りに任せて復讐をするな」、ということです。
私たちは、「自分は正しい」、と思っている時に怒ります。自分が正しいと思わなければ、怒ることはできません。
稀に、自分が間違っていると分かっていても、意地になって怒ることがあります。でも、そういう怒りは、迫力がなく、長続きしないものです。
最近、よく話題になる「あおり運転」でも、あおり運転をした人は、例外なく、「自分は正しい。自分が先に被害を受けた。だから復讐したのだ」、と言っています。
そして、復讐する時には、ただやり返すのではなく、2倍、3倍にしてやり返したくなるのです。一つ殴られたら、二度殴り返す。つねられたら、ひっかき返す。これは喧嘩の常です。
ですから、喧嘩は、だんだんひどくなっていくのです。これは、個人の喧嘩でも、国と国の喧嘩である戦争でも同じです。報復の連鎖が繰り返され、段々エスカレートしていくのです。
御言葉は、ここで、そういう復讐を、出来るだけ抑えろ、と言っているのではありません。
「復讐をするな」と言っているのです。「復讐を捨ててしまいなさい」、と言っているのです。
私たちは、よく「平和を愛しなさい」とか、「平和を守りなさい」、と教えられます。また、そのように、子どもたちにも教えます。
でも、「復讐しないように」とか、「復讐を捨てなさい」とは、あまり教えません。
しかし、「平和を愛しなさい」ということは、分かり易いようで、漠然としています。
「平和を守れ」と言われても、目標が大きすぎて、何をして良いのか分かりません。
平和を守るとは、平和運動を一生懸命にすることでしょうか。それも大切な事ですが、神様が言われている「平和を愛する」ということとは、ちょっと違うような気がします。
しかし、「復讐するな」とか、「復讐を捨てよ」と言われると、自分のこととして、よく分かります。
誰か他の人の問題ではなく、自分の問題として、迫って来ます。
パウロは、キリスト者の規範の教えの最後に、「自分で復讐するな」、と言っています。
キリスト者の生活の規範の要が、ここにあると信じたからではないでしょうか。
今朝の御言葉は、その冒頭の9節で、偽りのない愛に生きることを勧めています。そして、最後に、復讐を捨てることを、勧めているのです。
偽りのない愛に生きるとは、たとえ自分が正しいと思っていても、復讐を捨てることだ、というのです。これは、大変難しいことです。
しかし、この言葉を語ったパウロ自身は、どうだったでしょうか。何の罪もないのに、ユダヤ人たちから恨まれて、何度も牢獄に入れられ、何度も鞭打たれました。
ですから、自分を不当に迫害する人々に、復讐しようと思っても、おかしくなかったのです。
そのパウロが、「復讐するのをよそうではないか」、と呼び掛けているのです。
なぜパウロは、そんなことを言うことが出来たのでしょうか。
それは、パウロが、自分は正しい者ではない、ということを知っていたからです。
パウロは、この手紙の3章で、「正しい者はいない。一人もいない」、と言っています。
神様の前に立った時、正しい者は一人もいない。自分は罪人の頭なのだと言っています。
怒ることが出来るのも、また復讐することが出来るのも、正しい人だけなのだ。でも私たちの中には、正しい者は一人もいない。誰一人として、自分の義を立証できる者はいない。
正しいお方は、神様の他にいない。だから、怒ることができるのは神様お一人だけなのだ。
そうであれば、復讐は神様にお任せしようではないか、と言っているのです。神様の聖なる怒りに、お任せしようではないか、と言っているのです。
ここにある「任せる」という言葉は、とても興味深い言葉です。原語は、「場所を与える」、という意味の言葉なのです。
自分の心に、神様の聖なる怒りのための場所を、空けておくのです。「どうぞここに入ってください」、と、場所を開けておくのです。
自分の怒りで、心が占領されてしまわないように、場所を開けて、「神様。どうぞ、あなたの聖なるお怒りで、ここを埋めて下さい」と、場所を明け渡すのです。
実は、同じように「場所を与える」という言葉が、パウロによって用いられている箇所が、もう一ヶ所あります。エフェソの信徒への手紙、4章27節です。26節から読ませて頂きます。
「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。」
ここにある、悪魔に「すきを与える」という言葉も、「場所を与える」という、同じ言葉なのです。
怒ったままでいると、悪魔に場所を与えることになる。怒っていると、悪魔が入り込んで来る、というのです。
先ほども申し上げた通り、復讐とか怒りの中心にあるのは、自分は正しいという思いです。
ですから、相手のことを許せないのです。
主イエスを十字架につけた祭司長や律法学者たちも、自分が正しいと思っていました。
ですから、自分たちに従わない、主イエスのことを怒ったのです。徴税人や遊女など、汚れていると言われている人たちと食事をしている。そんな主イエスのことが、許せなかったのです。
昔からの言い伝え通りに、手を洗って食事をしない、主イエスの弟子たち。そんな弟子たちのことが、許せなかったのです。ですから怒りに燃えたのです。
そして、その怒りは、とうとう主イエスを十字架につけてしまうところまで、行ってしまったのです。
自分が正しいと思い込んだ、人間の怒りは、神様を殺すところまで、行ってしまうのです。
私たちも、自分が正しいと思い込む時、主イエスを十字架につけてしまう過ちを犯します。
実は、私たちが、罪を犯すのは、自分が間違っていると自覚している時ではなく、自分が正しいと思い込んでいる時なのです。しかし、本当に正しいお方は、神様お一人です。
ですから、本来は、神様だけが、怒ることを許され、復讐することがお出来になるお方なのです。
そのことを忘れて、怒りに身を任せ、復讐心に燃えてしまうのは、自分の心の隙間に、サタンが入り込んでしまうからです。その時、自分の心は、怒りによって、占領されてしまっているのです。
私たちは、後になって、「なぜあんなことをしてしまったのか」とか、「なぜあんなことを言ってしまったのか」、と後悔することがあります。
その時は、怒りに、自分の心が占領されてしまっていたのです。サタンは、ちょっとした隙間から、私たちの心に入り込んで、極めて巧妙に、私たちの心を、いつしか占領してしまうのです。
そして、私たちの心を、怒りと復讐心とで、一杯にしてしまうのです。
スコットランドのある大学に、一人の教授がいました。この教授は、いつも、ニコニコしていて、どんな時も、穏やかな顔を、崩しませんでした。
学生たちが、不思議に思って、尋ねました。「先生は、誘惑にあったことは、ないのですか」。教授が答えました。「いいえ、とんでもない。私は、罪人の頭です」。
「では、なぜ、いつも穏やかでいられるのですか」。
「私は、サタンが、誘惑しようとして、近づいた時には、『もういっぱいです』、と言って、断っているのです。すると、サタンは、いつしか、去って行ってしまうのです」。
今朝の御言葉を借りれば、この教授は、神様に心を明け渡していたのです。ですから、サタンが入り込む隙間がなかったのです。
本来、怒ることができるのは、神様ただお一人であるとしたら、私たちは、どうすれば良いのでしょうか。パウロは、こう言っています。
「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」 
この言葉は、誤解されやすい言葉です。皆さんは、どのように読まれたでしょうか。
敵に親切にしてやることによって、敵が自分の器の小ささを恥じ入り、燃える炭火を、頭の上に積まれるような、申し訳ない思いに導かれる。
そういうことを期待している言葉だと、捉えられたでしょうか。でもそうではないと思います。
もし、そういうことを期待しているのであれば、これは、形の違った怒りの表現であって、憎しみは消えていません。言ってみれば、より陰湿な復讐だとも言えます。
それこそ、9節で戒められている、「偽りの愛」となってしまいます。
ここで言う、「燃える炭火を、頭の上に積む」、ということは、もっと単純に、相手の心に熱く迫るような、愛の行為を行うことであると、解釈したいと思います。
主イエスは、この敵のためにも、十字架につかれたのだ、ということを信じて、その愛に倣って、敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませるのです。
私たちがそうすることによって、燃える炭火を頭に積むのは、神様がなさることなのです。
また、「飢えている敵に食べさせる」、とありますが、ここで言っている、「食べさせる」という言葉は、一度にたくさん食べさせるのではなくて、少しずつ食べさせる、という意味の言葉だそうです。
無理せず、私たちの力に合わせて、少しずつで良いのです。
しかし、その少しに、熱い心を込めるのです。マザー・テレサが言っています。
「私たちには、大きなことはできません。小さなことに、大きな愛を込めて行うのです。」
さて、ここで、視点を変えて、神様の目から、私たちを見てみましょう。
私たちは、神様にとって、どのよう存在でしょうか。神様の信頼すべき見方でしょうか。
実は、残念ながら、そうではないのです。
パウロは、私たちは、生まれながらに、神様の敵であったのだ、と言っています。
私たちは、神様の御心を知りながら、それに従わず、神様に背いてばかりいます。御心を、悲しませてばかりいます。私たちは、神様に敵対している者なのです。
では、そのような人間の罪に対して、真実に怒ることのできる、ただ一人のお方である神様は、その怒りを、一体どこに向けられたのでしょうか。
何と神様は、それを私たちにではなく、最愛の独り子にお向けになったのです。
主イエスは、私たちの罪に対する神様の怒りを、全てその身に負われて、十字架にかかって下さったのです。
神様は、私たちの罪に、怒りを下されても良いのに、逆に愛を注いで下さったのです。
そうすることによって、私たちの頭の上に、燃える炭火を積んでおられるのです。
皆さん、私たちは、自分の頭の上に、燃える炭火が積まれていることを、どれほど分かっているでしょうか。
私たちの頭の上には、主イエスの十字架の愛、という燃える炭火が積まれているのです。
しかし、その炭火の中から、私たちは、主イエスの御言葉を聴くのです。
「父よ、この者の罪は、私が全て代って負いました。ですから、この者を許してやってください。この者は、自分が何をしているのか、分からずにいるのです。」
神様は、十字架において、私たちの罪を、聖なる怒りをもって裁かれました。しかし、罪を犯した私たちではなく、御子イエス・キリストが、私たちに代って、罰を受けて下さいました。
私たちは、その神様の愛の炭火を、頭の上に積んでいます。
その炭火の愛の火は、私たちの心を熱く燃やし、私たちに迫って来ます。私があなた方を、命がけで赦したように、あなた方も、互いに赦し合うべきではないか、と迫って来ます。
その炭火の愛の火は、悪をもって悪に報いず、善をもって応える生き方へと、私たちを導いてくれます。
その炭火の愛の火は、憎しみと恨みの悪循環を断ち切り、報復が報復を呼ぶ連鎖を、断ち切ってくれます。
その炭火の愛の火は、私たちの生き方を変えずにはおきません。私たちを、全ての人と平和に暮らす生き方へと、押し出してくれます。
御言葉は言っています。「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」。平和聖日のこの朝、この御言葉の勧めを、新たな思いをもって受け止め、平和の道具として生きていけますように、共に祈りつつ、歩んで行きたいと思います。